沖縄県収用委員 第5回会審理記録

平安山シズ(へんざん しず) 伊江島反戦地主


平安山シズ:

 こんにちは。反戦地主の平安山シズです。

 えっと、今日は、わたしはここで、やりますのは、家族にも、それから、友達にも、どこでも、話してはいませんけれども、今日、あの、やって見たこと、やったこと、それから、あの、行動したことを、あの、話したいと、思います。

 あの、なぜわたしは反戦地主かと、あの、いうのがですね、あの、去った戦争で、大変苦しい思いをしてきました。あの、わたしは、6名の兄弟で、あの、父が兵隊、それが、兄が防衛隊という、あの、そういう戦争で、父も兄も犠牲になって、それでわたしは、あの、義務教育を受けていません。無学です。

 そういうことで、原稿も、記録もなにもないという、立場で、手放しの状態で、一人芝居、だと思うんですが、あの、どうか、あの、受け止められるみなさん、あの、わたしの、これから、発表することは、あの、みなさんで、いい方向で受け止めていただきたいと、いうことを、最初に前もって、あの、申し上げたいと。

(拍手)

 それで、あの、わたし、わたくしが、ほんとに戦争のために、あの、父も失い兄も失って、あの、そう言うために家庭を助けるために、あの、屋我地やそれから那覇に、那覇辺りで、子守、それから女中奉公という、小さいながらですね、母に連れられていって、それで一年の子守の挙げ句、といったらおかしいんですけれど、そういうもの、ことをされてですね、わたしは、ほんとに戦争犠牲で、犠牲と、わたしはそう思っているんです。ですから、戦争は絶対あってはいけないと、いうことがですね、その、反戦地主、というわたしのその信条です。(拍手)

 それで、あの、53年から、54年、55年にかけてですね、土地接収が始まったわけですが、あのちょうどその時にはですね、あの、わたしが、その、まあ、年頃になって、あの、その、帰ってきて、島に帰ってきて、結婚し、それから、新しい、あの、その、生活に、あの、生活設計を受けて、わたしはやっていこうという最中に、あの、その、十三戸の立ち退きと、あの、がありましたんです。そういうことで、その十三戸の立ち退きに、そんなに300名余りの米兵がやってきて。すると、何十台もトラックが上陸して、来てですね、ブルトーザーも。そういうことで、わたしたちの十三戸の、あの、人家を、わたしの目の前で、潰したんです。潰すのは、私ら見て、ほんとにこれが人間のやることかと、わたしはその時そう思いました。

 で、あの、この、ある一件の家がですね、ちょうど子供が麻疹にかかっている家が、おばあさんが、今日はどうしても待ってくれと、子供が熱を出して、いるから、ということをお願いしても、米兵は、あの、聞き入れずに、もう、土足でこの家に入り込んで、それで、荷物もそれから人間もみんなトラックに載せて、あの、その、もう、ものの何分間に、家を潰した。ブルトーザーで家を潰すのは、わたしは見ました。この目で。

 そういうことで、わたしの兄も、その、十三戸の、ああ、姉ですね、姉の家もその十三戸のなかに入っていましたので、夕方になってですね、5時頃だったと思うんです。行ってみたら、もう押しつぶされて、それで、火をつけられて、その2軒の家がくすぶっているのをわたしは見て帰ってきました。

 そういうことでですね、もう二度と戦争はいらないと、いうことからですね、あの、ことの始まり、わたしたちの部落に、それで、あの、両、西崎部落、真謝部落、両部落が、接収の始まりだったんです。

 そういうことでですね、あの、これ、まあ、それが、えっと、58年頃だったと思うんですが、ちょうどわたしが次女を生んでですね、ちょうど大体6カ月くらいになったかと思うんです。まあ、大体の話なんですが、真謝部落と西崎部落は、全部その射爆場に土地を接収されて、食べる物もない、それから、もう着る物もないという、すごい苦しい生活が続いていたんです。そういうことで、あの、その、射爆場では、もうジェット機がですね、射撃演習を、もう毎日、行っているんです。

 そういうことで、その当時は一番金になったのが、そのスクラップ、それと落ちてくる弾ですね。弾。それを拾って、わたしたちは生活を補ってきたんです。だから、命というのは如何に大事かというのが、もう感じさせられました。

 それで、わたしたち、その真謝部落民、西崎区民、それで、大人から子供まで、弾拾いに射爆場に入り込んで、そのあの、ジェット機がですね、落ちてくる弾をめがけて、一同に走って行くんです。みんな、その弾をめがけて。そういうことがあってですね、弾をめがけて走っていくという、あの、その、馬鹿がどこにいるかと、思われるかも知れませんけど、やはり、命をですね、あの、繋いでいくためには、そういう手段も取らなければ行けなかった状況、です。

 今考えると、そんなことはあってもできないことです。それで、わたし、わたしたち婦人、わたしたち隣近所の婦人がですね、子供をおぶって、弾拾い、やっきょう拾いにいったんです。朝、演習がないうちに入り込んでですね、海岸近くのその、壕のなかに、戦争で使った壕のなかで、飛行機の来るのを待って、それで、ジェット機が、爆撃しにきたんです、低空して。それで、一同に弾拾いという、その5名の、あの、婦人が、子供をおぶってですよ、あの、走ろうとしたら、ジェット機の爆音で、子供は、ものすごく、あの、泣いたんです。その、爆音恐怖症になって。

 それで一日中壕のなかで、この5名がやっきょう拾いどころじゃなかったです。その壕のなかで、子供といっしょに、子供がずっと泣きどうしで。もう5名の子供が、わあわあ、わあわあして。後は、わたしたち母親まで、泣いたんです。なんでそんな苦しい思いをしなければならないかと。

 ということをですね、まあ、みなさんに、訴えたいんです。そういうことが、あってですね、まあ、5時あがって、演習もあがって、家に帰っていったら、子供はもう、泣き止まないんです。夜通し起きては泣き、起きては泣き、どこの子供もそうだったということを後で反省して、まあ、こんなに、自分の子供を、腹を痛めて生んだ子かわいい子がこういう目にあわすと言うのも、申し訳ないなあという思いでした。

 それからまた、いろいろあるんですが、あの、50、ああ、66、7年頃だったと思うんです。そのときちょうどベトナム戦争が激しい頃だったんじゃないかなとわたくしは覚えているんですが。で、農民は、その当時までは、保育所もない、それから、全部のら仕事に子供をつれて、仕事に、あの、行って仕事をしたん、連れていって仕事を、あの、するんですね。そういう仕事をしている時期に、あの、その、パラシュート訓練が、ものすごく激しい時期でして、その、子どもたちがですね、その、コーラルを積んで、高く積んであるところで遊んでいたら、空からこのパラシュートが落ちてきて、子どもたち4、5名で遊んでいるところに落ちてきて、子供がその、高いところから、ごろごろ、子供が転がり落ちたという。それで、あっちこっちみんな怪我したということもあってですね。

 2回目はですね、わたしが芋を掘りに、一番末っ子、末息子を連れていって、芋掘りにいったら、そこで又パラシュートが空から落ちてきて、この子の上におっかぶせて、あ、気絶したんです。そういうことで、わたしはもう、あまりの悔しさに、もう、鎌を持ってですね、その米兵に立ち向かうこともあったんです。どうしてくれるのかと。ということで、そうもいっていられない、早く子供を捜して、ということで、きたら、もう、子供は、この落下傘の下で真っ黒になっているんです。そういうことで、わたしはこの子を抱き抱えて、背中を叩いたり口に指をあてて、もう、息を取り戻させるのに懸命でした。

 やっとのことで、大声で泣き始めて、わたしはほっとして、米兵に、どうしてくれるのか、ということで、その米兵が、ママさんどうもすいませんというような、手振りで、やっていたかと思うんです。そういうことがあってですね、3度目はですね、わたし家族が、昼、昼食を取って、昼休みをしている、大体2時頃だったと思うんです。また、屋根の上にですね、納屋ですけれども、その屋根が、納屋はまだあるんですけれども、その屋根の上に落下傘が、どどんと落ちてきてですね。外に出てみたら、やはり、米兵がベラベラベラベラしゃべっていたんですよ。それで、その、パラシュートは大きいもんですから、あの蜜柑の木やら、いろんなところにおっかぶされて。そして、いってみたら、屋根瓦が3枚ほど割れていると、いう、割れているということもあって、その、納屋は、おじいちゃんおばあちゃんが、あの、の、寝床の場所だったんですって。それで、雨漏りするというようなこともあったし。

 で、4度目はですね、ちょうど、またわたしが芋を取っていたら、そのそばの、その、畑のそばに、モクマオウの大きな木があるんですよ。そこに、全部ぶっかぶせて、その大きな木にひっかかってですね。もうその時には、米兵一人で、あの、その、落下傘を取り外すのに、約一時間余りかかったんじゃないかと。わたしは見ていないふりをして、自分の仕事をこつこつとやっていたら、やっと、時間をかけて、取り外して、それで、あの、荷物をまとめて、担いで、わたしの前にきたんです。それで、何を言うかと思ったら、もう方向音痴だったんでしょうね、あの、その米兵が来る頃は射爆場中心地、西の方ですけれども。それで、ああ、わたし、分かったと言って、今度は仕返しをやってやろうと思ってですね、あの、わたしはオートバイを持っていたので、その時までは車はなかったんです。オートバイクに乗せて、全く方向の違った、城山のですね、下の大通りの真ん中に降ろしたんです。(拍手)

 そこがね、あなたが行くところは、東の方の海端に行きなさいといったら、その米兵はですね、どうもちがうなあノーノーノーと言ってたんですよ。いや、もうわたし分かったことじゃない、あなたはここからどこにでも行けばいいでしょうということで、わたしはオートバイをですね、走らせてもう帰って、自分のしたことを、なんでそこまでしなければ、もう芋の50キロも60キロくらいは掘っていたかもしらないと、もうわたし、ほんとにそういう思いもしたんですが、でも自分に、自分を言い聞かせて、わたしがそういう行動をしている、あの、ことには、どこかで、ベトナムで、それで戦争勝利、の、あの、つながるんじゃないかという、わたし*こともあるんです。

 そういうことでですね、ほんとにそれはほんの一部、わたしはこのことを誰にも話していません。ほんの一部であって、野良仕事をしているそのそば、いろんなところ、あの、屋根の上なんかにも、演習弾がぽんぽんと。それでまた西小学校辺りにも、演習弾が落ちるという状況。だから、わたしたちは42、3年間の間に、一日も安心した生活を送ったことはありません。

 それでですね、あの、伊江村民がですね、あ、土地契約に関して、好きこのんでやったわけではありません。

 防衛庁は、わたしたちの家になんどもなんども足を運んできて、いやがらせ、それから、ものを持って来てすかす。そして、また、いろいろと協力金、というような、そういうことをやって契約に応じる人たちが大勢いるんです。

 ですからですね、なにがなんでも、金より命。もう平和がなければですね、金が、金はいくらあっても、わたしは駄目だと思うんです。そういうことでですね、まあ、収用委員の先生方。わたしたちの意見を、十分検討なさってですね、審議なさっていただきたいということを切にお願いする次第です。

 まあ、言いたいことはたくさんあるんですが、まあ。伊江村はですね、農業生産が、わたしは第一の、伊江村の活性化に、あの、繋げていく、いくんじゃないかと、わたしはそう思います。で、いつまでも、基地使用料に頼っていたら、人間は駄目になると、わたしはそう思います。

 ですから、その、ことをですね、あの、よろしくお願いして、わたしのいたらない、あの、意見ですけれども、終わらせていただきます。

(拍手)

当山会長:はい、ありがとうございます。それでは、次に石川ハルさん。


  出典:第5回公開審理の録音から(テープおこしは比嘉

第5回公開審理][沖縄県収用委員会・公開審理][沖縄・一坪反戦地主会 関東ブロック