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第109号(2000年2月28日発行)

認定・裁決取消訴訟 (1)


第一章 米軍による土地接収の経過とその違法性

第一 はじめに

 原告らの土地を強制的に使用した米軍用地収用特措法は憲法違反の法律であり、同法の根拠法となっているいわゆる日米地位協定、日米安保条約も日本国憲法に違反していることは、原告らがこれまで主張し、且つ本書面において主張しているとおりである。

 ところで、これらの法律や条約が違憲無効であるかどうかの判断をなすにあたっては、これらの法規の成立過程やその目的とするもの、法規によって生ずる効力等を考慮・解釈すれば足りるものではなく、米軍による二七年にも及ぶ沖縄占領の経緯及び施政権返還後今日に至るものでの沖縄の米軍基地の実態、米軍による土地の強制収用過程、基地被害の実態等を正しく理解することが不可欠であり、これなくして正しい判断はなし得ないものである。

 この章においては、米軍が沖縄を占領し統治してきた復帰前の二七年の経緯を、土地強奪の歴史とその法的根拠とされた布令布告の違法性をまず明らかにし、ついて復帰後における土地の強制使用及びその法的根拠とされた「沖縄における公用地等の暫定使用に関する法律」(以下、「公用地法」という)、「沖縄県の区域内における位置境界不明地内の各筆の土地の位置境界の明確化等に関する特別措置法」(以下、「地籍明確化法」という)の違憲性を明らかにするものである。


第二 占領から講和条約発効までの土地接収について

一 講和前の接収の経過

1 初期の基地形成の形態

 沖縄で現在、米軍が使用している専用施設の面積は、日本全土の米軍基地の総面積の約七四・八パーセントに当たる。その沖縄の米軍基地のほとんどは沖縄群島、なかんずく沖縄本島に集中し、米軍基地の沖縄県の面積に占める割合は一○・七パーセントであり、沖縄本島だけに限れば一九・三パーセントである。基地の占める比率が、他の都道府県と比較にならないほど高い。

 その沖縄の米軍基地の大部分は、終戦直後に、米軍の一方的な軍事権力によって接収されたものであるが、右接収に二つの形態がある。ひとつは米軍の沖縄本島上陸にはじまる占領行為の継続の形をとってなされる接収であり、他は占領地が解放されて一旦住民が住みついた土地を再び住民を追い出して接収する形態である。

 前者の接収は一九四五年四月一日の米軍による沖縄占領から同年一○月末日頃までの間になされたのであるが、その間に沖縄住民を占領地から追い出し、島内に設けられた捕虜収容所に収容し、軍事上およそ必要と思われる土地をことごとく囲い込み、これを軍事基地として使用してきた。米軍は一旦囲い込んだ土地が軍事上必要ないと判断した地域は、これを住民に返還していったのであるが、返還されずに占有された土地が広大な沖縄米軍基地の基礎となっていた。嘉手納、普天間、那覇の各飛行場やボーローポイント、カデナ弾薬庫、牧港補給地区等沖縄基地の主要部分はこの形態による接収によって形成された軍事基地である。

 後者の基地の接収は、日本が無条件降伏し、戦闘行為も終結し住民が返還地でのささやかな生活を始め、ようやく復興の希望も出始めた頃に住民を追い出すような形でなされたものである。

 この接収はやがて講和条約も締結されようとする政治情勢の下で行われたものであり、戦闘による占領状態の継続行為とは何ら関係のない新たな接収であった。前者の形態の接収とは性質を異にするものである。

 この形態による接収は、一九四九年頃から開始されているが、これは朝鮮戦争の勃発や中華人民共和国の成立等国際情勢が米軍の沖縄基地政策に反映した結果によるもので、沖縄基地の長期保有政策に基づいていることは言うまでもない。

 この形態の接収には、ボーローポイント(拡張接収、返還済)、キャンプシールズ、牧港住宅地区(返還済)等が属する。


2 基地の恒久化と安定化のための施策

 ところで、沖縄における米軍基地は、一九四九年以降における中華人民共和国の成立、朝鮮動乱の勃発等極東における国際情勢の変化の下で、極東の拠点基地としてその戦略的価値が高まっていった。

 この頃から米軍は沖縄基地の恒久性を摩擦なく行うための施策を実施していった。経済復興と統治の民主化等をかかげた「シーツ政策」がそうであるが、これは住民生活の向上のためというよりも住民の不満を緩和しながら基地の安定化と恒久化を図ることを主たる目的としていたことは言うまでもない。さて米軍は、沖縄基地の使用は占領地について認められる国際法上の当然の権利だと主張し、基地使用に対する補償も不要であるとの立場に立っていたから、占領当初の軍用地に対しては勿論、その後の新規接収による軍用地についても軍用地料の支払いをせず無償のまま使用を継続していた。 

 しかし、沖縄基地の恒久かつ安定的使用の必要性が強調され、住民の不満の声がいっそう高まる中で従来の政策は変更を余儀なくされていった。即ち、一九五○年一二月五日極東軍総司令部は「琉球列島米国民政府に関する指令」を発表した。

 右指令によると、
 「(イ)一九五○年七月一日前米国の使用せる民財産に対しては、ガリオア資金から軍用地使用料を支払う。
 (ロ)一九五○年七月一日以降徴発または借用した土地、建物については割当資金をもって使用料を支払う」とされている。

 現地米軍は右の極東軍総司令部指令に基づいて一九五一年三月、日本勧業銀行から調査団を招き、約三か月にわたった沖縄の地価調査に当たらしめた。右調査団の来島と前後して米軍の軍用地使用支払い計画が発表されたが、この計画が発表されると、住民は軍用地料の適正評価のための評価決定に住民の代表を参加させてほしいとの要求を出し、沖縄群島議会も米軍にこれを要請した。しかしこの要求は容れられず、結局勧銀調査団の報告をもとにして、米陸軍の沖縄地区工兵隊が算出した額が講和前の軍用地使用料となった。

 これについては、その算定についても住民の不満があり、またその支払いが大幅に遅れたため、住民の不満も高まった。

 なお、この地料支払問題は、講和発行後もさらに紛糾した。


3 「講和」締結を前にした土地接収

 朝鮮戦争前後から、沖縄基地の戦略的価値が一段と増大し、米国によってその長期保有の必要性が強調された。米国は、一九五○年の会計年度予算に沖縄軍事施設建設費五千万ドルを計上し、更に一九五○年一○月に、米国務省は沖縄の占領継続の希望を表明し、翌年一月にはアチソン国務長官が「太平洋防衛と沖縄保持」の声明を出した。同時にその頃から米国内においてもアチソン・ベビン会談やアジア政策会議が開かれ、対日講和を促進する具体的動きが活発になった。そして、一九五一年九月四日には、トルーマン大統領の対日講和促進の声明、つづいて同年一○月二六日、ダレスによる対日講和七原則が極東委員会構成国に提出された。

 このような国際的動きの中にあって、沖縄米軍は講和後の土地使用を確保するため次々と新たな土地接収に踏み出した。

    一九四九年一二月二五日
        北谷村北谷区移動完了
    一九五○年五月一八日  
        浦添村一部農耕禁止
    同年六月二○日     
        真和志村・天久・上之屋立退通告
    同年九月一八日     
        越来村山村の立退 
    一九五一年二月一四日  
        ボーローポイント拡張・立退通告
    同年六月一日      
        読谷村楚辺立退
    同年一○月       
        国頭村ラジオ・ビーコン工事開始
    同年一二月       
        具志川村昆布立退通告

 右のように次々と新規の接収がなされ沖縄基地は拡張の一方をたどった。こうした土地接収はいうまでもなく、住民を圧迫しその生活を破壊していった。

 即ち、終戦直後とは異なり、その頃になると農地の開墾も一通り終わり生活も安定し始め、農民の生産意欲が高まってきていた。このような生活が一片の立退通告で破壊されていくのであるが、立退命令を受けた農民が他に土地を求めることは既に厖大な土地を軍事基地に接収された沖縄では困難であった。仮に移住地があったとしても、当時の少ない補償額をもってしては移住先での生活を維持していくことは容易ではなかった。例えば、真和志村における立退補償の場合であるが、補償されたものは家屋の立退料と運搬費、墓の補償、その他若干の建築資材であったが、家屋の立退料が一万B円、運搬費が二五○○B円程度、墓の補償が立退料一○○○B円ないし二○○○B円、運搬費が二七○○〜五○○○B円が支払われるだけであった。(B円は日本円の三円に該当する)

 このような補償では立退部落住民の生活ができないのは目に見えている。

 ここで立退部落の実態を読谷村楚辺部落について見てみよう。同部落は戦前沖縄では中以上の暮らし向きの
部落であったが、戦後住民が部落にやっと復帰したときはすでに軍用地として一世帯当たり畑六四四坪、宅地一二坪を接収されていた。

 その結果、一九五一年の接収前においても耕地の経営面積は一世帯当たり五○八坪しかなかった。ところが、同年六月一日立退命令が発せられこれに続く接収によつて、それは僅かに八三坪に減少してしまった。

 就業状況はどうであったか、農業就業者は耕地の減少によって働く場所を失い、農業所得は急激に減少して、移動前の二○%弱にとどまり、農外所得ですらも移動のため事業継続不能等の理由により約に一%の減少となった。当時の楚辺部落の年収は沖縄の農家の平均年収九九八二B円の三分の一にも足りない三三一七B円であることが農家経済調査によって明らかにされているが、これによっても同部落を含む立退部落の疲弊の程度がどのようなものであったか明らかである。


二 講和前の土地接収の法的根拠の不存在と国際法違反

1 土地接収の法的根拠についての米軍の見解

 米軍による広大な土地の占拠、もしくは新たな接収、無償使用は国際法上どのような根拠に基づくものであったろうか。米軍は「国際法の下で賠償なくして略取しうる私有財産」(布告七号)といいながら、当初国際法上の法的根拠を何ら示さないまま、無償使用を続けた。

 講和発行後の一九五三年一二月五日発布された米国民政府布告二六号「軍用地内における不動産の使用に対する補償」の前文の中で、「一九○七年一○月一八日第四回「ハーグ会議」において定められた陸戦法規及び陸上戦闘の規則、慣習に関する規定第3節第52条の条項に基づき、合衆国軍隊は、占領軍が必要とする不動産を収用し、これを占有した」と述べている。すなわち、米軍はこのときになって初めて、広大な土地の占拠・接収の国際法上の根拠が、ハーグ陸戦規則第五二条にあったことを明らかにした。同時に同布告は、引き続き「公共の目的のために無償で私有地を継続使用することは、合衆国憲法に反し、かつ又琉球列島住民にとって耐え難い事である」と述べ、米軍の長期にわたる土地の無償使用が許されないものであることを認めるに至った。

2 ハーグ陸戦法規と土地接収の不法性

 アメリカが主張したように、ハーグ陸戦規則第五二条は、占領軍による土地の占拠・接収の法的根拠となりうるものであろうか。答えは否である。すなわち、右条項は、占領軍の土地の占拠・接収の法的根拠とはなりえないものである。

 ハーグ陸戦規則第五二条は、「現品徴発・・・ハ占領軍ノ需要ノ為ニスルニ非ザレハ・・・住民ニ対シテ之ヲ要求スルコトヲ得ス・・徴発ハ・・地方ノ資力ニ相応シ(タ)・・モノタルコトヲ要ス」、「現品ノ供給ニ対シテハ成ルヘク即金ニテ支払ヒ然ラサレハ領収証ヲ以テ之ヲ証明スヘク且成ルヘク速ニ之ニ対スル金額ノ支払イヲ履行スヘキモノトス」と定めている。

 米軍は、「占領軍ノ為ニスル」「現品徴発」として、土地の占拠・接収をしたというわけである。しかし、右条項は、動産の徴発を許したものにすぎず、この条項によって土地を徴発することは許されていない(加藤一郎、 沖縄軍用問題ー国際法外交雑誌 五六巻四、五併合 一四三頁)。「現品」という言葉の文理解釈だけからそうなるのではなく、「占領軍の必要のため」という要件からも明らかである。すなわち、現品の徴発は、占領軍の必要のためであることが第一の要件であるが、これは占領軍が日常生活維持のために絶対に必要とする品物と原料、例えば食料、衣服、靴、医療品、馬糧などに限られるのである(竹本正幸、ハーグ陸戦法規と原油の押収ーシンガポール控訴院判決を中心にー国際法外交雑誌 五六巻 五号参照)。すなわち土地の占拠・接収は、占領軍の日常生活の維持にとって絶対必要なものではなく、したがって徴発することはできないのである。

 さらに、現品の徴発といえども、占領の目的を越えてなすことは国際法上許されていない。すなわち、日本軍の抵抗を押さえるという戦争遂行上最小限の措置としてのみ現品の徴発も許されるのである。ハーグ陸戦規則第二三条は、「特ニ禁止スルモノ」として「戦争ノ必要上万已ムヲ得サル場合ヲ除クノ外敵ノ財産ヲ破壊シ又ハ押収スルコト」をあげている。

 一九四五年八月一五日に太平洋戦争が終了するまではともかく、戦争が終結した同年八月一五日以降は、米軍による土地の占拠・接収は、明らかに戦争の必要性、占領の目的及び占領の一時性・暫定性をはるかに越えるものであり、ハーグ陸戦法規に反するものである。「中国革命の成功」と「朝鮮戦争の勃発」という極東情勢の変化の中で打ち出されたアメリカによる沖縄の長期支配政策によってもたらされた新たな土地接収が、占領の暫定性、占領目的をはるかに越えた違法なものであることは、明白である。

 そもそも、ハーグ陸戦規則を付属規則とする「陸戦ノ法規慣例ニ関スル条約」、いわゆるハーグ条約は、一九○七年にアメリカ合衆国も参加したハーグにおける第二回平和会議において採択されたものであるが、同条約は「・・・平和ヲ維持シ且諸国間ノ戦争ヲ防止スル方法ヲ講ジ」、「・・戦争ノ惨害ヲ減殺スヘキ制限ヲ設クルヲ目的トシテ」として「・・交戦者ノ行動ノ一般ノ準縄タルヘキモノ」として定められた。しかも、同条約はさらに「・・・実際ニ起ル一切ノ場合ニ普ク適用スヘキ規定ハ此ノ際之ヲ協定シ置クコト能ハサリシト雖明ナキノ故ヲ以テ規定セラレサル総テノ場合ヲ軍隊指揮者ノ擅断ニ委スルハ亦締約国ノ意思ニ非サリシナリ」と定め、規定のない場合についても、軍隊の独断を排除している。また「・・・採用シタル条規ニ含マレサル場合ニ於テモ人民及交戦者カ依然文明国ノ間ニ存立スル慣習、人道ノ法則及公共良心ノ要求ヨリ生スル国際法ノ原則ノ保護及支配ノ下ニ立ツコトヲ確認スルヲ以テ適当ト認ム」と定めて、規定のない場合であっても、人道の法則と国際法の原則が守られるべきことを宣言しており、その意味で、軍隊指揮者による同条規に対する恣意的で住民に不利益となる拡大解釈をも排斥している。

3 ポツダム宣言による占領目的の制限

 日本の無条件降伏を定めた連合国のポツダム宣言は、一九四五年八月一四日政府によって受諾され、対日戦闘行為は終了した。同時に、沖縄及び本土における占領軍による占領目的も、日本軍国主義の駆逐、民主主義制度の確立というポツダム宣言の定める目的の達成を確保するという点に限定された(ポツダム宣言六、七、九、一○、一二参照)。

 なお、沖縄については、連合国最高司令官総司令部の「若干の外郭地域を政治上、行政上、日本から分離することに関する覚書(一九四六年一月二九日、いわゆる行政分離覚書)によってアメリカの直接管理下に置かれた。また「琉球列島米国民政府に関する指令」(一九五○年一二月五日、いわゆるスキャプ指令)が発せられ、本土とは別の統治機構がつくられることになったが、しかし、ポツダム宣言は、本土においても、沖縄においても占領、管理の実施に当たって守られるべき最高法規であり、これら行政分離覚書や指令によって変更しうるものではない。

 ポツダム宣言の目的からみても、米軍による恒久的な基地建設のための土地の占拠・接収がいかに許されないものであるかは明らかである。沖縄における米軍の基地建設は、日本の軍国主義の駆逐とは何のかかわりもない。また日本における民主主義確立にとってむしろ逆行するものだからである。

4 ハーグ陸戦法規と私有財産尊重の原則

 ハーグ陸戦規則第五二条は、土地の占拠・接収の法的根拠とはなりえない、というにとどまらず、そもそも米軍による土地の占拠・接収は、ハーグ陸戦規則そのものにずばりに違反しているのである。

 ハーグ陸戦規則は、四六条で、「個人ノ・・・私有財産・・・ハ之ヲ尊重スヘシ」、「私有財産ハ之ヲ没収スルコトヲ得ス」と定め、四七条は、「掠奪ハ之ヲ厳禁ス」と明記している。米軍による土地の占拠、接収がこの私有財産尊重の原則、没収、掠奪の禁止条項を侵犯する違法なものであることは誰の目にも明らかである。もとより五三条には、「各種の軍需品」は私人に属する場合でも押収することを認めているが、これも動産の押収を認めたものであって、土地の押収を認めたものではない。しかも、同条によって押収したものも「平和克復ニ至リ之ヲ還付シ且之カ賠償ヲ決定スヘキモノトス」と定められている。前記竹本論文は、この点、第五三条は動産に適用することを意図したものであること、原則として私有の不動産は押収しえないことは一般に承認されていること、また、占領の暫定的性質が認識せられるにともなって不動産殊に土地の所有権を尊重する慣習が生まれ、学説もそれを認めてきたことを指摘している。この論文の指摘によれば、一九四二年二月、日本軍がスマトラ占領直後に押収した原油および製油所について、シンガポール控訴院は、地下の原油は不動産であってハーグ陸戦規則五三条の「軍需品」に該当せず、従って日本軍によるスマトラ石油資源の押収及びその後の没収は、ハーグ陸戦法規の侵犯であり、その結果、石油資源についての正当な権原を取得していないと判示している。またニュールンベルグ国際軍事法廷の判決は、ドイツの占領地における徴発は、ハーグ陸戦法規の禁止する掠奪であり、それ故に戦争法の侵害であるとされたことが述べられている。

 この点、新城利彦琉大教授は、「敵の私有不動産はいかなる状態や条件においても侵入交戦者によって押収されてはならない」と主張している(戦後沖縄の政治と法二八三頁以下、国際法と沖縄――軍事占領について――参照)。

5 私有財産尊重の原則と形成の経過

 国際法における私有財産尊重の原則は、一九○七年、ハーグ陸戦法規に明記される以前から認められていたといわれている。すなわち、ハーグ陸戦法規は、永い間の慣習法を明文化したものである。まず戦時における私有財産尊重の原則にはじめて理論的根拠を与えたのは、ルソーの学説であった。ルソーは「社会契約論」において、「戦争は人と人との関係ではなくて、国家と国家の関係なのであり、そこにおいて個人は、人間としてではなく、市民としてでさえなく、ただ兵士として偶然にも敵となるのである。祖国を構成するものとしてではなく祖国を守る者として」、「この原理は、どんな時代にも認められていた諸原則に、また、あらゆる文明国民の慣行に、まさに一致していた。・・・戦争さい中においてさえ、正しい君主は、敵国において、公有財産はすべて没収してしまうが、個人の生命と財産は尊重する」ことを説いた。

 戦時における私有財産尊重の原則が国際法の普遍的原則として歴史的に形成発展していった経過について、竹本正幸教授は、陸戦における私有財産尊重の原則――その形成過程について――という論文の中で「・・・一八世紀に入ると共に、戦争の制限的性格と啓蒙思想及び自由主義経済思想に影響されて、実行の上でも私有財産は寛大な取扱いを受けるようになり、国際法学者や哲学者達が残酷な戦争権を非難し制限しようと努めた。かくして、私有財産の尊重は、従来の『戦争の必要』・・・に対する従属的地位から、逆に一般原則の地位へと移っていった」と述べている。

 かようにして、私有財産尊重の原則は、慣習国際法として認められるに至ったが、早くも一八世紀末には、二国間の条約において確認された。一七八五年九月一○日に締結されたプロシヤとアメリカ合衆国との間の友交通商条約がそれである。同条約の中で、「・・・その家屋や財産を炎焼またはその他の方法で破壊され、戦争の結果彼らがたまたまその支配を受けるに至った敵の軍隊によって田畑を荒廃されてはならない。」と明記され、私有財産尊重の原則ははじめて、国際条約の中に取り入れられた。

 戦時における私有財産尊重の原則は、永い歴史の中で、国家の垣根を越えた人間の英知として発展してきたものであり、ほかならぬアメリカ自身によって、国際史上はじめて条約の中で確認されるに至った国際法上の一大原則をなすものである。それは鴻毛のように軽々に取り扱われてよいものではなく、恣意的に侵犯されてよいものでは決してないのである。かかる意味においても、この国際法の原則を犯してなされた、沖縄における米軍の土地占拠、接収の事実は、国際法上きわめて重大であり、その歴史的な評価を避けて通ることは決して許されてはならないものである。

つづく