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第113号(2000年6月28日発行)

 【連載】 「思いやり予算」違憲訴訟・東京 (七)

  証人陳述書を提出、次回は証人採否の決定か?

 誌面の都合や裁判の遅れによって休載を余儀なくされたが、今月号から再び連載を続ける。第一一○号で速報を伝えたように、三月二一日(第一○回)と五月一九日(第一一回)に口頭弁論が開かれた。五月一九日には、恒例になった省庁要請行動の第三弾として、防衛施設庁に対する要請行動を行った。

 第一一回口答弁論では、申請している証人の一人田村順玄氏(岩国市議)の陳述書(下記参照)を提出しが、残り二人の陳述書が間に合わなかったため、証人採否の決定は次回に持ち越し。六月二三日には、裁判官、原告・被告代理人、原告が集まって提出した証拠の確認を行った。裁判もようやく終盤を迎えたようだ。次回、七月二八日の第一二回口頭弁論で証人採否の決定が行われる予定である。申請したすべての証人を採用させるためにも、傍聴席を埋めたいものだ。

 なお、関西訴訟は、五月二三日に、北野弘久氏と前田哲男氏の証人尋問が行われた。尋問の概要は東京訴訟に証拠として提出する予定である。


 陳述書
    田村順玄(山口県岩国市議会議員)


1 私の地位、経歴について

☆ 私は一九四五年八月一二日、中国東北部(旧満州・営口)にて田村文雄・ミチ子の三男として生まれました。三日後に終戦、直ちに満鉄病院を退院という慌ただしさで、まさに体制の大きく変わるとき、生を受けたのです。

 翌年の二月、舞鶴に上陸、親戚のつてを頼り山口県岩国市に引き揚げ、居を構えました。いずれにしても私本人は○歳での引き揚げ体験、リュックと両手に持つ荷物に、乳飲み子の私を抱えての引き揚げ行は親の苦労が伺い知れます。

☆ 一九四○年、日本三名橋「錦帯橋」の掛かる錦川の河口デルタに海軍の航空隊が運用を開始し、広大な農地が滑走路として接収されました。以来今日の岩国基地へと引き継がれたものです。終戦と同時に連合軍の各国軍隊が岩国基地に進駐し、勤労市民の大部分は戦後の基地建設の労務者として「航空隊」を営みの糧として働きました。私の父もその一人でした。

☆ 平和憲法の公布、民主教育満開の時期、米軍基地に近い小学校に入学した私は意欲に燃えた若い教師から平和教育をしっかりと教えられました。それでも、警察予備隊から自衛隊の創設ヘ、教職二法の法制化等々早くも戦前へ舞い戻る様な国の動きが忍び寄り、その小学校が「赤い日記帳事件」の舞台ともなりました。米兵による「投げ銭事件」という、児童に車上からお金や菓子をばら蒔く屈辱的な事件も私の一年上のクラスが体験しました。

☆ こうした町に、当時は一千名と言われた売春を生業とする女性も多く住み、米兵とも違和感も無い、私の小・中・高校時代がありましたが、戦後の食料事情や厳しい経済状況に対比し、最新の文化生活を営む彼らの存在は、戦争で勝った国と言う強い印象を私に植えつけております。

☆ 高校卒業後、岩国市役所に就職し、ほどなくして組合運動に没頭しました。その経験の中から、岩国基地にも深い関心を持つようになり、書記長、委員長の職を預かることとなりました。しかし、約千名の組合員の思いを一つに強制することは正常な組織活動では無いと認識、「岩国市職平和研究所」と言うゆるやかな「平和運動」の行動体を立ち上げ、その代表として機能的な運動を実践しております。

☆ 市職員を退職し、一九九五年四月の統一地方選挙において岩国市議に出馬、市職労や地元住民の支援を受けて第三位で当選をすることができました。当選後、旧社会党の議員と会派を組み「リベラル岩国」という名称で活動、今日に至っております。九九年、二期目の選挙においても第四位で再選を果たすことが出来ましたが、同僚議員は引退し、現在「リベラル岩国」は私一人の会派となっております。


2 岩国市議としての活動について

☆ 私は、九五年五月の市議当選以来、年四回の本会議では毎回一般質問を行い、その中では必ず「米軍や自衛隊」の岩国基地問題を課題として取り上げ、質問を続てけまいりました。一九六八年六月、福岡県板付基地のファントムジエット戦闘機が九州大学に墜落しました。これが契機になって岩国基地の「沖合移設運動」が始まりました。つまり、今の基地を米軍の安定的な運用のために沖合に移転させようという企みです。二七年という歳月が経過し、国はこれを事業として本格的に実施する方針を決定し、諸準備にとりかかりました。九五年秋、広島防衛施設局の「公有水面埋め立て」手続きが現実のこととなり、市議会への「諮問議案」として取り上げられました。議員になって半年後、総務常任委員会に所属した私は市役所在職中の仕事が「埋め立て関係事務」であったことから、幸いこの議案には正面から取り組むことができました。しかし、わずか一日間の臨時議会で時間制限がかけられ、孤軍奮闘なるも共産覚議員三名と私、計四名の反対のみで新基地建設の方針を議会は決定、岩国市はその旨を答申することとなりました。


3 岩国基地による周辺住民の披害について


☆ 「思いやり予算」によって、一六○○億円を投じ米軍のために新しい基地を建設するというその本質には、「1騒音の軽減、2墜落の危険の回避、3沖合への移転による跡地の返還」という市民へはバラ色の夢を三○年近く抱かせ続け、蓋を開ければ、「1水深一三メートルの大岸壁の建設、2沖縄からの新部隊の移駐、3瀬戸内海の自然破壊」等々のデメリットが居並び、ゼネコンの群がる土建事業であることがはっきりしてきました。

☆ 加えて、ゼネコンだけの廿い汁では納まらず、山口県や岩国市、経済界が企んだ次の策は、事業費を地元へ還元させるという思惑であり、約二二○○万平米の埋め立て土砂を地元が供給するという関連事業でした。海岸線から約四キロ離れ、市街地に近いなだらかな山林、約一○四ヘクタールを切り崩し、ベルトコンベアーで基地側の埋め立て地へ運び込み、その土砂代金で住宅地を作るという事業を県・市で起こしたのです。バブルがはじけ、人口増の裏付けも無い今、当面の事業推進で生じる土建効果のみを背景にした無謀な事業が同時進行をしております。

☆ 岩国基地の滑走路は海岸線に沿って南北に約二五○○メートルが走り、川を隔てて北側には大工場が林立しています。航空機は北側に向けて離陸した時には、河口に向けて右側に急旋回をすることになり、大変危険な運用をしている施設です。

☆ 基地側との協定により工場の上空を飛行することは少なくなりましたが、厳しい上空制限も課せられており、工場の高い建物やエントツなどは戦後殆どが撤去させられ、新規の工場増設も認められていません。このため、基地を挟んですぐ北側に立地する「帝人(株)」は、かって五千もの従業員を擁す事業所で、周囲は今も人絹町と呼ぶ街を形成していますが、かっての賑わいも今はありません。

☆ 基地北側の工場群の上空制限に伴う街の発展阻害とは別に、住民生活においては騒音被害の現実があります。とりわけ、空母艦載機の受忍の限度を超える爆音被害は筆舌での表現を超える厳しさです。しかもこれが、すべて米軍の意図のままで、行動次第では取り決めや過去の約束はすべて無視され、安保条約の枠を超えた傍若無人のふるまいです。


4 岩国基地拡張工事による環境破壊について

☆ 県や市、地元の要望を受けてという形で、岩国基地拡張工事は約三○年の軌跡を重ね、九四年の漁業補償金の支払い、実施設計を経て九六年から本格的な工事に入りました。一九九九年までに約七八四億円の「思いやり予算」がこれに投じられています。九七年からは大体、年間二○○億円のペースで事業費が付けられており、最終的には一六○○億円を投入、二○○六年頃に完成の見込みと言われます。

☆ 現在、南側の岸壁や護岸の工事が進められ、まもなく北側の護岸工事もエリアに含む勢いですが、付近には約八○ヘクタールの、瀬戸内海で最後に残された広大な「あま藻場」と「干潟」が残っています。私は、これまでも度々市議会の一般質問等でこの問題を指摘してきました。
☆ 埋め立ての条件では、藻場の移植と干潟の再生が明記されていますが、これまで南側の工事ではすでにかなりの藻場を破壊し、移植の目処も立っていません。多量の工場排水や生活排水を浄化し、良好な海域環境を維持してきた干潟の効用も無視できません。瀬戸内法をも無視した工事の推進は、海とともに生きる瀬戸内住民に大きな負の遣産を残そうとしているのです。


5 その他、関連事項

☆ 岩国基地の拡張工事が本格的に始まった一九九五年秋から年が変わって間もなく、沖縄の基地縮小の大きな世論の動きと並行して、岩国基地への沖縄普天間基地機能一部岩国移転の話がクローズアップして来ました。私はこのことを「やっぱり当然」と受け止め、岩国基地拡張工事との連動した動きと判断しました。国による本土の米軍基地の再編成に、多額の思いやり予算を投入する岩国の存在は貴重な存在です。埋め立て手続きで明らかになった「水深一三メートルの大岸壁」や二一四ヘクタールという新たな基地用地は、沖縄の新部隊を岩国に押しつける絶好の価値があったのです。

☆ 岩国基地に駐留する三六機のFA18ホーネット戦闘攻撃機などが行う低空飛行や、危険な軍事訓練、事故など岩国のみに留まらず広範な国民に迷惑をまき散らしている現実も気になります。さらに、市民生活とは大きく乖離したデラックスな思いやり施設が基地内には次々と建設され、私の調査した結果でも一九七九年から九七年までの一九年間で七九六億円もの思いやり予算が投入されていることは明らかです。

 以上のような事実を申し述べ、私の陳述の要旨といたします。

 (資料提供 「思いやり予算」違憲訴訟・東京原告団)

第一二回口頭弁論
  七月二八日(金)午後一時一○分〜
     東京地裁六一一号法廷