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『一坪反戦通信』
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 第146号(2003年5月28日発行)

【書評】


複数の沖縄
ディアソポラから希望へ


西成彦・原毅彦 編

 ●「故郷」の沖縄 

 二〇人の執筆者が、単一でない沖縄を描いた本。執筆者に共通するのは「旅と移動を重ねてきた来歴」だという。この執筆者たちが「在来者と外来者の出会いの場としての『沖縄』−−環太平洋地域はもとより中南米にまでウチナンチューを排出してきた『沖縄』」について、立命館大学での連続講座で述べたものだ。二〇人による二一本の論文はそれぞれ独立したものである。

 今日の沖縄自体、複雑なものがある。米軍基地容認の沖縄イニシアチブ(高良倉吉・琉球大学教授らによる)も沖縄内部の顔である。しかしやはり基地容認的な稲嶺恵一知事でさえ、米兵による「基地被害」が発生すると沖縄人の「怒りのマグマ」が爆発するかもしれないと危惧するのが現実なのだ。やむなくにしろ、基地を受け入れその代わり振興策は確保した方が得策だという、複雑な社会としての沖縄。

 この本が沖縄を複数だとしているのはそれとも関連するが、「外部」から照射された沖縄のことだ。南方・台湾へ移住した人々、ハワイやペルーへ移住していった人々・たとえばディアマンテスのアルベルト城間たちから見た「故郷」である沖縄、その歴史は単一の「沖縄史」にはおさまらないというのである。「単一性に貫かれた『日本』の外延としての『日本人移民』を主人公にした『ただひとつの物語』の関節」(二六一ページ。崎山政毅氏)ははずれてしまう、というのである。

 戦前・戦中に植民地・台湾へ移住した人々は、「新天地」であこがれの生活をしそこが天国だったと言う。だが「『琉球人であることを、口にも顔にも出さないやうに』『強い』られた沖縄人が、同時に『在住民にたいするくだらない優越感』を抱くよう仕向けられる、重層的な差別構造によって構築された空間であること」(一八八ページ)も事実だった。八重山人が特に台湾住民に差別意識をもっていた、という。

 また沖縄の複数性は奄美との緊張関係にも起因する。戦後の奄美出身者が沖縄へ行って稼いだことを、一方では「『バラックの宿舎等に甘んじながら働いて得た金はひたすらに大島へ送金することをこの上もない楽しみに』する」(三二一ページ。森宣雄氏)とされたが、他方で「『兎角[とかく]沖縄人として大島人といえばパンパンか泥棒と一途に決めてカカる』一般の風潮」(同)が顕著だったという。なおこの執筆者・森氏は、奄美共産党の林義巳氏が一九五二年六月二五日に琉球人民党・書記長の瀬長亀次郎との会談で、「瀬長はストや非合法党建設に消極的であったことに自己批判を行い、ここで沖縄における非合法共産党の建設に踏み切った」(三二六ページ)という新事実を紹介している。林は琉球人民党大島地方委員会のメンバーだったが、「共産党」内部で奄美−沖縄間に緊張関係があったわけである。なお執筆者の大橋愛由等氏は、作家・島尾敏雄がヤポネシア「を奄美から発想することでシマンチュに『勇気』を与えてきた」(三六六ページ)が、しかし「奄美は日本の一部であることを常に確認したい」発想であり、<奄美は日本の辺境>を突破するものとはなりえないと指摘している。


 ●沖縄人の「二重性」

 さて沖縄内部で沖縄人自身の加害性を強調する作家・目取真俊[めどるま・しゅん]について、編者の西成彦氏と大空博氏の二人が紹介している。大空氏は作家・大城立裕の小説『カクテル・パーティー』も類似の加害性論を持っているとした上で、目取真の『希望』(朝日新聞)の衝撃的な部分を引用している。朝日新聞に掲載されたのは九・一一の一年前だ。

「今オキナワに必要なのは、数千のデモでもなければ、数万人の集会でもなく、一人のアメリカ人の幼児の死なのだ」(三八四ページ)、「反戦だの反基地だの言ったところで、せいぜいが集会を開き、お行儀のいいデモをやってお茶を濁すだけのおとなしい民族。・・・・軍用基地だの補助金だの基地がひり落とす糞のような金に群がる蛆虫[ウジムシ]のような沖縄人。平和を愛する癒しの島。反吐[へど]が出る」(三八五ページ)。

 さらに西氏は、目取真の『群蝶の木』で沖縄人の二重性として「『友軍』として外からやってきた日本兵士や解放者としてあらわれた米兵、そうした外来者にはやすやすとくみしかれ、しっぽをふってしまう民衆が、『慰安婦』や『出戻り』としてやってきた女たちには血も涙もない差別者としてふるまう」(一〇〜一一ページ)の部分を紹介している。

 沖縄人自身による加害性の自己告発である。

 『ひめゆり忠臣蔵』という本を書いた人物がいる。沖縄は被害者だといえば同情してもらえると思っているが、違うという趣旨だ。しかしこの人物は、自分が沖縄に対して加害者だった歴史的事実をどう考えているのか? 被害者にも醜悪なところがある,などと言う資格があるのだろうか?

 目取真は沖縄人の加害性について述べているのである。しかし私には「ここで言っているのは君たち(ヤマトゥンチュ)のことだ!」と聞こえる。

 沖縄人と真の友人になり真の「良き隣人」になるためには、<複数の沖縄>の視点もたしかに避けられないものかもしれない。だがヤマト側が踏みつけている足をまずどけさせることと、それに屈しないでハネのける強い意志の存在が重要なのではないだろうか?   (Y)


人文書院 A5判 440頁
3,500円 2003年2月刊 
ISBN4-409-24067-6