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第124号(2001年5月28日発行)

【連載】

 やんばる便り 14
            
浦島悦子(ヘリ基地いらない二見以北十区の会)


 ゴールデンウィークが終わるのを待ち構えていたように梅雨入りしてから二週間余り、当然と言えば当然だが、実によく雨が降る。「台風一号」が沖縄に接近するのは、沖縄気象台始まって以来だそうで、大雨・洪水警報や注意報が頻発される中で、やんばる路を彩るイジュの花が(後註参照)ひときわ目を引く。枝いっぱいに真っ白い花をちりばめて、篠突(しのつ)く雨を喜んでいるようだ。〔註 イジュはツバキ科の常用高木。花は白色で直径約四センチ、花びらはスプーンのようにくぼんで、中心に黄色のおしべがある。 沖縄島中北部の山林では、梅雨時期の花として知られる。〕

 先日、やんばるの山を歩いたら、雨上がりの山路に、イジュの花が散り敷かれていた。両手に拾えるだけ拾って、沢に離してやると、雨水を集めて勢いを増した流れに乗って、うれしそうに下っていった。

 ソウタイさんの話によると、サイパンの雨季も、五月から七月だという。雨季の初めにサトウキビを植えると、雨季の間にどんどん伸びた。サイパンの土はリン分を含み、肥えていたので、ソウタイさんたちが作った堆肥(たいひ)を基肥(もとごえ)として入れると、あとは肥料はいらなかった。畑はとても広かった。山と川に挟まれた猫の額のような故郷の田畑とは雲泥の差だった。サイパンの雨は、沖縄のそれより、もっとダイナミックだったろうか。サイパンには、どんな花が咲いていたのだろう……。


 朝五時前には陽が上り、夕方五時まで陽が高いサイパンでは、仕事もそれに合わせて、一〇時間労働だった。と言っても、そうやってあくせく働いていた(働かされていた)のは、ウチナーンチュを含む日本人だけで、もともとこの島に暮らしていた地元の人々は、新参者の日本人に住み慣れた場所を追われつつも、昔ながらのゆったりとした暮らしを続けていた。山野には、パンの実やパパイアなど自然の恵みがたわわに実り、海に行けば、魚はいくらでも捕れたから、それ以上働く必要はなかったのだ。実際、「南洋」帰りの人たちのほとんどが、「戦争さえなければ、食べ物はいくらでもあったし、とてもいいところだった」と口を揃える。日本人が何のためにあんなに働くのか、地元の人々には謎だったに違いない。

 ソウタイさんたちは、会社の宿舎に住み、肥料作りのほか、キビ刈りなどもやった。他の農場に応援に行かされることもあった。南洋興発は、サイパン島内のチャランカ(地名)に製糖工場を持っていたので、収穫したキビはそこへ運ばれ、製造した砂糖は日本本国へ送られた。

 ソウタイさんは一生懸命働き、一カ月おきに故郷の母へ送金した。休みの日には、近くのガラパンという町(ここに南洋庁サイパン支庁があった)に出ることもあった。ここには料亭(と、ソウタイさんは言っていたが、遊郭のこと)も多かった。ソウタイさんといっしょに働いている人たちの中には、そこで遊ぶ人も結構いたようだが、ソウタイさんは行ったことはないという。料亭で働いていた女性たちの中にも、沖縄の人がいたのかもしれない。戦前の沖縄の貧しい家庭では、男の子はイチマンウイ(糸満売り。漁師の雇い子として売る)、女の子はジュリウイ(遊女として売る)されるのは、珍しくなかったのだ。

 南洋興発の農場で一年半ほど働いた頃、ソウタイさんは、沖縄出身の請負師に一日一円五〇銭(「今のお金で言えば、一万五〇〇〇円くらいかな」とソウタイさんは言う)で誘われて、同じ島内の土木の仕事に移った(一九三九〔昭和一四〕年半ば)。給料が一・五倍になるのは、大きな魅力だった。ソウタイさんによれば、興発を「逃げた」ことになる。給料から天引きされていた渡航費用は、払い終わっていたかどうか、わからないが、その後、請求はなかったという。

 ソウタイさんが移った先は、軍事用の石油タンクを造る仕事で、日本「本土」から来た業者がやっていた。仕事はまず、山を切り開くところから始まった。次に地均(なら)しをして穴を掘り、セメントで底張りをする。ソウタイさんは、セメント運びや、セメントに混ぜるバラス(バラスト、砂利)運びをやった。仕事は二交替で、常用(じょうよう、常傭〔じょうやとい〕)の給料は、一日一円五〇銭だが、トロッコに積んで何回でいくらと請負すると、夜勤も含めて一日三〜四円も稼ぐことができた。

 タンクの大きさは、直径八〇メートル、深さ一二〜一三メートルくらい。タンクの蓋は、とび職専門の人が、鉄筋コンクリートで水が漏らないように造った。タンクは六つ造り、三つは重油タンク、あとの三つは、軽油や飛行機燃料(ガソリン)のタンクだった。「石油を入れるところは見たことがないけど、あとで米軍に焼夷弾(しょういだん)を落とされて、一カ月燃え続けたから、石油は入っていたんだろう。インドネシアあたりから持ってきたのではないかな」と、ソウタイさんは言う。

 ある日の昼休み、木陰で寝転んでいたソウタイさんの目に、四機の飛行機が飛んでいくのが見えた。はるか上空を飛んでいるらしく、マッチ棒の頭か蟻ほどの大きさで、音もほとんど聞こえず、もちろん、どこの飛行機かもわからなかった。

 後に米軍の民間人捕虜となって収容所にいたとき、そこにあったアメリカの『戦時画報』を何気なく手にとって、ソウタイさんはびっくり仰天した。そのグラビアに、自分たちが造った石油タンクの航空写真が出ているではないか。まだ石油は入っておらず、蓋もない段階のタンクが六つ、きれいに写っている。あの飛行機から撮ったんだと、ソウタイさんはすぐわかったが、あんなに上空から、こんなにはっきりと写真を撮ることのできるアメリカの技術と調査能力に驚嘆した。造っている段階から、すでに米軍の攻撃目標になっていたことがわかり、こんなところと戦争しても、もともと勝ち目はなかったんだと悟ったという。

 一九四四(昭和一九)年、空襲が激しくなるまで仕事を続けたが、その後は仕事どころではなくなり、ソウタイさんたちは、防空壕を掘って避難したり、自然壕などを転々としながら逃げ回った。米軍はチャランカとガラパンの間の砂浜(島の西海岸)から上陸してきた。日本軍には何の設備もなく、飛行場も石ころだらけだった。米軍の砲弾が雨あられのように降り注ぎ、「暴風のアミカジ(雨風)のように、人がバタバタ倒れ」(ソウタイさん)る中を、「チブルヤ マーヤガ(頭はどこか)」と、倒れている人の頭を踏まないようにして逃げたという。

 ソウタイさんは、海岸の洞窟で、久米島や具志川(ぐしかわ)出身の人たち七、八人といっしょに暮らした。昼間は中に隠れ、夜になると食料を探しに出ていくという生活を一カ月ほど送った後、捕虜となった。

 「サイパン陥落」は、「本土防衛」の防波堤としての沖縄戦の前触れでもあった。サイパンで「ヌチモーキティ(命を拾って)」帰ってきたソウタイさんは、「沖縄も同じだったはず」と言う。当時、沖縄にいた人々にとって「サイパン陥落」は、明日の我が身を予想させる悲報であった。

 ソウタイさんは、チャランカの収容所(民間人だけの捕虜収容所で、一万人以上いたのではないかという)で、一年半のキャンプ生活を送った後、一九四六(昭和二一)年三月、足掛け九年ぶりに、そこもまた、戦禍の爪痕の残る故郷の土を踏んだ。サイパンで苦労をともにしたシマの友だちは、ある人は戦争で亡くなり、無事に帰り着いた人たちも、すでに亡くなって、ソウタイさん一人だけになってしまった。

 戦後もずっと一人暮らしだったらしいソウタイさんに、不躾(ぶしつけ)にも「結婚しなかったの?」と尋ねたら、少年のようにはにかんで、「自分は口下手だから」と答えた。口下手なんてとんでもない、私にはとても話し上手に思えたけどなぁ。

 辺野古(へのこ)沖に基地建設の話が持ち上がって以来、ソウタイさんが、しばしば見る夢がある。辺野古崎にあるキャンプ・シュワブから海底にトンネルが掘られていく夢だ。これがどんな意味なのかは、よくわからないが、沖縄各地の基地は、地底のトンネルでつながっているのではないか、と言う。


 戦争を体験したオジィ、オバァたちが、現在の日本や沖縄の状況に、危機感を募らせていると感じることが多くなった。自分の庭の「ここに防空壕を掘ったんだよ」と指差しながら、「また掘っておいたほうがいいよね」と、半分冗談、半分本気で言うオバァ。「今の戦争は、防空壕なんかでは防げないよ」と別のオバァが混ぜっ返す。この人たちの心をこれ以上痛めてはいけないと、改めて思う昨今である。