沖縄県収用委員 第7回会審理記録

池原秀明


池原:

 えー、ではあの、前回積み残した分の意見陳述をさせていただきたいと思います。

 わたしは嘉手納弾薬庫地区に土地を所有している地主の比嘉良子さんの代理人で池原秀明と申します。現在は「権利と財産を守る軍用地主会」、いわゆる通称「反戦地主会」の事務局長もしているものです。本日の公開審理にあたり、前回の第6回公開審理の際の嘉手納弾薬庫地区の積み残しでありました保安基準のでたらめさ、すなわち、有機的一体使用の矛盾を明らかにするために、意見を述べていきたいと思います。

 前回、阿波根代理人から、嘉手納弾薬庫の概容について説明と意見が述べられましたが、わたしは黙認耕作地と言われている、いわゆる基地のフェンスの外側にある基地の使用目的で、使用目的では弾薬庫保安用地と言われている部分についてその使用実態を明らかにしたいと思います。

 そもそも、黙認耕作地として、基地がある土地を耕すようになったのは、1950年代の銃剣とブルトーザーで新たな基地建設を始めた頃に、島ぐるみ基地取り上げ反対闘争が盛り上がった際に、県民総意として、時の立法院議員が決議をした四原則、いわゆる一つ目は、合衆国による土地の買い上げ、永久使用、借地料の一括払いは絶対に行わないこと。いわゆる一括払い反対であります。二つ目は使用中の土地については、適正にして、完全な補償が為されること。評価および支払いは1年毎にすること。いわゆる適正補償であります。三つ目に、合衆国軍隊が加えた一切の損害について、住民の要求する適正賠償額をすみやかに支払うこと、いわゆる損害賠償です。四つ目に、合衆国軍隊の占有する土地で不要な土地は早急に対応し、且つ新たな土地収用は絶対に避けること、いわゆる新規接収反対。などの、いわゆる土地を守る四原則。この決議を出しましたが、この四原則の中で、使用していない土地について、早急に返せと言う要求に対して、米軍は直ちには使わないが、有事の際に使用する予定、または保安地帯として確保しているので返すわけには行かない。ただし、米軍が使用する時期が来るまではその間、生産の場に使用して良い、いわゆる黙認をする、ということになった。県民の要求をのんで出来たのが始まりであります。

 しかし、この黙認耕作地というのは、米軍が戦争中にに基地として囲い込み、占領して基地にされてしまったところです。だから、囲いこんだというが実際には使用するには有刺鉄線で囲う。その周辺は通路をいわゆる道路を、閉鎖して通行させないと言う程度のものであった。黙認耕作が可能になってから、農耕パスを発行してそれを常に携帯し、通行の際にパスを提示をして許可をもらって耕作したものです。

 復帰後このパスが無くなり、自由に出入りできるようになりました。このことは、基地として強制使用をするのに不可欠な土地か甚だ疑問をもつものです。

 さて、弾薬庫保安用地として必要な分はどこまでか基準を示せと、第3回公開審理で、阿波根代理人が質問したところ、国側の坂本施設総務長は、米側には、アメリカ側には基準がございますが、日本側にはございませんと答えています。このことは米軍が占領をして囲い込んだ基地を日本政府は理由も無しに追認しただけである、保安用地の範囲の定義がないことを、物語っています。この程度の位置付けだから、起業者は保安用地の中で、強制使用の対象となっている土地の使用目的の裁決申請理由の中で、それらの土地の使用目的の、それらの土地は、それぞれの施設および区域の利用と契約を締結して使用している土地と有機的一体として機能しており、必要欠くべからざるものであります、というふうに述べております。もっともらしく説明をしていますが、次のスライドをお願いします。

 スライドに見られるように、無能をさらけ出すことになったのです。そのスライド1を映して下さい。え、このスライドは、沖縄市の都市計画地図であります。色塗の、この色塗の、この色塗の部分ですね。この、はい。これが沖縄市域になります。嘉手納弾薬庫は、えっと、この近辺から、いわゆる嘉手納ロータリーから知花十字路に向かう県道74号線の北側のほうが嘉手納弾薬庫で、ここが嘉手納飛行場に当たります。

 矛盾点のひとつとして、この地図は嘉手納弾薬庫の施設区域の北東の端にあたるこの白い部分ですね。ここに竹山原(たけやんばる)と呼ばれる地域があります。竹山原は弾薬庫に囲まれていたことや渓谷のようなもとであったために、その存在が意識されにくい地域であります。いわゆるこの色の部分が知花サイトという自衛隊の降下部隊の陣地になっていますけれども、ここは高台の嶺になってまして、この部分が傾斜地で渓谷になっています。そして、そのまま真っ白く空き地になっているところですね。ここが竹山原になりますけれども、この竹山原が沖縄市の所有する約32万2千平方メートルの土地があります。当該土地の全部または一部が嘉手納弾薬庫の施設区域にふくまれているのか定かでなく、復帰前は米軍が占有しながら軍用地料の支払いも為されていなくて、市が利用できない状態になっていました。すなわち、現在は軍用地でないことはわかったのです。このことは、地図でも明らかなように国の主張を取るならば、他の土地と有機的一体として機能しておると思われるが、なにゆえこのような基地の中に、基地でない部分として取り残されたのか、理解に苦しむものであります。

 沖縄市はこの土地を利用計画を策定しアクセス道路を付けたりし、利用できるようにしてほしいと、市長の訪米の際に米国や日本政府に要請したことがあります。そのことは当然、要求として当たり前でありますが、未だに通行できなくて困っております。このことをみても嘉手納弾薬庫の保安用地の区域を決める基準がいかにでたらめなものであるかといえると思います。ちゃんとした基準があれば、このような事態は発生しないはずであります。基地の中にこのように基地でない部分が取り込まれるということは有機的一体的な国の主張になじまないというか矛盾する点であろうかと思います。

 次に矛盾の例として、わたし自身の体験を述べます。わたしは沖縄市字かくえ、*あまるばる685番地の土地を所有し復帰時に契約拒否をして公用地暫定使用によって嘉手納弾薬庫施設用地として10年間強制使用されてきました。わたしは復帰前に米軍支配の下で銃殺を覚悟で嘉手納弾薬庫の敷地内に夜忍び込み、ヘッドランプの明かりで、セメントを積み上げながら、豚舎を建設して養豚も1970年から復帰後の1981年まで約10年余り、営んでおりました。

 1980年8月に県の公務員を辞職して1981年から公用地法の強制使用の下で、軍用地の跡地利用計画の実験農場として牛舎建設の計画をいたしました。合法的に建築確認申請をしながら、いろいろと難問題もありましたが、知恵を出しながら、受理してもらい、建築をしました。いよいよ、肉用牛の導入から本格的な肉用牛経営を中心に据えた立派な農業になりました。時あたかも1982年の米軍特措法の適用を沖縄の反戦地主に行った時でありますが、わたしの土地はこの米軍特措法が適用できなくなって、返還せざるをえなかったのです。

 米軍特措法の適正且つ合理性に合致しない農場が出来上がったから、でありますし、同法の適用ができなかったからであります。

 この土地がスライド1の後方のですね、ちょっとみえにくいですが、東南植物園がこの辺にありましてね、ここに白い部分が、ちょっと見えにくいですが、この紫から上の方、キャンプシールズがありまして、その上のこの白い部分ですね。約1万7千平米ありますが、この白い部分はわたしの土地です。この土地は、東南植物楽園のほうから、沖縄市の火葬場に抜ける道路で、市道38号線からこうして道路を挟んででですね、嘉手納弾薬庫の第三ゲートに抜ける道路がありますが、この道路を含めて、この周囲は全部軍用地の中、になっておりまして。この軍用地の中で、1982年にわたしの土地がいわゆる解放されて現在に農場になっているところです。スライド2を映して下さい。

 この航空写真は拡大写真で全体を映していますけど、嘉手納弾薬庫はこちら辺からですね、すべて弾薬庫のなかです。ずっと上の方までですね、で、こちらからいったところが、キャンプシールズに抜ける道路になります。え、そしてですね、この、道路をですね、これが東南植物楽園からこれ、第三ゲートに抜けていく道路になりますけれども、この道路を含めて軍用地で、わたしの農場がこういう風になります。これ以外は、すべてこの近辺は軍用地だということになります。それで、次に3のスライドをお願いします。

 ちょっと大きくいたしました。この航空写真のなかでわたしの農場がアップしておりますけれども、この部分はいわゆる牛舎になっております。そして、ここの茶色っぽい部分がありますけれども、これが米軍時代に豚舎をつくった所であります。こっちのほうが現在堆肥の乾燥場などがあるところです。そして、ここのビニールハウスがこうしてざーっと並んでおりまして、ここは草地になっているところです。この後にですね、これでお分かりのように、基地のど真ん中に、わたしといっしょに、三筆が実が1972年に解放された。しかし、わたしは一応実力で解放してもらった訳ですけれども他の2名の方はわたしといっしょに返されまして、この方はなにも利用しないで、返還されました。いわゆる虫食い返還であります。この虫食い返還こそは、起業者の言う。いわゆる有機的一体として機能している云々の主張が自らの行為によって、いわゆる虫食い返還によって、否定することになり、矛盾をさらけだす結果になったのです。有機的一体として機能している云々をいうならば、竹山原やわたしの土地はどのように弁明なさるのか、理解に苦しみます。

 基地のど真ん中に返還することは出来るならば、比嘉良子さんの土地は前回阿波根弁護士が述べたように県道74号線の道路に沿った黙認耕作地の土地です。返還しても支障のない所ではないでしょうか。このように起業者の主張する保安用地の強制使用を申請しておる土地が、他の契約している土地と有機的一体として機能してい云々は具体的な矛盾点を見ても分かるように、保安基準のでたらめさが明らかにされました。このことは本件各土地は黙認耕作地の中にあるので、裁決申請の却下をしても良いものではないかというふうにわたしは考えます。

 さらに基地立ち入り調査の結果を下に必要不可欠なものかについて、貴収用委員会で厳正なるご判断をなされるよう希望し意見陳述を終わりたいと思います。よろしくお願いいたします。

(拍手)

当山会長:え、引き続き今度は嘉手納飛行場の意見陳述に移りたいと思います。まず最初に島田正博さん。


  出典:第7回公開審理の録音から(テープおこしは比嘉


第7回公開審理][沖縄県収用委員会・公開審理][沖縄・一坪反戦地主会 関東ブロック