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沖縄・一坪反戦地主会 関東ブロック
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『一坪反戦通信』
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 第144号(2003年3月28日発行)

【報告】

 公開審理に参加して

 三月一三日(木)午後より宜野湾市民会館において普天間飛行場及び那覇港湾施設に係る土地の強制使用を巡る公開審理が開かれた。関東ブロックからは五名が参加。冒頭、県収用委員会当山会長から双方の主張を公正・中立の立場で聞き独立した準司法機関として判断する旨述べられた。五年前の審理においては実感された言葉が「駐留軍用地特別措置法」の二度の改悪で収用委の下した裁決が蔑ろにされてきた中にあっては空しく聞こえる。さらに「土地収用法」の改悪により使用認定に対する不服を申し立てる事ができなくなった事も伝えられた。

 この日の予定は那覇防衛施設局による申請理由説明であったが、その前に地主側より平良修さんが発言された。“普天間基地を即時撤去し解放せよ”と題して「沖縄住民が心底から日本国民になりきれないのは国に対する不信感からくるものである。それは一八七九年の第一次琉球処分から一九七二年の第四次琉球処分の歴史を経てさらに三十年目の今日まで続いている差別政策による。戦争体験から住民の心の深みにある平和への渇望を無視して基地との共生を要求している。私たちは日本政府に対して命を危険に晒させたり他国への加害者にさせる権利を決して与えてはいない。収用委の皆さんの役割は地主の権利主張の枠が著しく狭められる中にあって日本の将来の生死に関わる極めて重大なものがある。どうか人間味あふれる審理に徹して真理に適った道を選択してください。」と述べた(編集部注:次頁以下に全文を掲載)。

 なんと防衛施設局職員は広い会場の中ほどに陣取っている為に前方の地主たちと遠く離れていて真摯に訴えを聞く構図になっていない。そんなことはお構いなしに施設部長の横山たかのり氏が申請理由を説明した。「日米安保体制は我が国の平和と安全に寄与しており土地を円滑かつ安定的に提供することが必要である。地権者に対して常々契約合意を求めてきたが一坪反戦地主会の目的に照らしてみるに客観的に得られないことは明白である。止むを得ず特措法に基づき暫定使用するに至っている。普天間飛行場、那覇港湾施設ともに代替施設建設に向けて努力中であるが所有者への土地返還までの期間は明確ではない。少なく見積もっても十年はかかることから今回の申請期間とした。

 「ところで〇三年四月一二日は当時の橋本首相とモンデール駐日大使が約束した普天間返還の日だがゲートを開けますか?」と真喜志好一さんが質問するとしばらく返答なし。次第に野次が飛ぶ中で横山さんは「先ほど述べた通り代替施設建設に向け鋭意努力中〜」で逃げようとする。代理人の三宅俊司さんは「“合意を得られない一坪共有者”に焦点をあてて、一坪反戦地主会の目的をどう捉えているのか? 客観的と言うことの根拠は何か?」と厳しく追及した。またまた野次が飛ぶ中で「後日、文書にて回答する。」とこれも逃げの一手。申請理由を読み上げておきながら説明できないなんて困ったものだ。

 今回は七名余りが次々にマイクを握り、「地権者一人一人に申請理由文書が渡されないのは何故か、口頭で理解せよということは理解できなくてもよいというバカにした話だ。」「主人公は地主であり団体代表に渡してあるから済むことではない」、と活発な意見が述べられた。“代理人におまかせ”ではなく主体的に臨もうという気持ちの表われで画期的なことだ。当山会長は、文書配布の法規定はないが検討したいと回答した。収用委に対してさえ当日渡すという所に防衛施設局のゴーマンさが出ている。

 約四十名の参加者で審理の前と後に集会をもった。有銘政夫さんと共に元気な照屋秀傳さんが「今日ほど日米両政府に対する怒りに満ちて迎える公開審理はない。イラク攻撃のアジトとなっている米軍基地への土地は絶対に提供しない。」と挨拶した。平良堀悦美さんは、四月一二日まであと三十日のカウントダウンに入った普天間基地開放アクションをアッピール。新潟から家族で参加された一坪地主の片桐さんも一言挨拶。大量破壊兵器と核の査察が一番必要なのは米国であるとして沖縄から国連へ査察要求を出す行動が始まっている。山口洋子さんが全国から賛同署名が送られていると報告した。一坪北部ブロックの川野さんは三月二〇日にイラク攻撃反対の北部集会を開くとアッピールした。米軍のイラク攻撃を迎えて今ほど一坪たりとも渡すまいの真情が切実に響くときはない。三月に入っても寒い日が続く中で珍しく日差しの痛い暑い日であった。
      (YUKO)