1945年8歳の夏に北京で迎えた敗戦。少年は住んでいた社宅を追われ、家族と共に郊外の収容所で一冬を過ごし、やがて引揚船の噂が出始める。だが収容所に春が訪れたとき、クリークの氷が緩んで悲劇が・・・瑞々しい短編を15回限定でお届けします。
2008.11.13第15回にて完結いたしました。
近日中にリンクを整理して当サイト内の本文をご案内いたします。
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Vol.0(2008.07.31創刊準備号)
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僕等は侵略者の子供達だった
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゜οO◯1946年、北京から引揚船で送還された少年の物語Oο。゜
1945年8月15日、8歳の夏、著者は北京の国民学校の講堂で、当時の「国民型」ラジオ受信機から流れる全く意味の分からない、「チン」で始まる奇妙な声を聞きました。その後「チン」というのが天皇のことであり、日本が無条件降伏したのであり、戦争に負けたので、これは敗戦であると教えられました。
以後、しばらくの間、著者の一家は、セメント工場の技師の父親が働く北支那開発公社の社宅――そこには社員の数家族が一緒に暮らしていましたが、元は中国人富豪が住んでいた宏大な高い塀を巡らせた城郭のような屋敷でした――の重い扉の内に閉じ籠もることになりました。外出は禁じられました。
その間の非常に印象的なある日の出来事に始まる著者の戦後史を、15年後に、8歳から10歳の頃の子供の文章として綴り、同人誌上で発表しました。現在読み直しても、みずみずしい感性の息づく文章です。
その文章を元に15回に分けて、引揚げに関する参考写真・文献などを資料編として引用しながら、お送りします。引揚時、写真の持ち帰りは禁じられていたので、著者の当時の写真は残念ながら残っていません。
以下は、一部を引用した予告編です。
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時 代 の 始 ま り
あの日、古びた重い鋲打ちの木の扉をパラパラと叩くつぶての音が、僕にとっての敗戦の知らせであった。その小石を投げていたのが、顔見知りの朝鮮人の子供であったことは僕を悲しい静かな怒りで満たしはしたが、僕はそれを誰に向ければいいのかは知らなかった。彼等の甲高い日本語の罵声、ぼんやりと、しかしなぜか、心の中ではっきりと意味が掴めたと思えるあの奇妙な、そして僕等の喧嘩のルールに外れた言葉、その激しい響きが最初から僕をうちのめしていた。
「お前等、アメリカ兵が恐くて外に出られないんだろう」
僕はそれまでにアメリカ兵なんて見たこともなかったけれど、そう言われて、何も言い返せなかったのだ。僕の手は、手垢で黒光りした鉄の把手をカタリと落としていた。
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(本編をお楽しみに)
著者 木村愛二:1937年父の転任先の山口県生まれ。福岡県で育ち、1942年に北京に渡り、敗戦の翌年1946年に福岡県に引揚げる。その後は東京で成人。両親はともに九州人。
補足:著者の父(注1)は、セメント会社の技術者で、徴兵はされず、その代わりに、北京郊外の北支那開発公社(注2)の工場に出向になりました。一家は単身赴任の父親の後を追って、戦争中、北京に住み、そこで敗戦を迎えました。
敗戦後、民間人の一家は、北京からの引き揚げの際には、自分たちが身体で運べるものしか、持ち帰れませんでした。
いわば「着の身、着のまま」で、北京から港までは石炭輸送用の無蓋の貨物列車で、その先はアメリカの大量製造の軍用輸送船、リバティで、九州の佐世保港に送還されました。
港で、上下を破いた袋を被せられ、米兵からDDTを散布され、貰えたのは、大人から赤ん坊まで含めて1人当たり、新円の千円札が1枚だけでした。
父の務めた北支那開発公社は国策会社でしたが、公務員でも軍属でもなく、そのため恩給ともまったく縁がありませんでした。
九州にあった両親の自宅は、製鉄所が爆撃される時の延焼を避けるために、政府当局によって、破壊されていました。
(注1)父 木村勲:戦前の旧制の帝国大学時代に九州大学工学部に学び、旧・浅野セメントに入社、中途、北支那開発公社(注)に出向し、敗戦後、現・日本セメントに戻った。下関工場の生産課長から本社の生産課長として退職するまで、セメント工学の技術部門の職を歴任し、定年退職後に嘱託として付属研究所に通って研究を続け、九州大学工学部で博士号を取得し、鹿児島大学に工学部が出来た直後、主任教授として赴任した。当時の弟子が、その後、日本セメントの本社生産課長を継いだ。
(注2)北支那開発株式会社(1938年11月7日設立)の記憶違い?
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僕等は侵略者の子供達だった
発行システム:『まぐまぐ!』 http://www.mag2.com/
配信中止はこちら http://www.mag2.com/m/0000269825.html
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| ◆資 料 一 覧◆ |
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第1回 8月7日 |
写真1:『百度百科 頤和園』より 「頤和園」(Summer Palace) 写真2:『中国古代建筑?(囗+冬)例 自藕香?(木+射)望万寿山和佛香閤』 写真3:『敗戦・引揚げの慟哭』より「ホームに座り込んだ引揚者」 文章:『北京旅行 北京観光スポット』より「頤和園」 文章:『感動大陸』より万寿山(まんじゅさん) |
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第2回 8月14日 |
写真1:『北京の路地』徐勇 新潮社 1994年4月20日より引用 写真説明:胡同 フートン39.垂花門(二の門。四合院住宅の内庭の典型的な門の形式である) |
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第3回 8月21日 |
写真1:『従軍カメラマンの戦争』写真・小柳次一 文/構成 石川保昌 新潮社 平成5(1993)年8月5日 63頁より引用 写真説明:戦友を葬る。昭和一三年一〇月、大別山系戦の直後。この写真も銃後の戦意を損なうとの理由で発表禁止とされた。 写真2:『検証・満州一九五四年夏 満蒙開拓団の終焉』合田一道 扶桑社 2000年8月10日 126頁より引用 写真説明:日本人開拓団の墓地の跡 詳しい内容は目次参照(クリックすると別ページが開きます) 参考:2008年8月13日、朝日新聞朝刊1面左下に政府広報が掲載されました。戦後処理はまだ続いています。
以下、税関ホームページを引用 |
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第4回 8月28日 |
写真1:『えっちゃんのせんそう』 |
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第5回 9月4日 |
写真1:『母と子でみる 51 20世紀の戦争I』写真・共同通信社 草の根出版会 2001年3月5日 90-91頁より引用 写真説明:市民が日章旗を振る中、保定に入場する日本軍=1937年10月18日(International News Photo) |
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第6回 9月11日 |
写真1:『戦時下の子どもたち』太平洋戦争研究会 ビジネス社 2006年12月13日 56頁「ワレラ皇軍、勝チ抜クゾ」より引用 図版3:『北京西郊収容所』草川 俊 光風社文庫 1995年9月10日(初版は1978年ハードカバー) |
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第7回 9月18日 |
写真1:『図説北京 三〇〇〇年の悠久都市』村松伸・文 浅川敏・写真 河出書房新社 1999年10月 94頁より引用 写真説明:「無邪気」に遊ぶ「淪陥時期」の日本人小学生たち。(「淪陥時期」:本文より「(前略)日本軍が北京を占領するのは(1937年)七月二九日、いわゆる「北支事変」である。このときから日本の敗戦までの約八年間、中国人たちは北京の『淪陥(りんかん)時期』と呼んでいる。(後略)」) ***************************************************
玉(たま)や, 玉。玉, 玉。 |
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第8回 9月25日 |
写真1:『従軍カメラマンの戦争』写真・小柳次一 文/構成 石川保昌 新潮社 平成5(1993)年8月5日 223頁より引用 写真説明:20年の元旦は長沙付近の小学校で迎える。ルーズベルトをつく餅つき。(ルーズベルト=アメリカ合衆国32代大統領) |
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第9回 10月2日 |
写真1:著者の幼年時代の家族写真(北京に渡る前のものです) |
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第10回 10月9日 |
写真1:著者の幼年時代(北京に渡る前のものです) |
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第11回 10月16日 |
写真1:著者の幼年時代(北京に渡る前のものです) |
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第12回 10月23日 |
写真1、2:『母と子でみる 52 20世紀の戦争I』写真・共同通信社 草の根出版会 2001年4月24日 91頁より引用(写真3:の全体写真を分割) 写真説明:湖南省の戦線で中国軍の捕虜となった日本兵=1944年2月2日(ACME) |
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第13回 10月30日 |
写真1:著者の幼年時代(北京に渡る前のものです) |
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第14回 11月6日 |
写真1:『在外邦人引揚げの記録』毎日新聞社 昭和45(1960)年7月7日 20-21頁より引用 この写真は『戦後引揚げの記録』若槻康雄 時事通信社 1991年12月10日にも掲載されている。『戦後引揚げの記録』の写真説明:「満州引揚げ基地コロ島にて 乗船を待つ引揚者の長い列。この付近で半月待つ間に何人も亡くなったという(昭和21年7月・同地桟橋)」 |
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第15回 11月13日 |
写真1:『戦後引揚げの記録』若槻康雄 時事通信社 1991年12月10日より引用。写真説明:「満州引揚げ基地コロ島にて 苦難の逃避行の末、引揚船に乗りこむ幼女(昭和21年7月・同地桟橋)」 |
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特別付録
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「91才のホームページ」(制作・「渡辺 梓」氏?) http://homepage1.nifty.com/zpe60314/ 膨大な量があります。その中の「私の世代・戦争・戦後」 http://homepage1.nifty.com/zpe60314/asedai.htm に、ご本人の軍隊経験をはじめとする戦争関連の記事があります。 |
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| 特別付録 | 終戦(戦争・敗戦・引揚げ関係のリンク集 西羽 潔氏のページです) http://www.rose.sannet.ne.jp/nishiha/senso/shusen.htm (戦争を語り継ごうhttp://www.rose.sannet.ne.jp/nishiha/senso/) |
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