沖縄県収用委員 第8回会審理記録

当山栄


当山栄(土地所有者):

 嘉手納基地に土地を持つ当山と申します。

 僕は沖縄・嘉手納基地とアジアがどういう形で関係したかを述べたいと思います。

 僕も高校時代のとき、さっきも由美子ちゃん事件に遭遇してショックを受けました。また、1965年大学の最後でしたけれども、ベトナム戦争が北爆という形で本格化したという状況にも立ちあっているし、そういう意味で戦後50年、軍事基地に苦しめられてきたというのが毎日です。それを再度、振り返って点検してみたいというふうに思います。

 まず、スライドから見てほしいと思います。

(スライド)

 具体的にはベトナムと沖縄とのかかわりを中心に述べたいと思います。

 沖縄がありまして、そしてベトナム、中国等がありますけれども、沖縄が太平洋のキーストーンとして位置づけられて、1952年講和条約で反共の砦として位置づけております。それ以来1950年から朝鮮戦争、それから1954年から1975までのベトナム戦争という形、さらには1990年以降、湾岸戦争という形で、絶えず沖縄はアメリカの軍事戦略の中心になって、人民を多く殺してきたという状況があります。

 次に、ベトナムの地図を見てください。17度線というものがあります。ここで南北が分断をされている状況がありますけれども、ベトナムは縦に長い国で、日本よりやや小さいぐらいの国です。その北のほうにトンキン湾というのがありまして、そこのことも後で触れていきたいと思います。

 この17度線で分断されたことが、ことの始まりということでありますので、これとの関連でベトナム戦争の概略を述べてから、さらに具体的にスライドを映していきたいと思います。

 べトナム戦争の簡単な概略を言います。1945年の地点で、日本が8月15日に全面降伏した段階でいえば、フランスの長い植民地政策のもとにあったベトナムが、今度は日本軍が占領していたわけですけれども、日本軍が降伏する段階で、ベトナム民主共和国というものをホーチミンが宣言をして、そして選挙によってベトナム民主共和国を確立しております。にもかかわらずフランスは居残りをして、さらに再植民地化を目指すということで、攻撃をしかけていって第1次インドシナ戦争が始まりますけれども、1954年、最終的には5大国によってジュネーブ会議で休戦協定が結ばれております。その中で一つは、17度線で南北軍事境界線とするという形で取り組みがあります。あくまでも領土分割ではなくて、軍事境界線としていくというフランス軍とベトナム軍を、北と南に分けるという形にすぎなかったわけです。

 2年後の1956年に南北の統一選挙をやるという形で、取り組みがなされて選挙のための監視委員会も置かれているんですけれども、これを無視して、アメリカが1954年に、ゴ・ジンジェム政権を打ち立ていったということからことの始まりです。

 アメリカは、ベトナムで約15万名の軍隊をつくっていって、そして民主共和国と対決していくと。あくまでもアメリカは内戦において、南サイゴン政府の要請で介入しているというふうに見せかけてきたわけですけれども、1961年にケネディが大統領になって以降は、具体的に南ベトナムにいる解放戦線の皆さんを抹殺していくということで、特殊部隊を送り込んでいきます。

 そして、村々からベトナム民族解放戦線の人たちを追い出して、そしてほかの皆さんはいわゆる戦略村といいますか、収容所に放り込んでいくという形の政策をとりますけれども、ベトナム人民の民主共和国に対する支持はだんだん拡大していって、むしろ追い込まれていくという状況が続いて、そして1965年からジョンソンにかわりまして、全面的にアメリカが前面に出て、その解放戦線と戦うという形で戦争がどんどんエスカレートしていきますけれども、それが最後には1968年、テト攻勢ということで、解放戦線が一斉に蜂起をして、主要都市で立ち上がるという中で、アメリカは敗北に展開していくということになっていきます。

 そして70年以降、和平会議という形でもっていって、最終的には73年のパリ和平協定にたどりついて、75年にはいわば解放軍がサイゴンに入場して、ベトナムの解放を勝ち取り、76年にはベトナム社会民主主義共和国が成立という過程をたどって、インドシナ30年戦争によって、ベトナムは完全に解放されて統一を達成できたという形で進んでおります。

 次にスライドに移っていきたいと思います。

 これが1968年の2月ごろの動きです。一番ベトナム戦争が激しくなったときに、沖縄の状況をタイムスがこういうふうに報じております。

 B52が68年2月5日に嘉手納基地に飛来し始めると、そして沖縄にB52がずっと居座っていくという形が続いていきます。

 下のほうには、深夜、弾薬を積み込むという形であわただしくなっていきます。あるいは弾薬をホワイトビーチから積み込んでいくということとか、あるいは那覇軍港から、ホワイトビーチからは武器関係が主に積み込まれていますが、那覇の軍港からは生活物資等が輸送されていくということがありました。

 そして、ベトナム民主共和国から日本政府への抗議が出されております。これは内容を読んでみますと、沖縄にB52を駐機させて、ベトナムを攻撃することに対しての抗議です。それから日本国内において、ナパーム弾等を大量生産をして、それをベトナムにつぎ込んでいるということに対する抗議がなされております。

 そういう形で、沖縄が、この状況を見てもベトナム戦争に総動員をかけられているという状況が映し出されているし、僕の立場から言えば単に加担をさせられたというよりも、沖縄はベトナム戦争において、分業をしたと、ベトナム戦争を遂行させるために沖縄は、日本政府が分業をしたと、後方で分業をしたというふうにみております。

 次のスライドを映していきたいと思います。

 これが沖縄からベトナムに直接派遣された兵隊たちで、最前線基地にこういうふうに投入されて、ベトナムでの最大の戦闘作戦に参加しています。具体的な部隊名も沖縄と出て行った部隊名が向こうで、戦闘行為を行っているという状況の一つです。次お願いいたします。

 これがベトナムの上空で、B52から爆撃弾を落しているところで、そういう形で沖縄からは約2時間ぐらいで到達して、向こうで爆弾を落としてそのまま帰ってくるという形で、大体5時間ぐらいかけて爆弾を落してくるという形で、68年から70年にかけて約3年間爆弾を投下し、ベトナムでは言われているようにじゅうたん爆撃ということで、その一角を地図化して、事前にこの地図に基づいてベトナムに向かって、そこにじゅうたん爆撃をしてくるということがなされております。

 そういう形で、僕の推計ではベトナムに落とされたB52の爆弾は、約半数が沖縄基地を使ってなされているということで、あとでこれは数字の説明を収用委員会に出していきたいと思います。次お願いいたします。

 これは解放戦線の青年たちです。非常に若い人たちです。次お願いいたします。

 これは解放戦線の女性たちということになっています。次お願いいたします。

 これは米軍の戦車が、稲作をやっているところに急遽入り込んできて、稲作を踏みつぶしていくと、これに対してベトナムの老人が非常に怒りながら抗議している姿です。そういう意味では、ベトナム戦争では、前線だけが戦争だと言われていますけれども、いきなり米軍等が入り込んできて、村を破壊していくという状況の一つです。

次お願いいたします。

 これはナバーム弾によって被災した少年ですけれども、要するにナバーム弾は広大な面積を一挙に焼き尽くすという、全く殺人を目的とした兵器でありまして、こういう形でベトナムの人たちが多く殺されていっております、傷ついていっております。

 次、お願いします。

 これは、解放戦線の戦士たちが殺されているところですけれども、ごらんのように、軍服は着ておりません。そういう意味では、サイゴン軍とか米兵が村を攻撃していった場合に、殺してみて武器を持っていたらベトコンというふうな言い方です。持っていなければそうじゃなかったという形で、攻撃してはじめて分かるという形で、いわば無差別に殺していくという状況の一つです。

 次、お願いします。

 これは、戦争から隣村に逃れようとしている母親と子供たちの姿です。

 次、お願いします。

 これは、いわゆる戦術戦略の戦略村ということで、要するにアメリカ側が、こちらはベトナム解放戦線がいる部落というふうに思ったら、攻撃をしていって、残った村人たちを収容所に囲って、そこで分断をしていくという形で、残った部落は全部焼き払っていくという形の状況で、そういう戦略村をたくさんつくることによって、ベトナムをアメリカ征服しようとしたけれども、結局、普段は農業をして豊かな生活をしているのに、いきなり囲いに囲まれて、こういう格好で難民をさせるというのがベトナム戦争の一つの状況です。

 次、お願いします。

 これは、山岳地帯の青年が逮捕されていますけれども、アメリカは若い人であれば、解放区らしきというところであれば、逮捕をするか、あるいは逃れれば銃殺するという対応をしてきております。

 次、お願いします。

 これは、1973年、石川文洋さんが現在の女性の高射砲部隊を写したところです。

 次、お願いします。

 これは、例のソンミ事件ということで、アメリカ兵が帰ってきてから内部告発をして、その実態が明るみになったことですけど、約500名が虐殺されていると。ここは、襲撃をして、残っている村民を並ばせて、機関銃で一斉に殺していくという形で、そういう残虐な行為があったわけですけれども、大っぴらに出たのが少ない状況ですけれども、そういうのが一つの事実ということになると思います。

 次、お願いします。

 これがB52によって破壊された北ベトナムの一部で、工場等があったんですけど、じゅうたん爆撃によってすべてが破壊されているという状況です。

 次、お願いします。

 これもハノイの病院の跡ですけれども、話書いているのを見ますと、病院の屋上に大きい赤十字の印をしてあったにもかかわらず、いわばじゅうたん爆撃でやられて、医者と患者が34〜35名死んでいるという状況であります。

 次、お願いします。

 これは枯葉剤です。ベトナム全土の約14パーセントぐらいに枯葉剤がまかれています。普通の農薬の十数倍にかためて、濃くして、それをこういう形でまいて、ジャングルを裸にして、要は解放戦線と住民を分離するという形になっていますが、そういう形、全土の14パーセントぐらいの国土にこういう枯葉剤を撒いています。枯葉剤を撒くときは、朝、気流が乱れないときに撒くという形で撒いていっております。

 次、お願いします。

 これが、枯葉剤にやられて10年後になるけれども、森林であったところが木が枯れてしまって、こういう状況にあるという一例です。

 次、お願いします。

 これも枯葉剤にやられているところですけれども、あとは、チガヤなんかは生えるようですけれども、なかなか樹木は育たないというところです。

 次、お願いします。

 これは、マングローブのところで、マングロープの約40パーセントがやられているということで、生態系上ほかの森林よりも再生が厳しいという状況です。

 次、お願いします。

 これが枯葉剤によって被爆した母から生まれたベトちゃん、ドクちゃんです。その後、分離手術をして、今は二人になっているということですけれども、一人が人工臓器のために寝たきりで、もう一人は元気という形で今報道をされていますけれども。こういう形で枯葉剤によって非常に重度な子供たちがたくさん生まれたということで、これがアメリカがやった戦争の惨さ、残酷さを示すことにもなっています。

 次、お願いします。

 これは、ベトナム帰還兵の皆さんが同じように枯葉剤の影響を受けて被害をこうむっていると。本人たちの肝臓癌とか、あるいは子供たちの重度障害児が生まれたということに対して、抗議と補償を求める集会をもっているところです。

 以上でありますけれども、そういう形で、沖縄の軍事基地が、いかにベトナム人民を何ら正当な理由なくして、殺してきたと。そして、沖縄が直接ベトナムに渡洋してやっていて、B52の爆撃によっても、推定からすれば沖縄から半分は攻撃しているということで、非常に大きな責任が問われるということがありますし、われわれは今後、沖縄の1フィート運動と同じように、ベトナム戦の1フィート運動も掘り起こして、もっともっと、どういう状況で何をやったかということを克明にやって、沖縄の軍事基地のもつ犯罪性をアピールすべきであるというふうに思います。

 あと、簡単に湾岸戦争の件だけに触れておきます。

 湾岸戦争は1990年から始まりまして、それからアメリカが空爆したのが1991年1月17日からですけれども、わずか四十数日間で終わっていますけれども、その戦闘の中、どういう状況が出たかということを一例言いますと、アメリカ兵が死んでいるのは375名です、アメリカ人の死者は375名です。それから、イラクの兵隊が死んでいるのが10万ないし12万です。民間の皆さんが死んでいるのが6万から9万ぐらいという形で、アメリカはたった375名しか死んでないから、その戦争は成功だったというふうな形で言っていますけれども、われわれからすれば、この戦争は、私も運動の一員として加わったんですけど、その戦争は回避できたと。時間さえかければ回避できたと。にもかかわらず、ブッシュ大統領はそのような和平交渉を拒否して、何月何日までに撤退しないと攻撃するぞという形で交渉の場を拒否して、戦争を仕向けていって、このような大きい犠牲を出してきているという状況です。

 沖縄は基地との関係で言えば、どういうことかと言えば、第3海兵師団が約5,000から8,000名ぐらい湾岸戦争に参加しております。今現在、問題になっている普天間基地のヘリコプター部隊も、そこに投入をされています。そういう部隊が、今度は名護の久志のところに新たな基地をつくるという状況を迎えようとしているということです。

 そういう意味で、私たちはこのような不当なアメリカの戦争を一つ一つ点検して、沖縄の基地が果たしている犯罪的な役割を克明に事実をもって僕は追及して、早くこの沖縄の土地から、沖縄から基地をなくすことが、アジア、アフリカの皆さんと平和的に活きる道だということをますます意を強くしておりますし、そういう意味での基地撤去が一日も早くならんことを念願して、意見とします。

 以上です。

当山会長: はい、どうもご苦労様でした。

 それでは、ここで15分ほど休憩いたしまして、2時55分から再開したいと思います。


  出典:第8回公開審理の議事録から(OCRによるテキスト化は仲田

  写真提供:顔写真(上原成信)、スライド(違憲共闘会議)


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