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第115号(2000年8月28日発行)

【連載】

 やんばる便り 5
            
浦島悦子(ヘリ基地いらない二見以北十区の会)

 八一五億円もの血税を浪費した「沖縄サミット」最終日の午後から激しく降り出した雨は、沖縄各地で土砂崩れなどの災害を引き起こしながら一週間以上降り続き、やっと太陽を拝めたと思ったら、二〜三日後には名護を直撃する台風が到来し、猛威を振るった。それはまるで、この島がサミットの毒を一切合財洗い流し、吹き飛ばそうとしているかのようだった。

 台風の後片づけもそこそこにお盆(沖縄では旧暦七月一三〜一五日=今年は太陽暦の八月一二〜一四日だった)の準備に追われ、先祖の霊を迎えてもてなし、再びグソー(後世)へと送り返してホッとしているころ(お盆の時には先祖の霊だけでなく、シマを出ている子や孫たちも帰ってくるからとても忙しい)、瀬嵩(せだけ)の大城崇吉さん・チエ子さん夫妻に、お話を聞きたいというお願いの電話を入れた。「お盆で疲れたからちょっと休んでからね」と、二〜三日後の日時を指定して下さったのだが、当日の朝早く電話があり、「カボチャの芽が出てきて、急に苗を植えなければならなくなったので、申し訳ないけど約束を延期してもらえないか」とのこと。

 原稿締切ぎりぎりの日だったので、大城さん夫妻のお話は次号の楽しみに取っておくことにして、今回は、私の住む安部(あぶ)の隣の集落であり、息子の通う小学校のある嘉陽(かよう)の豊年祭の様子をお伝えしたいと思う。


 嘉陽は久志(くし)地域でも古いムラの一つで、ムラの発祥は一千年くらい前にさかのぼるのではないかと言われている。戦時から戦争直後には中南部からの疎開・避難民であふれていた一時期もあった(一九四六年の統計で一六四六人)が、しだいに減少し、現在の人口はおよそ一二〇人。過疎化の進む久志地域でも、もっとも高齢者の割合の多い(六五歳以上が五四%)集落である。

 普段はひっそりとして、集落内のスージグヮー(小路)を歩いても一人の人にも会わないことが多いのだが、お盆の時期、まるで地からわき出たようにシマ(集落)は人でいっぱいになる。若者たちがあちこちで談笑し、子どもたちの歓声が響く。それがクライマックスに達するのが、お盆のウークイ(送り)の翌日に行なわれる豊年祭(盆踊り、七月アシビともいう)だ。多くの出身者たちが子や孫や親戚を引き連れて参加する。豊年祭に出演するために、毎年必ず帰ってくる若者もいるという。

 私は今年で三度目の見物だったが、何度見てもすごいと思う。夕刻のシーシヌヤー(獅子の屋)からの道ジュネー(獅子神を先頭に仮装行列でシマを練り歩く)に始まって、深夜(たいてい夜中の一二時前後までかかる)まで切れ目なく続く踊りは、このシマの底力を見せて余りある。琉舞や空手を習っている子どもたちが、普段の練習の成果を披露し(出演者の紹介とともに、「誰々のお孫さんで、どこに住んでいます」というアナウンスが入る)、青年会、婦人会、成人会、老人会が単独で、あるいは合同でそれぞれの自慢の芸を繰り広げる。畑や道で会う普段の様子からは想像もできないような芸達者ぶりや、レパートリーの広さに驚かされることも多い。このシマに先祖代々受け継がれてきた素質のようなものが、一人ひとりに備わっているのだろう。

 ムラアシビの楽しさは、隣のおじさんや親戚のおばさん、遊び友達など、よく知っている人たちがやるところにある。私の住む安部の豊年祭は旧暦八月一五日だが、毎年、自分たちでやるのは婦人会の負担が大きすぎるからというので、「芝居を買った」ことがあった。プロの芸人を呼んできてやってもらったのだが、オジィ、アバァたちからの評判が極めて悪く、翌年からまた自分たちでやることになった。プロがうまいのは当たり前で、何の面白みもない。下手でも何でも、シマの子どもたち、孫たちがやるのを見たいのだ。私自身も昨年、生まれて初めての踊りを習って、大変だったけれど、とても楽しかったし、シマの人々との一体感を持ててうれしかった。

 嘉陽がすごいなと思うのは、とりわけオバァたちのパワーである。安部では、オバァたちはもっぱら見物役だが、嘉陽のオバァたちはみな現役のバリバリ。座ってなどいない。きれいに化粧し、あでやかな紅型(びんがた)の衣装を着て古典踊りを踊ったかと思えば、軽快なコッケイ踊りで会場を沸かせたり、一人何役もの大活躍に、会場から大きな拍手と指笛が起こる。

 オジィたちの姿が見えないぞ、と思うのは早とちりだ。舞台の裾の幕内で、舞台を支える地方(じかた)、つまり踊りに不可欠の唄三線(さんしん)を担当しているのが、シマのオジィたちなのだから。このオジィたち(まだオジィと言うには若すぎる人もいるが)のパワーにも圧倒される。なにしろ延々五〜六時間、弾き通し、唄い通しなのだ。しかも同じ唄はひとつもない。安部には三線を弾ける人が少なく、音楽テープを使うことも少なくないので、こっちはしきりに感心しているのに、嘉陽の観客は容赦がない。唄の声がちょっと小さくなったりすると、「元気がないぞ!」と叱咤が飛ぶ。

 嘉陽の舞台がまたいい。久志地域の各集落の公民館は、防衛庁予算で次々に新改築され、近代的な建物に替わりつつあるが、ここはまだ昔ながらの古い建物(今年か来年にはここも新築されるという)で、その一部(三方に壁がない部分)を舞台として用い、舞台の前の広場にはゴザが敷かれて臨時の観客席となる。十六夜の月明かりのもとで、サンゴの海を渡ってくる心地よいそよ風に包まれながら、ここでしか見られない味わい深い舞台を見るのは最高のぜいたくだ。

 嘉陽には、ここにしかない唄や踊りもたくさんある。シマの出身者が作詞作曲したという「嘉陽音頭」に振り付けした踊りもあるし、唄は同じでも踊りの手(所作)はシマごとに違う。シマ人(びと)たちは、他のどこにもない我がシマの踊りを誇りを持って代々伝え継いできたのだ。嘉陽の獅子(獅子舞の獅子)は沖縄でももっとも古いものだという。その獅子を操る若者二人のひょうきんな演技(失敗も含めて)が笑いを誘った。

 豊年祭の最後に必ず踊られる「フェーヌシマ(南の島)」というのは、とても不思議な踊りだ。草の繊維で作った茶色の長い髪をつけた若者たちが「ハウー」「ヘッ」という奇声を常時発しながら踊る。琉球舞踊の範疇にはまず入らないこの踊りは、かつての交易時代に南方から伝わったものと言われている。遠く海を越えた人々のつながりを感じさせるこの踊りを見ていると、心が広々としてくる。この踊りをムラ踊りの締めに持ってきた嘉陽の先人たちの心も、道路を隔てた浜の向こうに広がる海のように大きかったのだろう。

 嘉陽の沖にたびたび姿を現わすジュゴンたちも、サンゴの岩陰で今日の賑わいを感じ取っているだろうか。この島と、島を取り巻く海の恵みに支えられて、ジュゴンも私たちも生きてきた。シマのすばらしい踊りも、自然と人とのかかわりの中で生まれ、育まれてきたものだ。それがとだえることなく、引き継がれていきますように、ジュゴンたちがいつまでも平穏に暮らせますようにと祈りつつ、私は、まだ祭りの興奮のさめやらない広場を抜けて家路についた。