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第126号(2001年7月28日発行)

【連載】

 やんばる便り 16
            
浦島悦子(ヘリ基地いらない二見以北十区の会)


 私の住む安部(あぶ)の集落で、いちばん気にかかる人がYさんだった。一昨年(九九年)末、岸本・名護市長が、辺野古への普天間代替基地受け入れを表明した後、「地元住民の声をまったく聞かないままの受け入れは無効であり、撤回せよ」という要請のための署名活動を十区の会で行ない、十区住民約二〇〇〇人中、一〇四〇筆の署名を集めて市長に届けたが、そのとき、署名をもらいに集落内の各戸をまわった私が、どうしても署名してもらえなかった人だ。それも基地に賛成だからではない。無関心だからでもない。「私は基地には絶対反対。だから署名もした。市民投票で反対に入れた。選挙でも反対する人に投票した。でも、何をやってもダメ。これからはもう何の署名もやらないし、投票にも絶対行かない」と言うのだ。彼女が深い思いを持っている人だと感じたので、私はなんとか説得しようと、あれこれ試みたが、彼女の決心は固く、私はすごすごと暗い夜道を引き返すしかなかった。彼女の絶望の深さに私はたじろぎ、そこまで絶望させたものを心底、憎いと思った。

 今年三月に、私は集落内の別の家に引っ越すことになったが、たまたま引っ越し先が、Yさん宅の隣だった。挨拶を交わすようになり、親しみも増して、ある日、彼女のサイパンでの戦争体験を聞く機会に恵まれたのである。絶望が深いということは、裏返せば、それだけ希望が強いということだ。希望が強いほど、それが裏切られた場合の絶望は深いのだろう。自らの過酷な体験から戦争を憎み、平和を願う彼女の強い思いを知って、私は長年の謎が解けたような気がした。


 連載13、14で紹介したソウタイさんは、成人してからサイパンに渡航した人だが、Yさんは、糸満(いとまん)出身の両親がサイパンに渡航し、一九三〇(昭和五)年、現地で生まれた。今年満七一歳、七人兄弟のいちばん上である。

 Yさんの両親も、ソウタイさんと同じく南洋興発の仕事に従事したが、ソウタイさんのように会社の農場で働くのではなく、会社から四〜五町歩の畑を借りて、小作でサトウキビを栽培していた。サイパン各地に会社の農地があり、Yさんの家があったのはヒナシスというところだった。各自が自分の借りた畑の中に家を建てるので、家と家は離れて点在していた。

 会社は、小作人たちを作業区域ごとに二〇〜三〇戸ずつの組(班)に分け、キビの刈り取りや運搬を共同で行なわせた。刈り取りの仕事は賃金制で、刈った分だけ収入になるので、家族総出で朝の三時頃から出かけたという。子どもたちも親の手伝いで、キビの枯れ葉取りなどをして働いた。自分の組の刈り取りが早く終わった場合は、遅い組に応援に行くこともあった。Yさんの両親と同じ組に、安部出身の夫婦がおり、家族ぐるみのつきあいをしていた。後に戦争で家族をなくしたYさんが、戦後の引き揚げの際、安部に来たのは、この夫婦に連れられてであった。

 サイパンでの生活は、戦争になるまでは、当時の沖縄よりよかったのではないかとYさんは言う。あとで聞いたところによると、当時の沖縄では、学校に行けない子どもたちが多かったらしいが、サイパンではみんなが義務教育を受けた。沖縄出身者の子どもが多かったが、学校の先生はほとんど本土の人だったという。戦時になると、軍属として来ている朝鮮人の子どもたちもいっしょに勉強した。Yさんたちが通ったのは「国民学校」だが、それとは別に、地元の島民の子どもたちに日本語を教え、皇民化教育を行なう「公学校」という学校があった。

 サイパンは常夏の島だが、風があるので過ごしやすく、夜は毛布を被って寝るくらい涼しかった。雨季と乾季が半年ずつあり、雨季に、各自の家の屋根(トタン葺き)に降る雨を集め、天水タンクに溜めて、飲料水や生活用水とした。天水タンクはコンクリート製の埋め込み式で、家より大きなタンクを持っている人も少なくなかった。サイパンには川はほとんどないが、海岸近くに水の湧き出る井戸があったので、タンクの水が足りなくなると、牛に車を引かせて、井戸まで汲みに行った。

 牛は、荷物やサトウキビを運搬したり、犂(すき)をつけて畑を耕させたりするのに、なくてはならないもので、どの家でも雄牛を飼っていた。自給用に山羊や豚、鶏も飼っていた。Yさんの家では、鶏をキビ畑に放し飼いにしていた。畑の中を卵を集めて回るのが、子どもたちの仕事だったが、集め残した卵から雛が孵(かえ)り、鶏は自然に増えていった。

 ・・・・そんな話をするときのYさんは、とても楽しげだ。日本という国家が、その枠組みの中にいる人々もろとも、戦争へと怒濤のように流れ込んでいく過程の中での、「束の間の幸せ」だったにせよ、彼女の人生の中で、いちばん「いい時代」だったのかもしれない。

 野菜なども自給自足で、買うのは米と調味料くらいだった。必要なものは酒保(しゅほ)と呼ばれる会社の店で買ったが、現金で買うのではなく、会社に納めるキビの代金から引かれる仕組みになっていた。生産したキビは、会社がすべて買い取り、製糖工場に運んだ。

 キビの収入で余裕が出ると、大人たちはよく催合い(もあい。ウチナーグチではムエー。頼母子講〔たのもしこう〕のようなもの)をしたり、郷友会で集まって、山羊や鶏をつぶし、食べたり遊んだりして楽しんだ。それは、子どもたちにとっても大きな楽しみだった。


 「南洋」の話を聞くときに、いつも気になるのは、(「南洋」だけでなく、日本が植民地とした各地についても同じだが)、現地の人々から見れば、官・民や会社・雇い人の違いを問わず、侵略者以外の何者でもなかった、ウチナーンチュを含む日本人と、現地の人々が、どのようなかかわりを持っていたかということである。かなり良識のありそうな人でも、当時の話を聞いていると、その口から、何のためらいもなく「土人」という言葉が出てきてギョッとすることが多い。私は「現地(あるいは地元)の方々は・・・」と言い換えて再質問するのだが、相手に怪訝(けげん)そうな顔をされると、ますます居心地が悪くなる。

 当時は、そういう意識だったと言えば、それまでだが、ウチナーンチュ自体が、「土人視」されていた歴史を含めて、自己切開してみる必要があるのではないだろうか。武器がなければ戦争はできないが、武器が戦争を引き起こすわけではない。戦争を起こすのは人間である。人と人とが真の意味で対等に、お互いを尊重し合う社会をつくっていくことが、戦争を二度と起こさない道だと思う。

 ともあれ、Yさんはさすがに「土人」という言葉は使わなかった。南洋興発の農地は、当然ながら、もともとは現地の人々のものだった。当時、現地の人々の中に「私有」という意識があったのか、南洋興発がその土地を買ったのか、借りたのか、またその金額は、など疑問は多々あるが、勉強不足で私にはまだわからない。

 Yさんによれば、そこがサトウキビ農場になってからも、現地の人々は住み続けていたという。高床式の家を建て、マンゴーなどの果物を作ったり、昔からある椰子の木の実を採ったりしていた。畑を広げるために椰子の木を切ろうとすると、「切らないでくれ」と頼みに来た。彼らはYさんの家にもよく椰子の実を持って、酒や煙草と交換してもらいに来ていたという。椰子の実は汁を飲み、ゼリー状の果肉を食べた後の固いところは、鶏の餌になったし、火を付けて、蚊取り線香の代わりにもなった。現地の人々は、サイパン一(いち)の街であるガラパンにも石造りの家を持っていて、月〜金曜日までは農場で過ごし、土・日にはガラパンに帰って教会に行った(サイパンを含むマリアナ諸島には、一七世紀からスペイン人がキリスト教を布教した)。

 楽しかった子ども時代からYさんが高等科に進む頃には、日本はすでにアジア太平洋戦争に突入していた。生徒たちは、日本軍の飛行場の清掃などの勤労奉仕に駆り出された。

 一九四四(昭和一九)年、Yさんは高等科を卒業し、ガラパンの大きな個人病院で、見習い看護婦として働き始めた。街の生活は農場とは別の楽しみがあったが、それは二カ月しか続かなかった。空襲が激しくなり、米軍がサイパンに上陸してきたからである。

             (この項 続く