イラク:非=解放/思案

シナン・アントーン
ZNet原文
2003年4月17日


我々が暮らすイマゴクラティックな世界では、一つのイメージが、あれやこれやの主要ナラティブの中で至上の瞬間として定着するに至るまで、吐き気を催す程、反復されるのが常である。私の故郷、バグダッドのアル・フィルドゥス広場で、数日前に、サダム・フセインの銅像が倒されたシーンは、その例だった。地上の大多数の人々にとって、このシーンは、言われるところのイラク「解放」そしてサダム独裁の終焉として記憶に結晶することになるのだろう。

何百万人ものイラク人同様、私も長年、サダムの終焉を願っていた。私は近隣に住む壁画家をスカウトし、サダムが失脚し次第、彼の壁画に対して復讐をしようと計画していたものだった。彼の頭に2本の角を加え、尻尾さえ書き込もうと考えていた。けれども、私は1991年の湾岸戦争の後、イラクを脱出し、そしてサダムは政権に居座り続けた(イラクを産業時代前に引き戻すまで爆撃しながら、サダムを温存した米国のおかげである)。私が乗ったバスがヨルダン国境を越えようとするとき、イラクで最後に見た光景は、やはり軍服を着たサダムの壁画だった。

けれども、サダムの銅像がひき倒されたときに感じた安堵と喜びは、数秒間しか続かなかった。この光景は、米国の戦車と兵士によって台無しにされていた。この米軍の兵士たちは、数人のイラク人が銅像をひき倒す手助けをするために広場に到着する前に、多くの民間人を虐殺し、血と破壊の痕跡を後に残してきていたのである。

困ったことに、独裁は今や植民地主義に取って代わった。サダムの銅像引き倒しのイメージに酔うことなく、この「解放」勢力自身が、サダムがイランに対する戦争を行い百万人のイラク人を殺していた1980年代を通して、サダムを支え支援してきたことを忘れないようにしなくてはならない。このとき命を失った膨大な数のイラク人は、当時「解放」の価値無しと見なされていた人々である。別の役割を与えられていたのだ。すなわち、武器の消耗品としての、そしてホメイニのイランを封じ込めるという役割を。私は、1980年代前半に、ラムズフェルドが我々を弾圧するフセインと握手していたのをイラクTVで見たことを覚えている。また、ブッシュ一世とレーガンとが、イラクのクルド人に毒ガスを浴びせていたサダムに、武器と軍事諜報を提供していたことも。招かれもせずにやってきた、そして今では苦痛なまでに明らかになった隠れた動機をもってやってきた、フセインの元スポンサーの力によることなしに、サダムを追放することが難しかったのは不思議ではない。

とはいえ、喜び踊るイラク人がいた。けれども、これを、米軍の戦車に赤い絨毯を広げて歓迎したものと(誤)解してはならない。アル・フィルドゥス広場の群衆は数百人足らずであった。バグダッドは450万人の都市である。米軍兵士を歓待する人々もいたが、バグダッドそしてイラク全土の大多数は、自分たちの生活の瓦礫を見つめ、死者と負傷者を数えていた。

サダムの銅像を取り囲み、世界に向けてサダム時代の終焉を宣言した「解放者」たちは、その後、イラクが無法状態に陥っていくのを黙って見ているだけだった。権力の空白は、30年にわたる独裁の暴力と弾圧の紐を解き、イラクの社会構成の全面的な崩壊(これは12年にわたる史上最も過酷な制裁のおかげである)を露わにした。米国に対して証拠不十分により有利な解釈を与えていたイラク人がいたとしても、今となっては考えを変えたのだろう。至る所で人々の怒りが見られる。略奪から保護された唯一の省が石油省[と内務省]であるのは偶然ではない!

戦争が始まった最初の日、イラク兵士に対してブッシュが言った最初の言葉は、「油田に火を付けるな」だった。

計画失敗とか、占領下に置かれた人々に対する占領勢力の責任を完全に無視したという状態を、遙かに超えている。イラクで米国がそのままにしている混沌と無秩序は、イラクにおける米軍の駐留を引き延ばすための正当化に使われるであろう。それによって、今度は、現れるイラク政権が完全に米国の利益に忠誠を誓うものとなることが確実となる。

「解放」のイメージが広められる中で消し去られるもう一つの重要な点は、ハイエナのように涎を垂らしている米国企業の存在であり、これらの企業は、獲物に飛びついて強力な顎で粉砕しようと待ちかまえている。間違いのないようにしよう。略奪され破壊された物品の一つ一つが、米国企業製品によって置き換えられ、その代金はイラクの石油から支払われる。規模が大きければそれだけうまみも大きい。レバノン系アメリカ人の米国代弁者フォウアド・アジャミは、この戦争を「イラクの入手」と呼んだ点で正しかった。

「アル・フィルドゥス」という、「解放」が行われた広場の名は、アラビア語で「楽園」を意味する。タカ派たちは、サダム後のイラクは、イラク人にとって楽園であると述べていた。その未来の楽園は、既に失われてしまったように見える。


著者は亡命したイラク人の一人。イラクの人々の声があまりに少ないので、紹介致します。他に、アラビアンないと2003もご覧下さい。
益岡賢 2003年4月18日 

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