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沖縄・一坪反戦地主会 関東ブロック
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第135号(2002年4月28日発行)

沖縄県伊江島「反戦資料館」
第一回学術調査

 関東ブロック会員のOさん(浦和市在住)が二月末、沖縄・伊江島に渡って、阿波根昌鴻さん(三月二一日に一〇一歳で逝去)が残した貴重な映像・文書の整理作業に参加した。阿波根さんは対米軍・土地闘争の当時としては珍しい写真などを保存しており、今回これら資料を集大成しようというものだ。

 「三月一日から七日まで・わびあいの里(伊江島)・の資料調査をする。できれば二月から来てほしい」……こんな連絡が高岩仁さん(自称映画屋。作品に『教えられなかった戦争―沖縄編―』などがある。数年前からコツコツとその資料整理にあたっている)から入った。さいわい超割の航空券が手に入ったので、二月二五日から伊江島入りした。

 今回の資料整理は・沖縄県伊江島「反戦資料館」第一回学術調査・と銘打たれ、国立資料館の安藤正人さん(『草の根文書館の思想』九八年、岩田書院刊の著者)をリーダーに、一番多い日は参加者が五〇人にもなるという大掛かりなものだ(編集部注・表紙参照)。泊まる場所は、阿波根さんがかつて平和な島づくりの一環として運営していた生協の建物の二、三階や、やすらぎの家などでなんとかなるが、たいへんなのは三度の食事である。五〇人分を作る調理場や洗い場や、五〇人が食べるテーブルを作ったり、資料整理場所に日除け・雨除けの大判ブルーシートを張ったり、資料庫の棚を作ったりするのが、二月の主な仕事だった。先着の高岩さんと相棒カメラマンの中島さん、反戦地主の久保田さん(松山市在住)、岐阜の若者大ちゃんに関東の老生が加わってその任にあたった。久保田さんの指導で調理場のコンクリート打ち、製材の補助、テーブル作り、照明の配線、器具の取り付け、阿波根精神で保存されていた古い流し台の再生などなど、様々な体験をした。


三月一日から本番

 沖縄県内はもちろん、ヤマトの各地から公文書館・史料館・大学などで働くその道の専門家に加えて、若者たち(何と参加者の約三分の二)が、七つのグループに分かれて阿波根さんが保存されてきた資料の調査を行った。第一段階の今回は、何がどこにあるかという資料の確認が主な目的である。なにしろ公開されているヌチドゥタカラの家=反戦平和資料館を初めとして、資料が保存されている場所は八か所もある。・最終目標は、「わびあいの里」にある阿波根昌鴻さんい関わるすべての資料整理体制を確立すること・と「調査の概要」には記されている。非暴力を貫くためには学習することが何よりも大事と自らも学び続け、平和を築く道を歩んで来られた阿波根さん。彼を代表とする「わびあいの里」の里らしいところは、昼間は調査、夜はその報告会と学習会という日程の組み立てだ。学習会では、九七年の公開審理での阿波根さん(当時九四歳)のビデオによる参加・意見陳述や、七三年の沖縄国際大学・石原昌家ゼミの阿波根さんインタビューの録音、元米海兵隊員・アレン=ネルソンさんの講演、映画『教えられなかった戦争―沖縄編―』の上映など、毎晩二時間前後があてられた。
 以下、その中で私の固い頭に残ったことをいくつか報告する。


一番うれしかったのは若者たちの参加

 驚いたのは、そのほとんどが初めて沖縄を訪れたという二〇歳前後の青年が三〇数人もいたことだ(中には南風原・はえばる・からボリビアに移民した人の三世も)。そしてエアコンのない倉庫の中で、激変する天候に耐えながら、年寄りから見たら気の遠くなるような資料の保存状態のスケッチや応急処置などを、弱音一つ吐かずにやり遂げる姿には感心した。更に、その中に老生の住む埼玉で出会ったことのない埼玉大学の学生が三人もいて、これからのつながりの糸口がつかめたことはうれしかった。


感激した一坪の援農

 調査をしていた倉庫の先の畑に、一坪反戦地主会北部ブロックの仲間たちが援農に現れた。それも草刈だけでなく、洗い場作りや食事づくりにまで手を広げてくれたのだ。ゆっくり話す時間はなかったけれど、どうも定期的に援農に入っているらしい。近いとはいえ、たいへんなことである。あらためて、北部ブロックの皆さんの活動に頭が下がった。
 

三九年前の手紙

 調査中に額入りの手紙が発見された。

 (一九六三 村上国治 札幌の独房から)はるばるはげましのお便りをありがとう存じました。写真も学習資料もありがとう存じました。もうすぐ手紙も書けなくなりますので、大いそぎで書いています。にえくりかえるおもいです。生きぬき……(以下は写真が重なっていて不明)。

 六三年といえば、沖縄はまだ米軍の占領下。村上国治といえば、たしか白鳥事件で濡れ衣を着せられて獄中にあった人だ。調査が進めば、阿波根さんの手紙の下書き、あるいはカーボン紙での複写がみつかるかもしれない。占領下の沖縄から獄中の活動家へ、どんな学習資料や写真、そして励ましの手紙が送られたのだろう。占領下の土地闘争の最中に、遥か北の獄中への励まし。阿波根さんの素晴らしさを改めて知った。


「基地は存続」

 阿波根さんが作られた伊江島の土地闘争の記録写真ともいえる『人間の住んでいる島』のポスターに使われていた七二年五月一五日の『沖縄タイムス』夕刊の見出し。横に・「復帰元年」不安の幕あけ/反戦・自治に新たな苦難・。縦に・問題残す基地存続/提供基地八七か所・とある。今年は復帰三〇年。すべての不安・苦難を沖縄に押しつけたまま、ヤマトに住む人間はただ平和をむさぼってきたのではないか。どうすればほんとうの独立国になれるんだ。自然大好き人間が、ヤンバルの山や海辺をゆっくり訪ね歩けるのはいつなんだ。まだまだ死ねないな。


「ジャングルで嗅いだ血の臭い」

 今回の資料整理では、たくさんのことを学んだ。ここではアレン・ネルソンさんの話の中から紹介する。
  
  アメリカの貧困層の家庭に生まれ、兵隊になるしか選択肢がなく、高校を中退して海兵隊に入り、沖縄のキャンプ・ハンセンで実戦訓練を受け、ベトナム戦を体験。三年前に日本山妙法寺の平和行進の一員として伊江島を訪ね、ヌチドゥタカラの家に入った。反戦資料館では何分もたたないうちにいたたまれなくなって、飛び出してしまった。そこに立ち込めた臭いが、ベトナムのジャングルで嗅いだ血の臭いと同じだったからだ。ヌチドゥタカラの家・反戦資料館に陳列されている物の中には、血を洗わずに戦争そのものを展示しているものがあるのではないか? 見るだけでなく、臭いを嗅ぎ手を触れることもできる。これは大事なことだ。

  キャンプ・ハンセンの訓練後は、日々身につけた暴力性をもって街に出た(暴力性は決して基地に置いていくわけではない)。問題が起きれば司令官は陳謝するが、内心は喜んでいる。暴力がふるえることは、戦場に行く準備ができた証だからだ。

  日本政府が海外に送るべきは、自衛隊ではなく日本国憲法九条だ。九条がみなさんの命を救ってきた。今度はみなさんが九条の命を救う番だ。


 身体を動かし、学び、交流した伊江島の一二日間。阿波根さんは体調がすぐれず(微熱があり、手足にむくみ)、本島の病院に入院中だった。見舞いから帰られた謝花さんが、レバーの経管流動食を作って再び病院へ行き、その効あってだいぶ良くなられたという。その話をお聞きして安心して帰ってきてまだ日が浅いのに逝ってしまわれた。非暴力平和運動の足跡を活かす仕事を、若い人たちに託すかのようにして。晩年、「あの世に行っても平和運動しなくちゃならないのかねえ」と言っておられたという。阿波根さんは三月二一日、新たな所での運動の組み立てに旅立たれた。

 阿波根さん、ミルクユウ(「弥勒世」。「平和世」の意)ではゆっくり休めるんじゃないですか。それとも、平和は求め続けなければ消えちゃうんでしょうか。私はあと三〇年、阿波根さんが手をつけて道半ばで米軍に奪いとられた農民学校の実現めざしてがんばってから行くからね。

              (O)