イラク 一九九〇年〜一九九一年
砂漠のホロコースト

ウィリアム・ブルム著
キリング・ホープ 第52章より
オンライン原文



拙訳『アメリカの国家犯罪全書』(作品社)の原著者ウィリアム・ブルムの大著『キリング・ホープ』の一つの章で、第一次湾岸戦争を扱ったものです。登場する人物やパターン、戦争犯罪など(イラクによるクウェート侵略を除いて)は、2003年の米国によるイラク不法侵略と似通っており、気持ちが悪くなります。長くて申し訳有りませんが、是非、お読み下さい。


「私は、この部分は見たくなかった」と、ある二〇歳の兵卒は言った。「家を失うことや、痛みといった全てのこと。難民キャンプを通ったとき、これは私が見たくないことだった」。

「とても辛いことだ」と軍曹は語った。「小さな子供たちが現れて、私の銃を見て、泣き出すんだ。本当に、気持ちがズタズタになる」。

「夜、殺して、それからまた進むんだ」と、別の米兵は言う。「立ち止まらない。何も見る必要はない。後衛が、翌朝になって、破壊は完全だと我々に伝えた。一師団全部を殺したんだ」[1]。

現代では、多くの国家が、自分たちの犠牲となった人々に面と向かうという大きな苦痛を避けてきたという酷い記録を有しているが、アメリカは、特に念を入れて、最も恐ろしい攻撃を加えるにあたり、遠くにいるようにしてきた。日本の人々に対して原爆を投下し、朝鮮に対して石器時代に逆行させるほどの絨毯爆撃を行い、ベトナムをナパームと毒薬の中につけ込み、拷問用器具と拷問方法を三〇年にわたってラテンアメリカに提供しておきながら、目を背け、叫び声を聞かないように耳をふさぎ、全てを否定する・・・そして、イラクでは、史上最も集中的な空爆により、イラクの人々に一億七七〇〇万ポンドの爆弾を投下した。

中東で最も進歩し啓蒙されたイラクの人々に対して、そして歴史がありかつ近代的な都市バグダッドに対して、四〇昼夜以上にわたる容赦なき破壊を実行したとき、米国には何が取り憑いていたのだろうか?


これは、一九九〇年前半のことだった。毎日、ベルリンの壁の解体が進められていた。冷戦が終了した幸福感と、新たな平和と繁栄の時代の到来に対する楽観性は、隠すべくもなかった。ブッシュ一世政権は、怪物的な米国の軍事予算を削減し、「平和配当金」を設ける圧力に晒されていた。けれども、米軍総司令官であり元テキサスの石油貴族であり、CIAの元長官だったジョージ・ブッシュ一世は、軍産情報複合体にいる多くのお仲間たちに背を向けようとはしなかった。彼は、「無思慮にも、我々の防衛態勢から筋肉を取り除こう」とする人々に毒づき、ソ連の改革に対して注意深い態度を採るべきであると主張した[2]。二月、「政府と議会は、最近の歴史の中で防衛予算を巡る最も熾烈な戦いを予期していた」と報じられた。そして六月には、「議会が過去二〇年の中で最大の転回点となるような防衛予算案を作成したため」、議会とペンタゴンの間に「緊張が高まっていた」[3]。その一月後、上院の軍隊小委員会は、ブッシュ政権の勧告の三倍近い軍関係者の削減案を可決した。「削減の規模と方針は、軍事予算削減をどう扱うかを巡る戦いでブッシュ大統領が敗北しつつあることを示していた」[4]。

同じ時期、ブッシュの人気は急落していた。一月には、その前の月のパナマ侵略で人々の支持の波に乗り、ブッシュ支持率は八〇%であったが、二月には七三%となり、三月には六〇%台半ば、七月一一日には六三%、その二週間後には六〇%となっていた[5]。

新聞の見出しと人々の心をとらえるために、そして世界は今も恐ろしく危険なものであるから強力な軍が必要であると議会を説得するために、ジョージ・ハーバード・ブッシュは、何か劇的なことを必要としていたのである。


この出来事に関するワシントン版の公式見解は、イラクによる隣国クウェート占領を、専横な正当でない侵略行為であるとしていたが、過去に、クウェートは実際に、第一次世界大戦まで、オスマン帝国支配下で、イラクの一地方であった。第一次世界大戦後、膨大な石油資源を持つイラクに対して影響力を行使するために、英国の植民省は、小さな地域クウェートを独立の領域とし、それによってペルシャ湾岸へのイラクのアクセスをほとんど奪ったのである。一九六一年、クウェートは「独立」した。これもまた、英国がそう宣言したからである。このとき、イラクは兵力を境界に結集したが、英国が自らの軍隊を派遣したため、引き下がった。その後のイラク政権は、この状態を決して認めてこなかった。そして一九七〇年代にも同様の威嚇を行い、一九七六年には、クウェート内に半マイル侵入さえしたのである。けれども、バグダッドは、同時に、ペルシャ湾にある元イラク領だった島に対するアクセスを手にするという条件で、クウェートと妥協する態度も見せていた[6]。

今回の紛争の起源は、一九八〇年から一九八八年の残虐なイラン・イラク戦争にあった。イラクは、イランとの戦争で膠着状態にあったとき、クウェートが、ルマイラ油田から二四億ドル相当の石油を盗み取ったと告発した。ルマイラ油田は、曖昧にしか規定されていないイラクとクウェートの国境地帯にあり、イラクが一〇〇%の所有権を主張している油田である。また、イラクは、クウェートがイラク領内に軍事的及び他の設備を設けたと非難した。また、何よりも悪いことに、イラン・イラク戦争終了直後から、クウェートとアラブ首長国連邦は、石油輸出国機構(OPEC)による生産割当を超えて石油を生産し始め、これが石油市場に流入して、石油価格を低下させていた。イラクは長期にわたった戦争にあえぎ巨額の負債を抱えており、サダム・フセイン大統領は、クウェートのこの政策はイラクに対する大きな脅威であると述べた。彼は、石油価格が一ドル下がるごとに、イラクは年間一〇億ドルを失うと指摘し、これを「経済戦争」と呼んだ[7]。この損失に対する補償に加えて、イラクは、湾岸へのアクセスを阻んでいたペルシャ湾の二つの島をイラク領とすべきであると主張し、また、ルマイラ油田の占有を主張した。

一九九〇年七月後半、クウェートが、財政及び領土に関わるイラクの要求を軽蔑的に拒絶し、OPECによる生産割当量の遵守要求を無視した後に、イラクはクウェートとの国境地帯に大規模な部隊を結集し始めた。

これら全てに対する世界に残された唯一の超大国の反応は、実際にイラクがクウェートを侵略した後に、多数の分析と論争の的となった。ワシントンはイラクに侵略の青信号を出したのだろうか?少なくとも、警告の赤信号を出さなかったのだろうか?この論争は、次のような出来事により、さらに燃え上がった。

七月一九日:ディック・チェイニー米国防長官は、クウェートが攻撃されたら米国はその防衛を行うという、イラン・イラク戦争時に米国が出した宣言はまだ有効であると述べた。政策担当国防次官のポール・ウォルフォヴィッツも、アラブ諸国の大使との個人的昼食会の場で、同様の見解を表明した(皮肉なことに、イラン・イラク戦争で、クウェートはイラクの同盟国であり、イランからの攻撃を恐れていた)。その後、チェイニー自身の報道官であるピート・ウィリアムズが、チェイニーは、「多少勝手に」この発言を行なったとして、チェイニーの発言を諫めた。ホワイトハウスは、チェイニーに対し、「あなたは我々が戦いたくないかも知れない戦争に我々を引き込もうとしている」と言われ、今後は、イラクに関する宣言は、ホワイトハウスと国務省が行うと、明確に伝えられた[8]。

七月二四日:国務省報道官マーガレット・タトワイラーは、質問に対して次のように答えた。「我々とクウェートとの間には防衛条約は何もない。クウェートに対して特にその防衛や治安面で肩入れはしていない」。クウェートが攻撃を受けたならば米国はそれを防衛するかどうか問われて、彼女は、「我々が深いまた長きにわたる関係を維持してきた湾岸地域の友好国の、個別的及び集団的防衛を支持することに、我々は強く献身し続ける」と答えた。クウェート政府関係者の中には、個人的に、この発言は弱すぎると考えた者もいた[9]。

七月二四日:米国は、計画外の滅多にない軍事演習を、アラブ首長国連邦と共同で行なった。そして、先のピート・ウィリアムズは、その際、次のように発表した。「我々が深いまた長きにわたる関係を維持してきた湾岸地域の友好国の、個別的及び集団的防衛を支持することに、我々は強く献身し続ける」。さらに、ホワイトハウスは、「我々は、イラクによる部隊の集結に憂慮している。関係各者に、暴力を避けるために尽力するよう求める」[10]。

七月二五日:米国の駐イラク大使エイプリル・グラスピーは、サダム・フセインに対し、個人的に、「我々は、貴国とクウェートとの国境問題のような、アラブ対アラブの紛争に対しては、意見を持っていない」と述べた。この言葉は、今や広く知られることとなったものである。けれども、彼女は、続けて、フセイン政権がクウェートの行為を「軍事侵略にも比する」と述べた状況で、イラクがクウェート国境地帯に大規模な兵力を結集していることを憂慮するとも述べた。

七月二五日:中東及び南アジア問題担当の国務次官補ジョン・ケリーが、タトワイラーやウィリアムズと同様の線に沿った、「アメリカの声」によるイラクに対する警告放送を、握りつぶした[12]。フセインはこの出来事については知らなかったかも知れない。とはいえ、四月に、フセインは、イラク訪問中の上院少数党の院内総務だったロバート・ドールから、大統領の言づてとして、ブッシュ政権は、イラクの人権侵害に批判的な「アメリカの声」の放送とは距離を置いており、また、対イラク経済制裁に反対していると伝えられた[13]。

七月二七日:下院も両院も、人権侵害を理由に、イラクに経済制裁を適用することを票決した。けれども、ブッシュ政権は、ただちに、これに対して反対を表明した[14]。

七月二八日:ブッシュはフセインに対して個人的なメッセージを送り(これはどうやらグラスピーのフセインとの面会に関する報告をグラスピーから受け取った後であるようである)、武力行使に対する警告を出した。このときブッシュは、直接クウェートには言及しなかった[15]。

七月三一日:ケリーは議会に対し、次のように述べた。「我々は、湾岸諸国のいずれとの間にも、防衛条約を締結していない。これははっきりしている。〔・・・・・・〕歴史的に、我々は、国境論争やOPEC内の討議については、態度決定を控えてきた」。

リー・ハミルトン下院議員は、もしイラクが「国境を越えて襲撃するとして」、米国が、そこに「米軍を介入させることを義務づけるような条約上の拘束がない」と言うのは正しいかどうか質問した。

「それは正しい」と、ケリーは答えた[15]。

その翌日(ワシントン時間で)、戦車を戦闘としたイラク軍が、クウェート国境を越えて襲撃し、米国は、直ちにそれに大反対を唱えた。

公式声明にもかかわらず、実際には、米国は、イラク−クウェートの国境論争について、公式の立場を有していた。侵略後、イラクがクウェートの諜報ファイルの中から見つけた文書の一つは、クウェート国務省長官とCIA長官ウィリアム・ウェブスターの間の一九八九年一一月の会談の記録であり、それは次のような文言を含んでいた。

我々は、イラクの悪化する経済状況を利用してイラク政府に圧力をかけ、イラクとクウェートの国境を線引きするよう仕向けることが重要であるという点で、米国側に同意した。CIAは、我々に、適切な圧力の手段についてCIAの見解を述べ、こうした行動が高官レベルで調整されるという条件のもとで、広範な協力を開始すべきであると述べた。

CIAはこの文書を「全くの捏造」と呼んだ。けれども、ロサンゼルス・タイムズ紙の指摘によれば、「メモは明らかな偽造ではない。特に、もしイラク政府関係者がこれを自分で書いたとするならば、まず確実に、米国とクウェートの信頼性に対して遙かに打撃となるものにしていたであろう」という[17]。クウェート外相にとっては、この文書は十分に信頼性があり打撃となるものだったようである---八月半ば、アラブ・サミットでイラク外相にこの文書を突きつけられた彼は、気絶したのである[18]。

イラクは米国とクウェートの罠にはめられたのであろうか?サダムは、陰謀を仕掛けた者たちが、恐らくイラクは国境地帯を越えてクウェート領内深くは入り込めないだろうという予測のもとで、侵略するよう挑発されたのだろうか。米国とクウェートの望み通りに、サダムの鼻をへし折るために?

一九九〇年二月、フセインはアラブ・サミットの場で演説したが、その演説は、確実に、そうした陰謀を煽りたてるか誘発する類のものであった。演説の中で、彼は、ペルシャ湾における米軍の駐留継続を非難し、「湾岸の人々と、その友人たちである他のアラブ諸国は、用心しないと、アラブの湾岸地域を米国の意のままに支配されることになるだろう」と警告した。さらに、「米国の利益だけにかない、他の人々の利益には何の配慮もしない、特別の展望に従い」、米国が、石油の生産と流通、そして価格を指図することになるだろうとも述べた[20]。

イラクとサダム・フセインに対する陰謀があったかどうかを検討する際、これまで述べてきたことの他に、以下の点を考慮しなくてはならない。

パレスチナ解放機構(PLO)のヤセル・アラファト議長は、五月のアラブ・サミットで、サダムがクウェートに対して相互に承認可能な国境確定の交渉を提案した後に、ワシントンが、クウェートとイラクの間の相違を平和的に解決する機会を阻止したと断言した。「米国はクウェートに、妥協を全く提案しないようそそのかしている」とアラファトは言った。「それは、湾岸危機を避けるための交渉による解決はあり得ないということだ」。彼は、クウェートは、交渉ではなく、米国の武力に頼ることができると信ずるに至ったと述べた[21]。

同様に、ヨルダンのフセイン王は、イラク侵略の直前に、クウェート外相が次のように語ったことを公表した。「〔イラクに〕応える予定はない〔・・・・・・〕イラクが気に入らないと言うならば、我々の領土を占領するがよい。〔・・・・・・〕そうなれば、我々は、米国を連れてくる」。さらに、クウェートの首長は、部下の士官たちに対して、侵略の際の任務は、イラクを二四時間防いでおくことだと述べたと言う。そのときには、「アメリカをはじめとする外国の部隊がクウェートに上陸し、イラク軍を追放するだろう」と。フセイン王は、アラブ世界では、サダムが苦し紛れにクウェートを侵略するよう扇動され、準備された罠にはまるよう仕組まれたと考えられているという見解を表明した[22]。

クウェートの首長は、イラクの財政要求に応じず、その代わりに侮蔑的にも、バグダッドに五〇万ドルの支援を提案した。侵略前に彼が首相に宛てたメモは、この政策がエジプト、ワシントン、ロンドンの支持を受けていると述べている。「議論の際、動揺しないように」と首長は書いている。「我々は、彼ら〔イラク〕が考えるよりも強いのだ」と[23]。

戦争の後、クウェートの石油・財務相は次のように認めている。

我々は、米国が我々を蹂躙させたままにはしておかないと知っていた。私はワシントンに長くいたので、そんな誤解をすることはなかった。また、いつもクウェートへの訪問者があったのだ。米国の政策は明確だった。それを理解できなかったのはサダムだけだ[24]。

けれども、何故サダムが理解できなかったかについては、恐らく、既に多くの理由を見てきた。

イラク外相タリク・アジズは、石油価格の急落は、西洋に大規模な投資用株式を有するクウェートにとっては容易に受け入れることができるものであろうが、現金不足のバグダッドにとって不可欠の石油収入を下げることになる、と宣言した。クウェートが、「イラクのような大きな強国に対してこれほどまでの陰謀を働く危険を犯すことは、大国の支持と保護がなければ、考えられないことだ。支持を与えている大国は、米国である」と、アジズ外相は言っている[25]。実際、米国が、クウェートとの間に緊密な金融上の関係を持ちながら、イラクに対する挑発的な振舞いを止めるよう説得しようとしたことを示すものは何もない。

さらに、ワシントンもクウェートも、侵略を防止することにひどく関心を払っていたわけではなさそうである。イラクによる攻撃の前の週に、諜報エキスパートが、切迫して、少なくともクウェートの一部に対する侵略が起きそうだと、ブッシュ政権に伝えた。これらの予測は、「政府機関から、ほとんど何の反応も引き起こさなかったようである」[26]。同じ時期に、CIA長官ウィリアム・ウェブスターも、クウェート国境に集結しているイラク軍の衛星写真をブッシュ大統領に見せながら、同様の説明を行なった。けれども、ブッシュ大統領はほとんど関心を示さなかったという[27]。八月一日、CIAの国家諜報警告担当官(ママ)は国家安全保障委員会の中東スタッフのオフィスを訪れ、次のように告知した。「これは最終警告である」。彼は、イラクがその日のうちにクウェートを侵略すると述べ、実際にイラクはそうしたのである。この警告も、緊急行動を促さなかった[28]。最後に、イラクに駐在していたあるクウェートの外交官は、侵略前に、イラクによる侵略を警告する多くの報告を、クウェート政府に送っていた。これらも同様に無視された。最後の報告で、彼は、(クウェート時間の)八月二日という、侵略の正確な時間を告げていた。戦争終結後、政府が彼の警告を無視したことについて議論するため、その外交官がクウェートで記者会見を開催したとき、政府閣僚一人と数名の軍士官によって、中断させられた[29]。

七月、これらの警告が全て無視されていた頃、ペンタゴンは、コンピュータで指揮所演習(CPX)を行うのに忙しかった。このCPXは、一九八九年末に、特に「イラクの脅威」---これは、新たな戦争計画一〇〇二−九〇で、「ソ連の脅威」の後を継いだものだった---に対する可能な対応を検討するために開始されたもので、クウェートないしはサウジアラビア、あるいは両国に対するイラクの侵略を扱う演習であった[30]。ロードアイランド州ニューポートにある海軍戦争学校における戦争ゲームの演習では、参加者は、想定上のイラクによるクウェート侵略に対して最も効果的な米国の対応は何かを聞かれていた[31]。一方、南カリフォルニア州のショー空軍基地では、別の戦争「ゲーム」で、イラクで爆撃の標的を特定することが含まれていた[32]。

さらに、五月と六月には、ジョージタウン大学の戦略国際関係研究所が、ペンタゴンと議会、防衛関係契約企業に対し、通常戦争の今後に関する研究について説明していた。この研究は、米軍の対応を要する戦争で最も起きる可能性が高いのは、イラクとクウェートないしはサウジアラビアとの戦争であると結論していた[33]。

事前に何か知っていたように思われるもう一人の人物は、ジョージ・シュルツであった。彼はレーガン政権の国務長官であり、その後、巨大な多国籍建設会社ベクテル社に戻った人物である。一九九〇年の春に、シュルツはベクテル社を説得して、イラクの石油化学プロジェクトから撤退させた。「私は、イラクでは何かがとても上手くいかなくなって混乱し、そしてベクテルがイラクでビジネスを続けるならば、それもまた台無しになるだろうと言った。だから、撤退するよう命じたのだ」[34]。

最後に、ワシントン・ポスト紙は、次のことを暴露している。

侵略の後、機密扱いの米国諜報評価が、サダムは米国の中立声明を〔・・・・・・〕ブッシュ政権が出した侵略への青信号と受け取ったと結論した。ある上級イラク軍将校は〔・・・・・・〕CIAに対し、サダムは、侵略が米国の敵意に満ちた反応を引き起こしたことに、本当に驚いたようだった、と話した。

その一方で、グラスピー・フセイン会談に出席していたイラク外相タリク・アジズの次のような声明もある。

彼女は青信号も出さなかったし、赤信号も出さなかった。クウェートに対する我々の進駐の問題は話題に出なかったからである。〔・・・・・・〕そして我々はそれを青信号とは受け取らなかった。つまり、クウェートに軍事介入しても米国が反応しないとは考えなかった。そうではなかった。八月二日の朝、我々は米国の攻撃を予期していた[36]。

けれども、米国による攻撃に対してこうしたのんきな態度を取ることについては懐疑的にならなくてはならない。そして、実質上イラクが騙されたことを否定するような、こうした発言は、しばらくの間、イラク政府が、米国の爆撃によってイラクが打撃を受けたことを頑固に認めようとせず、イラク人犠牲者の数を少なく見せようとしていたという状況に照らして検討されるべきものである。

ブッシュ政権は、イラクの近隣アラブ諸国、特にエジプトとサウジアラビアとヨルダンが、当初から米国に対してフセインを挑発するようなことを言ったりしたりしないよう求めていたという立場を取っていた。さらに、グラスピー大使が強調したように、フセインがクウェート「全土」を奪取するとは誰も考えていなかった。せいぜい、既に領有を主張していた島と油田だけだと考えていた。

しかしながら、もちろん、イラクは一世紀にわたって、クウェート「全土」の領有権を主張していたのである。



侵略


イラクが侵略したとき、曖昧なメッセージを送る時期は終わった。ジョージ・ブッシュ一世がどんなずるい計画のもとに行動していたにせよ、彼は、この機会を全面的に活用した。イラクが国境を越えてから数分間とは言わないまでも数時間のうちに、米国は動員を開始し、ホワイトハウスはイラクの行為を「軍事侵略の露骨な行使」と非難し、「すべてのイラク軍の即時・無条件の撤退」を要求し、また、米国政府は「あらゆる選択肢を検討している」と発表した。同時に、ジョージ・ブッシュ一世は、この侵略は、「米国防軍の改革には慎重になることが必要であることをはっきり示すもの」と宣言した[37]。

二四時間も経たないうちに、戦闘機と爆撃機を積んだ米国海軍タスクフォースがペルシャ湾に向かい、ブッシュは対イラク集団行動について世界中の指導者たちの賛同を得、イラクとのすべての貿易は封鎖され、米国内のイラクとクウェートの財産はすべて凍結され、「ステルスの擁護者たちが、イラクによるクウェート侵略を、レーダーに発見されない兵器の必要性を主張するために利用したため」、上院は、「B−二ステルス爆撃機製造の終了ないしは凍結法案を、完全に無効にした」。彼らは、「この攻撃は、戦争の危機が続いていること、そして先端兵器が必要であることを示している」と主張した。・・・ドール上院議員は、「我々がモーニング・コールを受け取るためにサダム・フセインが必要だったとするならば、少なくともそれについては、サダムに感謝してよい」と語った[38]。

「イラクのクウェート侵略を持ち出してハイテクB−二爆撃機を救済した翌日、上院は、再び、金曜日に、第二次世界大戦時からの古い戦艦二隻を予備役に回すことをくい止めるために、この危機を持ち出した」[39]。

数日のうちには、数千人からなる米軍兵士と武装旅団がサウジアラビアに駐留していた。この作戦には、「砂漠の盾」作戦という仰々しい名前が付けられ、米軍のニーズを理解する大きな声が当時の支配的状態となった。

東欧とソ連の政治的変化により防衛産業が大規模な予算削減に動揺してから一年も経たないうちに、ペルシャ湾危機が、軍事企業に小さな希望の光を提供することとなった、と経営者や評論家は述べた。

イラクが撤退せず、面倒な事態になったら、軍事産業にとっては好都合だろう。ワシントンは平和の配当といったレトリックをあまり口に出さなくなるだろう」と、ニューヨークのキダー・ピーボディ社のアナリストであるマイケル・ロウアーは述べた。

さらに、ワシントン・ポスト紙は、この危機から「利益を得そうなのは、防衛産業の諸企業である」と書いている[40]。

九月に、レーガン政権時代の元国防次官補で海軍長官だったジェームズ・ウェッブは、感情を抑えきれずに、次のように述べた。

ほとんどのアメリカ人が大統領を支持するよう努めてはいるが、見かけの敬意のすぐ下には冷笑的なムードが存在することを、大統領は意識すべきである。米軍の集結は、NATOの存在基盤が失われつつある中で使命を求めている米軍の削減を阻むために計画された「ペンタゴンの予算ドリル」以外のものではないと主張する者は多い[41]。

注目すべきことに、別の元国防次官補ローレンス・コーブもシニカルな発言を行なった。彼は、サウジアラビアへの部隊派遣は、「サダム・フセインに対する戦闘よりも、キャピトル・ヒルでの、来るべき予算を巡る戦いにより駆りたてられているように見える」と書いている[42]。

けれども、再選をつけねらう議員にとって、シニカル過ぎるものなど、存在するだろうか?一〇月始めには、次のような記事が現れることとなった。

サウジアラビアへの米軍派遣という政治的背景は、日曜日の予算合意において防衛予算削減を制限するために重要な役割を果たした、と予算関係補佐官は述べた。一部のアナリストが二カ月前に予想していた軍事支出の「急落」は終わりを告げた、と。キャピトル・ヒルの策士たちは、「砂漠の盾」作戦が予算交渉の政治的状況を大幅に変え、大規模な防衛予算削減を提唱していた議員たちは防衛的な立場にたたされることになった、と述べた。

防衛予算妥協案は〔・・・・・・〕「砂漠の盾」作戦向け資金をそのまま保つこととなっただけでなく、ソ連による西欧への大規模な攻撃のために毎年費やしていた予算の大部分を維持することとなったのである[43]。

この間、ジョージ・ブッシュ一世への支持率も回復した。湾岸に対する米軍の展開後最初に行われた八月の世論調査で、支持率は、七月末の六〇%から七四%に跳ね上がった。しかしながら、ホワイトハウスにいる男に対する米国民の熱狂を維持するためには、継続的な愛国心の注射をし続ける必要があるようである。というのも、一〇月には、米軍がペルシャ湾にいる理由に関するブッシュ一世の不明瞭さのために、支持率は五六%に押したのである。ブッシュが大統領になった最初の月以来、支持率がこれより低いことはなかった。そして、後に見るように、翌年一月に米国市民が次の愛国心−侵略注射を受けるまで、支持率はほぼこのレベルにとどまったのである[44]。



戦争への序曲


イラクがクウェートで略奪を行い、クウェートをイラクの第一九番目の県にしていたとき、米国は、サウジアラビアと周辺の海域に軍を結集させ、そして、ちょっとした強制と史上最も華々しい賄賂を使って、米国主導の国連決議および来るべき戦争を支持する「連合」を、様々なかたちで作り出していた。本質的には米国の作戦であり米国の戦争である出来事に対して、朝鮮やグレナダ、アフガニスタンで創り出したと同様の「多国籍」軍という見せかけを創り出した。この際、エジプトは何十億ドルもの夫妻を免除され、シリア、中国、トルコ、ソ連をはじめとする諸国は、軍事援助や経済援助を受け取り、世銀やIMFの貸付を受け、制裁を解かれるなど、様々な恩恵を受けた。こうした恩恵を与えたのは米国だけでなく、米国の圧力を受けたドイツや日本、サウジアラビアも同様の恩恵を提供した。さらにそれに加えて、ブッシュ政権は、連合軍諸国の人権侵害に対する批判を止めた[45]。

けれども、ワシントンとメディアは、ドイツが熱狂的に戦争のバンドワゴンに乗らなかったことに不満であった。つい昨日まで、ポーランドを蹂躙した強圧的ファシストと批判されていたドイツは、今や、平和を求める大規模なデモ行進を行う「弱虫」と呼ばれた。

ワシントンは国連安保理で、イラクを非難し、過酷な経済制裁を科し、戦争開始の「承認」を得る一〇程の決議を採択させた。それらの一つにでも反対したのは、キューバとイエメンだけであった。一一月二九日、武力行使を巡る重要な決議にイエメン代表団が反対票を投じてそれなりの賞賛を受けたとき、米国の議長を務めていたベーカー国務長官は、米国使節団に次のように語った。「彼がこの賞賛を楽しむことを望む。というのも、これは、彼が投じた票の中で最も高くつくものになるだろうから」。このメッセージはイエメン側に伝えられた。そして、数日のうちに、この小さな中東の国は、米国支援の激減を被ることになったのである[46]。

ハビエル・ペレス・デ・クエヤル国連事務総長は、「これは国連の戦争ではない。シュワルツコフ将軍〔連合軍司令官〕は、ブルーのヘルメットをかぶっていない」と認めた[47]。国連に対する米国の支配を目にした英国の政治評論家エドワード・ピアースは、国連は「中世の英国議会のように機能している。諮問を受け、儀礼的な尊重を示されるが、神聖なる国王大権を考慮して、ぶつぶつと同意を与えるのである」[48]。

まもなく、米国における最重要問題は、次のものとなった---武力に訴える前に、経済制裁が機能するかどうかどれだけ待つべきか。米国政府とその支持者たちは、自分たちは、フセインに対し、フセインが自ら掘った墓穴から逃れるための平和的で面目を保てる方策を見つけるあらゆる機会を提供したと主張した。けれども、実際のところは、ブッシュ一世大統領がフセイン大統領に何らかの提案をする際には、かならず、同時にイラクを深く侮辱し、イラクが主張する不平の妥当性については、まったく認めようともしなかったのである[49]。実際、ブッシュはイラクのクウェート侵略を、「挑発なし」に行われたものと決めつけていた[50]。ブッシュ大統領のレトリックはまずます辛辣に大げさになった。彼は、個人的な攻撃を始め、サダムを悪魔であるとした。これは、彼がその前にノリエガを悪魔と呼び、また、レーガンがカダフィを悪魔と決めつけたのと同様である。あたかも、こうした外国人は、アメリカ人が持っている誇りや理性など持っていないかのように。以下は、ロサンゼルス・タイムズ紙のこれに対する見解である:

イラクによる侵略の直後から〔・・・・・・〕ブッシュは、注意深く、イラクの侵略を、ドイツのポーランド侵略及び第二次世界大戦開始になぞらえ始めた。けれども、彼は、イラク大統領サダム・フセインをアドルフ・ヒトラーになぞらえることはしなかった。けれども、この注意深さは先月放棄された。ブッシュは、フセインをヒトラーになぞらえただけでなく、ニュルンベルク式の戦争犯罪法廷を設置すると威嚇したのである。そして、先週、ブッシュはさらに進んで、フセインはヒトラーよりも悪い、というのも、ドイツは米国市民を軍事施設の「人間の盾」に使ったことはないからだ、と主張した。

このようにホロコーストを矮小化した後に、ブッシュは、侵略を一つでも放置したまま受け入れてしまうならば、「明日の世界大戦につながる可能性がある」と警告した。ブッシュ自身の側近の一人は、「彼のレトリックを手なずけることができた」と述べた[51]。

サダム・フセインは、クウェート全土を奪取---略奪と強奪を行なったことは言うまでもなく---したことで、自分の手に大きく余るものをつかみ取ってしまったことに、まもなく気づいたに違いない。八月上旬とそして一〇月に、彼は、ルマイラ油田全体のイラクによる支配、ペルシャ湾へのアクセスの保証、制裁の解除、石油価格と生産を巡る問題の解決と引き替えに、クウェートからイラク軍を撤退させると提案した[52]。彼はまた、悪い時にイラクとクウェートにいるという不運に直面した外国人の多くを解放し始めた。一二月半ばに、最後の外国人が解放された。その月の上旬に、イラクは新たなイラク−クウェート間国境のレイアウトを開始した。この意味するところははっきりしていなかったが、クウェートはイラクの一部であるという主張を放棄することを意味していたのかも知れない[53]。そして、後で見るが、一月上旬、最も大きな平和のサインを彼が出したことが報じられた。

けれども、ブッシュ政権は、これらのいずれに対しても、建設的な対応をしなかった。八月のサダム提案後、国務省は「断定的に」、そんな提案がなされたことさえ否定したが、その後ホワイトハウスは提案があったことを認めた[54]。この問題を巡って後に議会が出したまとめは、次のように述べている。

イラクはどうやら、クウェートを侵略することによって、世界の注目を集めることができ、それによりイラクの経済状態改善を巡る交渉を行うことができるので、それから撤退しようと考えていたようである。〔・・・・・・〕侵略の最も初期から、米国の利益を満足させる外交的解決は十分可能であったかも知れない。

議会文書は、ブッシュ政権が侵略に対して褒美を与えたという印象を与えることを絶対に避けたがっていたと述べている。しかしながら、八月の交渉を仲介していた、ある退役軍士官は、後に、その和平提案は、「既に米国の政策に対立するものであった」と結論している[55]。

米軍の戦争準備が一定のポイントに達した後に、米国は、平和を望んだとしても、平和的解決に機会を与えることができたのだろうか?一一月末に、元国防次官補ローレンス・コーブは、防衛関係機関のあらゆる構成要素が、戦争を求めて圧力をかけていた。自分たちの価値を証明し、自分たちが今も必要であることを証明し、そして今後の予算を確保するために・・・

一月半ばまでに〔・・・・・・〕米国は湾岸に、全五軍から〔つまり、沿岸警備隊さえ派遣されたということである〕、四〇万人以上の兵力を派遣しているだろう〔実際には五〇万人を越えた〕。これは、冷戦下で我々がヨーロッパに駐留していた最大の兵士数よりも約一〇万人多い。軍はサウジアラビアでまもなく八個師団を擁することになるだろう。これは、ヨーロッパでの二倍である。〔・・・・・・〕海兵隊全体の三分の二が〔湾岸に駐留することになるだろう〕〔・・・・・・〕海軍は、一四ある空母戦術的部隊単位のうち六単位と、四戦艦のうち二隻と、水陸両用部隊二個のうち一個部隊を派遣する予定である。〔・・・・・・〕空軍は、二四の実践戦術航空団の七つから戦闘機を〔・・・・・・〕爆撃機とともに派遣している。〔・・・・・・〕戦闘予備兵さえも、派遣される予定である。〔・・・・・・〕予備兵のロビーは、予備兵ユニットが参加しないならば、今後の予算が危機にさらされると考えたのである。〔・・・・・・〕派遣に際してすべての軍が参加したかったと同様、実践でも、それぞれが取り分をもって参加したいと思わないだろうか?

さらに、コーブは、軍の最高司令部が、各軍からの圧力に抵抗できるかどうか、いぶかっている。ペルシャ湾の狭い危険な水域に空母数隻を移動させた海軍は、ただ単に戦闘の近くにいたいだけだろうか?海兵隊は、海岸からの攻撃を行うことによって、水陸両用戦の力が健在であることを示したがっているのではないだろうか?そして、陸軍は、空軍が勝利を収めている中を、黙って見ていることができるだろうか[56]?〔できなかった。そのために戦争が長引くこととなった。〕

大規模に戦力を誇示し、超ハイテクの実際の戦争ゲームを手にすることになった米軍とブッシュ大統領は、イラクからのメッセージにも反戦活動にも、それを台無しにさせはしなかった。『フォーチュン』誌は、後に、ブッシュの胆力に捧げられた独創的な賛歌の中で、戦争前の時期を次のように要約している。

大統領と部下たちは、ブッシュが造り上げていたリングから面子を保ちながら逃れる方策をサダムに与えようとしていた、アラブ世界やフランス、ソ連といった独自行動をとった平和推進者を抑え込むために、残業して働いていた。何度も何度も、ブッシュは次のような呪文を繰り返した。交渉も、取引も、面子の維持も、褒美も認めない、また、特に、パレスチナ和平会議との関連〔何度かイラクが提案した問題であった〕も認めない、と[57]。

一九九〇年一一月二九日、国連安保理は、一九九一年一月一五日までにイラクがクウェートから撤退しない場合、撤退させるために、「必要なあらゆる手段」を用いることを承認した。クリスマスの期間に、ジョージ・ブッシュ一世は、クウェートでイラクが行っている逮捕や強姦、拷問に関するアムネスティ・インターナショナルの八二ページからなる苦痛な報告書の一ページ一ページを詳しく検討したことがわかった。クリスマス休暇の後に、彼はスタッフに対して、自分の良心は全く痛まないと告げた。「これは白か黒か、善対悪の問題だ。この男は阻止されねばならない」[58]。

ブッシュが、アムネスティが同時期に出した、グアテマラやエルサルバドル、アフガニスタンやアンゴラ、ニカラグアなどでの、ブッシュの仲間たちによる、人権と人間の魂に対する、同様に忌むべき侵害に関する多くの報告をそもそも読んだことがあるかどうかについては、報道されなかった。読んでいたとすると、それらの文献は何の影響も与えなかったことになる。というのも、ブッシュはこれらの国での部隊を支援し続けたのであるから。さらに、アムネスティは、一〇年以上にわたって、イラクの極端な残忍さについて報告を続けてきた。そして、八月の侵略から数ヶ月前にも、そうした侵害について、米国上院で証言していたのである。けれども、それらのどれも、ジョージ・ブッシュ一世に、正義の怒りを引き起こさせることはなかった。

一月一五日の期限が近づくにつれて、世界は息をひそめた。五カ月半の間に、地球というこの悲惨な惑星に対するまた新たなギラギラした戦争を加えることを避ける方法が見つからなかったなどということがあり得るだろうか?一月一一日、アラブの国連大使たちは、イラクと関係の強いアルジェリア、ヨルダン、イエメンから報告を受け取ったと述べた。その報告では、一五日の直後に、サダムは、イラクが攻撃を受けないという国際的な保証と、パレスチナの苦悩を巡る国際会議、そしてイラクとクウェートの論争に関する交渉と引き替えに、「原則的に」クウェートから撤退する意思があると表明する計画であるとされていた。大使たちによると、イラクの指導者フセインは、自分が脅迫に屈したのではないことを示すために、期限の一日か二日後まで待ちたがっていたという。

五〇万人からなる兵力をサウジアラビアで宙づり状態に待たせていた米国にとって、これは受け入れがたいものだった。サダム・フセインは「一月一五日の深夜に、境界を越えるだろう」と、ベーカー国務長官は述べた。それ以後にクウェートから撤退すると提案したところで、自分を救うことができると考えるべきではない、と[59]。



ジョージ・ブッシュの多彩な説明

世界の巨大な石油資源がこの一人の男、サダム・フセインの手に落ちるならば、我々の仕事、我々の生活様式、我々自身の自由、そして世界中の友好国の自由が犠牲となるだろう[60]。

ジョージ・ハーバート・ウォーカー・ブッシュは、米国の人々に対して、このようにのたまった。セオドア・ドレーパーは、次のように言っている。

これらの理由は凡庸で信じられないものである。まず「仕事」に言及しなくてはならなかったことは、ジョージ・ブッシュが、国内的な政治キャンペーンとして、有権者の財布にアピールしようと第一に考えていたことを示唆している。けれども、それは、世界の反対側で戦争を始めるには、奇妙に粗雑な理由である[61]。

長々と時間をかけた戦争準備期間全体と、戦争中と、戦争終結後とにわたって、そもそもブッシュが何故ペルシャ湾に介入し、米国を戦争に連れ出したか、誰も確実にわかってはいなかった。議員たちも、ジャーナリストも、編集者も、一般市民も、大統領に対して明確に曖昧性なく、そして前の週に述べたことと矛盾無く、動機を説明するよう、求め続けて---時に嘆願さえして---いた(経済評論家やシンクタンクの知識人は、その曖昧さを認めるのは専門家としてまずいと考え、結局、沢山の権威的な見かけを装ったナンセンスを書きまくった)。

ウォールストリート・ジャーナル紙は、当惑が広がる中で、「有権者」の一団を集めて問題を議論させた。同紙は、議論の参加者について、「彼ら/彼女らは、起きていることについて混乱しており、もっと情報が欲しいと訴えていた」と伝えている。「そして参加者たちは、ブッシュ氏が、説明を、日々、変えていることに動揺していた」。ある参加者は次のように語っている。「これまでのところ、まるで、デビッド・レターマンの『ここにいる一〇の理由』のようだった。毎週のように、話が変わった」[62]。

ペルシャ湾での出来事であるという点は、常ながら、紛争において、液体の金たる石油が、全面的にでないにせよ、かなり関係しているのではないかという考えに向いている。けれども、直接的な状況からは、この考えを支持する証拠は得られない。米国に対する石油供給は問題ではなかった---米国エネルギー省は、石油は不足していないと認めていたし、イラクとクウェートで失われた分を補って有り余る量の石油をサウジアラビアをはじめとする各国が増産していたのである。そして、いずれにせよ、イラクとクウェートの産油は米国における石油消費の5%程度にしか相当していなかった。さらに、メキシコからロシアまで、世界中がさらなる石油供給をする準備ができていたし、米国には大規模な未開発の石油資源があった。ここから、フセインであろうと誰であろうと、ある一つの生産国が、石油市場を統制したり支配したりすることが困難であったことが伺える。そして、ここから、次のような疑問がわいてくる。そもそも、石油を支配してどうしようと言うのだろう?飲料に使うとでも言うのだろうか?一二月までに、「OPECは初夏以来最大規模で石油を採掘しており、中東の戦争により供給が途絶えない限り、石油の供給過剰と価格の急下落が見込まれている」との報道があった[63]。

石油価格について。石油屋のジョージ・ブッシュとジェームズ・ベーカー、そして不景気の米国は、石油価格の上昇を望んだのであろうか。それとも下降を望んだのであろうか。いずれの仮説に対しても理由をつけることができる(一九九〇年一月、米国はサダムに対して、秘密裡に、OPECの石油価格を一バレル当たり二五ドルに引き上げるよう求めた)[64]。そして、混沌状態の中で、ワシントンはどれだけ容易に石油価格を上げさせたり下げさせたりできたのだろうか?そもそも、石油価格は慢性的に、しばしば急激に変動する。例えば、一九八四年から一九八六年の間に、石油価格は一バレル当たり三〇ドルから一〇ドル以下に下落したのである。しかもこれは、イラン−イラク戦争で、両国の石油生産が削減されている中でのことである。

けれども、直接的な状況を巡るこうした分析は、米国政策立案者たちの思考に対して「石油という神秘」が有する、大きなそして継続的な影響を考慮していない。仮にブッシュが、我々が暮らしている世界の永続的な危険にという印象を議員に植え付けようとして「危機」を求めていたとすると、主要産油国二国の紛争に関与する方が、ボリビアによるパラグアイ攻撃とかガーナによるコートジボアール占領を引き合いに出すよりも、遙かに容易に期待通りの効果を引き出すことができたことは確かである。

大統領が、アメリカ式生活と皆の自由に言及したことは、彼や他の政治家たちが、公式に、石油に依存するとする、生か死かの重要性を反映している(これらの人々が本当は何を信じ何を感じているかは、我々の関知し得ないことである)。この年のより早い時期に、CIAのウィリアム・ウェブスター長安は議会に対し、石油は「米国の利益にとって重大な影響を持ち続けるだろう」と述べている。それというのも、今後一〇年で、「西洋の中東石油への依存は劇的に増大するだろうから」である、と。一方、生涯にわたって中東に関わってきたシュワルツコフ将軍は、次のように証言した。

中東の石油は西洋の生命線である。今日我々に燃料を提供しており、また、自由世界でわかっている石油埋蔵の七七%を占めている中東の石油は、世界の他の場所での資源が枯渇したときに、我々に燃料を提供することになる。二〇年から四〇年のうちに、米国は、経済的に入手可能な自国の石油資源をほとんど使い果たすと推定されているが、ペルシャ湾地域では、少なくとも今後一〇〇年分のわかっている石油埋蔵を有しているのだ[65]。

実際には、当時の六九%であった。また、ソ連が「自由世界」に参加したため、もっと少なかった[66]。さらに、この善良な将軍の予測は、いささか思弁的なものであり、また、「経済的に入手可能な」という言葉は、米国の国内石油供給コストが湾岸の石油開発より高いことを示しているという点を指摘しておかなくてはならない。けれども、これは利潤に関わる問題であり、石油供給自体に関わる問題ではない。さらに、こうした等式には、代替エネルギー資源が持つ大きな可能性を含めなくてはならない。

このとき、米国は---一見するところ、湾岸の石油供給に対する危機にパニックに陥っていた---石油の一一%を湾岸地域から得ていた。一方、六二%の石油を湾岸から得ている日本と、二七%を湾岸から得ている欧州は、サダムと元植民地であったイラクのことになると口から泡を吹くマーガレット・サッチャーを除いて、ほとんど全く興奮していなかった[67]。ドイツの中東石油依存率は約三五%だったが、それにもかかわらず、ワシントンは、戦争計画を支持するために、ボンと東京の腕をねじ上げなくてはならなかったのである。実際のところ、この二カ国は、湾岸地域の石油に対して米国がより大きな影響と統制を手に入れることに用心深い態度を示していた。

ワシントン公式の石油という神秘に対する抱擁は、長きにわたる政策の基本となった。これについてノーム・チョムスキーは次のように述べている:

一九四〇年代以来、米国外交政策の主要な動因であったのは、米国とその雇われ国家が湾岸地域の膨大で比類ないエネルギー資源を実質的に支配すること、そして、決定的に重要なことには、石油生産と価格の決定に関して独立した地元の権威が大きな影響力をもたないようにすることであった[68]。

これが常に武力行使を意味していたわけではない。一九七三年、サウジアラビア率いるOPECが、大規模な価格引き上げと石油ボイコットを使って、ワシントンに圧力をかけ、イスラエルが最近占領した領域からの撤退をイスラエルに促すよう仕向けさせようとしたとき、米国は、侵略もしなかったし、侵略の威嚇も行使しなかった。この問題は、武力を全く使わない、包括的な外交により解決された。OPEC諸国が米国による暴力的な運命を免れたのは、ベトナム戦争が当時なおワシントンを重く包み込んでいたことと、ニクソン政権がウォーターゲート事件に飲み込まれてつつあったことが重なったからかも知れない。

初期の段階で、イラクのクウェート侵略が米国経済を深刻に悪化させるという不吉な予告がいくつかなされていたが---それは全く起こらなかった---、ブッシュはさらに、イラクがサウジアラビアを奪取したなら、さらに恐ろしい結果となると警告した。イラクはサウジアラビアに対しては、何一つ計画を持っていたことはない。これは、地図を一目見ればわかることである。イラクはサウジアラビアと長い国境線を共有しており、サウジアラビアを侵略するためにクウェートを経由する必要はない。さらに、クウェートを奪取した後の三週間は、後にコリン・パウエル将軍も認めたように、クウェートを経由したとしても、全く抵抗なしにサウジアラビアを侵攻できたのである[69]。ブッシュ政権のオフィシャルは、実際、CIAも防衛情報局も、イラクがサウジアラビアを侵略することがありそうだとは考えていなかったと認めている[70]。サウジも、イラクの侵略があるとは考えていなかった。少なくとも、米国のチェイニー国防長官が八月五日リヤドに飛び、個人的に、ファハド王に対して、サウジアラビアは大きな危機にさらされており、防衛のために非常に大規模な米軍の注入を緊急に必要としていると述べるまでは[71].

ブッシュは、批判者たちが、彼は石油産業の利益ばかりを防衛しようとしていると非難したとき、石油による理由付けを引っ込めた。一〇月に、ブッシュの講演は、「大統領、サウジアラビアから我々の軍隊を連れ戻せ!石油のために血を流すな!」と叫ぶ人々により、中断させられた。これに対して、やじった人たちが乱暴に追い出されていた中、ブッシュは、「ご覧の通り、決して言葉をきちんと受け取らない人がいる。この戦いは石油に関するものではなく、〔我々が我慢できない〕むき出しの侵略に関するものなのだ」と応えた。その一カ月後---それより早くではなかったかも知れないが---、ブッシュ大統領は再び、米国の経済的治安がサウジアラビアに結びついているとする、石油カードを切り始めた。その後まもなく、彼は、石油市場の混乱により米国経済と世界経済とに「毎日加えられている破滅的なダメージ」という説明に戻った[72]。

イラクによるむき出しの侵略という点について言うと---この言葉が、現代の国際侵略に関してあらゆる記録保持者である米国政府から発せられるためには、そして、パナマ侵略という、当時まだ一年も経っていなかったむき出しの侵略を行なった人物から発せられるためには、高度な選択的記憶技術を必要とする---、シリアとイスラエルはレバノンを侵略し、レバノンのかなりの部分を占領しており、イスラエルはその過程でベイルートを無慈悲に爆撃していたが、ワシントンから戦争の威嚇を受けることは全くなかった。サダム・フセインは---恐らくいつ米国はルールを変えたのだろうと訝しがりながら---米国に対して、次のように述べた。「今、あなたたちは攻撃的なイラクについて語っている〔・・・・・・〕もしイラクがイランとの戦争の際も攻撃的だったとすると、何故、当時、あなたたちは我々と話をしていたのか?」[73]

イラクがアヤトーラ・ホメイニに壮絶な戦いを仕掛けていた間、むろん、米国は、バグダッドと話をしていたどころではなかった。シーア過激派に向かわせるためのより小さな悪であると考えてイラクを選んだワシントンは、フセインに対して、巨大な量の武器と軍事訓練、先端技術、衛星写真情報、何十億ドルもの援助を提供していた。イランの反王制感情が自分たちの国土にも広まるのではないかと恐れたクウェートとサウジアラビアもまた、フセインに、惜しみない援助を与えていた。実際、そもそもワシントンがイラクを奨励してイランを攻撃させ、そもそも戦争の火種を作ったという証拠がある[74]。そして、米国がフセインを支援していたこの時期も、彼は、後に米国の道徳的レトリックの放火を浴びた時と全く同じように、忌まわしい、抑圧的で残忍な悪党だったのである。さらに、イラン戦争の際は、ワシントンによる催促がなかったため、国連もまた、イラクによるイラン侵略を非難もせず、経済制裁の適用も、要求の提示も行わなかった。

米国は公式には、イラクにもイランにも武器売却を禁止していたが、密かにどちらにも武器を提供した。中東地域でもう一人米国が忌み嫌うアヤトーラも、米国製武器とイラクに関する情報とを受け取っていた。両国がお互いに最大限の打撃を与えることができるよう、そして、中東の強国に育つことを妨げるために。

この度は、敵国イラクに対して、サウジアラビアとクウェートが、最も深く関わる「同盟者」であった。ワシントンは、どちらの国の「美徳」についても大騒ぎしなかったが、米国はサウジアラビアを防衛し、クウェートを解放するために献身するというのが、公式の政策であった。両国ともに、あまり清いとは言えない国だった。サウジアラビアは、いつも、極端な宗教的不寛容、超法規的逮捕や拷問、むち打ちなどを行なっていた[75]。また、ジェンダー・アパルトヘイトを実施し、体系的に女性を抑圧し、外国人労働者を実質上の奴隷として扱い、密通者に石打の刑を科し、泥棒の手を切断した。サウジアラビアに駐在していた米国の牧師たちは、十字架とダビデの星とを服から取り去り、自らを「道徳担当官」と呼ぶよう求められた[76]。

奇妙なことに、クウェートは、極端な反米外交を採っていた国である[77]。社会的にはサウジアラビアよりも開化していたが(イラクほど開化してはいなかった)、エリート寡頭制のもとで一家族により支配されており、その支配家族は一九八六年に議会を閉鎖していた。また、政党は存在せず、王族批判は禁止されており、多少なりとも政治的権利を有していたのは二〇%に満たなかった。イラクの手からもとの専制君主のもとに返されて以降、クウェートは、大量の外国人労働者をひどく残虐に扱い、何カ月も告訴も裁判もなしに拘留したし、また、「死の部隊」が数十人もの人々を処刑した。アムネスティ・インターナショナルは、「政治的に拘留された人々に対する拷問は日常かつ広範に行われて」おり、少なくとも八〇人が留置所で「失踪」した、と述べている。何千人もの米軍兵士が駐留する中で行われた、こうした作戦の標的となったのは、まず第一に、イラクと協力したと非難された人々---しかしながら、ほとんどの人々が、選択の余地なしにイラクとの協力をせざるを得なかった人々であった---と、生まれたばかりの民主化運動に関与した人々であった。さらに、四〇〇名のイラク人が、イラクに帰ると危害を加えられたり処刑される恐れがあったにもかかわらず、強制送還された[78]。

中東地域のエリートたちは、米国が彼らのために行っていると述べたことに対してあまり感謝を示さなかった。ある湾岸の政府関係者は、「一〇代の息子を、死ぬためにクウェートに送りたがっているとでも思うのだろうか?」と言い、さらに静かに笑いながら付け加えた。「その仕事を行うために、我々には、アメリカの白人奴隷がいる」。サウジアラビアのある教師は、このことを次のように語った。「米軍兵士は、新たな種類の外国人労働者だ。ここではパキスタン人がタクシーを運転し、アメリカ人が我々を防衛する」。湾岸諸国の指導者が感謝を表明しないことについて、あるイエメンの外交官は、次のように説明した。「湾岸諸国の指導者の多くは、自分たちのために戦わせるよう雇い入れた人々に感謝しなくてはならないなどと考えてはいない」[79]。そうしたあらゆることを別にしても、アラブ世界の人々は、外国人がムスリムとアラブ人を殺害すること、アラブの土地に外国の軍隊が駐留することに対して非常に敏感である。一世紀にわたる、西洋白人による植民地支配を思い起こさせるからである。

ブッシュはまた、イラクが核の脅威となっていると警告した。その通りであろう。けれども、米国、フランス、イスラエルなど、既に核兵器を有するあらゆる国についても同じことが言える。一方で、米国や英国、イスラエルの専門家は、イラクが核兵器を開発し使うことができるようになるまでには五年から一〇年かかると述べているのである[80]。ブッシュ大統領が、イラクによる核の脅威が存在するなどと信じていた可能性はあまりない。彼がこの警告を発したのは、世論調査の結果、過半数のアメリカ人が、イラクの核兵器保有を阻止することが戦争を起こす最も説得力のある議論であると感じていることがわかった後である[81]。

ブッシュが介入の理由に挙げなかったけれども、恐らく実際には重要な役割を果たしていたであろう一つの要因は、湾岸地域諸国に対する、引き続く米軍の駐留を巡って、ペンタゴンが協定を強化したがっていたことである。そして、これについては、相当の進歩が見られたようである[82]。シュワルツコフ将軍は、以前、議会に対し、湾岸地域での「米国のプレゼンス」は、治安援助と共同訓練とともに、全体の軍事戦略における三つの車輪の一つであると述べていた。いずれも、大切な「アクセス」---影響と統制を表す婉曲話法である---につながるものである[83]。戦争の後に、軍通信システムのネットワーク「超基地」がサウジアラビアにあることが明らかにされた。一〇年にわたり米国が最高機密の中で建設してきたもので、二〇〇〇億ドル近い費用はサウジが支払っており、湾岸戦争においてその利用は不可欠のものであった。ブッシュがなぜ、かくも迅速に、存在しない脅威に対するサウジアラビアの防衛に動いたのか、これが説明になっているかも知れない[84]。



「もう一度殺人を犯す前に誰か私を止めてくれ!」


ジョセフ・スターリンは司祭になる勉強をしていた・・・アドルフ・ヒトラーは菜食主義者で非喫煙者だった・・・ヘルマン・ゲーリング[一八九三年〜一九四六年、ドイツの政治家・空軍司令官、ヒトラーに次ぐナチスの指導者]は、自分が率いるドイツ空軍がヨーロッパの上に死を降らせていたとき、自分のオフィスに「動物を拷問する者はドイツ人の感情を傷つける」という言葉を掲げていた・・・エリ・ヴィーゼルは、アドルフ・アイヒマンが文化的で読書家で、バイオリンを演奏したという事実を、戦争最大の発見と述べた。チャールズ・マンソン[一九三四年〜、カルト指導者。一九六九年八月九日、三名の女性信者とともに、ビバリー・ヒルズで四名を惨殺、さらにその二日後に同じような犯行を行なった]は、生体解剖反対論者だった。

パナマでは、既に見たように、爆撃を命じた後、ジョージ・ブッシュ一世は、自分の「心はパナマで死亡した人々の家族に注がれている」と述べた。「ノリエガを逮捕するために、兵士を送りこんで命を失わせるのは、価値があることか?」と問われたジョージ・ブッシュ一世は、「すべての人命は尊いが、私はそれでも、イエスと答えなくてはならない。やる値するものであった」と答えている。

イラクについて、ブッシュは次のように言った。「人々は私に、『何人の命を?何人の命を消費することができるというのか?』と言う。一人一人の命が貴重だ」[85]。

一九九一年一月、対イラク戦争開始を命ずる直前、ブッシュは頬に涙を流しながら祈った。「他の人々の子供を戦争に送らなくてはならない責任の立場にある多くの人々と同様、祈りの中で、我々は、大切なのは、それが神の目にどのように映るかであることを理解したように思う」と、ブッシュは後に述べている[86]。

神は、ジョージ・ブッシュ一世に、イラクの子供について尋ねたかも知れない。あるいは、大人について。そしてあまり神に似合わない不機嫌な声で、「だったら、今すぐに、こうした貴重な命を浪費するのを止めろよ!」とつぶやいたかも知れない。


塹壕の中のイラク兵士に発砲しながら、プラウを引きずった戦車が、塹壕に沿って移動し、プラウがイラク兵士を大量の砂で埋めていた。数千人のイラク兵士が、死んで、あるいは負傷して、あるいは生きたまま、埋められた[87]。

米軍は、イラク兵士が降服の白旗を掲げたにもかかわらず、兵士に発砲した。発砲命令を出した海軍司令官は処罰を受けなかった[88]。

米軍の爆撃により、イラクで、稼働中の原子炉二基が破壊された。稼働中の原子炉が爆撃されたのは、史上初めてのことであり、危険な前例となりかねない。国連---米国は国連の規約に基づきイラクでの作戦を行なっていることになっていた---が、中東における「核施設への軍事攻撃禁止」の再確認決議を採択してから一カ月も経たないときである[89]。様々な化学工場---化学兵器関係のものも含む---や、生物兵器工場であると言われた工場もまた、米国による爆撃の標的となった。シュワルツコフ将軍は、当時、こうした施設や核一節の破壊手段を選ぶにあたっては、非常に注意深く検討し、「多数の非常に、非常に著名な科学者からの多くの序言」の後に、「汚染は起こらない」と「99.9%」確かだと判断したのちに行なったと発表した。けれども、欧州の科学者と環境活動家たちは、爆撃によって広まった微妙な化学兵器物質、そしてやはり空襲で広まった化学物質の降下と毒性の霧を突き止めた。これらは何十人もの民間人の命を奪っていた[91]。

米国政府とメディアは、爆撃を受けた生物兵器施設は実際には乳幼児食品工場であったというイラクの宣伝を、大いに馬鹿にしていた。けれども、ニュージーランド政府と、工場と頻繁に接触していたニュージーランドのビジネス関係者たちは、それが実際に乳幼児食品の工場であったと強く断言した[92]。

米軍はまた、先端の劣化ウラン(DU)弾、ロケット、ミサイルを広範囲に使用し、クウェートとイラクに何トンもの放射性で毒性を持つ瓦礫を残した。英国原子力公社は、一九九一年四月の秘密報告で、「DUが食物連鎖や水に入りこむならば、健康被害を引き起こす可能性がある」と述べている。DU兵器の製造に使われているウラン二三八は、吸入すると、癌や遺伝疾患を引き起こす。ウランは、鉛と同様、化学的な毒性も持っているため、吸い込むと、重金属中毒や、腎臓や肺の障害を引き起こす。攻撃の際、掩蔽壕の中に押し込まれたイラク兵士たちは、まず確実に、放射性の塵雲に毒されている[93]。

容赦のない爆撃により、民間人も膨大な損害を被った。人権団体の「中東ウォッチ」は、アパートや人で溢れる市場、歩行者や民間人の車両でいっぱいの橋、忙しい中央バス駅などが、通常、明るい昼日中に、近くに政府の建物も軍事標的もなく、対空砲すらないのに、爆撃された例を、多数記録している[94]。

二月一二日、ペンタゴンは、「ほとんど全ての軍事的機能が〔・・・・・・〕破壊されたか戦闘不能になった」と発表した[95]。けれども、その翌日、民間人用の防空壕が意図的に爆撃され、最大で一五〇〇人の人命が奪われた。この多くは女性と子供だった[▲アメリヤ・シェルターのこと。森住卓氏の著書・写真集『イラク:湾岸戦争の子どもたち』(高文研、二〇〇二年)に、言及と爆撃後の写真がある。]。その後、戦争終結までの二週間の間に、イラク各地で毎日のように大規模な爆撃が行われた。ロンドンのガーディアン紙は、二月一八日、その一つについて、「〔連合軍〕がバグダッドの中心に対して行なった最も凶暴な攻撃」と伝えている[96]。二月一二日以降の爆撃作戦の目的は何だったのだろうか?

この防空壕はVIP向けのものだったと思った---以前そうであったことがある---と米国は発表し、軍事通信センターとしても使われていたと言い張った。けれども、近隣の住民は、絶え間ない上空からの偵察が、この防空壕を毎日女性と子供が出入りしていることを観察していたはずであると主張した[97]。西洋の記者たちは、この防空壕が軍事目的で使われていたという証拠は得られなかったと語った[98]。

この惨劇を移した編集前のビデオ---米国市民はこれを決して目にすることはなかった---を見たヨルダン在住のある米国人ジャーナリストは、次のように書いている。

信じがたい大虐殺の光景を示していた。ほとんどの遺体は真っ黒焦げになっていた。場合によっては、温度が極めて高かったため、手足が全て焼かれて無くなっていた。〔・・・・・・〕救援隊員は悲痛で気を失い、遺体を落としてしまった。中には、くすぶり続ける遺体の悪臭で吐いてしまう者もいた[99]。

ホワイトハウスのマーリン・フィッツウォーター報道官は、防空壕爆撃の後、それは「軍事標的だった。〔・・・・・・〕どうしてそこに一般市民がいたのか、われわれにはわからない。けれども、人命の尊さに対してわれわれが抱いている価値を、サダム・フセインが共有していないことはわかっている[100]」と語った。この爆撃を批判されたジョージ・ブッシュ一世は、「私は罪のない人々が苦しむことに憂慮している」と述べた[101]。

配電の崩壊は、イラクの人々の毎日の惨状を文字通り倍増させた。現代的な社会であったイラクでは、浄水や水道供給、下水処理、病院や医学研究施設の操業、農業生産を、電気に依存していた。爆撃のダメージは、国連/米国による経済封鎖による悪影響も重なり、電力供給を、戦争前の三%ないしは四%にまで低下させることとなった。水の供給は五%に低下し、石油生産はほとんどなくなり、食料流通体制は破壊され、下水システムは崩壊して家々が下水で溢れ、胃腸炎や極端な栄養失調が流行した[102]。

戦争終結から二カ月後に、ハーバード大学の公共保健チームが、イラクのいくつかの都市の保健施設を訪問した。調査に基づき、このグループは、控えめに、電力、火力と交通の破壊が「遅れてもたらす降下により、五歳以下の子供少なくとも一七万人が、来年に死亡するだろう」と予測した。「それ以外の人々の間でも、死亡率が大きく上昇する可能性が高い。ほとんどの場合、直接の死因は、飲料水を媒介とする伝染性の病気が、深刻な栄養失調と結びついたものであろう」[103]。このときのハーバードのグループに加わった他、その後にイラクを訪れた別の調査団にも加わった一人は、米国議会で次のように証言した。「子供たちは、路上にあふれ出した未処理のgすいの中で遊んでいる〔・・・・・・〕世界的に著名な児童心理学者二人は、イラクの子供は『これまで記述されてきた戦争の中で、最も戦争のトラウマを深く受けている』と述べた」[104]。


米国当局は、「スマート爆弾」やレーザー誘導爆弾、「外科手術的爆撃」などを用い、軍事標的のみに打撃を与えるよう細心の注意を払ってきたと繰り返し宣言したが、現在、我々は、人々の犠牲を「付随的被害」と呼ぶのと同様、それが単なるプロパガンダだったことを知っている。戦争終結後、ペンタゴンは、政治的な理由から、非軍事的施設も包括的に標的としたことを認めた[105]。第二次世界大戦後の詳細な政府研究は、「衛生施設の欠如から来る病気への恐怖と困難は、民間人の士気を低下させる効果を持ち」、ドイツでは、公共施設の崩壊と無条件降伏を受け入れる態度には、「信頼できる顕著な」相関がある、と結論している[106]。

イラクの場合、さらなる動機があった。絶望的になった市民をサダム・フセインに対して蜂起させフセインを追放させるよう促すという動機である。ある米国空軍作戦担当官は次のように述べている。

総括的展望として、我々は、イラクの人々に次のことを知って貰いたかった。「この人物を取り除けば、我々は喜んで再建に協力する。我々はサダム・フセインとその政権を許容しない。それを直すならば、我々は、イラクの電気を修復しよう」[107]。

イラクでの恐ろしい爆撃を逃れようとヨルダンに逃げた人々は、バグダッドとヨルダン国境の間の高速道路で空襲を受けた。バスやタクシー、個人の車が、文字通り無慈悲に、ロケットやクラスター爆弾、機関銃などにより、繰り返し襲撃された。こうした襲撃は、通常、昼の日中に、標的が、車の屋根に荷物を積んでおり、明らかに民間人であるにもかかわらず、そして周囲には軍の車両や建物など無いにもかかわらず行われた。周囲を砂漠に囲まれていたため、攻撃機は超低空飛行を行い・・・バス一杯の乗客が火に包まれ、助かろうと車から降りて逃げ出した人々を、しばしば、戦闘機が襲撃し、発砲して去っていった。「あなたたちは我々を殺している」と、あるヨルダン人タクシー運転手は米国の記者に言った。「動いたらところかまわず我々を撃っている!車やトラックが見えると、必ず飛行機がやってきて我々を追いかける。我々が誰であるか何であるかなど気にしていない。ただ、撃つだけだ」。同じような叫びが、何百人とない人々によっても繰り返された。米軍は、どうやら、家族を一杯に乗せたものも含めあらゆる車両は軍用燃料などの戦争物資---恐らくスカッド・ミサイルに関係するものもあったと考えたかもしれない---とを運ぶための隠れ蓑ではないかと考えたようであった。そして、民間用燃料を運ぶことも、経済封鎖に違反していたのである[108]。

ついに、空腹や怪我、病を抱え、疲れ切って混乱し、士気を失い、ぼろぼろになり、時に裸足ですらあった、ほとんど全く戦闘意欲を見せなかったイラク軍が、クウェートから撤退し、イラク南部のバスラに向かったとき、サダムは、イラク軍は「特殊な状況」のために撤退していると発表して、威厳の病的なかけらを救い出そうとした。けれども、これもジョージ・ブッシュには認めがたかった。ブッシュは、荒々しく、「サダムの最新のスピーチは侮辱である」と宣言した。「彼が部隊を撤退させているのではない。敗北した彼の部隊が退却しているのだ。彼は、潰走のただ中で、勝利を宣言しようとしている」。

これが許されるはずもなかった。それゆえ、栄光溢れる米国空軍がバスラへ向かう道を急襲し、爆撃し、ロケット砲を発射し、イラク軍と文民の車両、兵士と難民との長い列の中で、動いたもの全てに向かって掃射した。善良で神を恐れ健全な米国のGIたちは---まもなく米国に英雄として凱旋することになるのだが---、大いにこれを楽しんでいた。「奴らのために乾杯/奴らを黒こげにした」とか、「大当たりを当てた」とか、「七面鳥の射撃会」とか、「今朝は車が数珠繋ぎだった。春休みのデイトナ・ビーチ行きの道だった〔・・・・・・〕だが、休みはお終いになった」など。

繰り返し繰り返し、運搬部隊に乗せられた拡声器が、ローン・レンジャー[米国西部の「治安」で活躍する米国ラジオ・テレビ・漫画・映画の主人公。インディアンの相棒トント(スペイン語で「アホ」の意味)を連れている]の感動的なテーマソングである、ロッシーニの「ウィリアム・テル序曲」を鳴り響かせている中で、次から次へと攻撃部隊がミサイルや、空中で爆発し、装甲を貫通するボムレット(小爆弾)の雨を降らせる対戦車・対人ロックアイ・クラスター爆弾を搭載して飛び立った。地上基地に所属するB−52も1000ポンドの爆弾を積んでこれに参加した。「奴らが全く存在しなくなるまでに、もう何日もかからないだろう」、「樽の中の魚を撃つようなものだ」、「基本的にただの座り込んだカモだ」、「これほどのことはない。これまでで最大の七月四日ショーだ。あれらの戦車がただ「ボーン」と破裂し、それから、戦車からいろんなものが吐き出されてくる〔・・・・・・〕すっかり白熱してしまう。すばらしいものだ」。

英国の日刊紙「インディペンデント」は、戦争を支持していたが、米軍が集中砲撃に浮かれ騒ぐことを批判し、それを「胸がむかつく深いなもの」で、「敗走する軍を背中から撃つのを見るのは吐き気がする」と述べた[110]。

しかも、これら全ては、五日前から停戦を求めていた敵に対して行われたのである。

けれども、アメリカ人が湾岸の人々を侮辱することは天により禁じられていた。そのため、GIたちは、例えば、左手は不浄の手なので、食べ物や飲み物を相手に差し出すときには決して使ってはいけないとか、犬を手招きするのと混乱しないように、手と指でアラブ人を手招きする適切なやり方といったことを教わった[111]。

また、こんな話もある。あるアメリカ人パイロットは、初期の爆撃作戦の際、身分証明書の中に二〇ドル札と、アラビア語、ペルシア語、トルコ語、英語で書いたノートを入れていた。ノートの言葉は、「私はアメリカ人であなたの言葉を話せない。けれども、あなたの人々に対して何の敵意も持っていない」と言うものだった。彼はそれから、離陸し、爆弾を一杯に搭載して轟音をたてながらイラクへと向かって行った[112]。

GIたちは、武装した女性兵士たちに敵意を持っていたのだろうか?戦争終結後に行われたある調査によると、湾岸戦争に従軍した女性の半数以上が言葉により性的嫌がらせを受け、八%(三〇〇〇人近く)が、性的暴行未遂や実際の性的暴行を被ったという[113]。

ところで、ジョージ・ブッシュが爆撃開始命令を出した直後には、米国人の間での彼の支持率は休場し、八二%が彼を支持するとした。これは、彼が大統領になってからの二年間で最高の支持率であり、パナマ侵略後よりも高かった[114]。あるジャーナリストは、後に、次のように指摘している。

一晩に一分で良いから、この「人気の」戦争に関する真実が報道されていたら、アメリカ人の意見は変わっていただろう。〔・・・・・・〕月曜日の夜六時のニュースで六〇秒間、人の体を変えてしまう、見るのもおぞましいような燐による熱の犠牲となった、五〇〇〇人のイラク兵士の姿を放映し、それから火曜日の夜にバグダッドの防空壕で起きた惨殺を映していたら〔・・・・・・〕そして水曜日に、アメリカの先端兵器で焼き尽くされた一万人のイラク兵を映していたら、どうなっていただろう[115]。


一九九〇年八月にイラクがクウェートを侵略して以来、そして、ホワイトハウスから発散させられる多くの混乱するサウンドバイトや多量のレトリックにもかかわらず、一つのことははっきりしていると思われた。すなわち、イラクがクウェートから撤退することに合意すれば、どんな罰や制裁が続くことになろうと、武力攻撃は行われなかったか停止されただろうという点である。それゆえ、どんなに遅れたとしても、ソ連が一九九一年二月二一日〜二二日に、全ての軍事作戦の停戦が実現する翌日に完全撤退すると合意したことは、希望の光であるように見えた。この合意では、詳細な日程と監視についても決められていた[116]。

ジョージ・ブッシュは、停戦の提案を、本質的に拒絶した。彼は返答の中で、自ら停戦という言葉を使うことさえ出来なかった。彼が言ったのは、撤退するイラク軍を攻撃はしないということ(それは守られなかった)、そして、連合軍は「自制する」ということだけだった。サダムは、これを停戦と受け取る道を選ぶことも出来たはずであるが、彼もまた、ジョージ同様、高慢で頑固だった。

この決定的な二日間にブッシュが最も強調したのは、イラクは国連の一二決議に従わなくてはならないという点だった。ブッシュの法的な要求を検討するにあたっては、米国による戦争の政策と実践が、国連憲章、ハーグ条約、ジュネーブ条約、ニュルンベルク裁判、国際赤十字の議定書、米国憲法をはじめとする重要な法的文書の文言と精神に、繰り返し違反してきたことに留意しなくてはならない[117]。

結局、ブッシュはサダムに、クウェート撤退のために二四時間を与えた。以上。この時間がやってきた過ぎ去ったとき、米国は、長らく待ち望んでいた地上戦を開始した。空襲も---バスラに向かう路上での大虐殺も含めて---二月末まで続けられた。

ソ連大統領ミハイル・ゴルバチョフの報道官ヴィタリー・イグナチェンコは、「どうやら、ゴルバチョフ大統領は、ジョージ・ブッシュよりも、米兵の命を救うことを気にかけていたようである」と語った[118]。

終戦後の調査で、国連調査団は、連合軍の爆撃は、イラクに対して「ほとんど破滅的な影響」を与え、「一月まではかなり都市化され機械化された社会であった」イラクを、「産業革命前の国家」に変容させた、と発表した[119]。

この戦争による直接・間接の影響で、何十万人のイラク人が命を落としたか、決して明らかになることはないだろう。死者の数は、毎日増え続けている。イラクに対する経済封鎖解除を米国が拒否し続けている中、全てが続いている。栄養失調、飢餓、薬やワクチンの欠乏、汚染された飲み水、人糞が溢れかえり、チフスが流行し、麻疹が異常なまでに発生し、他の病もいくつか発生する・・・イラクの食料は、その七〇%を輸入に頼っていたが、今や海外口座にある何十億ドルもが凍結され、石油売却を禁止する制限が課されていた。重要な部品を輸入できなかったために再建できず、多くの産業が閉鎖され、大量の失業者が生まれ、交通と通信が崩壊した[120]。一九九四年九月、苦痛を被る人々が十分な数に達してイラクの人々がサダムを追放すると期待して、米国政府が経済封鎖という死の手を手放すことを拒否し続けていた中で、イラク政府は、一九九〇年八月に制裁が開始されてから、約四〇万人の子供が栄養失調と病気で死亡したと発表した[121]。

戦後、イラク政府がクルド人の蜂起---米国はこの蜂起をまず奨励したにもかかわらず、支援しなかった---を弾圧していたとき、ブッシュは、「私は、罪のない民間人が虐殺されるときは常に苛立ちを感じる」と述べた[122]。

米国が、偽りの約束で、騙されやすいクルド人を虐殺に晒したのは、これが二度目であった(第三九章 イラク 一九七二年〜一九七五年を参照)。

米国はまた、イラクのシーア派ムスリムに蜂起を促しておきながら、それを支援しなかった。恐らく、ワシントンは、これによって、サダムをもう少しつるし上げ、周囲の者が彼に対するクーデターを起こすまでサダムの理性を失わせようとしたかっただけで、親イラン政権を育み中東にさらなるムスリム原理主義をもたらしたくはなかったのである。


アメリカの精神病院や監獄には、特定の人を殺すよう命ずる声を聞いたと主張する人々が沢山いる。しばしば、これまでに会ったこともなく、何ら危害を加えられたこともなく、危害を加えると脅迫されたこともない人々をである。

米国兵士たちも、同じように、自分たちに命令する声---ジョージ・ハーバート・ウォーカー・ブッシュの声--- を聞いて、中東に出かけ、何の関係もない自分たちに危害を加えも加えようと脅しもしない人々を、殺害した。


注:

1. Los Angeles Times, 17 March 1991, p. 8.
2. Washington Post, 13 January 1990, p. 11; 8 February 1990.
3. Ibid., 12 February 1990, 16 June 1990, p. 6.
4. Los Angeles Times, 11 July 1990, p. 1.
5. The Gallup Poll: Public Opinion 1990 (Wilmington, Del. 1991)
6. a) Ramsey Clark, The Fire This Time: U.S. War Crimes in the Gulf (Thunder's Mouth Press, NY, 1992), pp. 12-13; この本は、概ね、国際戦争犯罪法廷のための調査委員会の調査結果に基づいている。同委員会は、生存者と目撃証人からの証言を集めた。
b) Ralph Schoenman, Iraq and Kuwait: A History Suppressed, pp. 1-11, Veritas Press, Santa Barbara, CA.から出版された二一ページからなるモノグラフ。 c) New York Times, 15 September 1976, p. 17; この侵入は戦争に至らずに解決された。
7. a) "Note from the Iraqi Minister of Foreign Affairs, Mr. Tariq Aziz, to the Secretary-General of the Arab League, July 15, 1990", Appendix 1, Pierre Salinger and Eric Laurent, Secret Dossier: The Hidden Agenda Behind the Gulf War (Penguin Books, New York 1991), pp. 223-234.
b) New York Times, 3 September 1990, p. 7.
c) Los Angeles Times, 2 December 1990, p. M4 (article by Henry Schuler, director of energy security programs for the Center for Strategic and International Studies, Washington).
d) John K. Cooley, Payback: America's Long War in the Middle East (Brassey's [US], McLean, Va., 1991) pp. 183-6.
8. Murray Waas, "Who Lost Kuwait? How the Bush Administration Bungled its Way to War in the Gulf", The Village Voice (New York), 22 January 1991, p. 35; New York Times, 23 September 1990.
9. New York Times, 23 September 1990.
10. Ibid., 25 July 1990, pp. 1, 8.
11. Ibid., 23 September 1990.
12. Ibid., 17 September 1990, p. 23, William Safireによるコラム。
13. Waas, p. 31.
14. New York Times, 28 July 1990, p. 5.
15. Los Angeles Times, 21 October 1992, p. 8.
16. "Developments in the Middle East", p. 14, Hearing before the Subcommittee on Europe and the Middle East of the House Committee on Foreign Affairs, 31 July 1990.
17. Kuwaiti document: Los Angeles Times, 1 November 1990, p. 14.
18. Washington Post, 19 August 1990, p. 29.
19. Los Angeles Times, 1 November 1990, p. 14.
20. Schoenman, pp. 11-12; New York Review of Books, 16 January 1992, p. 51.
21. Christian Science Monitor, 5 February 1991, p. 1.
22. Michael Emery, "How Mr. Bush Got His War" in Greg Ruggiero and Stuart Sahulka, eds., Open Fire (The New Press, New York, 1993), pp. 39, 40, 52. Emeryによる一九九一年二月一九日、ヨルダンでのフセイン王へのインタビューに基づくもの(この記事の改訂版は the Village Voice, 5 March 1991 に発表された)。
23. Ibid., p. 42; 「彼ら」にはサウジアラビアも含まれているが、その理由はここでの議論とは無関係である。
24. Milton Viorst, "A Reporter At Large: After the Liberation", The New Yorker, 30 September 1991, p. 66.
25. Schoenman, pp. 12-13, from a letter sent by the Iraqi Foreign Minister to the Secretary-General of the UN, 4 September 1990; Emery, pp. 32-3.
26. New York Times, 5 August 1990, p. 12.
27. Waas, pp. 30 and 38.
28. New York Times, 24 January 1991, p. D22.
29. Washington Post, 8 March 1991, p. A26.
30. a) Major James Blackwell, US Army Ret., Thunder in the Desert: The Strategy and Tactics of the Persian Gulf War (Bantam Books, New York, 1991), pp. 85-6.
b) Triumph Without Victory: The Unreported History of the Persian Gulf War (U.S. News and World Report/Times Books, 1992) pp. 29-30.
c) AIR FORCE Magazine (Arlington, Va.), March 1991, p. 82.
d) Newsweek, 28 January 1991, p. 61.
31. Los Angeles Times, 5 August 1990, p. 1.
32. Washington Post, 23 June 1991, p. A16.
33. Blackwell, pp. 86-7.
34. Financial Times (London), 21 February 1991, p. 3.
35. Waas, p. 30.
36. New York Times, 31 May 1991.
37. Ibid., 2 August 1990, p. 1; Washington Post, 3 August 1990, p. 7; ブッシュの引用は、彼の言葉をワシントン・ポスト紙が要約したもの。
38. New York Times, 3 August 1990; Los Angeles Times, 3 August 1990, p. 1; Washington Post, 3 August 1990, p. 7.
39. Los Angeles Times, 4 August 1990, p. 20.
40. Washington Post, 10 August 1990, p. F1.
41. New York Times, 23 September 1990, IV, p. 21.
42. Washington Post, 25 November 1990, p. C4.
43. Los Angeles Times, 2 October 1990, p. 18. 議会が、新たな戦争予算をスムーズに通すために格別の努力をしたことを示す数値とプログラムについては、 Washington Post, 10 October 1990, p. 5, and 18 October, p. 1. を参照。
44. The Gallup Poll: Public Opinion 1989 (Wilmington, Del. 1990); ditto for 1990, published in 1991.
45. 様々なところで報道された。例えば、 Wall Street Journal, 14 January 1991, p. 14; Fortune magazine (New York), 11 February 1991, p. 46; Clark, pp. 153-6; Washington Post, 30 January 1991, p. A30 (IMF and World Bank); Daniel Pipes, "Is Damascus Ready for Peace?", Foreign Affairs magazine (New York), Fall 1991, pp. 41-2 (Syria); Los Angeles Times, 18 June 1992, p. 1 (Turkey); Elaine Sciolino, The Outlaw State: Saddam Hussein's Quest for Power and the Gulf Crisis (John Wiley & Sons, New York, 1991), pp. 237-9 (China, Russia).
46. Sciolino, pp. 237-8. ベーカーの言葉、及び彼が声を大にして言ったかどうかについては、この出来事を報じた異なる情報源によって多少異なる。また、イエメンが失った援助の額についても情報源により大きく異なる。
47. Los Angeles Times, 4 May 1991, p. 8.
48. The Guardian (London), 9 January 1991.
49. ブッシュ政権の交渉方法に対する分析としては、John E. Mack and Jeffrey Z. Rubin, "Is This Any Way to Wage Peace?", Los Angeles Times, 31 January 1991, op. ed.、及び ibid., 1 October 1990, p. 1, and 2 November 1990, p. 18. を参照。
50. New York Times, 9 August 1990, p. 15.
51. Los Angeles Times, 6 November 1990, p. 4.
52. August: Robert Parry, "The Peace Feeler That Was", The Nation, 15 April 1991, pp. 480-2; Newsweek, 10 September 1990, p. 17; October: Los Angeles Times, 20 October 1990, p. 6.
53. New border: Wall Street Journal, 11 December 1990, p. 3.
54. Newsweek, 10 September 1990, p. 17
55. Parry, op. cit.
56. Washington Post, 25 November 1990, p. C4.
57. Fortune, op. cit.
58. Ibid.
59. The Guardian (London), 12 January 1991, p. 2.
60. Theodore Draper, "The True History of the Gulf War", The New York Review of Books, 30 January 1992, p. 41.
61. Ibid.
62. Wall Street Journal, 21 November 1990, p. 16.
63. New York Times, 3 August 1990, p. 9; 12 August, p. 1; Los Angeles Times, 17 November 1990, p. 14; Wall Street Journal, 3 December 1990, p. 3.
64. The Observer (London), 21 October 1990.
65. Webster, 23 January 1990, p. 60, and Schwarzkopf, 8 February 1990, pp. 586, 594 of "Threat Assessment; Military Strategy; and Operational Requirements", testimony before Senate Armed Services Committee.
66. Basic Petroleum Data Book (American Petroleum Institute, Washington), September 1990, Section II, Table 1a. 一九八九年の数値では、中東が五七二〇億バレル、「自由世界」が八二四〇億バレル、ソ連が八四〇億バレル。
67. "Threat Assessment; Military Strategy; and Operational Requirements", op. cit., p. 600. 一九八九年の数値。
68. Speaking on the MacNeil/Lehrer NewsHour, 11 September 1990.
69. Draper, op. cit., p. 41.
70. Judith Miller and Laurie Mylroie, Saddam Hussein and the Crisis in the Gulf (Times Books, New York, 1990), p. 192.
71. Bob Woodward, The Commanders (Simon & Schuster, New York, 1991), pp. 263-73.
72. Los Angeles Times, 17 October 1990 (hecklers); 17 November, p. 14; 1 December, p. 5.
73. The Guardian (London), 12 September 1990, p. 7.
74. 例えば、次のものを参照。Christopher Hitchens, Harper's Magazine, January 1991, p. 72; Dilip Hiro, The Longest War: The Iran-Iraq Military Conflict (London, 1989), p. 71. 米国の政策は、テヘランの米国大使館でとられていた人質に関わる。
75. Saudi Arabia: Religious intolerance: The arrest, detention and torture of Christian worshippers and Shi'a Muslims (Amnesty International report, New York, 14 September 1993).
76. Miller and Mylroie, pp. 220, 225; Denis MacShane, "Working in Virtual Slavery", The Nation, 18 March 1991.
77. Draper, op. cit., p. 38, provides details.
78. See, as a small sample, Los Angeles Times, 7, 13, and 17 March 1991, 12 June 1991, and 10 July 1992 (Amnesty).
79. All three quotations: Arthur Schlesinger, Jr., "White Slaves in the Persian Gulf", Wall Street Journal, 7 January 1991, p. 14.
80. New York Times, 18 November 1990, p. 1.
81. Sciolino, pp. 139-40.
82. Los Angeles Times, 7 May 1991, p. 16; 6 September 1991, p. 17; Clark, p. 92, ワシントンがそうした協定を交わした八カ国を挙げている。
83. "Threat Assessment; Military Strategy; and Operational Requirements", op. cit., pp. 589-90.
84. Scott Armstrong, "Eye of the Storm", Mother Jones magazine, November/December 1991, pp. 30-35, 75-6.
85. Los Angeles Times, 1 December 1990, p. 1.
86. Ibid., 7 June 1991, pp. 1, 30.
87. Los Angeles Times, 12 September 1991, p. 1; Washington Post, 13 September 1991, p. 21. これが起きたのは一九九一年二月二四日〜二五日のことである。
88. Los Angeles Times, 12 June 1991, p. 1; 26 September, p. 16; 一九九一年一月一八日の出来事。
89. United Nations General Assembly Resolution: "Establishment of a nuclear-weapon-free zone in the region of the Middle East", 4 December 1990, Item No. 45/52.
90. New York Times, 24 January 1991, p. 11; 31 January, p. 12; Los Angeles Times, 26 January 1991, p. 6.
91. Clark, pp. 97-8; Senate Committee on Veterans' Affairs, "Is Military Research Hazardous to Veterans' Health? Lessons from the Persian Gulf", 6 May 1994, pp. 5-6.
92. Peacelink magazine (Hamilton, New Zealand), March 1991, p. 19; Washington Post, 8 February 1991, p. 1.
93. Clark, pp. 98-9. 英国原子力公社の報告は、ロンドンのインディペンデント紙が入手して公表したもの。
94. Needless Deaths in the Gulf War: Civilian Casualties During the Air Campaign and Violations of the Laws of War, a report of Middle East Watch/Human Rights Watch (US and London), November 1991, pp. 95-111, 248-272.
95. Washington Post, 13 February 1991, p. 22. 統合参謀本部諜報担当のマイク・マコーネル少将の言葉を引用して。
96. The Guardian (London), 20 February 1991, p. 1, "Bombs rock capital as allies deliver terrible warning".
97. 一五〇〇人という人数の説明、また、この大虐殺と恐怖の極めておぞましい記述は、Needless Deaths ... op. cit., pp. 128-47; Clark, pp. 70-72.
98. "The Gulf War and Its Aftermath", The 1992 Information Please Almanac (Boston 1992), p. 974.
99. Laurie Garrett (medical writer for Newsday), "The Dead", Columbia Journalism Review (New York), May/June 1991, p. 32.
100. Needless Deaths ... op. cit., p. 135.
101. Los Angeles Times, 18 February 1991, p. 11.
102. 電力システムの破壊がもたらした影響については、 Needless Deaths ... op. cit., pp. 171-93. また、インフラの破壊については、 Clark, pp. 59-72.
103. Washington Post, 23 June 1991, p. 16; Los Angeles Times, 21 May 1991, p. 1; Needless Deaths ... op. cit., pp. 184-5 (ハーバード調査団の報告は、一七万人という数字を導いた方法についても記述している)。
104. 国際研究チーム調整委員会(一九九一年八月にイラクを訪問した八七名の保健・環境研究者からなる)の委員だった Julia Devin が、International Task Force of the House Select Committee on Hunger, 13 November 1991, p. 40. で行なった証言。
105. Washington Post, 23 June 1991, pp. 1 and 16.
106. Needless Deaths ... op. cit., pp. 177-80.
107. Washington Post, 23 June 1991, p. 16.
108. Needless Deaths ... op. cit., pp. 201-24; Clark, pp. 72-4; Los Angeles Times, 31 January 1991, p. 9; 3 February, p. 8. これらの攻撃は、主として、一九九一年一月下旬と二月上旬に起きたようである。
109. バスラへの道: Washington Post, 27 February 1991, p. 1; Los Angeles Times, 27 February 1991, p. 1; Ellen Ray, "The Killing Deserts", Lies Of Our Times (New York), April 1991, pp. 3-4 (インディペンデント紙を引用している)。
110. Stephen Sackur, On the Basra Road (London Review of Books, 1991), pp. 25-6. Draper, op. cit., p. 42. による引用。
111. Los Angeles Times, 24 August 1990.
112. Ibid., 21 January 1991.
113. Ibid., 30 September 1994, p. 26.
114. The Gallup Poll: Public Opinion 1991 (Wilmington, Del. 1992).
115. Newsletter of the National Association of Arab Americans (Greater Los Angeles Chapter), July 1991, p. 2. に引用された Dennis Bernstein の言葉。戦争中、政府の侍女として機能したメディアについての優れた記述としては、 Extra! (Fairness and Accuracy in Reporting, New York), May 1991, Special issue on the Gulf War. を参照。
116. ソ連とイラクの外相間で合意された主な条件については、Micah L. Sifry & Christopher Cerf, eds., The Gulf War Reader: History, Documents, Opinions (Times Books, New York, 1991), p. 345.
117. Clark の、第八章・九章・付録、他の様々な場所で、これら全ては詳細に記述されている。
118. CBS−TVでのイグナチェンコとのインタビュー。一九九一年二月二二日の夕方にロサンゼルスで放映された。
119. "The Gulf War and Its Aftermath", The 1992 Information Please Almanac (Boston 1992), p. 974.
120. Clark, pp. 75-84.
121. Los Angeles Times, 7 September 1994, p. 6.
122. International Herald Tribune, 5 April 1991.

益岡賢 2003年5月28日

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