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沖縄・一坪反戦地主会 関東ブロック
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『一坪反戦通信』
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 第144号(2003年3月28日発行)

【報告】

 大使館 要請行動

 三月六日、沖縄戦を体験した三人(*)の方が国連の安全保障理事会の非常任理事国六カ国に対して、米英のイラク攻撃決議に反対して貰うよう要請書を持って、平和市民連絡会の代表として上京してきた。一坪反戦地主会関東ブロックに協力要請があったので、アンゴラをはじめとする四カ国の大使館に案内した。

 アンゴラ大使館への要請団は総勢一五、六人。団体というより、個人の集まりという感じで、四国からの人、カナダからの人、一週間前にイラクに行ってきた人などが混じっていた。ヴィクトール特命全権大使との会見では沖縄からの三人が会見時間の半分ほどの時間かけて沖縄戦の悲惨な体験を語り、戦争阻止を訴えた。また、要請書と共に反戦地主の島袋善祐さんが作ったという花束を大使に贈呈した。

 大使の発言はおよそ次の通りであった。アンゴラでは四〇年近くも戦争が続いており終戦になって一年しか経っていないので、沖縄からの訴えはよくわかる。戦争でインフラは破壊され、食糧や水も乏しく、町には孤児があふれている。安保理事国の中で他の国の今の世代は戦争を経験していない。イラク問題は話し合い解決を期待しているが、アンゴラは国が小さいので大きな力はない。要請は本国に伝えるが、一国だけではどうにもならない。

 大使館の対応は大変友好的で、コーヒーを出してくれたり、大使が一緒に記念写真に入ったりしてくれた。会見時間は四時から四時半までの予定であったが、話に熱が入り、十分ほど延長された。

 この日の要請行動は「安保理中間派応援ツアー」を組織してきたNPOの川崎哲さんたちが大使館との面会予約を取ってあったので、そこに合流して大使との会見が実現した。

 三月七日の各国大使館への要請行動は次の通り。


◆ギニア共和国大使館

 タクシー二台に分乗して渋谷駅から渋谷区鉢山町の大使館に向かった。大通りからは一方通行でタクシーは入れないので通りに車を停めて待って貰って、徒歩で大使館を探した。タクシーには五分か十分で戻ってくるからと言っておいた。大使館は民家のような作りであった。チャイムのボタンもないので、「ゴメンください」とドアをノックしたが、何の応答もない。

 実は渋谷駅で電車を降りたとき、大使館に電話を入れたが、出た相手は「ハロー」で「日本語はダメですか」というと「ノー」の返事だった。一応は断ってからと思って電話したのだが、話が通じないのでは仕方ない。やむをえず当初の方針通りいきなり押し掛けることにしたのだった。来てみた結果がこうなので、「やっぱり無断の仕掛けではダメか」とあきらめかけたが、ドアのノブを回して押したら、ドアは開いた。中に踏み込んで声を掛けたら、アフリカ人らしい中年男性が出てきて、ひとまず中に入れと言った。上京団のひとり当間さんが代表して奥に進み、他の者はドアを入ったばかりの部屋に残った。ちょっとして当間さんも戻ってきて、しばらく待つことになった。

 しかし、しばらくが五分経ち、十分経っても誰も出てこない。こっちはタクシーを待たせているので気が気でない。早く次へ行きたいのだが、「待っていてくれ」と言われた手前、出ていくわけにもいかない。仕方なく待たせてあるタクシーに訳を話して、もう十分ぐらいは待って貰うことにした。しばらく待ったが、それでも相手からは何の応答もない。「仕方ないから、二手に分かれて、一組が残り、一方は次のパキスタン大使館へ行くことにしょう」と仲間内で話がまとまったところへ、「どうぞ、こちらへ」と中に招き入れられた。

 出てきた女性(ハタノさん)が、「今は大使が本国に帰っていて、面会できないので皆さんの訪問はお断りしています。この様な要請書は既に一二〇通も届いています。大使が着任してからお会いできる方々には来ていただくことにしています」と話した。

 アポなしの突然の訪問をお詫びした後で、沖縄県民のじっとしていられない気持ちを、簡単に述べたところ「その気持ちはよくわかるので、しっかり伝えます。あなた方は三・八の日比谷公園の集会にも行くのでしょう。私も個人としてではあるが、集会に参加します」と言った。要請書と「イラク派遣団報告書」(一月一三日から二四日まで沖縄からバグダッドに行って来た平和市民連絡会代表の報告書)を提出して辞去した。ハタノさんは玄関まで出てきて見送ってくれた。われわれの行動がどんな結果を生むか知れないが、大使館の対応は非常に友好的であった。


◆パキスタン・イスラム共和国

 入り口のごみごみしたところに受付らしいのがあって、日本人の女性がふたりで仕事こなしていた。当間氏が来訪の理由を話し、要請書と「イラク派遣団報告書」を委託した。


◆チリ共和国

 赤羽橋交差点そばのビルの八階にあり、エレベータで昇ったら、ちょうどオートロックらしいドアを開ける操作をいている女性がいたので、当間氏が来訪理由を話したら、「まあ、どうぞ」と中に招じ入れられた。
 日本人ではないが、日本語をしゃべれるらしい女性が「外交官の方が参りますから、しばらくお待ちください」ということで、四〜五分待っていたら四十歳前後の背広姿の男性が二人出てきた。一人は通訳であった。当間氏が簡単に来訪理由と要請の内容を告げ、持参した要請書と報告書を提出した。相手は丁重に対応し、要請を伝えると話した。

 三箇所をまわったら、一一時半を過ぎてしまった。上京要請団のスケジュールが午後三時の航空便で帰ることになっていたので、この日の大使館めぐりはそれでうち切ることとした。この日は冷たい雨が降っていて、難渋した。         
(U、I) 

(*)派遣団員
  • 大湾芳子(八〇歳):退職教の役員。妹がひめゆり第三外科壕のガス弾で犠牲になった遺族。沖縄戦当時教員。
  • 伊佐順子(七一歳):沖縄戦で両親、祖父母、弟二人を亡くし、妹と二人が残った。戦後親戚の家で別々に育てられる。沖縄県一フィート運動の会語り部。
  • 当間孝太郎(六七歳):平和市民連絡会会員。国家公務員(琉球大学職員)を定年退職。