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僕等は侵略者の子供達だった
◆◇◆創刊準備号 兼 資料ページ(↓)◆◇◆

1945年8歳の夏に北京で迎えた敗戦。少年は住んでいた社宅を追われ、家族と共に郊外の収容所で一冬を過ごし、やがて引揚船の噂が出始める。だが収容所に春が訪れたとき、クリークの氷が緩んで悲劇が・・・瑞々しい短編を15回限定でお届けします。

2008.11.13第15回にて完結いたしました。
近日中にリンクを整理して当サイト内の本文をご案内いたします。

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メールマガジン創刊準備号
■木村書店Web公開シリーズ4     ★等幅フォントで御覧下さい。★
Vol.0(2008.07.31創刊準備号)
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僕等は侵略者の子供達だった
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゜οO◯1946年、北京から引揚船で送還された少年の物語Oο。゜

 1945年8月15日、8歳の夏、著者は北京の国民学校の講堂で、当時の「国民型」ラジオ受信機から流れる全く意味の分からない、「チン」で始まる奇妙な声を聞きました。その後「チン」というのが天皇のことであり、日本が無条件降伏したのであり、戦争に負けたので、これは敗戦であると教えられました。

 以後、しばらくの間、著者の一家は、セメント工場の技師の父親が働く北支那開発公社の社宅――そこには社員の数家族が一緒に暮らしていましたが、元は中国人富豪が住んでいた宏大な高い塀を巡らせた城郭のような屋敷でした――の重い扉の内に閉じ籠もることになりました。外出は禁じられました。

 その間の非常に印象的なある日の出来事に始まる著者の戦後史を、15年後に、8歳から10歳の頃の子供の文章として綴り、同人誌上で発表しました。現在読み直しても、みずみずしい感性の息づく文章です。

 その文章を元に15回に分けて、引揚げに関する参考写真・文献などを資料編として引用しながら、お送りします。引揚時、写真の持ち帰りは禁じられていたので、著者の当時の写真は残念ながら残っていません。

以下は、一部を引用した予告編です。

☆οO◯Oo。・゜゜・♪οO◯Oo。・゜゜・★

時 代 の 始 ま り

 あの日、古びた重い鋲打ちの木の扉をパラパラと叩くつぶての音が、僕にとっての敗戦の知らせであった。その小石を投げていたのが、顔見知りの朝鮮人の子供であったことは僕を悲しい静かな怒りで満たしはしたが、僕はそれを誰に向ければいいのかは知らなかった。彼等の甲高い日本語の罵声、ぼんやりと、しかしなぜか、心の中ではっきりと意味が掴めたと思えるあの奇妙な、そして僕等の喧嘩のルールに外れた言葉、その激しい響きが最初から僕をうちのめしていた。

 「お前等、アメリカ兵が恐くて外に出られないんだろう」

 僕はそれまでにアメリカ兵なんて見たこともなかったけれど、そう言われて、何も言い返せなかったのだ。僕の手は、手垢で黒光りした鉄の把手をカタリと落としていた。

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(本編をお楽しみに)

著者 木村愛二:1937年父の転任先の山口県生まれ。福岡県で育ち、1942年に北京に渡り、敗戦の翌年1946年に福岡県に引揚げる。その後は東京で成人。両親はともに九州人。

補足:著者の父(注1)は、セメント会社の技術者で、徴兵はされず、その代わりに、北京郊外の北支那開発公社(注2)の工場に出向になりました。一家は単身赴任の父親の後を追って、戦争中、北京に住み、そこで敗戦を迎えました。
 敗戦後、民間人の一家は、北京からの引き揚げの際には、自分たちが身体で運べるものしか、持ち帰れませんでした。
 いわば「着の身、着のまま」で、北京から港までは石炭輸送用の無蓋の貨物列車で、その先はアメリカの大量製造の軍用輸送船、リバティで、九州の佐世保港に送還されました。
 港で、上下を破いた袋を被せられ、米兵からDDTを散布され、貰えたのは、大人から赤ん坊まで含めて1人当たり、新円の千円札が1枚だけでした。
 父の務めた北支那開発公社は国策会社でしたが、公務員でも軍属でもなく、そのため恩給ともまったく縁がありませんでした。
 九州にあった両親の自宅は、製鉄所が爆撃される時の延焼を避けるために、政府当局によって、破壊されていました。

(注1)父 木村勲:戦前の旧制の帝国大学時代に九州大学工学部に学び、旧・浅野セメントに入社、中途、北支那開発公社(注)に出向し、敗戦後、現・日本セメントに戻った。下関工場の生産課長から本社の生産課長として退職するまで、セメント工学の技術部門の職を歴任し、定年退職後に嘱託として付属研究所に通って研究を続け、九州大学工学部で博士号を取得し、鹿児島大学に工学部が出来た直後、主任教授として赴任した。当時の弟子が、その後、日本セメントの本社生産課長を継いだ。

(注2)北支那開発株式会社(1938年11月7日設立)の記憶違い?

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僕等は侵略者の子供達だった
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配信中止はこちら http://www.mag2.com/m/0000269825.html
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資 料 一 覧
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第1回/101112131415
第1回
8月7日
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写真1:『百度百科 頤和園』より 「頤和園」(Summer Palace)
http://imgsrc.baidu.com/baike/pic/item/f99dcf00e6d49e02728b65ad.jpg(さらに大きい元ページ写真)
http://baike.baidu.com/view/7379.htm

写真2:『中国古代建筑?(囗+冬)例 自藕香?(木+射)望万寿山和佛香閤』
http://www.artcn.org/images/gdjz28.jpeg(現在不明)
http://www.artcn.org/gdjzhu/ylin3.htm(現在不明)

写真3:『敗戦・引揚げの慟哭』より「ホームに座り込んだ引揚者」
『敗戦・引揚げの慟哭 遥かなる中国大陸写真集3』飯山達雄、国書刊行会、昭和54年(1970)10月5日、136頁を引用。写真説明:117.プラットホームで 博多駅へ来てもう2時間もたった。ホームに座り込んだ引揚げ者たちの話題は、これからの生活の青写真。

文章:『北京旅行 北京観光スポット』より「頤和園」
http://www.arachina.com/attrations/beijing.htm
頤和園は北京城から約10キロ離れた西郊外にある、中国の古典庭園であり、世界の有名な庭園の一つでもある。頤和園は初めは金貞元年(1153年)に建造された帝王の行宮であったが、1888年に西太后慈禧が海軍の経費を流用して再建し、完工後はいまの名称に改めた。頤和園は万寿山と昆明湖からなり、面 積は290ヘクタール、そのうち、昆明湖は全園面積の約四分の三を占めている。

文章:『感動大陸』より万寿山(まんじゅさん)
http://www.kando-tairiku.com/dest/06id000088.html
万寿山/WanShouShan/ワンショウシャン
 万寿山は地質的には燕山山脈の一部に属し、高さは約60m。老人が山中で石の甕を作ったという言い伝えから、古くは甕山と呼ばれていた。
 1494年(明の弘治7年)孝宗の乳母である助聖夫人羅氏が園静寺を造営したのがこの地域の開発の始まりで、その後清朝に至り、この一帯は宮廷馬の放牧地として利用されていた。本格的な造営が始まったのは1750年(清の乾隆15年)からで、乾隆帝が皇太后60歳の誕生日を記念するために、園静寺の跡地に大報恩延寿寺を建立し、その際山名も万寿山に改められた。その後昆明湖の拡張で出た土砂を用い、万寿山の稜線が左右対称になるように積み上げられ、今日の頤和園の原型が完成することになる。
 山中の主要な建造物は山の麓から頂上に向かって段々に築かれているが、現存する建物は1860年に英仏連合軍によって焼き払われた後に西太后によって再建されたものだ。
 昆明湖を望む南側の斜面には、山麓の排雲門から二宮門、排雲殿、徳輝殿、仏香閣と頂上の智慧海までの中央線上に主要な建物が立ち並び、背面にあたる北側斜面にはチベット仏教の寺院である四大部洲と五彩の瑠璃煉瓦で築かれた多宝塔などが建てられている。南斜面の仏香閣からは昆明湖の全体を俯瞰することが出来る。

第2回
8月14日
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写真1:『北京の路地』徐勇 新潮社 1994年4月20日より引用 写真説明:胡同 フートン39.垂花門(二の門。四合院住宅の内庭の典型的な門の形式である)

写真2:『「図説」戦争の中の子どもたち』 山中恒 河出書房新社 1989年8月1日 51頁「内地・外地・占領地の子どもたち」より引用 写真説明:校庭を行進する朝鮮の国民学校の子どもたち◎「週刊少国民」43年4月25日・朝日新聞社

写真3、4http://www.fivestar-club.jp/ Five Star Club「WEBアルバム」より引用
http://www.fivestar-club.jp/fscdir/photolib/china4/china070.jpg
http://www.fivestar-club.jp/fscdir/photolib/china4/china071.jpg

写真5:『北京の日本学校』北京城北日本学校誌 小川一朗 朝文社 1997年7月 口絵より引用 写真説明:城北校の校舎(1944年)

参考:「この指とまれ!」海外中華人民共和国の小学校一覧
http://school.yubitoma.or.jp/school/48/sch48_1388_10.htm
現存の日本人学校に混じって、国民学校(小学校)の記載もありますが、会員登録は僅かです。そのうち、「大連朝日小学校」「大連霞小学校」は校舎他の写真の掲載があります。

第3回
8月21日
1   2
写真1:『従軍カメラマンの戦争』写真・小柳次一 文/構成 石川保昌 新潮社 平成5(1993)年8月5日 63頁より引用 写真説明:戦友を葬る。昭和一三年一〇月、大別山系戦の直後。この写真も銃後の戦意を損なうとの理由で発表禁止とされた。

写真2:『検証・満州一九五四年夏 満蒙開拓団の終焉』合田一道 扶桑社 2000年8月10日 126頁より引用 写真説明:日本人開拓団の墓地の跡
詳しい内容は目次参照(クリックすると別ページが開きます)

参考:2008年8月13日、朝日新聞朝刊1面左下に政府広報が掲載されました。戦後処理はまだ続いています。
「政府広報
 お預かりしている通貨・証券類をお返しします。
 財務省
 税関では、終戦後に外地より引き揚げてきた方々からお預かりした通貨や証券類などをお返ししております。今なお引き取り手がないものが多数ありますので、ご家族の方でもお心当たりがございましたら、最寄りの税関までお問い合わせ下さい。詳細は税関HP(http://www.customs.go.jp/)まで」

以下、税関ホームページを引用
通貨・証券等の返還
http://www.customs.go.jp/news/hokanshoken/index_shoken.htm
通貨・証券等の返還
税関では、終戦後に外地より引き揚げてきた方々が、税関などに預けられた通貨や証券などをお返ししておりますが、今なお引取手がなく、保管されたままになっているものが多数あります。
ご本人はもとより、ご家族の方でもお心当たりの方は、お気軽にお問い合わせください。

税関でお返ししている通貨・証券等は次のものです。
●上陸地の税関・海運局に預けた通貨・証券類(上陸地扱保管物件)
●帰国前に在外公館や日本人自治会等に預けた通貨・証券類のうち、その後日本に返還されたもの(外地扱保管物件)

通貨:旧日本銀行券、旧日本軍軍票等
証券類:国債、公社債、郵便貯金簿、預金証書、生命保険証書等
(保管証券類写真)
返還請求・お問い合わせは、ご家族の方でも構いません。返還の請求には、税関または海運局が発行した「保管証」、総領事館などが発行した「預り証」が必要ですが、ご本人のものであることが確認できれば、それらの書類がなくてもお返ししています。
また、実際に預けたかどうか不明でも調査できる場合があります。」

第4回
8月28日
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写真1:『えっちゃんのせんそう』
http://www.cinema-indies.co.jp/ecchan/index.html
より引用 写真説明:花園在満国民学校 原作者・岸川悦子さん(えっちゃん)が通っていた小学校。敗戦後は、日本人の難民収容所として使用された。現在は、中国の軍事施設となっている。

写真2:『検証・満州一九五四年夏 満蒙開拓団の終焉』合田一道 扶桑社 2000年8月10日 214頁より引用 写真説明:哈爾浜の新香坊の義勇兵訓練所。後に難民収容所になった。

写真3:『新版 私の従軍中国戦線』村瀬守保写真集〈一兵士が写した戦場の記録〉村瀬守保 日本機関紙出版センター 2005年3月10日 第3部 徐州作戦−“麦と兵隊”61頁より引用 (避難民のトラックではなく、日本軍の行軍トラック)
写真4:同 60頁より引用
写真5:同 64頁より引用
 写真説明:両側に家の立てこんだ、狭い道で敵の待ち伏せ攻撃にあうと、恐怖だけが先立って、夢中で脱出する事だけしか考えられませんでした。

文章・図版7:『じいちゃんは引き揚げ少年だった』坂本龍彦著 岩波ジュニア新書320 1999年5月20日
カバーより:
一九四六年秋にようやく引き揚げてきた少年は、「貧しい異邦人」へのまなざしの中、「満州」での切実な体験の意昧を問い続け、人間や日本社会を見る目を育てながら成長していく。好評の前著『孫に語り伝える「満州」』に続いて、あの戦争を日本人が自らにどう位置づけるべきかを問う、「心と体に刻まれた歴史」第二弾。

●「あとがき」211〜212頁を引用
 岩波ジュニア新書の前著『孫に語り伝える「満州」』が本になってから、私には心残りのようなものがありました。
 生と死の境目を歩いてきた少年の私の難民生活が、その後の私の成長にどんな影響を持ったのか。自分ではっきりと確かめて、子や孫に伝える必要があると思ったからです。
 たしかに、捨て身の生き方といっていい姿勢や、ひどい貧乏にもネを上げないしたたかさは身につけてきたようでした。その代わり、生活のすみずみにまで気を配って、生活を愛し楽しんでいくようなゆとりや繊細さは、どこかへ置き忘れてきたかな、とハッとすることもあったのです。
 “満州”からの引き揚げ者は一般人だけで百数十万人に達しています。そのうち、私たちのようにまだ成人に達していなかった世代は六、七十万人になるのではないでしょうか。ことに十三、四歳だった私たちは、日本へ帰ってきて知った「異国の丘」を、子どもながら熱唱した世代です。植民地として日本が支配した異国で、敗戦後に生きるつらさや頼りなさがわかってしまった“子どもたち”です。
 二〇世紀の歴史の傷口から広がった傷をおおうコブのような世代、ゴツゴツとして少し肌合いの違ったその世代を、私は引き揚げっ子世代だと感じてきました。
 すらっと生きてこれず、たわめられ、しわめられて生きてきたこの世代は、「なにくそっ」と何度も立ち直ることが必要でした。
 その世代も今や高齢者になって、引き揚げた祖国での生活をも子や孫に記しておきたかったのです。前著につづいて清宮美稚子さんが編集のメリハリをつけてくれました。
   一九九九年三月   坂本龍彦

●著者紹介より:坂本龍彦(さかもと・たつひこ)
一九三三年山梨県生まれ。満州で敗戦を迎える。早稲田大学文学部卒業。五七年朝日新聞入社。社会部、編集委員をへて、九三年退社。『シベリアの生と死−歴史の中の抑留者』『満州難民祖国はありや』『「言論の死」まで−「朝日新聞社史」ノート』(以上、岩波同時代ライブラリー)、『孫に語り伝える「満州」』(岩波ジュニア新書)など、著書多数。

第5回
9月4日
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写真1:『母と子でみる 51 20世紀の戦争I』写真・共同通信社 草の根出版会 2001年3月5日 90-91頁より引用 写真説明:市民が日章旗を振る中、保定に入場する日本軍=1937年10月18日(International News Photo)

写真2:同 92頁より引用 写真説明:日本軍に占領された中国北部の町で日章旗を掲げて出迎える現地の老人。町の身体壮健な男子はすでに町から脱出している=1937年10月10日(AP)

文章・図版4:『赤い夕日の満州で −少年の日の引揚手記』谷島清郎・文 ちばてつや・さしえマンガ 新興出版社 1997年8月15日

●144頁から引用
「あとがき」  谷島清郎
 昭和二〇年(一九四五)の八月一五日に第二次世界大戦が終了したとき、私は小学校の五年生でした。学校は閉鎖され、翌二一年秋に日本へ帰ってきたので(引揚げと言った)、一年ほどの間があいたまま六年生になったわけです。あくる年は中学校(旧制五年間)の入学試験があるというので、そのための勉強をしなければならないと言われましたが、学校制度が六・三・三制に変わって義務教育になりました。この手記を書きはじめたのは、ちょうどそのころです。
 したがって、書きはじめた理由は二つあったと思います。一つは、中学校への入学試験の準備がなくなったことです。他の人とはちがって、五年生の二学期から六年生の一学期までの間、ほとんど一年間学校へ行っていなかったので、何かをしなければという気持ちが強かったと思います。もう一つは、兄弟姉妹が多かったことです。特に上は姉だけで、あとはみんな自分より小さかったので、この引揚げの体験を妹、弟たちに残しておこうと思ったからです。すなわち、一ヵ月もかけて、両親が七人全員を連れて無事日本へ帰ってきた体験を記録しておかねばと思いました。
(後略)

●142〜143頁 宮本康二氏の推薦文を引用
「タニシキョロリン」   宮本康二
 往時茫々夢幻の如し。「昭和二十年四月八日通化東昌校五年生 藤井先生入営記念」と母の手で書かれた一枚のセピア色に褪せた写真が私の手許にあります。若い先生と三十六名の子供達が緊張した面持で黙ってこちらを見詰めています。
 「懐かしいなあ、青パンツ、タダノッポ、シミズチョロコ、オーイ何とか云ってくれ」。すると、タニシキョロリンが沈黙を破って語りかけてきました。あの頃のことを、十一歳の少年の声で、少年の言葉で。それが、谷島清郎著『赤い夕日の満州で−少年の日の引揚手記』です。
 著者の住んでいた通化市は満州には珍しく山紫水明の地でした。冬はスキーやスケートに、春はわらび採り、夏はギッギッと大きな声で鳴く鬼キリギリスに息をひそめて近付き、秋は草原に咲き乱れる桔梗の美しさに魅せられるのでした。
 一転して、昭和二十年八月ソ連軍の満州侵攻、そして敗戦。日本兵のシベリア送り、奥地からの日本人難民流入、共産党統治下の生活、二十一年二月三日の通化事件、九月引揚開始、十月内地上陸と、それはそれは混乱と困難と不安の連続した時期でした。
 引揚後も大人は生活に必死で、子供達もまた大変でしたので、満州の出来事を記録する心のゆとりはありませんでした。そんな中に谷島さんが小学六年から中学にかけて、このような記録を残しておられたということに畏敬の念を覚えます。これは、私たちが今は失ってしまった少年の心と目で書かれた貴重な記録です。
 ご両親、年長者に対する言葉遣いの良さ、弟さんに対する気配り……、文中の随所にかつての日本人が持っていた一種なんとも云えぬ清々しさを感じます。ご一読頂ければ、二度と還らぬものへの愛惜の念にキット共感いただけるものと思い、本書を推薦申し上げるものです。
(通化・東昌小学校同級生 元婦人画報サービス総務部長)

●挿絵担当のちばてつや氏は、中国引揚げ漫画家の会のメンバーです。後の回で紹介予定の『ボクの満州 漫画家たちの敗戦体験』他にも関わっています。

第6回
9月11日
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写真1:『戦時下の子どもたち』太平洋戦争研究会 ビジネス社 2006年12月13日 56頁「ワレラ皇軍、勝チ抜クゾ」より引用

写真2:同 57頁「ワレラ皇軍、勝チ抜クゾ」より引用

図版3:『北京西郊収容所』草川 俊 光風社文庫 1995年9月10日(初版は1978年ハードカバー) 

カバー裏面より「敗戦直後の未曽有の混乱状況は、中国大陸に農業技術普及のために渡り、各地で農民と接しながら力強く大地に根を張ろうとしていた一人の邦人を襲う。…変わり果てているであろう日本に引揚げるか、このまま大陸に残って骨を埋めるか、揺れる心情を描き切る。」

北京西郊収容所とは、引揚げ邦人の集結場所。著者は当時31歳。敗戦後の北京の様子、右玄龍将軍の河北省北西部のユートピア計画、関東州に戻って楽土を築こうとする満州人の富豪、呼応する日本人医師と看護婦たち、収容所内の華北交通の天幕村や武装解除されて丸腰の日本兵、ルパシカをまとい思想関係の本を売る俄か古本屋などが描かれている。

草川 俊(くさかわ・しゅん)
『花の名随筆 11 十一月の花』大岡信/田中澄江/塚谷裕一監修 1999年10月10日 の著者紹介より引用
草川 俊(くさかわ・しゅん)一九一四年生まれ 小説家
宮城県生まれ。宇都宮高等農林学校卒。専攻は植物遺伝学。山梨県立農事試験場、満州棉花協会、華北交通などに勤務。現地応召をへて、四六年に帰国。「下界の会」「無頼」同人。著書に『黄色い運河』『大陸放浪記』など中国大陸を舞台とした小説をはじめ、『田園歳時記』ほか多数。

『田園博物誌』草川俊 昭和51(1976)年1月30日 朝日新聞社 の著者経歴より引用
草川 俊 くさかわ しゅん 大正3年宮城県石巻市生まれ
昭和10年宇都宮高等農林学校卒業。山梨県立農事試験場,満州棉花協会,熱河省(現・河北省)興隆県,南満州鉄道株式会社北支事務局天津鉄路局,華北交通株式会社泊頭鉄路農場,同開封鉄路局,河南省政府などに勤務。昭和21年帰国して宮城県黒川郡宮床村(現・大和町)に入植,同22年より仙台に住み,26年に大宮市に移る。
著書 「黄色い運河」「長城線」「黄河の人」「大陸放浪記」「中国朋友伝」など。
日本文芸家協会会員
現住所 (略)

●『田園博物誌』では中国に関する記述がところどころに見られる。
同書81頁より以下を引用。
《ザクロ〈石榴〉ザクロ科
    清涼飲料と漢方薬
 六月の北京は日本の梅雨どきとちがって、明るい初夏の日がまぶしい。家ごとにある中庭のザクロが、濃い赤色の花をきそっている。昔から北京では中庭に一つのパターンがあった。ザクロとキョウチクトウの間に素焼きの鉢があり、その中に金魚が数匹泳いでいるという構図である。最近は多少変化したかもしれないが、長年つちかわれた生活のパターンは、新生中国になったからといって、あまり変化がなさそうな気もする。とにかく六月の北京は、目のさめるようなザクロの花盛りだ。(以下略)》

●インターネット情報によると、平成12(2000)年3月に亡くなりました。
『草川俊−直木賞候補作家−39KSH』
http://homepage1.nifty.com/naokiaward/kogun/kogun39KSH.htm

第7回
9月18日
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写真1:『図説北京 三〇〇〇年の悠久都市』村松伸・文 浅川敏・写真 河出書房新社 1999年10月 94頁より引用 写真説明:「無邪気」に遊ぶ「淪陥時期」の日本人小学生たち。(「淪陥時期」:本文より「(前略)日本軍が北京を占領するのは(1937年)七月二九日、いわゆる「北支事変」である。このときから日本の敗戦までの約八年間、中国人たちは北京の『淪陥(りんかん)時期』と呼んでいる。(後略)」)

写真2:著者の幼年時代(北京に渡る前のものです)

図版3:『カムカム エヴリバディ 平川唯一と「カムカム英語」の時代』平川 冽 日本放送出版会 1995年5月30日

図版4:『みんなのカムカム英語』平川唯一 毎日新聞社 昭和56(1981)年4月5日
182頁より引用
《カムカム英語の特色   福田 昇八
 平川唯一講師担当のNHK英語会話講座は不思議な魅力を備えた番組であった。証誠寺の狸囃子のメロディにのってカム・カム・エブリバディで始まり、レッオール・カム・エン・ミータゲン、シィンギング・ッラ・ラ・ラで終わる夕方の15分間は、いながらにして生きた英語を楽しく学べる時であった。毎週の教材は平川講師苦心の作で、ユーモアに満ち、ほのぼのとした情感があり、講師の声はやさしく、暖かく、情熱にあふれ、聴く者の心をつかんではなさなかった。実際この15分間には、「英語を教えること」と「世の中を明るくすること」の2つの願いがこめられており、この目標は両方とも達成されたのであった。当然ながらこの番組は圧倒的な人気をもって迎えられ、これは全ラジオ番組のベスト3に入り、平川唯一の名は当時、マッカーサーと吉田茂に次いで3番目に有名であったという。
 昭和21年2月から5年間続いたこの番組は、26年2月まででNHKの放送から消え、それから30年の歳月が流れた。(以下略)》

http://blogs.dion.ne.jp/bunsuke/archives/2945569.html
『ことば・言葉・コトバ』より以下を引用
《「希望をくれたカムカム英語」
 私の手元に、ぼろぼろになった一冊のテキストがある。講師・平川唯一、放送3月、定価3円、送料30銭と表紙にある。
 「カムカム英語」として全国放送され、当時一世を風靡したラジオ英会話のテキストである。このラジオ講座は昭和21年2月から26年3月まで続いた。講師の平川先生は滞米20年の体験を元に、日常生活の生きた会話を重視したテキストを作製された。一週間単位の小話を月4回程度にまとめた、実践的な英会話であった。》

『みんなのカムカム英語』16頁より「テーマソング」を引用
(注:ふり仮名は当初のテキストには無かったようです。また、KITTEN→キクンなど、スペルとは違うふり仮名は入力ミスではありません。)

***************************************************
    COME COME EVERYBODY
     カム  カム  エヴリバディ
1. Come come, everybody.
  カム カム エヴリバディ
  How do you do, and how are you?
  ハウ ドゥ ユ ドゥー エン ハワー ユー
  Won't you have some candy,
  ウォウンチュー ハェヴ サム ケァンディ
  One and two and three,
  ワンネン ツー エン スリー
  four, five?
  フォー ファイヴ
  Let's all sing a happy song,
  レッツ オール スィンガ ハェピー ソング
  Sing tra-la la la la.
  スィン ツ ラ ラ ラ ラ

2. Good-bye! everybody.
  グッ バーイ エヴリバーディ
  Good night, until tomorrow,
  グッ ナイ アンティル ツマロゥ
  Monday, Tuesday,
  マンディー テューズディー
  Wednesday, Thursday,
  ウェンズディー ソェーズディー
  Friday, Saturday, Sunday.
  フライディー サェトェディー サーンディー
  Let's all come and meet again,
  レッツ オール カム エン ミータゲーン
  Singing tra la la.
  スィン ツ ラ ラ


    カムカム の 歌
    
(こい こい、みんなこい)
1. こいこい、みんなこい
  こんにちはーで、ごきげんさん。
  おかしを めしあがれよ
  ひとつに ふたつに みつ
  よつ いつ
  みんなで うたおうよ、
  うれしい うたを。

2. さーよなら みなさん
  おやすみ、またあした。
  げつよう、かよう、
  すいよう、もくよう、
  きんよう、どよう、にーちよう。
  またきて うたおうよ
  たのしい うたを。
(『証誠寺の狸ばやし』のメロディにのせてうたう)

***************************************************
18〜19頁より引用
LESSON 1
   
A KITTEN(子ネコ)
    ア キクン
Kitty, kitty. Kitty, kitty.
キリ キリー キリ キリー
Come on, kitty. Come here.
カ モァン キリー カメーァ
Oh, the door is shut.
オー ザ ドーァ イズ シャッ
Can't you open it?
ケーン チュー オウプネッ
Wait a minute.
ウェイ ラ メネッ
I'll open it for you.
アール オウプネッ フォー ユー
There!
ゼーァ
Good morning, darling!
グッ モーニン ダーリン
Where have you been all night?
ホェア ヘァヴュー ビーン オールナーイ
I say, where have you been?
アイセー ホェア ヘァヴュー ビーン
Don't you understand?
ドン チュー アンダスタェン
Oh, you don't speak English,
オー ユー ドン スピー イングリッ
you say.
ユ セー

玉(たま)や, 玉。玉, 玉。
いらっしゃい玉。こっちへいらっしゃい。
あー、戸がしまってるの?
あけられないの?
ちょっとまってね。
あけてあげますよ。
ほーら。
おはようちゃん。
どこへ行っていたの、夜通し?
どこへ行っていたのっていうの。
わからないの?
あら、英語はできないんですって?
(以下略)

第8回
9月25日
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写真1:『従軍カメラマンの戦争』写真・小柳次一 文/構成 石川保昌 新潮社 平成5(1993)年8月5日 223頁より引用 写真説明:20年の元旦は長沙付近の小学校で迎える。ルーズベルトをつく餅つき。(ルーズベルト=アメリカ合衆国32代大統領)

写真2:『昭和の戦争 ジャーナリストの証言 1 日中戦争』責任編集 松本重治 講談社 昭和61(1986)年4月25日 51頁より引用 写真説明:クリークを利用した軍用物資の輸送(上海近郊で)
詳しい内容は目次参照(クリックすると別ページが開きます。7引揚げも併せて記載)

文章・図版5:『大連 空白の六百日 ―戦後、そこで何が起ったか』富永孝子 新評論 1986年7月30日
(本文523頁、口絵写真6頁の克明な記録です)

●「はじめに」2〜3頁を引用
(前略)
 国・共内戦の激化で交通は杜絶、陸の孤島と化した大連、二つの中国の間で動揺する市民、高騰する物価、食糧危機。八○パーセント失業状態となった邦人たちの必死の生存作戦。満洲から移入した同胞難民の窮状。力尽き、矢折れる寸前、やっと引揚開始−。
 大連は満洲奥地の麻山(まざん)事件に象徴されるような、極限の恐怖にさらされた日々ばかりではない。まだ、考えて行動するだけの余裕はあった。
 だが、すでに異国となった土地で、異民族の支配のもとに過ごす敗戦国民の一年半の不安は、かつて体験したことのない試練であった。
 先の見えないトンネルに押しこまれ、扉を閉じられたような日々であった。
 当時十四歳。女学校二年の私は、秘かに戦争を批判しながらも、表向きは学校長という職に在る父、そして母と弟妹の家族とともに、この大連で歴史の転換を体得した。それは後の私の四十年にも匹敵する、きびしく、重い明け暮れであった。
 しかし、世間知らずの娘が、複雑多岐なその頃の社会状況を理解できるはずもない。
 なぜああなったのか、どうしてこうした結果に終わったのか、私の青春のスタート地点となった大連の戦後は、私に疑問と謎だけを残したままであった。
 なんとかあの未知の部分と、記憶の空白を埋めておきたい、私は切望しつつ時を重ねた。
 個人の体験を記したものはあった。が、新聞もラジオもないあの一年半の大連の全貌を正確に記した著作はなかった。
 外務省外交資料館に、旧・満州各都市、新京、ハルビン、奉天などの終焉は、各領事館からの報告として残されている。しかし、大連に関しては、昭和二十二年一月、大連からの引揚船永禄丸にロシア語通訳として乗船していた外務省通訳生岡崎慶興の「同船上において蒐集した情報・大連事情」と題した書類のみであった。その表紙には「取扱注意」の印が押してあった。これが四十数年日本統治下にあった関東州大連の終幕にかかわる唯一の公的資料とは−。
 昭和五十五年、父・徳重伍介の三十三回忌の折、偶然当時の父の日記の一部が遺されているのを知った。それは私に決意を促した。
 私は当時のおとなを次々に尋ね歩いた。そして得た結論は「おとなたちは書けなかった」ということである。引揚後もおとなたちには生活との戦いがあった。無一物になった引揚者にとって祖国の風は冷たかった。当時の記録など残す余裕もないまま、おとなたちは世を去った。もうひとつ、渦中に在って活躍したおとなたちには「書くわけにはいかない事情」が多くあった。そのために「書かなかった」という。
(後略)

●著者紹介より
富永孝子(とみなが・たかこ)
昭和6年山口市生まれ。昭和18年から同22年まで大連市に住む。同市光明台小学校を経て芙蓉高等女学校に学び,昭和30年早稲田大学第一文学部国文科卒業。雑誌社を経て昭和33年日本教育テレビ(現・テレビ朝日)入社。同37年より同局を中心にフリーライター,プランナー。

第9回
10月2日
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写真1:著者の幼年時代の家族写真(北京に渡る前のものです)

図版2:佐野洋子『こども』の表紙
さのようこ/絵本作家・エッセイスト。一九三八年北京生まれ。武蔵野美術大学デザイン科卒。一九六九年ベルリン造形大学でリトグラフを学ぶ。絵本に『わたしのぼうし』『百万回生きたねこ』エッセイ集に『わたしの猫たち許してほしい』『アカシヤ・からたち・麦畑』等がある。(『こども』リブロポート 1984年6月15日の奥付より引用)
『こども』:北京で過ごした幼年時代が描かれている。グルトーゲンのミルク 北京大学の病院 干しなつめいりのむしパン チャーガオ屋 ラクダ 水屋 あひる 万寿山 アマ ヤンチョ コウリャン畑 兵隊さん 桜のやに……

●文庫版『こども』(1990年4月5日 福武書店)の後書きを引用
《(前略)……しかし『こども』はどうも妙な本である。
 エッセイでもなければ小説でもなく、童話でもないし思い出話でもない。いってみれば素描集の様なものかも知れない。
 『こども』は『わたしが妹だったとき』という作品の背景にあった現実ではないかと思ってみたり、あの時しか書けなかったのだとも思うのだが、もう仕方ない。
 『こども』の中で私は「支那人」「あま」という言葉を使っているが、あえて「中国人」「お手伝いさん」という言葉には言い換えなかった。子供のとき、私はそれ以外の言葉を知らなかった。『こども』を私は一九三〇年代から一九四〇年代初めにかけて中国に住んでいた子供の視点で書いた。いま私はそういう言葉は使わないし、使ってはならないとも思う。
 東洋史を専攻し、中国の農村慣行調査という仕事をしていた父は、中国の悠大な歴史と国民性について、多分とても深い理解を持っていた日本人の一人であったことを、私は誇りに思っているが、その父でさえ「中国人」という言葉は知らなかったと思う。あの時代、私たち日本人が中国にとってどの様な存在であったかという事実を私はごまかしたくない。》

関連する著作
『わたしが妹だったとき』(偕成社 1988年) 幼年期の作者にとって「重大な」存在であった兄とのかかわりを描いた童話。
『右の心臓』(リブロポート 1988年10月29日) 引揚げ後、身を寄せた父の実家で小さくなって暮らしているうち、「重大な存在であった兄」を病気で失う。
『アカシア・からたち・麦畑』(文化出版局 昭和58(1983)年1月30日) 北京・大連での幼年時代、引揚げ後の田舎での生活から画学生時代まで。
『私の猫たち許してほしい』ちくま文庫 1990年8月28日など

「私の猫たち許してほしい」103〜105頁から引用
(前略)
 引き揚げ船の中で出された初めての食事は、さばと大根の入っているおじやだった。巨大なたるの中にそれは入っていて、大きなひしゃくで、家族が持ってきたなべの中に流しこまれた。
 そのおじやが米であることに、私たちは感激した。おじやはねっとりして甘かった。パサパサしたコーリャンのおかゆや、とうもろこしの団子を食べていた私たちに、米のねばりは、心からの充足と、これから帰る日本への希望を与えてくれた。私は次の食事を待ちのぞみ、アルミのおわんを、洗う必要のないほどなめつくした。
 私はその食事以外に何ものぞまなかった。
 貨物船の船底は荷物がびっしりとうまり、その間に、人が荷物によりかかって坐っていた。荷物によりかかって人々は眠り、昼も同じ姿勢でほとんど身動きが出来ないのだった。
 私のとなりに、ひどく年とった老婆がいた。彼女は小さくまるまってうずくまっていた。彼女は歩けないほど年とっていたので、甲板のトイレに行くときは、息子の背中にくくりつけられた。彼女はうずくまったままボソボソ何か言っていた。いつも同じことを言っているのだった。
「おすしが食べたいよう、おすしが食べたいよう」
「内地にかえったらね」
 息子の奥さんがいう。
「おすしが食べたいよう」
「もうすぐだからね」
 それでもおばあさんは根気よく、「おすしが食べたいよう」をくり返すのだった。
 あんなおいしい大根とさばのおじやがあるのに、私はおばあさんがぜいたくでわがままだと思った。
 ある朝、目がさめると、私の横に灰色の毛布でくるくる巻かれたものが横たわっていた。毛布の両はしがひもでしばってあった。昨夜、私が寝ているうちに死んだおばあさんだった。二日ほど、毛布でくるまれたおばあさんは私の横にいた。海の様子が悪くて、船はなかなか日本に着かないのだ。息子はおばあさんをかついで、甲板に上がっていった。
 はしごをのぼってゆく息子は、巨大なのり巻きをかついでいるようだった。海に捨てにいったのだ。
(後略)

図版3:『北京の碧い空を わたしの生きた昭和』小澤さくら 二期出版 1991年4月25日 
指揮者小澤征爾氏の母小澤さくらさんの体験を四男の幹雄氏が聞き書きしたもの。征爾氏は三男。家族と過ごした戦前戦中の北京時代、昭和16年に引き揚げてきてからの空襲、戦後の物資不足の中での生活など、苦難までもが楽しげな口調でつづられている。

図版4:『北京の想い出 1926−1938』A Memoir of Peking Life アイダ・プルーイット著 山口 守訳 平凡社 1990年10月8日 

アイダ・プルーイット:1888年アメリカ人宣教師の娘として中国山東省蓬莱に生まれ幼年時代を中国で過ごし、教育を受けるためアメリカに渡り、1919年北京協和医学院のソーシャルワークの責任者として再び中国へ。以後18年間を医学院で働く。英語と中国語のバイリンガルであっただけでなく、西洋文化と中国文化との対比においてバイカルチュラルであった。(訳者あとがきより抜き出し)

第10回
10月9日
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写真1:著者の幼年時代(北京に渡る前のものです)

写真2:『日中戦争 日・米・中報道カメラマンの記録』平塚柾緒編著 翔泳社 1995年7月20日より引用 写真説明:引揚船に乗る前の所持品検査を受ける人たち(溏沽で)

図版3:『天津の日本少年』八木哲郎 草思社 1997年12月5日
著者:八木哲郎氏 1931年天津生まれの天津育ち。三井物産天津支店勤務だった父の転勤にともない昭和19年(1944)6月北京へ。北京で敗戦を迎え昭和21年引揚船で帰国。
同書前半は幸福だった天津の幼少年時代を、後半の北京では戦争に翻弄され両親を失い、人生の一時期が終ったことを実感しながら引揚船に乗るまでを、著者の当時の瑞々しい感性のままに克明に描いている。278〜293頁に引揚げの具体的な記述がある。

『天津の日本少年』「第三部 敗戦から引き揚げまで」(278頁〜293頁)からの抜書きによる八木哲郎氏の引揚げの状況(別ページが開きます)
(抜書きです。原典を読むことをお勧めします。)

図版4:『流れる星は生きている』藤原てい 中央公論社 昭和59年(1983年)8月10日 
(これ以前に何度か発行されています。主な刊行 昭和24年5月日比谷出版社/昭和51年2月中公文庫)

図版5:『いのちの朝 −ある母の引揚げの記憶−』中谷和男 TBSブリタニカ 1995年12月18日  

●「序章 孝子との出会い」7〜13頁より
「(前略)子ども二人を死なせ、その骨箱を腰に巻きつけ、末っ子の久美子を胸に抱いて、毒薬ひと瓶と剃刀と主人の予科時代の学帽だけ持って、そのうえ、一〇二人もの女の方や子どもさんをなぜか引き連れることになってしまって、満州から、朝鮮半島をひた走り、日本までたどり着けるなんて。
 わたしはね、八○年の生涯を振り返ってみると、これ、そうとう、幸せだったんじゃないかしら。人はどう思おうと、わたし自身はそうと信じる」
 孝子はカラリと笑った。笑い声の絶えない孝子である。
(中略)
「玉砕とかひめゆりの塔とか、いろいろございましたよねえ、戦争のなかで。死というかたちしか選べなかった方々は、本当にお可哀相と、ご冥福をお祈りします。自分で選んだわけでもない死というものに飛び込んでいく時の気持ち、それを考えると、全身に震えが走ります。
 でも、あの戦争の最中に、生きるも死ぬも勝手にしろと放り出され、変な表現ですが、生きることだけを、必死に思いつめていた人たちもいっぱいいたんですよね、わたしたちみたいに」
(後略)

●215〜218頁「著者あとがき」を抜粋引用
 世に氾濫する「戦争告発物」にだけはしたくない、過剰な事態をバネにしてしたたかに生きるひとつの女性像として、同じようにさまざまな試練を乗り越えながら、キラキラと生きようとしている若い、特に女性の命の指針になってほしい。
 長沢孝子の話を録音しながら、パソコンを叩きながら、わたしは思った。
(中略)
 五〇年という歳月は一体何なのだろう。女性の描いた戦争告発物の古典に藤原ていの『流れる星は生きている』(中央公論社)がある。長沢孝子と同じ時期にほぼ同じ道程をたどっているようで、ぜひ比較しながら一読していただきたい。そこには戦争への怨念、人間に対する憎悪と憤怒と涙があふれていて、感性のヒダをかき回されて、読み続ける勇気を喪失し、わたしは何度か本を閉じた。
(中略)
 長沢孝子には、こうした憎悪とか怨念とか涙とかがない。人間の資質の違いだろうか、経験した苦悩の大きさの違いだろうか。たしかに長沢は、物語を始めるにあたって、「一瞬一瞬を生き抜こうとする時の、その時噴き上がってくる人間の命の力っていえばよいのか、それはもう、物凄いと思う。苦しみが、生命の限界を超えてしまって、もう死ぬしかない状況に立ちいたった時、その極限の苦しみを麻痺させてくれるんですもの」と語っている。
 また長沢は、戦後の五〇年間に、未来を生きるうえで不要なものはどんどん切り捨て、忘却という沼にどんどん捨て去っていった。彼女には過去にしがみつきこだわり続ける執念とか怨念とかがまったくない。八○歳の今でも彼女には未来しかない。
 だからこそ、彼女の語りには、戦争告発物を超えた普遍性とか生きる指針のようなものがあるのだろう。
(後略)
あとがき全文を読む(別ページが開きます)

第11回
10月16日
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写真1:著者の幼年時代(北京に渡る前のものです)

図版2:『ボクの満州 漫画家たちの敗戦体験』中国引揚げ漫画家の会編 亜紀書房 1995年7月26日
詳しい内容は目次と執筆者紹介参照(別ページが開きます)
「中国引揚げ漫画家の会」には第14回に引用の『中国からの引揚げ少年たちの記憶』ミナトレナトスもあります。

●2008年8月11日 朝日新聞夕刊14面「街 メガロポリス 人」に次の記事がありました。
日本兵が銃殺される現場ぼくは見てしまった
 中国東北部(旧満州)で過ごした幼年時代や、敗戦の混乱の中での引き揚げ体験とその後を、漫画「丸出だめ夫」などで知られる森田拳次さん(69)=写真、横浜市金沢区=が「だめ夫伝―我思我(われおもうわが)漫画的人生」にまとめた。東京の出版社が企画した漫画家の引き揚げ体験記録の第1弾。第2弾は「釣りバカ日誌」の北見けんいちさん(67)を予定している。 (隅田佳孝)
  引き揚げ体験「だめ夫伝」
 漫画家森田さん「いつも犠牲は子ども」
 森田さんは1939年、生後3カ月で両親に連れられて旧満州・奉天(藩陽)に渡った。45年8月、ソ連軍が侵攻。日本人男性は連行され、女性は男装してソ連兵の目を逃れるように過ごした。6歳だった森田さんは日本兵がソ連兵に銃殺されるのも見た。
 引き揚げが始まると、3歳だった弟を「500円で売れ」と中国人が訪ねてきた…(以下別ページへ)

●上記の「日本兵が銃殺される現場」に関連して
図版3:『北京収容所 私の獄中日記』 佐藤亮一 サイマル出版会 1986年12月
(終戦後に河出書房、荒地出版社から刊行され絶版となっていた旧版の改版)

●カバーより引用:
一九四六年四月、従軍記者であった私は、理由もわからぬまま突然、国民軍憲兵にとらえられた。蒋介石主席の「暴に報ゆるに寛容と温情を以ってし……」の布告にもかかわらず、日本軍武装解除をともに、北京は略奪、暴行、日本人・漢奸狩りの、百鬼夜行の府と化していた。
奇怪な“復讐”裁判、刑場に引かれていく同室の“戦犯”たち、金に左右される獄吏や役人、酷寒酷暑と無残な食事――この運命的な獄中体験を私は克明にメモし、中国服のなかに秘めて命がけで持ち帰った……。       ――著者

 林語堂『北京好日』、リンドバーグ『翼よ、あれがパリの灯だ』、チャーチル『第二次世界大戦史』、バターフィールド『中国人』など160点に及ぶ名翻訳で知られ、〈国際翻訳大賞〉を受賞した著者は、日中戦争下、毎日新聞特派員として中国戦線を取材、終戦・国共相克の混乱のなかで抑留された。
 これは、そのときの苛酷な体験を綴った獄中日記で、戦争が残した傷跡の記録である。

●著者紹介より引用:
佐藤亮一 翻訳家。日本翻訳家協会副会長
1907年青森県に生まれ、慶應義塾大学を卒業。時事新報社を経て毎日新聞記者。戦時中は、従軍記者として中国戦線を取材報道した。慶大・慈恵医大講師、共立女子大教授をつとめた。数々のヒット作、名作の翻訳者として知られ、84年には、国債翻訳家連盟から〈国際翻訳大賞〉を受賞。
『北欧・フィヨルド紀行』などの著書のほか、チャーチル『第二次世界大戦史』、リンドバーグ『翼よ、あれがパリの灯だ』、林語堂『北京好日』、パール・バック『大地』、ウィノカー『SOSタイタニック』、バターフィールド『中国人』など、多数の訳書がある。

図版4:『14歳の眼がとらえた 戦争・狂気の時代 「鬼畜米英」から「一億層懺悔」に至る逆転の舞台劇!』 岡健一 光人社 
2003年10月26日発行

●プロローグ――狂気の凄い時代だった(7頁〜より抜粋引用)
 物心ついた頃、多分、五歳くらいの頃だと思うが、すでに戦争が始まっていた。支那事変(日中戦争)である。
 小学校が国民学校となり、その四年生の時、真珠湾の奇襲で、太平洋戦争(当時は、大東亜戦争と呼ばれていた)が始まり、中学(旧制)で勉強したのは一年生の一学期だけで、中学二年・一四歳の夏、戦争が終わるまで、勤労学徒として農山村で、敵の上陸予想海岸で、そして海軍軍需工場での厳しい労働に明け暮れた。
 そして八月一五日を境に、一八〇度の方向転換。何がどうなるのか、一四歳の少年の頭では想像すらできなかったが、ひもじい空腹はいつまでも続いていた。
 戦場で敵兵と直接戦うことはなかったが、連夜の空襲警報のサイレンの恐怖の下でのひもじい生活と激しい労働は、すべて戦場と連動していた。
(中略)
 「何も知らされない時代」「知る手段が何もない時代」の中にいた子供、そして神話と軍国主義一色の教科書を使って行なわれた学校教育の中にいた子供は、どういう大人になっていったかを記してみたい。
 私たちはごく自然に、水の流れに身をまかせるように、軍国少年に育っていったのであった。ある日を境に突然、軍国少年に変身したわけではない。
 「洗脳」とか「マインドコントロール」といった言葉は、いずれも戦後のものであり、誰からも洗脳されたり、マインドコントロールされたわけではない。ごく自然にである。僅かな情報と少国民(年少の国民)教育、そして敵愾心を煽る歌唱指導や強烈なスローガンの中で、軍国少年が育まれた。
 物心ついたときには「戦争」の中におり、その「戦争」は次第に膨らみ、生活は少しずつ苦しくなっていった。
 特に食べ物である。食べ物は次第に少なくなり、配給制になり、その配給量は日を追うごとに少なくなり、遅配、欠配と続き、遂に底をついた。
 食べ物をはじめとする生活物資の窮乏の下降カーブは、このように「徐々に、少しずつ、段階的」に進められたので、ある種の馴れとあきらめが日常になっていた。
(中略)
 敗戦によるコペルニクス的転回の事例を、何としても書き留めておきたいと思う。
 敗戦一年前に、「比島(フィリッピン)決戦の歌」が作られ、私たちは大きな声で、
「♪いざ来い ニミッツ マッカーサー 出て来りゃ 地獄へ 逆落とし」
 と歌いまくっていた。
 敗戦の年・昭和二〇年(一九四五年)の二月には、ラジオで歌唱指導が行なわれ、私たちも、動員先での作業開始の時に歌い続けていた。
 そして、敗戦。
 “地獄へ逆落とし”しようとした当のマッカーサーが日本占領軍の最高司令官として、私の家の隣町である大和・綾瀬町にある海軍厚木基地に降り立ってからほぼ一年後。占領軍総司令部が最初に置かれた横浜の闇市跡の野毛に、新しい映画館が開設されたが、なんとその名称は「マッカーサー劇場」。
(後略)

 
第12回
10月23日
shasin1 shasin2 shasin3 shasin shasin4

写真1、2:『母と子でみる 52 20世紀の戦争I』写真・共同通信社 草の根出版会 2001年4月24日 91頁より引用(写真3:の全体写真を分割) 写真説明:湖南省の戦線で中国軍の捕虜となった日本兵=1944年2月2日(ACME)

図版4:『昭和20年8月20日 内蒙古・邦人四万人奇跡の脱出』稲垣武 PHP研究所 昭和56年(1981)年8月26日
詳しい内容はまえがき抜粋と目次参照(別ページが開きます)

第13回
10月30日
1 2(扉) 3(扉)4

写真1:著者の幼年時代(北京に渡る前のものです)

図版2:『生きて祖国へ 1』
図版3:『生きて祖国へ 2 満州さ・よ・な・ら』満州篇(下)

引揚体験集編集委員会 国書刊行会 昭和56(1981)年4月20日
詳しい内容は目次参照(別ページが開きます)

図版4:『ハルビンの詩(うた)がきこえる』加藤淑子著・加藤登紀子編 藤原書店 2006年8月25日
著者は加藤登紀子さんの母。1935年に満鉄勤務の夫と結婚し、東方の小パリと言われる美しい街ハルビンに渡り、終戦後1946年の引揚げまでの11年間を過ごした。ロシア人との交流、3人の子の出産と子育て、引揚げ時の苦難が描かれている。
●プロローグから抜書き
《ハルビンは故郷を追われたエミグラント(無国籍ロシア人)の街だったからこそ、哀しいほど美しいロシアの匂いが息づいていた。》
《夫にとって、私にとって、そして私たち家族にとってハルビンで暮らした一部始終がどれほど貴重なものだったかを改めて思う。
 昭和十年から二十一年までのたった十一年のハルビン。でもそれはまさに二十代の私の青春そのものだった。
 同じこの場所にその面影が消えてしまった今も、私の心の中にはすべてがあざやかに刻まれている。》

第14回
11月6日
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写真1:『在外邦人引揚げの記録』毎日新聞社 昭和45(1960)年7月7日 20-21頁より引用 この写真は『戦後引揚げの記録』若槻康雄 時事通信社 1991年12月10日にも掲載されている。『戦後引揚げの記録』の写真説明:「満州引揚げ基地コロ島にて 乗船を待つ引揚者の長い列。この付近で半月待つ間に何人も亡くなったという(昭和21年7月・同地桟橋)」
撮影者:飯山達雄氏。略歴:1904年(明治37年)横浜生れ。1930年(昭和5年)ころから、山と未知の発見に心ひかれ、それらの記録を写真で残すことを志す。以後、北朝鮮の処女峰を登はん、満州、中国本土(昭和8年から16年まで、各数回)、内蒙古・ゴビ砂漠(昭和13年から16年まで、2回)と大陸の旅を続けた。敗戦・引揚げ後、在満邦人の実情を内外に訴え、引揚げを促進するため渡満した。(『敗戦・引揚げの慟哭 遥かなる中国大陸写真集3』飯山達雄 国書刊行会 昭和54年(1970)10月5日 著者略歴を引用)

写真2:『在外邦人引揚げの記録』同上 192-193頁より引用 写真説明:米軍貸与のリバティー

写真3:『中国からの引揚げ少年たちの記憶』中国引揚げ漫画家の会編 ミナトレナトス 2002年6月20日 より引用 写真説明:引揚者送還のために米国が日本に貸与したリバティー型輸送船(米国国立公文書館資料)

第15回
11月13日
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写真1:『戦後引揚げの記録』若槻康雄 時事通信社 1991年12月10日より引用。写真説明:「満州引揚げ基地コロ島にて 苦難の逃避行の末、引揚船に乗りこむ幼女(昭和21年7月・同地桟橋)」
撮影者:飯山達雄氏。飯山氏の『小さな引揚者』(飯山達雄=写真・文 草土文化 1985年8月1日)の裏表紙になっている。同書94〜103頁のカメラをとおして見た引揚者の姿―あとがきにかえて」(クリックすると別ページが開きます)に飯山氏が民間人引揚者の惨状を撮影し、当初動こうとしなかったGHQに突きつけた経緯が書かれている。
この経緯は飯山氏の『敗戦・引揚げの慟哭』(1970年)にもう少し詳しいものがある。

写真2:『日中戦争 日・米・中報道カメラマンの記録』平塚柾緒編著 翔泳社 1995年7月20日より引用 写真説明:日本人引き揚げ者の警護に当たる米海兵隊員。これらの引き上げ者は青島から博多に向けて、毎日3000人がLSTで送られた。

写真3:『1億人の昭和史 4 空襲・敗戦・引揚げ 昭和20年』毎日新聞社 1975年 206頁「写真ドキュメント(日宇弘海氏撮影)佐世保引揚援護局―入港から帰郷へ」より引用 説明文:20年10月14日の第1船から、25年5月1日の閉鎖まで140万人の引揚者を迎え、送り出した佐世保援護局では、この間1216隻の引揚船が入港。その度に同じ光景がくり返された。これは多忙を極めた21年の記録である。 写真説明:いよいよ上陸。米軍の厳重な監督をうけた。

写真4:『1億人の昭和史 4 空襲・敗戦・引揚げ 昭和20年』毎日新聞社 1975年 206頁「佐世保引揚援護局―入港から帰郷へ」より引用 写真説明:20年12月25日からDDT消毒が始まった。

写真5:『従軍カメラマンの戦争』写真・小柳次一 文/構成 石川保昌 新潮社 H5.8.5 232-233頁より引用 写真説明:20年6月、神田明神から東京空襲で焼け野原になった上野方面を撮影。小柳が保存した戦争中最後の写真。高所からの撮影は禁止されていたが、あったことを撮影して記録するのがカメラマンの務めだと小柳は言う。

写真6:『東京大空襲の記録』東京空襲を記録する会編 1982.3.10 〈復刻版〉2004.8.15 三省堂 46頁より引用 写真説明:焼け跡を前に立つ黒い迷彩を施した国会議事堂 1月27日


特別付録
「91才のホームページ」(制作・「渡辺 梓」氏?)
 http://homepage1.nifty.com/zpe60314/
 膨大な量があります。その中の「私の世代・戦争・戦後」
 http://homepage1.nifty.com/zpe60314/asedai.htm
 に、ご本人の軍隊経験をはじめとする戦争関連の記事があります。

特別付録  終戦(戦争・敗戦・引揚げ関係のリンク集 西羽 潔氏のページです)
 http://www.rose.sannet.ne.jp/nishiha/senso/shusen.htm
戦争を語り継ごうhttp://www.rose.sannet.ne.jp/nishiha/senso/


  
2008.07.28   木村書店に戻る