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『一坪反戦通信』
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 第148号(2003年7月28日発行)

【連載】 やんばる便り 36
            
浦島悦子(ヘリ基地いらない二見以北十区の会)

 安子さんの夫となった知念俊一さんは当時、南洋庁の水産試験場化学室(?)に勤務していた。南洋庁の役人はほとんど本土の人で、沖縄人は俊一さんともう一人、学務部長(?)をやっていた宮古出身の人くらいだったという。「沖縄出身者は差別されて、なかなか入れなかったみたいよ」と安子さんは言う。俊一さんはコプラ(椰子油)から石鹸を作る研究で認められて、もうすぐギテホ(技手補?)になれると楽しみにしていたのに、その直前に徴用されてしまった。

 「でも、徴用後も(日本軍)司令部の化学室でフーチバー(よもぎ)なんかを集めて研究していたらしいの。当時はもう食糧も薬もなくなっていたから、フーチバーなどから薬をつくる研究でもしていたんでしょうね」

 安子さんがパラオに着いた当時は、アラカベサンとコロールの間は船で行き来していたが、その後、日本軍が橋を架け、車が通れるようにした。善叔父さんの工場の隣に大きな広場があったが、そこに捕虜が連れてこられたのを安子さんは見ている。「捕虜たちは働かされてはいなかったようだけど、たくさんの朝鮮人が日本軍にこき使われていた。食べ物もろくに与えず、それはひどい仕打ちをしていたのよ。朝鮮人が今でも日本を恨んでいるのは当然だと思う」と、安子さんははっきり言い切った。

 パラオの島々はサンゴ礁で囲まれているため米軍は上陸できず、代わりに艦砲射撃や空襲をかけてきた。米軍は島民に食べ物やお金を与えて情報を集めたため、日本軍の陣地や施設はすべて知られ、確実に爆破されたという。激しくなる空襲の中、一九四四年一月に長男を出産した安子さんは、嘉陽(かよう)の人たちといっしょに、赤ん坊を連れてあちこち逃げ回った。「爆弾で死ぬ人はそんなに多くなかったけど、栄養失調でたくさん亡くなったのよ。特に小さな子どもたちがね。お母さんの栄養が足りなくて母乳が出ないものだから、椰子の実の汁を絞って赤ん坊に飲ませた人もいる。でも、赤ん坊は死んでしまった……」。当時を思い出したのか、安子さんの顔が曇った。

 最初は自然壕などに隠れていたが、その後、パラオ本島の清水村と呼ばれていた日本人集落に疎開し、避難小屋を建てて住んだ。その村には俊一さんの部下だった北海道出身の人の家があったので、安子さん親子はそこの世話になった。「大きな農家でね。私は生まれて初めてイモを植えたり、農業の手伝いをしたの」

 しかし、そこも安住の地ではなかった。再び、空襲に追われながら転々と逃げ惑う日々が続いた。嘉陽の人たちもみんな散り散りになった。夫の従兄弟・知念松英さんの妻・ヨシさんは、疎開するときは安子さんといっしょだったが、子どもの多い人から順に台湾への疎開船に乗れるということで、三人の子どもを連れて乗ったらしい。ところが、この船は米軍の爆撃を受けて沈んでしまい、ヨシさんは三人のうち二人の子どもを失った。もっとも、これを安子さんが知ったのは後のことだ。この二人は台湾に葬ってあるという。

 ようやく戦争が終わり、安子さんたちはアラカベサンに帰った。叔父の家は最後まで焼けずに残り、米軍が使っていたという。夫の俊一さんも無事復員した。俊一さんは引き揚げの責任者を命じられ、アラカベサンにいた嘉陽の人たちをみんな帰したあと、四六年二月、最後に帰ってきた。俊一さんの姉の知念房子さんは、夫の本村善さん(安子さんの叔父)の娘・トシ子さんが病気だったため、一足先に病院船で帰郷していた。引き揚げに当たっては、各自に許可されたわずかな持参金以外は持って帰ることを許されなかった。

 「誰もが、パラオでせっかく働いて貯めたお金も、作った財産もみんな捨てて、着のみ着のままで帰ってきたのよ」

 パラオにいた日本人の中には、引き揚げの時に山に隠れて、向こうに残った人もいたらしい。その話を後で聞いて、「私たちも山に隠れて残ればよかったね」と、パラオでいっしょだった嘉陽の人たちどうしで話したこともあるという。

 戦争でバラバラになっていた嘉陽の人たちは、引き揚げの時に再びいっしょになった。沖縄に帰る船は満員の乗客を乗せてパラオを後にした。嘉陽の人たちは全員で一つの船室をあてがわれた。船は途中、グァムで二〜三日停泊し、その間にアメリカ人が船に乗り込んできた。引揚者の持ち物とアメリカの煙草を交換するためだった。安子さんはそのとき、房子さんにもらった指輪をつけていたが、それを見つけたアメリカ人に交換してほしい言われた。「当時は、アメリカの煙草一箱で一カ月暮らせると言われていたの。それを一カートンくれると言ったけど、断った。大切な指輪を失いたくなかったからね」

 船は中城湾(沖縄島中部東海岸)に入港し、安子さんたちはインヌミヤードゥイ(引揚者の一時収容施設があった。久場崎収容所とも言う)に上陸した。そこには戦争で親を亡くした五〜六歳の子どもたちがたくさんいて、引き取ってくれる人を求めていたという。安子さんといっしょに引き揚げてきた嘉陽のある夫婦は、子どもがいなかったので引き取ろうかと思ったようだが、結局、決心しきれずにそのまま帰ってきた。「後で、あのとき引き取っておけばよかったと悔やんでいたよ」。

 インヌミヤードゥイまで迎えのバスが来て、安子さんたちは嘉陽に帰ってきた。と言っても、夫の故郷である嘉陽は安子さんにとっては初めての場所であり、とても「帰る」という心境ではなかっただろうけれど。

 子どものいなかった房子さんはその後、安子さんたちの家族の一員としてずっといっしょに暮らした。

「帰ってきてから、長女、次男、次女と次々に生まれたけど、房子姉さんが子どもたちを見てくれたので、ほんとうに助かった」。夫の俊一さんは久志(くし)村役場に入り、庶務課長を務める一方、山を買って開墾し、農業を手広くやったので、安子さんも大忙しだった。「農業なんかやったことなかったから最初はたいへんだったけど、何事も慣れるものね」と微笑む安子さんの表情は今、とても穏やかだ。夫は亡くなったが、義姉の房子さんは老人ホームで健在だという。

 「また遊びにいらっしゃいね」と言ってくださった安子さんの笑顔に見送られて、私は小さな花々の群れ咲く玄関先に出た。
          (この項・了)