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第130号(2001年11月28日発行)

【連載】

 やんばる便り 20
            
浦島悦子(ヘリ基地いらない二見以北十区の会)

 私たちが物質文明を享受すればするほど増えていくゴミは、全国どこでも避けて通れない問題であるが、島の小さい沖縄ではいっそう深刻だ。世界遺産の候補地にもあげられている希有の自然を持つやんばるも、人間活動の影響が及ぶ限り、その例外ではない。

 美しいサンゴの海を前にした砂浜にゴミが散乱し、固有種の住む山の谷間や林道のあちこちに,、ビニールやプラスチック、果ては古タイヤや家電製品までが捨てられているのを見ると、自らの恥部を見せつけられるようで、いたたまれなくなる。


 国頭(くにがみ)村は前号で述べたように、山林・原野が九〇%を占める広い村域に二〇の集落が点在し、合計で約六〇〇〇人の村民が住む過疎の村だが、ここでもゴミ問題は深刻化の一途をたどっている。ごく最近まで、自然の循環の範囲内で暮らしていた伝統的な生活の中に、とりわけ「日本復帰」後、物質文明が急激に入り込み、人びとの意識も行政的な対応も追いつかないまま、ゴミがあふれだしたのである。

 国頭村の一般廃棄物(家庭ゴミ)最終処分場は、これまで村内五カ所を転々としてきた。村域が広いため、村の西側と東側で別々の最終処分場を使ってきたが、西側の辺土名(へんとな)区(国頭村の役場所在地。区は行政単位で、字、部落とも言う)の処分場が、近隣にゴルフ場開発が計画されたため使用困難になり、一九九五年から東側の安田(あだ)区の処分場に、区の同意を得て、西側のゴミも処分してきた。

 しかし、これはあくまでも一時しのぎに過ぎないうえ、処分場とは名ばかりのゴミ捨て場(埋め立て)からは有害物質を含んだ水が滲み出し、溜まった水にプラスチックや家電廃品などが浮き、住民はハエに悩まされる……という惨状。安田区は村に何度も埋め立て中止を迫ったが、やむなく使用期限延長を重ねてきた経過がある。

 その間、新規の最終処分場設置を検討していた国頭村に対して、謝敷(じゃしき)区、浜区から受け入れの意思表明があったにもかかわらず、村はなぜか、いずれにも難色を示し、九七年九月、最終処分場設置検討委員会を作った。委員会の構成は、区長会から四人、役場職員、自然保護学識経験者など計一五人。当初の五カ所の候補地に辺戸(へど)区は入っておらず、したがって辺戸区長も検討委員会には入っていない。

 その検討経過は村議会にも公表されないまま、九八年九月の第三回検討委員会で突然、辺戸区が候補地に加わった。検討委員会の事務局を兼務する村の環境衛生課が主導して提案されたというが、この時点で辺戸区民は何も知らされておらず、どんないきさつで候補にあがったのか、不明である。

 当初の候補地から三カ所が外され、残った二カ所に辺戸区を加えた三つの候補地について、村はコンサルタント業者である(株)沖縄チャンドラーに用地選定のための調査を委託。評価点方式によって辺戸が最高点になったとして、九九年一月の第五回検討委員会で、辺戸区のユシファ山を候補地として決定した。

 (このような経過は、のちに辺戸区民が裁判に訴えて初めて明らかになったものであり、当時はまったく知らされていなかった。辺戸区民には一切の打診も説明もなく、辺戸を選定したという評価方法も不合理である。)


 辺戸区民が自分たちの身に降りかかった重大事を初めて知らされたのは、九九年二月一二日だった。私の手許にある国頭村役場作成の「一般廃棄物最終処分場建設に伴う今日までの経過(平成一三年八月九日現在)」と題する書類には、この日のことが次のように書かれている。「辺戸区常会において‥‥説明会を実施。辺戸区長(註…前区長。現区長は反対の立場である)が処分場賛成を表明したものの、婦人層及び老人層の方々からの反対の意見が多く聞かれ、‥‥説明に耳を貸していただけない状況であった」

 今年八二歳になる区民の玉城(たましろ)増夫さんは、「あれは説明会ではなく、決めたという通告に過ぎなかった」と憤る。「あの時に、こんなメチャクチャなことが許されるかと、絶対反対を決意した」

 二〇〇〇年四月から辺戸区の区長を務める石原昌一さんによると、辺戸区民の猛反発を受けた村は、「反対なら意見書を出しなさい」と言った。そこで、書くのが困難なお年寄りは代筆してもらって、区民のほとんどが反対の意見書を書いて出した。区民の総意を示すための反対署名も集めて村に提出した。しかしながら、これらは村長と村当局によって握り潰され、議会に提出されなかったばかりか、逆に「村長は、辺戸区民の八〇〜九〇%は賛成だと議会に嘘をついていたんですよ」と、石原さんは悔しがる。村議会(議長を含め一四人)は、賛成一一人、反対二人で辺戸への建設を認めた。地元の利害を村政に持ち込む議員が、現在、辺戸区からは出ていないことも不利だった。

 自分たちを蚊帳の外に置いたまま、事が進んでいることなど知らない辺戸区民は、提出した意見書の取り扱いについて村に問い合わせても、「検討中」の返事しか返ってこないことに不安は抱きつつも、これだけはっきりと反対の意思表示をしたのだから、それ以降何も話がないのは、辺戸への計画がなくなったからだろうと考えていた。その間に、処分場建設に必要な「生活環境影響調査」が行なわれていたことなど知る由もなかった。

 (建設予定地のユシファ山一帯は、やんばるの固有種であり、国の天然記念物、特別天然記念物であるヤンバルクイナやノグチゲラ、リュウキュウヤマガメなどの棲息地であるにもかかわらず、村は自然環境調査を行なっておらず、行なう気もない。)

 二〇〇〇年一月、辺戸区の部落常会で報告された調査結果は、辺戸の人びとを激怒させた。「住民の生活には、ほとんど影響がない」という報告は、区民をあまりにも愚弄するものだった。住民に知らせず、こっそりとボーリング調査をやっていたこと、すべてが終わってから報告したことも、怒りの火に油を注いだ。

 同年七月と八月、村は最終処分場建設への「理解を得る」ために、県内の「先進地視察」を行なった。合わせて二二人の辺戸区民がそれに参加したが、村の思惑とは裏腹に、区民の反対の意思をいっそう強めただけだった。

 前記の村の書類には、この後、「反対意志の強い方々」への戸別訪問による「説得」や、郷友会への「協力要請」に、村長自らが精力的に動いた様子が書かれている。その間、玉城さんたちは何度も村へ抗議に行った。書類は「(郷友会の)協力を得ることができた」と述べているが、それが逆であることは、反対運動に郷友会の会長をはじめ多くの人びとが駆けつけていることが物語っている。


 今年(二〇〇一年)に入って事態は急展開を見せ始めた。二月に、処分場の実施設計委託業務を、国頭村出身の(株)翁長(おなが)設計が三七八万円で落札。なんと、当初予算約三二〇〇万円の約九分の一の価格だ。これを筆頭に、この問題をめぐっては不明朗なこと、常軌を逸したことがあまりにも多い。その裏には、村長や仲井間(なかいま)宗明・環境衛生課長、辺戸区の前区長、業者間のさまざまな疑惑が取り沙汰されている。辺戸のあるオバァが、「辺戸は沖縄の頭。頭が汚れると沖縄全体が汚れてしまう」と嘆いていたのは、廃棄物による環境汚染のことだけではないだろう。

 三月二七日、辺戸区民は村役場を訪ね、建設予定地見直しの要請を行なった。村長は、計画地の変更はありえないと突っぱね、再度、再々度の抗議に対しても、これまで他の区にお世話になってきたのだから、受け入れるべきだという強硬な態度を変えなかった。村内でも、処分場建設反対は「辺戸区のわがまま」だと言わんばかりの風潮が作られていった。

 なぜ辺戸区がねらわれたのかという疑問に対して、「(過疎化が進んで)人数が少なく、年寄りばかり(総人口約一三〇人、六五歳以上がその三分の二を占める)だから、すぐねじふせられるとバカにしているのだろう」と、辺戸の人たちは言う。その怒りと、理不尽を許さない決意を持って、辺戸区と区民一一五人(隣接区民数人を含む)は六月一一日、村長と村を相手取って、那覇地裁に建設差し止めの仮処分を申請した。「予定地は村有林だから区の同意を得る必要はない」と言う村に対して、区の入会(いりあい)権と住民の環境権にもとづく申し立てを行なったのだ。

 同じ日、国頭村は、処分場建設工事の入札を行ない、村議会は二六日、工事の請負契約を可決した。いつ着工されるかも知れない危機感を抱いた辺戸区民は翌二七日、ユシファ山の建設予定地にテント張りの監視小屋を設置し、次の日から仕事もなげうち、区民総出で、村や請負業者の動きを監視する活動を開始した。こうして、炎天下九〇日余りに及ぶオジィ、オバァたちの、文字通り体を張ったたたかいが始まったのである。
 (以下次号