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第116号(2000年9月28日発行)


【連載】

 やんばる便り 6
            
浦島悦子(ヘリ基地いらない二見以北十区の会)

 十区の会の事務所のある汀間(テイマまたはティーマ)は、汀間川の河口に形成された古い集落で、碁盤目状に整然と区画された各屋敷を、福木(ふくぎ)の屋敷林(樹齢三〇〇年以上と推定されている)が囲み、昔から久志地域でもっとも美しいムラと言われてきた。その福木林も五五年前の戦火を受け、生き残ったり再生したりしたものも、近年の生活様式の変化に伴って、徐々に伐られつつあるが、厚みのある密集した葉を持つ福木は、防風、防火に大きな役割を果たし、島人たちの暮らしを守ってきた。

 汀間川の河口はかつてフンナト(小港)と呼ばれ、やんばる船の寄港地としてにぎわった。集落背後の山から伐り出された材木やマキ、林産物が積み出され、山仕事を求めてよそから住み着く人も多かったという。

 十区の会の事務所は、汀間の東端、隣の三原と境を接するあたりに位置している。碁盤目状の区画を持つ本ムラと少し離れたこの一帯は、本ムラが形成される以前の古集落であり、ここから人々は本ムラへ移住していったと伝えられる。琉球王朝の第二尚氏王朝をつくった金丸(かなまる、尚円王)が使ったと言われるカニマンガー(=金丸井泉。金丸が汀間を訪れた際に、ここで水汲みをしていた美しい女性を見染めて夫婦になったという言い伝えもある)が山裾にあり、現在も十数戸が軒を寄せ合っている。

 その十数戸の中の一軒に、私の好きなトシさんが住んでいる。トシさんは一九一二年生まれの八八歳。名護市史編纂室の委託調査をやった時に、かつて山中の屋取(ヤードゥイ)集落(明治の廃藩置県で職を失った首里の士族たちが、やんばるの山中を開墾してつくった集落)に住んでいたことがあると聞きつけて、お話を伺いに訪ねたのが最初だが、なんとなく気が合って、その後も時々立ち寄ってはユンタク(おしゃべり)している。私が十区の会の活動をしていることを知ると、「私もあんたたちと一緒だよ」と励ましてくれる。同居している独身の息子さんは、口数は少ないが、時々事務所に立ち寄ってカンパしてくれたりする。

 しばらく顔を見ていないトシさんは元気かなぁ、猛威を振るった台風一四号の被害はなかったかしら、と気になって訪ねてみた。

 「こんにちわー」と、勝手にガラス戸を開けると、横になってテレビを見ていたトシさんが起き上がり、私の顔を認めてにっこりした。若い頃はさぞ美人だったと思われる整った顔立ちが今もきれいでかわいいオバァだ。「さぁ、上がって」とトシさんが言い終わらないうちに、私はもう上がり込んでいる。「この頃、人の顔も名前も全部忘れて困るのよ。年取るのはイヤだね。でもどうしてか、あんたの顔は忘れないさぁ」と嬉しいことを言われ、つい甘えてグチを言いたくなった。


私 
 「トシさん。ワッター(私たちは)十区の会でがんばっているけどさぁ、この頃、一緒にやる人も少なくなって、もうやめてしまおうかと思ったりするよ」
トシ
 「わかるよ。権力者たちが、自分たちにつかないとご飯も食べられないようにするからねぇ。で、やめて、あんたもあっちにつくの?」
 いきなりの奇襲攻撃に、私はタジタジ。
私 
 「う、うぅん。そんなことはできないよ。やっぱり子どもたちのためにがんばらないとね」
トシ
 「そうだよ。子や孫たちのためにね。貧乏でも正しいことをやったほうがいいって、あんたも思うでしょう」
私 
 「思う、思う」
トシ
 「そうでしょう。私もそう思うさぁ。あんまりひどい目にあった時には、『殺してやる』という気にもなったし、世の中、泥棒ばかりで、悪いことをしている人たちが得しているのを見ると、自分も、という気にもなったけど、やっぱりできなかったさぁ」

 トシさんはしばしば「権力者は嫌い!」とはっきり言う。彼女の言う「権力者」とは、政治的な権力者を含めて他者を力ずくで動かそうとする人のことだ。今の穏やかな暮らしからは想像もつかない、波乱に満ちた人生をたどってきたトシさんの経験から出てくる言葉なのだろう。

 トシさんは山中の開墾集落で、九人兄弟の二番目として生まれ、そこで一四歳まで暮らした。家々は点在し、それぞれ段畑にイモや麦を植え、牛、馬、豚、山羊、鶏を飼っていた。家の周りには芭蕉や桑の木が植えられ、女性はそれから糸を紡いで家族の着物を織った。トシさんが七〜八歳の頃までは、山での藍(あい)づくりが盛んで、いい収入になったが、化学染料の普及とともに売れなくなり、一人、また一人と山を下りたという。学校(瀬嵩にある久志小学校)はあまりにも遠かったので、一年半しか通えなかった。

 一四歳から結婚までの数年間、当時のやんばるの多くの少女たちと同じように、関西方面の紡績工場で働き、帰ってきて一七歳で結婚。両親が結納金を得るための身売りに近い結婚だったが、トシさんはグチも言わずによく働き、山畑を次々に手に入れたので妬(ねた)まれるほどだったという。四人の子どもも生まれたが、夫は一五年戦争に取られ、三一歳で戦死した。トシさんの兄弟三人も戦争で亡くなっている。

 戦後、再婚し、大阪のホルモン屋で八年間働いた。ウチナーンチュがやっている店で、大阪の人が捨てる豚の頭と内臓を無料でもらってきて、きれいに洗って料理すると、とてもおいしいので、店は大繁盛したという。「食べられないのは鳴き声だけ」と言われる沖縄の豚文化(食文化)が功を奏したわけだ。

 しかし、「町ヤデージドー、ヌーンネーラン(町はたいへんだよ、何もないから)」とトシさんは言う。「自然が宝」というのがトシさんの口癖だ。「食べ物も、薬も自然から来る」(これも口癖の一つ)ことを、「イモをイノシシと分けて食べた」という子どもの頃の山での暮らしや、戦時中の避難生活の中で、いろいろな薬草を煎じてマラリアや皮膚病を治した体験から、身をもって知っている。だから、自然を壊す基地建設にも、人間の欲望のために自然を食いつぶすことにも絶対反対なのだ。

 シマに帰ってきた時はほんとうに嬉しかったと、トシさんは言う。学校は出ていないけれど、彼女は歌つくりの名人だ。悩み苦しむ心や喜びの心を琉歌に託す。シマに帰ってきた時の喜びを歌ったトシさんの歌を最後に紹介しよう。

シマに舞い戻て(まいむどぅてぃ) 御縁(ぐいん)かながなと
 みな かなさ あゆさ
 シマの人々の肝持ち(ちむむち)のゆたさ 人柄のうむさ
 狭さあるシマも広くなゆさ
(シマに帰ってきて、そのつながりが本当にいとおしい。シマの人々の心や人柄のすばらしさに、狭いシマも広々と感じられる)
 さんさんと照る月(ちち)に心(くくる)洗われて
 汀間ムラの福木 月に手を合わち 風に揺れて