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第139号(2002年9月28日発行)

【連載】
 やんばる便り 28
            
浦島悦子(ヘリ基地いらない二見以北十区の会)

 字(あざ)久志(くし)は久志地域(旧久志村)一三区のいちばん南に位置し、宜野座(ぎのざ)村と境を接する部落である。一六七三年に久志間切(まぎり)創設の際、ここに間切番所を置いたのが間切名の由来だが、南北に長い間切の端に番所があるのは利用に不便だったため、一六八七年、間切の中ほどに位置する瀬嵩に移された経緯がある(以来、一九七〇年の町村合併まで瀬嵩(せだけ)は久志間切・村の中心となったが、歴史的には久志のほうが古いと見られている)。村(地域)全体の名称と区別するために、現在でも久志部落を久志グヮー(小)と呼ぶことが多い。

 久志グヮーは、久志岳連山の豊富な水系を集めて太平洋に注ぐ久志大川の河口に形成された集落で、久志岳の姿形といい、集落の前に見事な弧を描いて広がる白浜といい、その美しさは群を抜いており、「おもろさうし」にも「くしのまえかねく(かねく=砂浜、砂地のこと)」と謡われている。白砂の浜に沿った集落の中心部は、海からの砂が寄せ上げられてできたユアギジマと呼ばれる。

 現部落の発祥の地と思われる久志貝塚はグスク時代初期(約一五〇〇〜七〇〇年前)の遺跡と言われ、また、現部落の北側後方の丘陵および現部落の東にそれぞれ約六〇〇〜三〇〇年前の遺跡が発見されている。久志岳連山(現在は米海兵隊の軍事演習場となっている)の麓に広がる緩やかな丘陵は水利に恵まれ、かつては肥沃な水田が多かったという。

  隣接する辺野古(へのこ)沖へ新基地建設問題が起こって以降、久志グヮーの人々は部落一丸となってこれに強く反対してきた。政府から、呑み込みにくい軍事基地を呑み込ませるためのさまざまなアメ(振興策)が次々に差し出され、沖縄県や名護市が政府に追随していく中で、地元久辺三区(久志・豊原・辺野古)には動揺と、「反対」を言いにくい空気が醸(かも)し出されているが、今年七月末の政府・県・市による基地の「基本計画」合意の後も、久志グヮーだけは部落としての反対の姿勢をいささかも崩していない。その心情は、このような「山紫水明」と古い歴史に育まれたものだろうか。一六七四年に建設された久志観音堂などの旧跡が大切に保存され、組踊り「久志の若按司(わかあじ)」をはじめとする伝統芸能保存に力を入れているのも、シマンチュとしての誇りの現われであろう。


 肥沃な水田が多かったということと裏腹に思えるかもしれないが、実は久志 グヮーは、久志地域でもっとも多くの移民を出した部落なのだ。戦前の久志 グヮーからの海外出稼者数はわかっているだけで、二一五人(「南洋」を除く。「南洋」諸島は日本の準植民地で、旅券が不要であったため、記録が残っていない)を数え、久志地域全体の半数近くを占めている。部落人口六五〇〜七〇〇人(推定)の三分の一近くが海外へ出ていくというのは、並大抵のことではない。「南洋」や「本土」出稼ぎも含めると、シマから出稼ぎに行った人の実数は、もっともっと膨らむだろう。

 稲が主要作物で、山仕事(主に薪取り)による現金収入もあり、久志地域の他の部落に比べて経済的には恵まれていたと思われる久志 グヮーから、なぜ、こんなにも多くの海外出稼ぎ者が出ているのか。この興味深い課題については、さらに調査が必要だが、出稼ぎに行く人の動機が経済的理由だけでないことは確かだ。広い世界を見てみたいという憧れや、海外で一旗挙げて故郷に錦を飾りたいという希望、徴兵忌避など、さまざまな動機があったことは以前にも述べた。久志 グヮーは沖縄の移民先進地・金武(きん)に近く、その情報が早くもたらされたのだろうか、一九〇六(明治三九)年、部落から初めての移民をハワイへ一一人送っている(前年に辺野古から、久志地域初の移民がハワイへ一人出ている。沖縄からの海外移民が始まったのは一八九九=明治三二年)。久志 グヮーの人々は、昔から進取の気性にも富んでいたのかもしれない。

 久志 グヮーでとりわけ目立つのはフィリピンとブラジルへの移民・出稼ぎだ。中でもフィリピン移民は久志地域全体の八〇%以上に及んでいる。移民先で足場を築いた先駆者たちが、家族や一族を呼び寄せるのはどこも同じだが、こんなに多いのにはどんな理由があったのか、これもまた興味深い課題である。ブラジルの場合は、彼の地に永住した人がほとんどなので、なかなか話を聞ける機会はないが、フィリピンに行き、戦禍を免れた人々は、日本の敗戦に伴って全員、本国に送還された。すでに亡くなった方々も少なくないが、今ならまだかろうじて、体験者のお話を聞くことができる。今年五月、まずは最高齢者から、と思って訪ねたのが宮里金吉さんだった。


 金吉さんは一九〇九(明治四二)年生まれの九三歳。耳が遠いので、お連れ合いの千代さん(一九一七=大正六年生まれ、八五歳)の「通訳」を介さなければ話が通じにくいが、それ以外はいたってお元気。いろいろな人が話を聞きに来るようで、気さくに対応してくださった。それにしても、私が大声を出しても通じないのに、千代さんが同じことを聞いてくださると、それほど大声でないのに通じることに感心(夫婦だからあたりまえと言えばあたりまえなのかなぁ?)。

 話をしているうちに、千代さんも金吉さんと結婚(数え二二歳でフィリピンへ渡航した金吉さんは七年後、千代さんを妻に迎えるために一時帰郷している)してフィリピンへ渡ったこと、金吉さんの父の松蔵さんが実は、久志 グヮーの「フィリピン移民の父」と言われる草分けだったことがわかり、いよいよ興味は募った。

 金吉さんの体験に入る前に、まず松蔵さんの紹介をしておこう。金吉さんが、タンスの引き出しに大事にしまってあった森根(ムイニー=金吉さんの生家の屋号。次男である金吉さんは後継者のいない親戚の位牌を引き継ぐことになり、別の屋号を名乗っている)の『家事歴史簿』および『わが家の歴史』という小冊子を貸してくださった。前者は松蔵さんが一九四〇(昭和一五)年に起草したもの、後者は、金吉さんの兄(長男)・正雄さんの長男・正昭さんが一九七五年に作ったものだ。『わが家の歴史』の中で正昭さんは祖父・松蔵さんのことを次のように書いている。

 「祖父は七歳のとき父を失い、学校は小学(校)一年で終わり、貧しき家庭を支えながら成長した〈略〉。小生から見た祖父は大胆不敵というか大変勇気があり、人前でものおじすることなく物事を着実にとらえ、親戚のみならず知人友人、また公益なことなどを(ママ)親切心があり、家の仕事をふり捨て(て)まで人に尽くす祖父であった。

 若い頃、久志の青年会長も一期つとめ、その後、生活の夢は大きくバタビア、スラビア等の東南アジア航路の船員として活躍したそうである。

 〈略〉三十歳のとき(一九一九=大正八年)米領フィリピン群島に渡り、麻の栽培をはじめた。それから字久志の若者を次々に呼び寄せ、生活を安定させたので昭和十四年、当時フィリピン群島にいる字久志出身者から感謝状をいただきました」(括弧内は引用者)

 松蔵さんは一九二五(大正一四)年に長男・正雄さんを呼び寄せ、次に金吉さんを呼び寄せたが、金吉さんが渡航してまもなく(一九三〇=昭和五年)、所有していた麻山を長男に譲り、一二年ぶりに帰郷した。「相当の財産を貯え」(『家事歴史簿』)、まさに「故郷に錦を飾る」にふさわしい帰郷だったにちがいない。

 松蔵さんがフィリピンに行った年、金吉さんは小学校三年生だったし、フィリピンでは、金吉さんが着いてすぐ松蔵さんは帰郷し、戦後、金吉さんが帰郷したときには父はすでに亡くなっていたので、父についての金吉さんの印象はあまり強くない。かえって、フィリピン生まれだが、日本の小学校への入学のため、祖父母のもとに帰された正雄さんの長男・正昭さんのほうが、育ての親でもある祖父・松蔵さんのことをよく覚えているようだ。

 帰郷した松蔵さんは、狭かった家屋敷を広くし、納屋・豚舎・畜舎・堆肥舎を建設し、屋敷周りにセメント壁をめぐらし、一九四〇=昭和一五年には二千円余の「大金」を投じて墓の建立を行なっている。正昭さんによれば「玉城(たまぐすく)村の港川から山原船を借切って、港川石と俗に言っているが、これを二航海して買い求め、字久志区民の夫役提供を得て、さらに友人知人の協力を得て」(建設に要した人夫は総計四八〇人という)建設。区民全世帯と友人知人を招いて盛大な落成式を行なったという。

 松蔵さんが直接呼び寄せた人々はもちろん、彼の成功ぶりをシマで目の当たりにして、フィリピン渡航を決意した人も少なくなかったのではなかろうか。

 金吉さん・千代さんの体験、フィリピン移民の歴史的背景などについては、次回以降に報告したい。              
 (この項続く