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第120号(2001年1月28日発行)

【連載】

 やんばる便り 10
            
浦島悦子(ヘリ基地いらない二見以北十区の会)

 朝、ワープロに向かっていると、我が家の犬たちが吠え、ガラス戸をドンドンたたく音がした。目をやると、ガラスの向こうに隣のオジィが立っている。「どうしたの?」と、戸を開けながら尋ねると、「牛が仔を産みそうなんだ。牛小屋まで連れていってくれ」。車はあるのだが、体調が悪く、フラフラするので、運転したくないのだという。

 オジィを私の車に乗せ、集落の背後の畑を突っきって、山の下にある牛小屋に行った。車を降りたオジィの後について牛小屋に入る。十数頭の牛たちが、ゆっくりと干草を食べていた。その半数近くが、お腹が大きい。中でも特別大きなお腹をした一頭を指さして、オジィは「これがまもなく産むよ」と言った。言われて見ると、牛は時々、苦しげな表情を浮かべているようだ。牛にも陣痛があるのだろうか。他の牛も、近日中に次々と産む予定だという。

 牛小屋を一通り見回り、出産までにはもうしばらくかかるとオジィが判断したので、いったん帰ることになった。オジィを家まで送り、「必要なときはまた呼んでね」と言って、私も家に帰った。

 午後から二時間ほど出かけて帰ってきた途端、隣のオバァがあたふたと駆けつけてきた。「浦島さん、速く、速く」と、私を急き立てる。オジィとオバァを乗せて牛小屋に着くと、もう出産は始まっていた。すでに仔牛の前足が出ているのが見える。しかし、それからが、けっこう長かった。出ていた足が引っ込み、しばらくして、また出てきては引っ込む。それを何回か繰り返した。

 オバァが「おおかたは自分で産むんだけど、時々、産みきれなくて、引っぱってやらないといけない場合があるからね、見ておかなくちゃならないんだ」と言う。「あんた、忙しいんでしょう。もうちょっとかかりそうだから、帰って仕事していいよ」と気遣ってくれる。「だって帰りはどうするの?」と聞くと、「誰かここを通る人に頼んで乗せてもらうさ」。

 私は急ぎの仕事も抱えていたけれど、牛の出産に立ち会いたいという欲求のほうが強かった。以前、豚と山羊を飼っていたので、彼らの出産は何度も経験しているが、牛の出産は初めてだ。オバァが牛たちに餌や水を与えるのを手伝ったり、オジィが生まれてくる仔牛の間仕切り用の鉄柵を運び、床に木屑を敷くのを手伝ったりしながら、生まれ落ちるのを待った。

 牛たちの水の飲み方は豪快だ。バケツ一杯の水を入れてやると、「ズズーッ」と音を立てて、一息か二息で飲み干してしまう。一頭に何度も何度も、数え切れないくらい水を入れた。干草を与えているので、たくさんの水分が必要なのだとオバァが教えてくれた。

 一頭だけ仔牛がいるのに気がついた。傍らにいる母牛の体色は焦げ茶色だが、仔牛は真っ黒だ。小さいけれど、座っている姿は一人前に見える。「いつ生まれたの?」と聞くと、今朝だという。つい人間と比べてしまうからか、他の動物たちが、生まれ落ちてすぐ自力で立ち上がるのには感動させられる。

 そうこうしているうちに、出産はいよいよクライマックスを迎えた。瞼をつりあげて、あえぐような表情を見せる牛に、思わず「がんばってよ」と声を掛けた。次のいきみで頭が少し出てきたところで、軍手をはめたオジィが、仔牛の前足をつかんで引っぱり、無事誕生。

 産み落とされた仔牛は、しばらく動かなかった。出産は、産む母と生まれる子との共同作業だ。とりわけ生まれる子にとっては、暗く、暖かく、狭い胎内から、未知の世界へ向かって、産道を押し広げながら出ていく、大変な仕事だ。それをなし終えて、仔牛はしばしの休息をとっているようだった。

 やがて仔牛は、横たわったまま、ゆっくりと頭をあげ、大きな黒目で私を見上げた。彼(か彼女か、私にはわからなかったが)の目に、私はいったいどう映っているのだろう。母牛が仔牛の体を舐め始めた。全身を繰り返し、繰り返し舐めるうちに、体中にまとっていた粘液が取れ、黒い毛並みが現れた。人間もかつては、このように赤子の体を舐めていた時期があったのだろうか。産水や産湯を使い始めたのは、いつ頃からだろう・・・・などと、ぼんやり考えていると、雨が降り始めた。お天気雨だ。山の緑を背景に、霧のような細かい雨粒が、太陽の光にきらきら光って、仔牛の誕生を祝福しているように思えた。仔牛は早くも、自分の足で立とうと試み始めている。何回も失敗しては挑戦し、ついに自力で立ち上がった。生まれ落ちて、わずか三〇分ほどだった。


 オジィの牛小屋から畑のある一帯は、かつてはターブック(田圃〔たんぼ〕)だった。自給自足の時代(自足できないことも多かったが)、各集落とも、集落近くの平地は、ほとんど田圃に利用され、畑は山の斜面の段々畑か、よっぽど水の便の悪いところに限られていた。オジィによれば、このターブックは戦後まもなく、ガリオア援助(占領地域救済基金)で土地改良が行なわれたという。田圃の死活を左右する水の神様として、昔から拝まれていたカー(井泉)は、今ではサトウキビ畑の中にポツンと残され、ムラ(集落)の神行事のときは、形ばかりのウガン(拝み。御願)を行なうものの、昔日の面影はない。

 代わって現在の土地改良区に水を送っているのが、近くの山に造られた農業用の安部(あぶ)ダムだ。このダムが、リゾートホテルのゴルフ場に隣接しているため、ゴルフ場で使う大量の農薬が、ダムの中に流れ込んでいるのではないかと心配されている。

 オジィの牛小屋の隣には、空っぽの豚舎がある。相当広い豚舎だが、飼っていた豚が、次々と原因不明の病気で死んでしまい、大損害を被ってから、豚を飼うのをやめたという。オジィは、豚たちに飲ませていたダムの水が原因だと確信している。市に何度も掛け合いに行ったが、逃げてばかりいるので、裁判に訴えると、私を相手に息巻いていたこともあった。「あの水で絶対に顔や手足を洗うなよ」と、オジィは口癖のように言う。

 ダムの水は悪臭がして、ヘドロが溜まっていることを物語るが、このヘドロの中に何が含まれているかは、誰も知らない。土地改良区で農業している人々は、みんな不安を感じながらものを言わないと、オジィはこぼす。

 リゾートホテルから区に借地料が入り、そこで働いている人も多い。過疎化が進み、区の最大の伝統行事である海神祭のハーリー(船漕ぎ)競争も、リゾートホテルが、若い従業員を相当数派遣して、応援してくれなければ成り立たない。そのハーリー船もホテルからの寄付だし、年に何回か、地元の人々を招待して宴会を行なうなど、ホテル側の地元対策は、かなり浸透している。そんなこんなで、ゴルフ場への不安は、なかなか口にできない状況があるのだ。

 いずれにしても、まずは、ダムの水質やヘドロの成分を調べてみる必要があるだろうと、こういう問題に詳しい知人に相談してみたが、ゴルフ場に土地を貸している市に調査を要請しても、まずやらないだろうから、個人的にやるしかないが、民間の専門機関に頼むと何十万円もの費用がかかるとのことで、棚上げになっている。

 ダムから流れ出る水は、安部の集落の前の小さな入江(安部湾)に注いでいる。有機物は、流れる間にかなり浄化されるが、化学物質は、そうはいかない。夏には子どもたちも泳ぐ海が、汚染されていないかと心配だ。

 見事な弧を描く入江の先に、神秘の島(安部オール島。オールは「青」の意)を配置した、人っ子一人いない安部湾(その入口付近の海では、ジュゴンがよく見られるという)の眺めを最初に見たとき、その美しさと寂寥感(せきりょうかん)に胸が詰まったのを覚えている。住んでみれば、なかなかに猥雑で、にぎやかで、アジクーター(味が濃い、味わい深い)でもあるのだが、一見、静かで眠ったように見えるこのムラも、基地問題を含めて、共同体の行方や、自然環境などにかかわる、たくさんの問題を抱えて、揺れているのだ。