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第137号(2002年6月28日発行)

【連載】

 やんばる便り 26
            
浦島悦子(ヘリ基地いらない二見以北十区の会)


 前述したように、愛楽園での聞き取り調査の初日、私は琉球大学の女子学生・Oさんとペアを組むことになった。彼女は沖縄平和ネットワークに所属し、ボランティアで平和ガイドもやっている、すてきな女性だ。

 私たちが最初にお話を聞くことになったのは、園内の不自由者棟に住む里山るつさん(園名)だった。園名とは、ハンセン病療養所に入った(または入れられた)時につけられる仮名であり、親からもらった名前を心ならずも奪われた人々も多い。

 愛楽園自治会の方に案内されて里山さんの居室を訪ねると、目の不自由な彼女は、こぢんまりとした居室の座卓の前で私たちを待っていてくださった。前もって自治会から、「学生たちが来るので話を聞かせてほしい」という連絡を入れてあったらしい。聞いていたラジオのスイッチを切って私たちに向き直り、「私に話せることがあるかねぇ」とはにかむ里山さんは、ほっそりと小柄なせいもあって、少女のように初々しかった。

 Oさんと私はそれぞれ自己紹介をした。目の見えない里山さんが誤解しないようにと、私は学生ではなく、若くもないことを告げたが、「声でだいたいわかるよ」と言われてしまった。
 座卓の上に一冊の本が置かれている。「私のことはこれにみんな書いてあるから、それ以上に話すことはないはずよ」。

 私たちに見せるつもりで置いてあったらしいその本は『歌はわが杖 わが祈り』と題する歌集で、一年ほど前に出版されている。その「あとがき」に、Aさんの生い立ちや略歴が掲載されているという。「購入できますか」と尋ねたら、これは「遺稿集」のつもりで作り、これまでお世話になった方々に差し上げているものなので、販売はしていないが、借りていってもいいとのこと。それは後で読むことにし、調査票の項目に沿って、お話を聞いていく。

 聞き取りは初めてというOさんも、ある程度聞き取りの経験はあるが、ハンセン病については初めての私も、いささか緊張気味だ。初対面の人に根掘り葉掘り聞かれる立場になった里山さんは、もっと緊張していたかもしれない。後遺症のため聞き取りにくい発音があったり、耳が遠くなっているのでうまく伝わらなかったり、里山さんも私たちも、同じことを何度か繰り返しながら話すうち、少しずつ緊張はほぐれていった。

 里山さんは私たちを「喉が渇いたでしょう」と気遣い、棚のあるほうに顔を向けて、「そこに大宜味(おおぎみ)からもらったタンカン(みかんの一種)があるから、剥いて食べなさい」と勧めてくださる。私たちは遠慮なくいただいた。甘い果汁が口一杯に広がり、Oさんと私は同時に「おいしーい!」と声を上げた。


 里山さんは、今から二〇年近く前の一九八三年に第一歌集『屋我地島』を出版したが、その「あとがき」に記した自らの生い立ちを第二歌集『歌はわが杖 わが祈り』にも再録している。この原稿を書くに当たって、ご相談したところ、「みんなに知ってほしいと思って書いたものだから、どうぞ広めてください」とおっしゃった。本の記述とお話をもとに、里山さんの軌跡を見てみよう(本からの引用は[ ]内)。

 里山さんは一九二二(大正一一)年生まれの八〇歳。彼女が生まれてまもなく父は亡くなり、母は三歳違いの兄と里山さんを、日用品などの行商をしながら育ててくれたという。当時、ハンセン病は「クンチャー」と呼ばれ、恐ろしい病気であることは聞いていたが、まさか自分がかかるとは思ってもみなかった。兄が先に発病して学校をやめ、里山さんも一二歳(小学校六年)で発病して通学を停止される。母は子どもが二人とも病気になった心労と生活苦とで病に倒れ、母子心中しようとしたが、自分の姉妹たちに説得されて思い止まった。

 里山さんは、友だちや親戚に特につらく当たられたことはないと言うが、発病後、一家は今まで住んでいたところから転居しているし、彼女が子どもながらにいちばん心配だったのは、自分たちをかわいがってくれる叔母さんたちに迷惑がかかるのではないかということだったというから、目に見えない重圧がのしかかっていたことには変わりない。自殺は思い止まったものの、母はそれから約一年後に、三九歳の若さで亡くなってしまった。

 ハンセン病は治療をすれば治るということを、里山さんは本などで読んで知っていたという。母が生きている間は、薬や注射のためのお金を稼いでくれたが、母亡き後、治療をしたくてもできないので、そのためにも早く療養所に入りたかった。当時、愛楽園はまだできておらず、沖縄では宮古島だけに療養所があったが、叔母さんたちが鹿児島に療養所ができることを聞いてきてくれたので、そこに入れるように県庁にお願いした。

 こうして一九三五(昭和一〇)年、兄妹は開園したばかりの国立療養所・星塚敬愛園(鹿児島県鹿屋〔かのや〕市)に向かう。大人・子ども合わせて沖縄から百人ほどが行った。船は那覇から出港したが、名護からの乗船が圧倒的に多かったという。北部にハンセン病者が多かったということだろうか。

 療養所に入って里山さんは「天国に来たような気がした」と言う。それは、両親を失い、病気を抱えて暮らす少女の不安が、どれだけ大きかったかを物語っている。「敬愛園に来てからは、兄も私も別人のように明るくなりました」。

 医者や看護婦にかわいがられ、園内の学園で学び、新しい友だちもたくさんできて楽しい毎日を送っていた里山さんを突然の悲しみが襲ったのは一九三九年。[たった一人の肉親であり、心の支え]であった兄を急性盲腸炎で失ってしまったのだ。朝、入院して、その夜にはもう亡くなるという、あっという間のできごとだった。

 みんなに励まされ、失望のどん底からやっと立ち直った彼女を、さらなる試練が襲う。[兄が亡くなって三年の月日が経った。すると今度は私が失明してしまいました。その時はもう全く途方に暮れて、「この先、どうして生きていけばよいのかわからない。もう、すべてがおしまいだ」と失望落胆していました]。その時、里山さんは、満二〇歳。日本はすでに太平洋戦争に突入していた。「戦争になって栄養状態が悪くなったから(失明したの)かもしれません」。

 その後、今日までの里山さんを支えてきたのは、兄の遺志を継いだ短歌と信仰であり、敬愛園で出会い、戦後、いっしょに沖縄に引き揚げてきた養父母であった。沖縄に親兄弟のいない里山さんは帰りたくなかったが、養父母が「あまりにもいい人たちなので離れられず」同行したという。
 一九四七年、まだ焼け野原のままの愛楽園に里山さんたちは転園してきた。二百人以上の引揚者を受け入れなければならなくなった愛楽園では大急ぎで家を作ったが間に合わず、里山さんたちは公会堂の土間にゴザを敷いて寝泊まりしながら、一カ月ほど待った。入所者の中の元気な人たちが食事を作り、また畑仕事をしたり魚も捕っていた。

 家ができると、養父母は夫婦用の茅葺き家に入居し、里山さんと三人で暮らした。実の親以上の深い愛情で、目や四肢の不自由な里山さんを慈しみ、短歌を読んでくれたり、代筆してくれた養父母亡き後、彼女は感謝を込めて、養父母へのご恩返しのつもりで第一歌集『屋我地島』を出したという。

 『歌はわが杖 わが祈り』という第二歌集の題名は、身の回りのことから社会事象にいたるまで、日々の思いや悲しみ、苦しみ、喜びのすべてを歌に託してきた里山さんの心情そのものだと言える。みずみずしく、こまやかな感性に満ちたその歌のいくつかを紹介しよう。(第二歌集から引用)

  妹よ悲しきときは歌詠めと
    兄の言葉を思い励みぬ

  部屋の障子張りかえもらい暖かき
    見えぬ我が眼に明るく感ず

  さぐりつつそぞろ歩けば庭を吹く風に
    枇杷の葉がさらさらと鳴る

  我が生活豊かになりて
    アフリカの飢餓に苦しむ人等を思う

  ヘリ基地賛否に渦巻く島は揺れ
    海は抗いけぶりておらん

  予防法改正なりし喜びを書きて
    従弟は便りをくれぬ

 私たち調査員が、聞きにくくても必ず聞いてほしいと言われた聞き取り項目がある。それは、「断種・堕胎」についての質問だ。人権侵害の象徴とも言うべきそれが、療養所において強制されていたことは前述した(第二四回)が、その実態はまだ充分明らかにされているとは言いがたい。ハンセン病への人権侵害にメスを入れるためには、ぜひともはっきりさせなければならない事柄なのだ。

 里山さんは、結婚したことがないからわからないと断わりながら、鹿児島の敬愛園で断種させられた第一号が沖縄の人だったと教えてくれた。当時、患者と職員とが喧嘩していたことがあり、彼女はその時、まだ子どもだったので意味がわからなかったが、愛楽園に来てから、あれは断種をめぐる喧嘩だったんだと知ったという。

 里山さんは、自分は目も体も不自由なので、結婚を考えたことはないと言ったが、それは必ずしも本意ではなかったような気もする。自分をかわいがってくれる先生や看護婦さんが、自分たちが結婚するのを喜ばなかった、と彼女は言った。「それに、結婚したら苦労が多いと思ったし」。このような自己規制の暗黙の強制も、立派な(?)人権侵害ではないだろうか。

 里山さんは、最初に裁判の話を聞いたときには、まさか勝利できるとは思わなかったという。療養所生活が長く、復帰後は障害者年金をもらえるようになったが、裁判をすることによって逆に不利になるのではないかと、半分不安もあった。「でも勝訴して、やはり正しいことは認められるんだと、とてもうれしかった。みんなの力のおかげです」。

 裁判の前と後では園の雰囲気もずいぶん変わった。「最近は社会との交流も増えた」と里山さんが言うのを聞いて、ハンセン病者(回復者も含めて)は「社会」外の存在だったということが、改めて胸にずしんと来た。親戚や近隣の人々、歌仲間や学生たち‥‥、たくさんの人々が園を訪ね、園内を散歩する保育園児の声が響く中で、里山さんは「長生きしてよかった」と微笑む。

 「命ある限り歌を作り続ける」と言う里山さんは「若い人たちには、私たちのような人間がいることを知って、どんな困難にも負けない気持ちを持ってほしい」、そして政府に対しては、園の入居者が「最後の一人になるまで責任を持って見てほしい」と付け加えた。
               (この項・了)