沖縄県収用委員 第5回会審理記録

浦崎直良 土地所有者


浦崎直良:

 伊江島補助飛行場に土地を持っております地主の浦崎直良(うらさき ちょくりょう)でございます。

 まず最初に申し上げたいのは、いろいろ政府がわれわれをいじめるために、法律をつくってがんじがらめに縛り上げているわけでありますけれども、ここにいらっしゃる収用委員の皆さん、もうこの人たち以外にはわれわれを守ってくれる人はいないと。そしてまた、支援団体の皆さんと、こういうふうに考えておりまして、伊江島の問題を3時間でということになると、私極めて不満でありまして、実は4日間ぐらいやらないと、伊江島のわれわれの言いたいことは言えないわけでありますけれども、きょうは時間がありませんので、15分間ということになっています。でも、私はやはり、15分でおさまらないかもしれませんので、そのあたりご了承お願いいたしたいと思います。

 まず、私は国賊ではありません。防衛庁並びに橋本総理大臣の言いぶりからすると、反戦地主、契約をしない地主は国賊であるかのように、一般の国民があのラジオ、テレビを見ますと、やはり国賊だと思うわけであります。それなりに地主というのは、立場、生まれてここまでくる間の歴史の中で、やはりそれぞれの思いが、土地に対する思い、長い体験の中の思い、いろいろ重なって、その中でやはり軍用地契約を拒否するわけでありまして、その点、決して誤解をなさらないようにしてもらいたいと思います。

 まず私は、この軍用地、軍用地料と普通言われておりますけれども、伊江島でも軍用地がなければ伊江島の人はまるでみんな死んでしまうかのような報道がなされ、またそう思っている人もいるわけでありますけれども。この伊江島の軍用地料というのは、伊江島の総所得のうちのわずか10分の1にも足りないわけでありまして、決してこの伊江島の軍用地使用料そのものが伊江島を、これがないからといって伊江島が沈没するわけでもありません。むしろ、この軍用地料そのものに絡まって、この奪い合い、利権の争いがありまして、軍用地使用料があってからこのかた、これを中心に、親兄弟、家庭が破滅をして、今や分裂状態というか、むしろ親戚縁者もくそもなくなっているわけでありまして、決してこの軍用地料そのものというものは、人間の心を蝕むものだと、決していい金ではないなと、汗水をたらさないで、やはりこう入ってくる金というのはあまりいいものではないなということを、私はしみじみ感じて、そういう立場からも軍事基地には絶対反対する、そしてまた、こういうような結果を生むようなものには貸さないという固い決意を決めて今まで頑張ってきているわけであります。だからといって、決して国賊ではありません。

 それから、申し上げたいと思いますけれども、伊江島の軍用地使用料は、これは伊江島の平成8年度の産業祭の資料、これは役所がつくった資料の中でございますけれども、この中で伊江村民が受け取る軍用地使用料は8億6200万円でございます。これが軍用地料でございます。

 ところが、農業所得、サトウキビ・葉たばこ・肉用牛・乳用牛・切り花・ユリの球根・カボチャ・サトイモ・トウガン・さつまいも、いろいろな野菜、農産物を含めますと、この所得が44億2098万1000円というふうになっております。それから給与収入、年金、恩給法による年金、援護金、児童手当、生活保護費、農業ネンセンイ金(?)、固有財産収入、それと軍用地料を合わせましても38億9181万4000円。それに、また水産業の所得は4億5651万6000円でございまして、この三つを合計いたしますと87億6931万1000円。その中に含まれている10%足らずの軍用地料であります。

 こういう軍用地がなくなっても伊江島の将来にとっては大変なことになりません。むしろ、それ以上に私は、今の軍用地が、そのまま存続をして続いていくならば、いつの間にか、この軍用地料をあてにして働くことを忘れ、勤労を卑しみ、そしてこれに絡んで親兄弟が角突き合わせて生きていくという卑しい心が生まれはせんかと。私はそういう意味から、私は今までそれを現に見てきました。大変なことでございます。親も兄弟も、もう挨拶をしない。そして、もう将来縁を切ったと。これが軍用地使用料の結果であります。そういう意妹からも、私は決して、この軍用地がいいものではないと、そういう意味からも軍用地というのは開放すべきだと考えております。

 それから、これは私は農家でございまして、農家の四男坊で、私だけではなくて、私浦崎一門の持っている土地は、どういう土地かと申しますと、この土地に対する思い。これも、やはり防護庁の皆さんも、収用委員会の皆さんも、政府もわかってもらいと思います。人それぞれ、いろいろな生活の中で変わってくるのがありますけれども、平和を求める心というのは、だれにも変わりないと思います。

 私は四男坊、男5名・女3名の8名兄弟でございます。長男は防衛隊、次男は南部戦跡石部隊で亡くなっております。三男は、あの戦時中、上海にここから陸軍で行って、軍隊に行って終戦する2ヵ年間歩き続けています。何も戦争もしない。歩きばかり。歩いてどこへ着いたかと言いますとタイです。支那大陸を縦断してタイまで歩き続けている。戦争もしないで途中、向こうについたときには9割の人たちが死んで10%の人間しか生きなかったという。そういう悲惨な戦争であります。そして帰るときには、沖縄関係の遺骨を4名の遺骨を持って帰ってきた。これも遺骨全部持てないから、爪ばっかり切って持ってきたと、こういう実例もあります。

 そういう時代でありまして、そして、この私たちの土地は約6000坪ぐらいあったわけで、今は私の長男・次男・三男、分けあっておりますけれども、この土地は実は大変貧しい家庭でございましたので、次男が15歳、三男が13歳に、いったんは糸満に移されましたけれども、そこから、またまたまた売られまして南洋の仲井間(仲井真)さんという家庭に売られて、徴兵検査まで、その金額は合計で140円だったという話しを聞いております。そのときに私も、ちょうど夏休みでございましたので、私まで売られようとしたわけです。私は糸満に体験入学、イチマナー(糸満の人)として。ところが、向こうに行ってみると私の性格に合いません。20日間おって、1日も私に就労させることができずに、那覇まで歩いて行って湧上聾人という当時の衆議院に立候補した、今これ湧上聾人ということだけは覚えております、その人に実はこうこうだと、今売られようとしていますと言ったら、いろいろ書いてもらって拇印を押して、そして私は伊江島に帰ってきた。帰ってきて、海軍志願をしたんです。貧乏だから学校を出ることはできない。小学校6年卒業して、その次は学校でも出ようかと思ったけどそうはできない。イチマンウイ(糸満に売られる)されようとしたものですから。そしてキチロウ先生という先生に説得をされまして「直良君、勉強をしたいなら伊江島におってはできない。大和に行け」と。どこかと思ったら海軍志願なんです。「海軍の学校に行って勉強しなさい」と、シンキチ先生に言われるままに、私は勉強したくて海軍志願をして海軍に行ったわけです。

 ところが、海軍へ行ってみますと、そこでは差別が待ち受けておりました。何かすると「沖縄だろう」。「朝鮮だろう」。「台湾だろう」。これが隊長の言葉なんです。しかし、幸いに海軍で命拾いいたしまして電気学を学んでまいりました。これはひとつ生活に役立てておるわけです。

 こういう、いわゆる私たちの持っている今の土地は、次男・三男を南洋、糸満に売り飛ばしての金なんです。これでも病気を治すことができなくて、親父は私が16歳のときに逝ってしまいました。結核でした。

 そういう思いを持っている土地を、しかも強制収用、アメリカの300名の軍隊、完全武装した兵隊がやってきて、真謝区に飛び込んできて、私たちは阿波根さんを先頭に、この土地取り上げを何とか阻止しようということで、団体交渉をして、武器を持たずに、手もあげずに、優しい声でという統一したものをつくって、いろいろ訴えてきましたけれども、とうとう強制収用。軍事力によってやられました。

 そして、われわれ団体交渉をしている裏に、私はシッコをしに行ったら、どんなことが起きていますかというと、われわれには団体交渉をさせておいて、裏ではどんどん測量をやっておりますね。そして、その裏のスナドーバルの沿帯にはバラ線、ぐるぐる巻かれたバラ線を張りまわしておいて、その中に並里清二さんが括られて、ぐるぐる巻かれて呻いている。それを私と仲井間憲長さん、亡くなりましたけれども、二人で何とか助けようと思って方言でやったら、そして、どうにもならん。銃剣つけられたらならんから、阿波根さんにまた連絡をして、阿波根さんと3名でやったら、われわれ3名も、また一時留置されました。

 こういうふうなことで、一体、われわれは戦争終わって、平和な時代がやってきたなと思っておったら、またこういうことが起きると。そのときに、やはり、こういう非人道的なことをやって土地を取り上げる、その狙いはどこにあるのか、そのときから闘いの気持ちは起こっております。

 それから、この並里老人は刑務所にも、裁判にもかけられておりますし、その問題については阿波根さんからも、いろいろ新聞や雑誌にも出ているわけでありますけれども、これは、ここまできた米軍の占領意識丸出しの土地の取り上げのやり方は、終戦直後から仕組まれたものであると私は思っております。

 それはなぜかと言いますと、土地整理、戦後、戦争で荒れ果てた沖縄の土地を測量をして、境界をただしていこうと、測量が始まったわけです。そして真謝区からは私、浦崎直良と石川セイフさん、それから西江上区は仲間(名嘉真・仲真)アキオさん、山城カマジさん、阿波根ショウセイさん、山城チュウジさん。この方々の中でも元気なのは、もう私と阿波根ショウセイさん、二人しかいません。これだけが今問題になっている真謝区の西江上区の土地調査員でありました。そして、そのときに測量した土地は、あれは全部間違いなんですよ。合いません。土地の測量、不合格なんです。どうしてかと言いますと、土地の測量器はアメリカ寝台の骨があります。そのカシの木をちょっと手のこまめな人、仲間(名嘉真・仲真)アキオさんが日曜大工で作って、そして馬の尻尾を前にくっつけて、これで測量をやったんですよ。そして、あれだけのたくさんの木や茅が生えているものですから、自分の畑に行っても境界は分からないわけですよ。境界は分からないですから、われわれは5名ともみんな測量をするときには、あの運動会に先生が持つビリビリ鳴るやつ、これをみんな持っているんですよ。なぜかと言うと、あれだけの演習地内は、どこに宅地が、どこに何があるのか分かりません。どこを歩いて、どうなっているか全然分からん。お互いにビービー鳴らしながら測量をやったのもです。しかも、測量器がそういうもの。馬の尻尾と寝台の骨。そして、また引っ張る縄はどういうものかというとアメリカの電線、あれを引っ張って、あれは1軒ごとに白い布をつけておいて、これを引っ張ってケン縄なんですよ。そして、ポールはアメリカのテントのポール。これにいろいろ赤いの白いのをつけてポールにしたんですね。

 これで4ヵ年間で、この測量を終わったわけです。現在のような精密のものであれば間違いないと思いますけれども、これは不合格なんです。というのは、西江前区と、われわれ西江上区との境界が絶対図面に合いません。それから、また東江上区と、われわれの作った西江上の図面が全然合いません。そういうことからして、しかもそれがあの時代は、みんな食うものがなくてソテツを食っている時代でありましたので、土地調査というのは、しかも戦争のあとならば、国が責任を持って測量をさせるのが当然でありますけれども、これを個人負担させたために10円だったか、10銭だったか、もうそれは忘れましたけれども、畑、宅地は10円と記憶しています。B円時代ですから。それから、山林原野、雑種地は5円……5円だか5銭だか、とにかく半分でございました。

 そして、いろいろ測量やってみますと、測量はやったけれども、この測量手数料が取れないんです。なぜかと言いますと、払う金がない。ないから、どういうことになりましたかというと、個人個人は、今、畑とか宅地というものを、これを山林原野に直してくれないかと。そうすれば半分で済むからということになって、今の、ほとんどが演習地内のものなんですけれども、今の軍用地、そこはほとんど山林原野に、もう金取れないところは全部調整をしている。特に阿波根さんなんかのところの場合は、ほとんどが畑ですけれども、ほとんど今山林になっています。こういう土地の、畑、宅地、山林、原野、地目によって調査料が違うものですから、払いきれない。そういう意味で、伊江島の軍用地の地目はそういうふうになっております。

 私たちは、収用委員会ができない先に、私たち今の反戦地主のグループは、10・10空襲、年代はもう私の頭から忘れていますけれども、アメリカ軍が写真を、伊江島の上空から撮って、それに基づいて図面が作られております。私、きょう持ってまいりました。その中に、伊江島は家屋全部写っているんです、黒く。ミジゲーシーリ(雑廃水の溝)まで写っています。馬小屋まで写っています。私たちがこの測量をするときに、考えてみるとわれわれそのときは軍用地という頭にないわけです。今から考えると、この軍用地内はそっくり畑を認めてくれません。県の指導員、古波蔵という人でしたけれども、この人ともだいぶ張り合って、そして、地目は畑だと。われわれは高く取りたいですから、山林、原野にすると取るのはありませんから、宅地の写真のあるところは宅地という主張やったんですけれども、けんもほろろで、われわれもとうとう引っ込んでしまって、村と交渉しました。

 村は、できるだけ不明土地をなくするな、不明土地が出てくると、将来これを整理するため、村は大変なことになるということで、われわれが畑や宅地であるものを山林原野にして、この調査料を集めやすいようにした。畑にでもしてもっていこうものなら、鎌を研いで、追い散らされてしまうと。私は特に集金人でございましたので、そのときに。図面を作ったり、暇が出たら集金に行ったりしていましたが、何度か鎌でやられました。傷は負わなかったけれども、「ヤー ハナダヤー(お前 鼻たれもの」と言われて、どんどんやってきたことがあるわけであります。

 そういうように、今から考えれば、ああ軍用地使用料というのを頭において、日本政府とアメリカが話し合いながらやらせたのが、あの土地調査だったんだなと。このあたりについても、あのときの調査料は国が負担すべきだったんじゃないかと、つくづくそう思います。私、きょうここに立ちますのは、そのときの軍用土地調査員である。そしてしかも、この集金をたやすくするために、畑や宅地を山林原野に書き替えてくれた事務局に頼んでやったのは私なんです。私は、きょうここに立って、伊江島村民の地主の皆さん方に、この地目が山林原野になった罪滅ぼしのためにも、ここで証言をしておきたいと、そう考えております。そういう状態でありました。

 それから、一体、私たちは当たり前のことを堂々とやっているのにすぎないのに、どうして政府は、あるいは防衛庁は、いろいろ言うんでしょうか。今度の新しい法律がつくられて、あとで弁護士の先生方もおっしゃると思いますが、もはや沖縄県収用委員会の権限はないと言われております。一般では、そう言われています。「ナーイーチューサンドー」と。何もできない、形だけだと言われています。しかし、私は信じています。もう沖縄県民の利益を守れるのは、もう収用委員会しかないと。皆さん方を信じて、私はきょうここで訴えたいと思います。

  時間がございませんので、いろいろ申し上げたいのはたくさんありますけれども、以上、申し上げます。どうぞ、収用委員会の皆さん方が、真謝区の立場、われわれ反戦地主の立場を、そしてもう一つ言いたいのは税金の問題であります。税金、一体、税金でいくらいじめれば、われわれが降参すると思っているのかと。どんなことがあっても「はい、契約します」と言いません。その中で、収用委員会の皆さん方が温かい気持ちでご努力をなさって、反戦地主の権利を守ってください。お願いします。(拍手)

当山会長:

 では、続きまして平安山良有さん。


   出典:第5回公開審理記録(テキスト化は仲田

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