沖縄県収用委員 第7回会審理記録

高良勉


高良:

 私は嘉手納基地に土地を共有している地主の高嶺朝誠です。私はまた、高良勉というペンネームで詩と評論を書き、文学を研究し、沖縄文化の研究と創造に関わっています。

 そこで、私は、主に米軍基地、なかんずく嘉手納基地によって、いかに沖縄の伝統文化が破壊され、精神文化が荒廃させられているかという点に焦点を絞って、意見を述べていきたいと思っています。

 そして、いかに米軍基地が、沖縄文化の創造・発展の障害になっているか、問題提起をしたいと思います。

 私は、金城さんという方と、すでに26ページにわたる準備書面を準備してありますが、今日は、15分くらいしかありませんので、その中から、抜き出して、主に村落共同体の崩壊と精神文化の荒廃の面に焦点を絞って、意見陳述をしたいと思います。

 沖縄の人々にとって伝統的文化や信仰、精神の最大の基盤は村落共同体です。良きにつけ、悪しきにつけ沖縄住民の楕神文化は<個人と共同体>の関係を基軸に形成されてきました。21世紀にならんとしている今日でも、沖縄の地は日本本土のどの地方よりも共同体意識が強力に残っている地域として注目されています。

 そして、また、昨今、芥川賞を連続して輩出するなど、文学を始め伝統芸能、そのような沖縄文化の力の良さ、その評価も、この個人と共同体の間におけるさまざまな文化の伝統を度合いしながら表現されて評価されていることはご承知の通りであります。

 沖縄の住民は村落共同体や血縁共同体の中で生まれ、さまざまな年中行事の中で、成長し、結婚や出産などの人生の通過儀札を経て共同体の中で死を迎えるという人生サイクルをくり返してきたと言っても過言ではありません。

 ところが、米軍の基地建設と戦後50年余にわたる駐留は、そのような村落共同体を破壊し、文字通り村ごと基地の中に消滅させてしまったのです。

 まず、スライドで、その全体の資料を見てみたいと思います。スライドをお願いします。

 ちょっと見えにくいんですけれども、え、この図は、沖縄市、それから北谷町、宜野湾市、嘉手納町、読谷村、具志川市、石川市、浦添市、北中城村、那覇市における米軍基地によって収用され消滅された部落の全リストです。

 で、この、土地の、沖縄市であり、ここのほうが北谷町でありますが、ちょっと見えにくいんですけれども、沖縄市は、特に、字宇久田、それから森根をはじめ合計13カ字になっています。北谷町が、北谷、桑江をはじめ17カ字になっています。読谷村が楚辺、長田をはじめ6カ字となっています。その他、宜野湾市、北城村、浦添市、具志川市、石川市、そして那覇市の事例を総合計しますと、なんと沖縄全体で合計72カ字が、72カ字が米軍基地の中に接収されて、今現在返還されていない状況であります。

 次のスライドお願いします。

 え、このスライドは、北谷町の旧、旧千原部落が嘉手納基地の中にすっぽりと収用されているその略図であります。このように、字ごとに米軍基地に収用されたままの部落が72カ所あるわけですが、それよりもっと大胆に、大規模に村全体が破壊、変形させられた所は、みなさんご存じのように、その代表的な例が旧・北谷村と中城村です。

 旧・北谷村は、現在、北谷町と嘉手納町に分断されています。また、旧・中城村は現在、北中城村と中城村に分裂させられています。

 嘉手納基地が北谷村を、どのように二分し、分断してきたか、その経過の要点を見てみたいと思います。史料は「北谷町史」の第6巻からとりました。

 次のスライドをお願いします。

 で、ご存じのように、1945年4月1日に米軍が北谷海岸から読谷海岸にかけて上陸しまして、沖縄島では真っ先に米軍によって占領された地域になるわけです。そして、住民の大部分が捕虜になっていきますが、ご存じのように、沖縄の住民が6月23日、あるいは9月7日の敗戦調停以後、それぞれの住民が元の市町村への移動許可が降りたのは、10月30日です。しかし、北谷村だけは許可が下りませんでした。北谷町史によりますと、北谷町民が北谷村に戻るのが許可されたのは、翌年の1946年10月22日にやっと許可が下りて、その時に、先遣隊という形で、男子678人、女子4人の人数で、先遣隊で北谷に戻ってます。しかし、この地図からも分かるように。

 あるいは次のスライドをお願いします。

 この地図から見ても分かるように、これが現在の、グリーンのところが現在の北谷町です。そして、ここのほうが、高里となっています。この赤いところが、全体が嘉手納基地になっておるわけですね。この地図からはっきり分かるように旧北谷村、この部分ですが、この部分は現在、この赤い嘉手納基地によって、全く旧北谷村がまっぷたつどころか、こういう風に北谷町、嘉手納町、すみっこに追いやられております。

 こういう形で、1948年に、やむをえなく、旧北谷村は「嘉手納村」と「北谷村」に分離することが決定され、そして現在ではそれぞれ北谷町、嘉手納町という形で別々の自治体の歴史を歩まされているわけです。

 その次にこういう村落共同体が崩壊していく、大きな問題のひとつとして村落共同体の中における世代の断絶の点について、述べていきたいと思います。村が基地の中に消えると、今までの説明からもお分かりかと思いますが、隣近所がすべてばらばらになっていきます。運良く、新部落と呼ばれまして、同じ様な地域に部落の人たちが集まれた例がありましたが、一番大きな被害を被るのは、そういう土地の例ではなくて、同じ村にいた人たちが全部バラバラに別の土地にすまないといけない例です。その場合に一番大きな問題になるのは世代間の断絶です。

 第一世代と呼ばれる戦前から住んでいた人たちは新しいところにいきましても、もあい

をやったり、郷友会をつくったりしてなんとか集まる努力をしています。しかし、第二世代と呼ばれるこの幼少時代から別天地で生活した人たちは、微妙な変化が現れてきます。第一世代のお父さんとお母さんが元気な間は郷友会にも顔を出しますが、だんだん、だんだん、旧部落の共同体から遠のいていきます。

 そして、第三世代と呼ばれるもはや新部落や移住先で生まれた子どもたちは、既に旧部落への共同体意識は無くなっている事例がたくさん報告されています。例えば、沖縄市の旧・やぎたばる部落の例は、郷友会組織もなく、数十人の親睦団体でかつての故郷を偲んでいると。で、その活動さえ厳しい状態になって、まとめ役の喜友名氏はこういうことを証言しています。やぎばはるも親睦の会しかなく1年に1度集まるのがやっとです。その後次第に参加する人が少なくなりました。まとめ役はわたしがやっていますが、自分でも別に郷友会に入っているので、これ以上の活動はちょっと無理です。と話されています。

 そこでみなさん、考えてみてください。いったいどこの誰に、大事な故郷を、皆それぞれ故郷ってのは大事だと思いますが、誰に故郷を暴力的に破壊する権利が認められているんでしょうか。しかもこういう村落の崩壊というのは、現在も進行中でして、特に、先ほどから質疑されております、北谷町の砂辺の例は、まさに今日ここに来ている防衛施設局は直接手を下して、村落共同体の崩壊を進めているのです。そのすさまじい事例については、別の村上さんの報告であると思いますので割愛したいと思います。

 え、みなさん、わたしたちは、よく世界史の時間でこういうことを習い、あるいはこういうことを教えます。例えば、イギリスの産業革命の時には、enclosureという形で農民が土地を取り上げられた。あるいはアメリカでは白人が先住民族のネイティブアメリカン、インディアンと呼ばれるネイティブアメリカンを追いやって、勝手に白人の国を作った。こういうことを習います。

 さて、自由と民主主義の守り手という形でずっと錦の御旗にしまして、戦後54年、沖縄に駐留している米軍はいったいこのような沖縄の住民の村落を破壊し、伝統を破壊していく、そういう駐留をいつまで続けるつもりでしょうか。あるいは日本政府、防衛施設局はいつまでそれに手を貸し、あるいは一緒になり、積極的に文化破壊を繰り返すんでしょうか。わたしたちはここに、腹の底から怒りを込めて、報告したいと思います。

 続きまして、村落共同体が破壊されると如何に伝統文化や精神的な土台が破壊されるかという事について述べていきたいと思います。

 村落共同体が破壊されますと、当然、村の伝統的な信仰や年中行事が存続の危機に瀕する時代を迎えます。スライドは嘉手納基地の中にいまだ収用されている旧・大工廻部落の昔の、部落内の略図です。いろんなポイントが置かれていますが、ビジュルとかクフドンとか、ナカムイ拝所とか、その集落にとっては大事な祖先伝来の神々を奉る場所が、いわゆる御願所とか、御嶽とか昔から呼ばれているところがポイントが置かれています。

 次のスライドお願いします。このように村ごと、御嶽ごと、御願所ごと、基地の中に、集落、接収されたところは、年中行事の拝みがあっても、なかなか、自由には中に入れないです。こういう風に米軍基地のまわりでわたしたち見かけますが、中に入れなくて、フェンスの外のほうから、拝んでいる、ウガミをしている人々をよく見かけると思います。これは、沖縄の人たちにとっては自分らの信仰の自由さえ許されていない。自分らの精神文化を十分に発揮する事さえ、許されていないということをこの写真は示しているだろうと思います。

 一方、沖縄では、少々の地域差はあるにしても、旧暦の1月から12月まで各月毎に年中

行事が行われておりました。そのなかでも村落共同体を基盤にして、共通して行われていた行事をいくつか上げていきますと、まず一月には、初起こし(ハチウクシ)があり、三月には三月三日の三月アガリ、4月は腰憩い(クシユクイー)がありアブシバレーがあり、7月には旧盆、エイサーがあり、8月には8月15日の遊び、ムラアシビがあり、10月には種取などのように代表的な年中行事をあげることができます。

 しかし、こういう形で旧集落が軍事基地の中に接収されたまま戻れませんと、すでにあちこちの集落が、クシユクイーやアブシバレーや8月15日のアシビなんかは、消滅していっています。それにともない、その時に行われていた闘牛や綱引きや村芝居が当然消滅していききます。そして、なによりも沖縄文化の一つの大きな花といわれています伝統芸能が危機に瀕します、6月ウマチーの時に引いていた綱引きはどうでしょうか。あるいは旧盆のエイサーはどうなっているでしょうか。

 8月15夜の夜に行われた民俗芸能はどうなるんでしょうか。スライドをお願いします。

 これは先ほど基地の中に収用されている、千原エイサー保存会のスライドです。千原は一生懸命努力して、集落は基地の中に接収されていてもなんとか伝統を守ろうとして一生懸命努力しています。次お願いします。同じく千原です。千原エイサーは男子だけで行われてるという非常に沖縄でも貴重なエイサーとして高く評価されています。次お願いします、千原はこのようにして、未来の子どもたちに伝統文化を継承しようと頑張っています。時間がありませんので、まとめにはいります。

 嘉手納基地は、今、さっといっただけでも、徹底して村落共同体を破壊し、暴力的に村落を占領し、人間の精神文化に攻撃を加え続けています。米軍基地の長期駐留はいろんな問題を巻き起こしていますが、無視できない側面として、軍用地料のばらまきにより、不労所得者層を生みだし、特に青少年に拝金主義、つまり拝金主義というのは、お金があれば何をやってもいい、お金儲けのためにもどんなことをやってもいい、お金さえ払えばなにをやってもいいという、今の日本社会を腐敗させているこの拝金主義、そして、その汗水流して働くのいやだと、勤労意欲の低下、こういう目に見えない精神的な影響もある。また、基地の固定化は沖縄の住民にややもすると、無力感を植え付け、自らの運命と未来は自らの手で決めるという自立心や自決権を阻害しています。人殺しと戦争を目的とする軍事基地を平和、自立、文化の発展とは、相いれない事は明らかだと思います。

 最後に、戦後52年余も経ちました。わたしの人生は、基地問題や沖縄問題に変わって、一日たりとも安心してのんびり休まることはできなかったといっても言い過ぎではないと思います。わたくしは、もうこんな人生はもはや、自分の子どもや孫の世代にはおくらせたくありません。一日も早く嘉手納基地を始め、軍事基地を返還して欲しい。

 わたしたちはその土地をすべての軍事基地を、生活と生産の場にかえ、豊かな精神文化の花を咲かせ、更に沖縄文化の創造的発展を目指していきたいと思います。このようなわたしたちの存在を無視したり、蔑視する防衛施設局に心の底から抗議します。

 そして収用委員会諸先生方の、公平な判断を期待して、私の意見陳述を終わります。ありがとうございました。

当山会長:続きまして、村上有慶さん。


  出典:第7回公開審理の録音から(テープおこしは比嘉


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