沖縄県収用委員 第7回会審理記録

新里律子


新里:

 あのスライドございませんので、明かりをお願いいたします。

 わたくしは恩納村の恩納に住んでおります。もと小学校教員をしておりました。名前は新里律子でございます。

 まず、本題に入ります前に、宮森小学校戦闘機事故で亡くなられた遺族の方々に、お断りをしてから、演題に入りたいと思います。と、申しますのは、わたくしは昨日まで、今日のためのお話の原稿を書いておりました。その中には、この部分はちょっと話せない、削除しなくてはいけない、という部分が多々ございました。ところが、今日この会場に入りましたとたんに、その考えは変わりました。わたくしは苦しい中で、あの当時の様子を詳しく述べることが、遺族への償いかと思います。つきまして、当時の模様を赤裸々にお話申し上げることをお許しいただきたいと思います。

 では、本題に入ります。1959年6月30日、私は宮森小学校で4年1組の担任をしておりました。いつものように、平和なのどかな朝が始まり、平和な学園生活で、みんなも嬉々として一日を迎えていました。当時わたくしは29才。結婚したてで、お腹の中には6カ月の赤ちゃんを身ごもっておりました。ちょうど10時20分頃だったんです。いつもは、子どもたちを教室から早めに出すものを、その日は、ミルクの時間に雑務が食い込みまして、不幸中の幸いとでもいうんでしょうか、外に出す時間が食い込んでおりました。さて、雑務を終えて、ミルクの時間に入りました時に、当番の子供が、「ミルクいただきます」といって、一杯飲みかけた時に、どっかーん。すごい音が教室中を揺らせました。

 なんだろう。子どもたちは、席を蹴って、ミルクをこぼして私の教壇の前に集まりました。ひょっと、西側の入り口の屋根の上を見ますと、真っ黒い物体が屋根の一角にぶら下がっております。私はとっさに、これは、不発弾だなと思いました。あれが落ちたら教室はこっぱ微塵だ。子供を避難させなくてはいけない。とっさに思いました。子どもたちは、「先生、カバンどうしますか。」こういう事態になっても、子どもたちは自分のカバンというのを、カバンの心配をしました。「カバンはいいから、後で取りにくるから、みんな安全な避難場所に避難しましょう。」といって、先頭の子供たちは、順序良く出口から出ていきました。わたくしは最後に教室の全体を見回して、1人の子供も残っていないかなと思って、最後に教室から出ていきました。

 するとどうでしょう、わたくしの前の、2年生の教室の前から、4、5名の子供が火だるまになって飛び出してきました。髪はぼうぼうと燃えて、洋服がぱちぱちと燃えております。最後にパンツのヒモが……。私はこの状態を見ても消すことができませんでした。パンツのヒモが燃えて、最後に、水道のところでパタッと倒れました。じゅうという煙に混ざった水の音にわたしはびっくりしました。子どもたちは欠けたガラスの上を、火の上を、踏みながら安全な場所へと歩いていきました。

 職員室の前に来ました。まるたんぼうのように、真っ赤に焼けただれた男の子か女の子かわからないような子が、手足だけが丸くなって煙をはいております。2階の方から、当時の教頭先生が、女の子を抱いて降りてらっしゃいます。6年生の女の子、頭のほうが大怪我をしています。到底助からないと素人の目にも映りました。教頭先生が真っ白いワイシャツを真っ赤な血で染めながら、この子を抱いて泣きながら降りてらっしゃいました。

 それでも私は自分のクラスの子供が36名、無事に一箇所に集まってくれましたので、そちらへ行きますと、1人の男の子が、「先生足が痛い。」ミルク当番で、ミルク受けを持った子供が、足が痛いと。見ましたら、運動ズボンの足の下の皮が全部剥げているんです。生皮が剥げて、真っ赤に、血はでてない。「あなたは重油をかぶったんだね。お母さんはお家にいるから、お家に帰ってお母さんと病院に行って頂戴。」

 もう1人の女の子は頭から血がざあざあと流れてきました。この子は、窓側の窓ガラスで頭に怪我を負っていました。髪をあげるとたいした怪我ではありませんでしたので、もっていたハンカチで押さえてあげて、「あなたも怪我はたいしたことはないね、お家にかえりなさいよ。」やっとのことで、それだけを言って、家に帰えしました。

 そして、残りの生徒は全部無事だということが、わたくしは分かりましたので、お腹の子供がちょっと下がり気味でしたので、運動場の一画で座っていました。しばらくしますと、いろんな親たちが子供の名前を呼んで、子どもたちは親の名前を呼んで、地獄絵さながらでした。

 ヘリコプターは空中から飛んできます。後で分かったんですけれども、わたしの教室も、屋根の、煉瓦の屋根がめくり取られておりました。そして、教室をこすって、2階の教室に、機体の一部が、6年の教室に入り込んだのです。担任の先生が、肩を、機体の一部で、肩を打たれて、その瞬間は痛みもなにも気づきませんでした。自分のクラスの子が、機体の下になって、あの、プレハブ教室の、セメントの中に、血だらけになって亡くなりました。

 児童11名、一般の方が6名、17名が亡くなりました。さらに、210名という重軽傷者がいました。

 わたくしたちは職員としての務めをはたすべく、一生懸命頑張りました。1人の女の先生が流産しました。当時の校長先生は、ショックのあまり、病気に倒れました。それから、一番多くの犠牲者を出された女の先生は、教室にいて、自分は助かって、大勢の子供が亡くなったり、怪我をしたり、苦しい気持ちをこらえながら、各遺族の家を回りました。そして、この先生は、戦争の体験で、満州引き揚げ者でいらっしゃいました。主人と2人の息子を満州でなくしました。自分は満人に犯されないように、顔に炭をぬり、縁の下にもぐっては難を逃れてきた。そんなふうな苦しみを越えてきたのに、またこのような悲しみにあうとは。先生は毎日このことで、苦しんでおられました。先生はこの苦しみを胸のなかに秘めながら、去年亡くなりました。自分の体は琉球大学の医学部に献体をなさったと聞いております。

 さて、当時の事故は、思い出すのも悲しいことでございます。遺族の方々は38年を過ぎても、まだ苦しみをこらえております。去年いった、あの、2年生の女の子の、亡くなった女の子の家庭でびっくりしたことがありました。「先生、これ見て下さい。」といって見せてくれたのは、なんと、その子供の1年生の時の皆出席証だったんです。1年の時に病気もせずに、このように健康で1日も欠席しないで学校出てきた子が、2年の6月に帰らぬ人となったのです。家族にとって、年が重なる毎に、悲しみは深まるとおっしゃいます。その間中あちらこちらで、線香の匂いがしました。今日は病院から連れて帰るんだ、この子は助からないんだ、といってあちらこちらで線香の匂いがいたしました。

 直った子供で記憶喪失の子もいます。4年生になっても3年生の時の怪我が、かけ算も全部忘れてしまいました。五十音もわすれました。その前のことは、あなたの受け持ちは誰だったでしょう、といったって思い出せません。記憶は全然ないそうです。それから、その当時は助かったけれども、何年後に体のケロイドのために皮膚ガンで亡くなった方もいます。

 いくら賠償の金を積まれても、いくらお詫びを言われても遺族の気持ちは、変わらないと思います。今沖縄に基地ある限り、絶対の安全と言うことはありません。私たちはそういう悲しみを二度と味わないために、平和な島にして欲しいと思います。どうも有り難うございます。(拍手)

(会場から:「施設局に感想を聞いて下さい。」「施設局に人間の心を示めさせて下さい。」の声)

当山会長:では、最後に伊佐さん、お願いします。


  出典:第7回公開審理の録音から(テープおこしは比嘉


第7回公開審理][沖縄県収用委員会・公開審理][沖縄・一坪反戦地主会 関東ブロック