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『一坪反戦通信』
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 第143号(2003年2月28日発行)

【連載】 やんばる便り 32
            
浦島悦子(ヘリ基地いらない二見以北十区の会)


 地域のお年寄りからの聞き取りを四〜五年も続けていると、お話を聞いたことのある方の訃報に接することが少なくない。それぞれが、自分の人生をしっかりと生き抜いて来られ、天寿を全うして旅立っていかれるのだから、「もっと話を聞きたかったのに」などという私の思いは単なるわがままにすぎないのだけれど、先月亡くなられた嘉陽(かよう、私の住む安部〔あぶ〕の隣集落)の知念春一(ちねん・はるかず)さんの場合は特に、その二カ月余り前に初めてお話を聞かせてもらったばかりだったので、いささかショックだった。

 前触れもなく突然訪ねた(当初は電話で約束を取り付けてから訪ねるようにしていたのだが、お年寄りの場合、顔の見えない電話より、顔を見ながらお願いしたほうがいいことに気づいてから、ダメモトで直接訪ねることが多くなった)私に戸惑いながらも、「長らく入院していてね、退院したところだからちょうどよかった」と、こころよくお話を聞かせてくださった春一さんの面影が浮かぶ。遠い記憶を手繰り寄せるように、かつて日本の準植民地であり、南洋群島と呼ばれた太平洋の島々の一つ・パラオへの出稼ぎ体験を語りつつ、「急にはなかなか細かいところまでは思い出せない」とおっしゃるので、「また来ます」と言うと、「次にあんたが来るまでには、もっと思い出しておくよ」と言ってくださったのに、その約束を果たさないまま逝ってしまわれたのだった。

 春一さんへの追悼の意味も込めて、充分ではないけれど、その体験を紹介したい。


 戦前期の国内・国外出稼ぎは沖縄各地に共通した現象だが、年代や地域・集落によって出稼ぎ先や出ていき方にさまざまな特徴がある。嘉陽の場合、国内では一九三八〜四〇(昭和一三〜一五)年に集中する岡山県のレンガ工場への出稼ぎ(三菱重工、日立製作所など大手鉄鋼所の溶鉱炉に使うレンガの製造。軍需の高まりで人手が必要だったと思われる)が、国外ではペルーおよびパラオへの出稼ぎ・移民が際立っている。いずれも先駆者を頼ったり、その誘いで、親戚や一族が芋づる式に出ていっているのは、他の集落と同様だ。(レンガ工場出稼ぎについては、項を改めて報告したいと考えている。)

 八三歳(この年代では数え年が一般的だ)で亡くなられた知念春一さんは、一九二一(大正一〇)年一月、男四人女二人の六人兄弟の長男として嘉陽に生まれた。春一さんのすぐ下の妹(長女)は、幼い頃亡くなってしまい、次男との間は七〜八歳離れている。

 学齢になった春一さんは嘉陽尋常高等小学校に入学したが、学校から帰ると山羊の草を刈ったり、稲刈り時期には稲を刈ったり、子どもとはいえ仕事がたくさんあった。嘉陽集落の背後には広々とした田圃があり、二期作まで作っていたという。当時は学校に通えなかったり、入学しても二〜三年でやめる子どもも多かったが、春一さんはなんとか八年間通わせてもらい、高等科を卒業することができた。

 その後、しばらくは家の農業を手伝ったり、山仕事をしたりしていたが、貧しい暮らしから脱却するために出稼ぎに行きたいと思い、一九三七(昭和一二)年、数え一七歳の時、父の従兄弟のおじさんのいるパラオへ渡った。シマ(集落)を出発した日は覚えていないが、パラオに上陸した日は五月六日だったと春一さんは記憶している。

 おじさんはシマから「内地(愛媛県?)」へ出稼ぎに行き、重油運搬の会社に就職したが、そこで「内地」の女性と結婚したあと、同じ会社のパラオ支社へ派遣されていた。春一さんはおじさんの紹介で、おじさんの姉妹の夫である本村さんという人が経営するカツオブシ工場で働くことになった。本村さんは宮古出身で、「当時、四二〜三歳ぐらいだったと思うよ」。本村夫婦はパラオに自分たちの家も建てていた。


 カツオブシ工場は、パラオの中心地コロールの町からポンポン船で行くアラカベサンという小さな島にあった。アラカベサンにはカツオブシ工場がいくつもあり、本村さんの工場「アラカベサン漁船丸」のほかに、名護の人、渡名喜(となき)の人、慶良間(けらま)の人がやっている工場などが操業していた。アラカベサンは沖縄の人だけで、「内地」の人がやっている工場(紀美水産?)は別のところにあった。各工場が競争でカツオを捕り、製造を行なっていたという。

 本村さんの工場は三隻の漁船を持ち、その中で大漁丸と呼ばれていたいちばん大きな船が五〇トンくらい。船はいずれも、宮古から乗ってきたものだったようだ。魚を捕るのは宮古の人たちだが、カツオブシを製造する工場で働いていた男女二〇人ほどは、本村さんの妻であるおばさんの関係で、知念の一族をはじめ嘉陽の人たちが多かった。

 カツオブシの製造は、捕れたカツオを船から陸に揚げ、頭を切り落としてから三枚におろし、煮た(蒸した?)あと乾燥させる。魚を並べて釜に入れて蒸すのは女の人の仕事だった。できあがったカツオブシは外国船で日本に運ばれていた。

 春一さんは最初、船から魚を揚げる仕事と、カツオブシを作った後のガラ(頭や骨)をサバニに積んで海に捨てに行く仕事をやらされた。シマにいた時は舟に乗ったこともないのに、一人で海に出なければならず、何度も潮を飲んだ。初めの一カ月くらいは毎日泣いて暮らしたという。「外国まで来てこんなことをしなければならないのかと情けなく、つらかった。しかし意地もあるので、なにくそとがんばったよ」

 アラカベサンは島を段々に削って、いちばん下に工場があり、上の段々には工場で働いている人たちの家や畑があった。パラオは台風がないので、家は簡単な造りだった。春一さんは会社の宿舎に寝泊まりした。マングローブの上に板を渡し、屋根をトタンで葺いた家にごろ寝するのだが、水の上なので涼しかった。パラオはとても気候がよく、暑くも寒くもなくて過ごしやすい。年中、半袖半ズボンで暮らせた。畑でイモなどもよくできた。工場の近くに日用品を売る店や散髪屋などもあり、生活に不自由はなかった。

 パラオ近海は国際保護動物・ジュゴンの生息域だと聞いているので、春一さんに、パラオでジュゴンを見たことがあるか、尋ねてみた。「ああ、何度も見かけたよ。アラカベサンの回りにはジュゴンがたくさんいた」と彼は答え、「パラオのジュゴンは、嘉陽近辺にいる沖縄のジュゴンより人懐こかったような気がする」と、付け加えた。沖縄近海のジュゴンが私たち人間のさまざまな行為によって激減し、今や辺野古から嘉陽近辺を中心とする沖縄島北部東海岸だけにわずかな頭数(多くても五〇頭以下だろうと言われている)を残すのみとなってしまったがゆえに、彼らは人間への不信と警戒心が強くなったのかもしれない。


 その後、春一さんはカツオの頭切りの仕事に移った。仕事の時間は魚の捕れ具合によってまちまちだった。大漁の時は、魚を腐らすわけにいかないので、一〇日間くらい徹夜で仕事をすることもあった。不漁の時は休みになる。月給は、春一さんの記憶では「確か二一円だったと思う」。親戚のつながりで雇っていたためか、昇給などはなかった。

 休みの時はよく山に遊びに行った。同じ工場ではないが、名護の人がやっていた「チョウエイ丸(?)」という工場に本部(もとぶ)出身の同い年が二人いたので、よく三人揃って遊んだ。「アラカベサンの山はとてもきれいだったよ。山にはたくさんの食べものがあるので、それを取って食べるのが楽しみだった。バナナやパンの実、椰子など野生の果物がいくらでもあったなぁ‥‥」。時にはポンポン船でコロールの町に行って映画を観ることもあった。コロールとアラカベサンの間には定期船が一時間おきに出ていた。「どんな映画を観たんですか」と聞くと、「そうだなぁ、覚えているのは『愛染かつら』くらいかな」

 コロールの町にはバーやカフェー、名護の人がやっていた南海楼をはじめたくさんの料亭もあったが、春一さんはまだ子どもだったので、そういうところで遊ぶわけでもないし、酒や煙草を飲むわけでもないので、お金を使うことはあまりなかった。給料のほとんどは毎月シマに仕送りしたという。二〇歳から煙草を吸い始め、ビールも少し飲んだ。同級生三人でいっしょに飲むこともあった。

 アラカベサンにいたのは沖縄の人だけだったが、春一さんたちは現地の人々とも親しくなった。彼らは点在する各島々に住んでおり、刳(く)り船を漕いで、よくカツオを貰いに来ていたという。タピオカなどを持ってきて物々交換するのだ。「肌の色は黒くて、赤いふんどしを着けていた。白い歯が印象的だったね。とても人懐こくて、『コンパニ(友だち)、コンパニ』と言ってくるので、すぐ仲良くなった」と春一さんは語る。彼らの家は竹を床に敷き、椰子の葉で屋根を葺いた高床式の家で、下には豚を飼っていた。「彼らはよく椰子の実を持ってきてくれるんだけど、豚の匂いが染みついて食べられなかった」

 しばらくして、春一さんはカツオ船に乗ることになった。船に乗った期間は四年くらいである。「工場の仕事より船のほうがよかったね。給料も多いし。カツオの獲れる量にもよるが、多い時は五〇円以上になったこともある」。船で沖へ七時間くらい、島が見えなくなるところまで出て、魚の群れを見つけたら一本釣りでひたすら釣る。乗組員は一五人ぐらい。大漁の時は一日に二回出漁することもあった。船が満杯になると、一度帰って魚を下ろしてから、すぐまた出かける。逆に不漁の時は、一週間も帰らず、ニューギニアが見えるところまで行くこともあったという。そのため、船にはいつも食糧や水を積んであった。


 春一さんがカツオと格闘している間に日本は戦争に突入していた。パラオでは徴兵検査はなかったが、春一さんは数え二四歳の時召集されたというから、四四年頃だろうか。召集といっても、どこかに行くのではなく、守るのはアラカベサンだった。アラカベサンには土居部隊が駐屯しており、春一さんは高射砲隊に配置された。パラオは島が高いので米軍は上陸できず、空襲をかけてきた。B29がアラカベサンの上空に来た時、春一さんは爆撃を受けて埋められてしまったが、助け出されたという。「防空壕なんかも掘ったんですか」と尋ねると、「パラオでは防空壕に隠れた人はあまりいないと思う。軍隊でも、自分たちが入るタコツボは掘ったが、壕掘りをしたことはないよ」。戦争の合間には畑でイモを作った。土居部隊の兵隊たちも裸でイモを植えていた。

 春一さんが後に聞いたところによると、パラオも危ないというので、パラオから台湾への疎開船が出た。春一さんの叔父(父の弟)の妻・ヨシさんは子どもたちを連れてこの船に乗ったが、途中で船が爆撃され、たくさんの人が亡くなった。ヨシさんとその長女は助けられたものの、長男と次女は亡くなったという。当時、春一さんは軍隊にいたので知らなかった。

 戦争が終わったあとも、沖縄に引き揚げるまで、以前と同じように農業しながら暮らした。収容所に入れられたりはしなかったが、軍隊に入る前までいっしょだった親戚の人たちとはバラバラになった。引き揚げる時は久米島など離島の人たちといっしょだった。引き揚げ船はパラオを出るとグアムで一泊し、久場崎(くばさき、現在の沖縄市に位置し、引揚者の一時収容所があった)に上陸した(一九四六年二月一九日)。何も持たずに帰ってきた。

 「帰郷したのは(数え)二七歳の時だから、パラオに(足掛け)一〇年いたことになる。最初はつらかったが、慣れてくると、とてもいいところだった。もし戦争がなかったら、ずっと住んでいたかもしれない」と春一さんは言った。帰ってきてから嘉陽の人と結婚し、大工をやって、弟たちをみんな大学に出した。「一人は琉大(琉球大学)を出て教員になり、那覇市議会議員になった弟もいる。家も建てた。那覇に出て、大城組で働いたが、戦後のドル時代、大工仕事の稼ぎはとてもよかった。僕が五〇代の頃は、徹夜で働くほど大工の仕事が多かった。父母が年取ったので嘉陽に帰ってきたんだ」。父は九四歳で亡くなったが、施設に入所している母は一〇二歳でまだ健在だと、誇らしげに話す春一さんに、「長生きの家系なんですね。春一さんもきっと長生きしますよ」と言いながら、もう一度必ず来ようと心に決めていたのに、ほんとうに残念だった。


 春一さんが亡くなってまもなく、安部・嘉陽の近くでジュゴンが目撃されたという。パラオのジュゴンについても、嘉陽のジュゴンについても、春一さんにもっと話を聞いてみたかった。ジュゴンを絶滅させ、地域の自然と暮らしを破壊する、戦争のための基地はなんとしても造らせてはならないと、改めて思う。