軍用地を生活と生産の場に!
 
沖縄・一坪反戦地主会 関東ブロック
http://www.jca.apc.org/HHK
東京都千代田区三崎町2-2-13-502
電話:090- 3910-4140
FAX:03-3386-2362
郵便振替:00150-8-120796

『一坪反戦通信』 毎月1回 28日発行 一部200円 定期購読料 年2,000円

第119号(2000年12月28日発行)
【連載】

 やんばる便り 9
            
浦島悦子(ヘリ基地いらない二見以北十区の会)

 私の住む安部(あぶ)の隣に、三原(みはら)という行政区(字〔あざ〕)がある。安部をはじめ近隣の汀間(ていま)や瀬嵩(せだけ)が、沖縄貝塚時代(一〇世紀以前)や古琉球と呼ばれる時代(一六〇九年の島津の侵入以前)の遺跡を持ち、一七世紀頃から歴史書にも登場する古いムラ(集落)であるのに比べ、今年で創設七五年のきわめて若い字である。

 二見(ふたみ)以北一〇区のうち、三原を含む四区(他に二見、大川〔おおかわ〕、底仁屋〔そこにや〕)は、屋取(ヤードゥイ)集落と呼ばれる。いずれも、一八七九(明治一二)年の廃藩置県(琉球処分と言ったほうがウチナーンチュにはわかりやすい)後、王府に仕えていた士族たちが職を失い、やんばる各地に入植して形成された集落だ。もともとは古いムラの一部で、本ムラの地主から土地を借りて耕作したり、杣山(そまやま。王府管理下の入会林。後に県有林や村有林となる)の一部を開墾したりして生活していた人々が、少しずつ土地を買い取り、人口も増えて、本ムラから分立し、新しい字を創設したという経緯を持っている。入植当初は、里に住むことができず、山奥で暮らし、次第に里に下りてきたという人々も少なくない。

 三原は一九二五(大正一四)年に、汀間の一部であったシネーガチ、ミチェーガチ、ゲーヤという三つのハル(原)を分離して創設されたので、その名が付いたという。三原で存命の最長老であるシネーガチのソウエイおじぃ(一九〇七〔明治四〇年〕生まれ)によると、ムラや青年会の行事の度に、三原から汀間の本ムラまで行くのはたいへんなので、県にお願いして分字の運びとなった。

 沖縄戦時から戦後の一時期、三原も近隣集落と同じように、中南部からの疎開・避難民であふれた。一九四六年には三原小学校が開設され、それまで、遠く離れた瀬嵩の久志小学校まで通っていた三原の子どもたちは、不便から解放されたが、せっかく近くに学校ができたのに、行政区が違い校区が異なるため、山を越えて、遠い嘉陽(かよう)小学校に通わなければならない子どもたちがいた。安部ムラの一部であったアブマタ、および嘉陽ムラの一部であったカヨーマタに住む子どもたちだった。

 両地域とも、それぞれの本ムラとは山を隔てた屋取の集落である。この不合理を解消するために、翌一九四七年、この両地域が三原に編入された。現在の三原は、とても範囲が広く、山々の間に人家の点在する散在集落を成している。

 当初の三原であった三つの地域は、それぞれシネーガチマタ、ミチェーガチマタ、ゲーヤマタとも呼ばれる。マタとは、山と山に挟まれた谷間のことだ。そこには小さな川が流れ、川と山に寄り添うように、人々は暮らしを紡いでいる。各マタは、いずれも汀間川の支流であり、細長く、奥が深い。


 私の友人が働いている、那覇市リサイクルプラザに持ち込まれた古本の中に、現在は廃刊になった郷土月刊誌『青い海』のバックナンバーがあり、その一冊におもしろいのがあった、と見せてもらったことがある。「ふるさとのおもいで」という欄に掲載されたその短文は、当銘(とうめ)由金さんという人の手によるもので、「幼いころの山間僻地で生活した楽しい思い出」を書いている(一九七七年三・四月号)。地域名は書いていないが、内容から見ると、アブマタで生まれ育った人のようだ。

 「家の両側は高い山々に囲まれ(中略)空は細長いものと思い込んでいた」という。嘉陽尋常小学校に通うために、川を九回も渡り(戦前は、橋はほとんどなかった)、山を登り降りしなければならず、時々はイノシシにも出会ったこと、「川底の小さな石が一つ一つ数えられるほどに澄みきった小川」、エビやカニやウナギなどの川の幸、イチゴ、ギーマやテカチの実(いずれも木の実)など山の幸の豊かさ・・・・を語りつつ、最後にこう結んでいる。

 「……昔の面影はなくなった。澄みきった清らかな小川もにごってエビ、カニも少なくなり、こんもり茂っていた木々も少なくなって、もとの自然の美しさ・楽しさを思い出すたびに、文明の持つ暗い面に一抹の寂しさを感ずるものである」

 少なくとも現在の三原住民ではないこの人が、今も存命かどうかはわからないが、この文が書かれた時から、さらに二〇年以上経った現在のふるさとは、彼の目にどう映るだろうか。

 七六〜七七年頃と言えば、沖縄の日本復帰後の公共工事ラッシュが、やんばるまで押し寄せ、沖縄海洋博の関連工事や、福地ダムをはじめとする、やんばるのダム建設が盛んだった時期である。この「山間僻地」にまで立派な道路ができ、河川改修が行なわれ、橋が架かり、「文明」の持つ「明るい面」が強調された時期でもあったろう。

 その頃よりも、現在の三原は、川の濁りも減り、木々も再生しているのではないかと思う。それは、住む人が減り、過疎化が進んだから(残念ながら、これまでのところ、人は自然の破壊者でしかなかった)でもあろうが、再生や回復の難しいものも多い。三原の多くの人が今も嘆くのは、福地ダムから中南部に水を送るための導水管が、この地域の山々を掘削して通されたために、水が涸れてしまったことだ。減反政策ともあいまって、かつては久志地域で最大規模を誇った三原の水田も、まったく姿を消してしまった。


 今でも、天気のいい日は、毎日畑に出るというソウエイおじぃの家は、シネーガチ川に沿った道を溯ったマタのいちばん奥にある。戦前は、さらに上流沿いに四〜五軒あったという。家の前を流れる川の中に、テナガエビの姿が見える。昔に比べるとずいぶん減ったというが、都会の子どもが見たら、大騒ぎして喜びそうだ。

 ソウエイおじぃは、このマタから「どこにも行ったことがない」ことを、とても誇りにしている。「自分は体が小さかったから(徴兵検査で不合格になり)、戦争には行かなかった。戦争をするのは、頭が悪くて、欲が深いからだよ」

 ウーン、実に鋭いナァ……と感心している私に、さらにたたみかけるように、「儲けにも行かなかった(この地域でも、かつては本土への出稼ぎや海外移民が多かった)。内地に行ったのは旅行だけ」と胸を張る。若い頃は、いろいろと家庭の事情が厳しく、出るに出られなかった(学校も尋常科=小学校六年までしか行っていない)とも言えるのだが、「何も無理する必要はないんだよ」と言う表情は、晴れ晴れとしている。山深いこのマタに生まれ、そこに根を張って生き抜いてきた九四歳(年が明けると、数え年でおじぃは九五歳になる)の笑顔がまぶしかった。


 シネーガチマタと同じくらい奥深いアブマタの、これまたいちばん奥に住むのは、一九二二(大正一一)年生まれのユースケさんだ。この地域の七〇代は、バリバリの働き手で、ユースケさんも現役のみかん農家。子どもたちは独立して外に出ているので、夫婦二人の静かな暮らしを楽しんでいる。

 ユースケさん宅の前を流れる福地川(汀間川の支流で、アブマタガーとも言う)をもう少し川沿いに溯ったところに、昭和の初めごろまで、水車(ミジグルマー)があったという。サトウキビを搾って製糖するためのものだ。その後、栽培するキビの種類が従来よりも大きなものに変わり、水車では搾り切れなくなったので、牛車(牛や馬に引かす)になった。砂糖はいい換金作物だったが、製造は一九三九〜四〇(昭和一四〜一五)年頃までで打ち切られた。戦時体制に入り、供出のための食糧増産が強いられたからだ。「三井・三菱の儲けのために働かされた」と、ユースケさんは、昨日のことを悔しがるように言う。

 新たな米軍基地建設の話が、「経済振興」とセットで持ち込まれてきているけれど、かつての戦争を見てきたユースケさんの目には、あの時と同じに見える。お金は自分たちのところには落ちないし、儲かるのは、もともとカネや権力を持っている者たちだけだ。

 それより、今でも既存の米軍基地の影響で海や山が壊され、漁業が成り立たなくなっているのに、いっそう海が汚染され、騒音やさまざまな被害が出てくることが心配だ。

 新たな基地建設のための代替施設協議会などが回を重ね、既成事実化されていきそうな現状を心配する私に、ユースケさんは、きっぱりと「基地は造れないよ」と断言した。その確信に満ちた口調は、「どうして?」と尋ねることさえ忘れさせるほどだった。

 心を洗うようなせせらぎの音を聞き、谷の奥深く、しっとりと抱かれた庭に咲き競う色とりどりの花々を見ていると、ユースケさんの言葉が信じられるような気がして、私はおみやげにいただいたみかん(カーブチーという種類のおいしいみかん)を胸に抱き、ユースケさん宅を辞した。