東チモール概説

益岡賢(東京東チモール協会)


A.東チモールの現状と展望
  (『国際労働運動』1999年6月号)
B.東チモール:投票とその後
  (『国際労働運動』1999年12月号)
C.東チモール:投票後の展開と「正義」の行方
  (『国際労働運動』2000年11月号)



A.東チモールの現状と展望

1. 背景

 東チモールは、インドネシアとオーストラリアの間にある小さな島、チモール島の東半 分を占めている。ポルトガルにより植民地化される以前、東チモールには沢山の小王国が 存在した。16世紀ポルトガルが進出し、その後、チモール島は西(オランダ領)と東(ポ ルトガル領)に分けられた。1949年、西チモールを含めたインドネシアがオランダから独 立した。一方、東チモールでは、1974年にポルトガルでファシスト独裁政権が倒れた頃と 前後して、独立の機運が高まり、進歩的な社会改革プログラムを実施し、ポルトガルから の独立を訴え、広く住民の支持を得た「チモール社会民主協会」(後の「東チモール独立 革命戦線(フレテリン)」、富裕層を中心に段階的独立を唱えた「チモール民主同盟(UDT)」 などの政党が生まれた。

 こうした情勢の中、1974年頃から東チモールに干渉を始めたインドネシアは、同盟関係 にあったUDTとフレテリンの対立を煽り、東チモールの混乱を治めるよう住民から要請を 受けたとして「義勇軍」と称した軍事介入を始める。1975年11月28日、インドネシアの介 入が激化する中でフレテリンは「東チモール民主共和国」の独立を宣言し、旧ポルトガル 植民地などの15ヵ国に承認されたが、その直後の12月7日、インドネシアは東チモールに 全面侵攻した。米大統領フォードと国務長官キッシンジャーがスハルト大統領を訪問した 二日後のことであった。翌1976年7月にインドネシアは一方的に東チモール合併宣言を出した。

 根強く続けられた東チモール人の抵抗に対して、米国製の武器を大量に用いたインドネ シアは次第に優位にたつ。しかし、1980年代に入って、抵抗勢力はシャナナ・グズマンの 下で再生し「東チモール民族解放軍(ファリンティル)」が結成され、また、1988年には、 東チモール人が一体となったマウベレ民族抵抗評議会(CNRM:後にチモール民族抵抗評議 会CNRT)が組織され、内外の東チモール人が団結して抵抗を続ける。

 占領下では、飢餓や、拷問、誘拐、強姦、殺害などの人権侵害が蔓延した。インドネシ アは東チモールを「開発」したと称し、学校や病院の建設を引き合いに出すが、学校では インドネシア語が強制され、病院では危険な避妊注射が行われるなど、これらの機関は民 族抑圧の装置として機能した。利益の上がる経済部門は軍人を中心としたインドネシア人 に独占され、ジャワなどからの移民に土地が与えられた。現在までに、東チモールでは当時 の約65万人の3分の1近い20万人が飢餓や虐殺の犠牲になっている。こうした中、カトリッ ク教会は人権侵害に反対し、共通語であるテトゥン語でミサを行うなど、東チモールのた めに一定の役割を果たしてきた。


2. 国際的共謀

 国連はインドネシアによる東チモール併合を認めていない。にもかかわらず、東チモー ル占領と軍事支配が今日まで続いているのは、「有力」諸国がインドネシアを支持し続け たからである。国連総会及び安全保障理事会で採択されたインドネシア非難決議には、実 効性のある経済制裁はおろか、武器禁輸すら盛り込まれていなかった。そうした「やさし い」非難決議にすら、日米欧豪の「有力」諸国は棄権したり反対したりした。また、経済 援助をちらつかせ、買票工作も行われた。次の発言はこうした立場をはっきり示している。

「米国は東チモールに対する国連での全ての行動が実効力を持たないよう望んだ。この 役割を私は引き受け、成功した」(モイニハン元米国連代表) 「何を興奮しているのか私にはわからない。東チモール人はたった70万人しかいないと いうのが明らかな事実なのだ。我々が本当に配慮しなくてはならないのは1億3000万人も のインドネシア人との関係なのである」(オーストラリア外務官僚) 「私が責任を持つのは自分の国の人々に対してであって、どこかの外国人が別の外国人に 何をしているかについて心を奪われることはない」(英国の対イ武器輸出に関するサッチ ャー政権下高官の発言)

 日本の国連における立場については、1986年に外務省中平立国連局長が次のように述べ ている。「国連決議に対しまして日本は反対いたしました・・・インドネシアを一方的に 非難しているということは問題を解決するゆえんではないという観点から反対したわけで ございます」。「イラクを一方的に非難するのは問題を解決するゆえんではない」とは誰 も言わなかった。

 日本はインドネシアへの最大の援助国であり、「人権侵害の激しい国に対してはODA援 助を行わない」というODA大綱に反して巨額の援助を続けており、東チモールの人々に「 侵略のスポンサー」と呼ばれている。「サンタクルス虐殺」(後述)後も「最初にデモ側 から暴動があった」といった発言をしODA援助を見直さなかったことについて、渡辺泰造 外務報道官は次のように言う:「人権というものは決して無視してはいけないけれど(マ マ)、結果が出て措置を取るときいろんな他の要素も考えてゆき、その上で人権について の原則を守りながら(ママ!)なおかつ日本の国益も守る、こういう選択が出てくるんだ と思いますね」。経済利益を守るためには、小学生でもわかる論理の破綻に気づかぬ振り をする必要があるらしい。


3. 抵抗の継続と展開

 1988年に長いこと外部から隔離されていた東チモールが部分的に「開放」され、訪れた 人に対して東チモール人は状況をアピールするようになった。1989年のローマ法王訪問の 際や、1990年の米国駐インドネシア大使訪問の際にこうしたアピール行動がとられ た。

 1991年11月12日、インドネシア軍に殺された青年の追悼ミサに集まった人々が、ディ リのサンタクルス墓地に向けて独立を求めながら行進したが、インドネシア軍はサンタク ルス墓地で人々に無差別発砲し、200名以上の死者が出た(サンタクルス虐殺)。生き残 った人々も連れ去られ殺された(第二の虐殺)。この事件を撮ったビデオが国外に持ち出 されて国際的に広まったため、これを機に、多くの「有力」諸国政府は、少なくとも名目 上、インドネシアに対する態度を変更した。

 一方、CNRM海外代表部は、1992年に欧州議会で、ついで国連で三段階和平案を提案した。 内容は、第一段階で、国連の仲介でポルトガルとインドネシアが会談を行い和平のための 環境を整備する、第二段階では、国連監視下での地方議会選挙と知事選挙を行い、立法と 入国管理を含む自治を開始する、第三段階で住民投票を行い、独立かインドネシアへの合 併かを東チモール人自身により決定する、というものである。1992年末には、抵抗運動の 指導者シャナナ・グズマンがディリで逮捕され、インドネシアで裁判にかけられ、終身刑 の判決を受けたが、東チモールの抵抗はシャナナの逮捕後も根強く続けられた。

 東チモールの人々は、内部で抵抗を続けインドネシアの侵略に屈する気のないことを示 すと同時に、国際的な場で平和的な解決を求めていることをアピールし、政治的に妥当な 解決へ向けて「国際社会」が責任を果たすよう求めたのであった。1996年には、CNRM海外 特別代表ラモス・オルタ氏と東チモールのベロ司教がノーベル平和賞を受賞した。また、 国連の仲介により、ポルトガルとインドネシアの間で会談がもたれるようになった。


4. スハルト体制崩壊から現在まで

 1998年5月、インドネシアの経済危機は政治危機に発展し、30年に及ぶスハルト圧制に 反対して民主化を求める人々の大規模な行動が起こる中、スハルト大統領は辞任した。イ ンドネシアの民主化勢力や政党の一部からも、東チモールの自決権行使を支持する人々が 声をあげ、東チモール内でも住民投票による自決権行使を求める集会が持たれた。

 後を継いだハビビ大統領は、民主化勢力と軍の間で妥協を続けながら、体制維持に努め ている。東チモールに関しては「広範な自治権を認める特別州の地位を与える」という立 場を取ったが、これは、CNRMの三段階和平案の一部を文脈抜きに取り出して最終解決とし ようという手であり、東チモール人から批判を浴びてきた。また、東チモール駐留インド ネシア軍の規模を削減すると言いつつ、実際には増加させている。

 1999年に入って、インドネシアは、東チモール住民による投票により自治案が否決され た場合、東チモールを手放すことを考えるという見解を表明した。しかし、自治案を巡る 直接投票の準備は進んでいない。

 その間、1998年末から、インドネシア軍は、東チモールでの不安定化工作を進めてきた。 少数の「インドネシア統合派」に武器を与え、自衛手段を持たない住民を武力で脅して「 統合派」の武装集団に強制的に参加させ、「統合派武装集団」を組織化し、住民を無差別 に襲わせている。こうした武装集団は、「マヒディン(統合決死隊)」、「ハリリンタル (稲妻隊)」、「プシ・メラ・プティ(紅白鉄隊)」といった名で、虐殺や放火を続けて いる。

 1999年に入ってから、統合派武装集団のテロ活動は激化している。1月25日には、インド ネシア軍とマヒディンがガリタス村を襲い発砲、数名が死亡、2月9日にはマウバラで民家12軒 が放火され、3月19日には、マリアナで、覆面をした人物による発砲で数名が死亡している。 また、4月6日には、リキサの教会の司祭館に手榴弾が投げ込まれ、周辺地域でのテロから 避難していた住民約40人が死亡した。4月17日には、首都ディリで避難民が身を寄せていた 家を武装集団が襲撃し、多数の死者が出た。ビケケでは、インドネシア軍により住民100人 以上が「全戸家宅捜索」のようなかたちで逮捕されたという。これらは、インドネシア軍 及び統合派武装集団によるテロ行為のほんの一例である。

 あたかも、直接投票の際「間違った」方に投票したらどうなるかを全ての東チモール人 に「理解」させようとしているかのようである。ニカラグアで1984年に行われた民主的選 挙を認めず、コントラを使って住民をテロの標的とし、1990年にテロの恐怖の下で行われ た選挙を、自らの願った結果となったがゆえに「民主主義の大勝利」と讃えた米国の振舞 いを思い起こさせる。

 インドネシアとポルトガルの交渉が実を結びそうに見えたことで、武装抵抗に自制を促 していたシャナナは、こうした状況にたまりかね、自衛のために必要な手段を取ることを 呼びかけた。これに対し、例えば、インドネシア法相は「東チモール問題を平和的に解決 する」障害になるとシャナナを非難する。また、インドネシアのアラタス外相は、国連記 者会見の場で「東チモールにあるのは、独立を望む人々と併合を受け入れた人々という二 つのグループの間の対立である。そして、過去23年間この状況が続いてきたのだ」と述べ ている。

 24年間、東チモール人を誘拐し、拷問し、強姦し、殺害し、飢餓に追いやり、20万人も の犠牲を生み出したのも、教会への避難民に手榴弾を投げ込むというテロ行為を扇動して いるのもインドネシアである。東チモール人は政治的解決を訴えかけ、イ・ポ会談の進展 を促すためにやむを得ぬ手段だった武装抵抗を一時停止した。この間、軍を増強し、テロ リストを武装し、民間人へのテロ行為を後押ししてきたインドネシアが、やむを得ぬ自衛 を非難し、東チモールでの暴力を内部対立であるとするほどそらぞらしい偽善はない。


5. 展望

 最近の様子を見ると、1975年との類似に気づく。高まった自決権行使の機運に対してイ ンドネシアが大規模な不安定化工作を行い、それをあたかも東チモールの内部対立のよう に見せようとしている。それに伴い、問題の根本であるインドネシアによる東チモール占 領、インドネシア軍による大規模な暴力と人権侵害を隠蔽し、インドネシア軍があたかも 治安維持にあたっているかのように見せようとすらしている。

 長いことインドネシアを支えてきた日本を含む「国際社会」は、こうしたインドネシア の方針に乗りかけているかのようだ。実際の対立は東チモールの自決権とインドネシアに よる侵略との間にあるにも関わらず、多くの報道で「(分離)独立派」と「統合支持派」 の対立が語られている。また、CNRTが求めた国連平和維持軍の派遣に対し、インドネシア の了解を得なくてはという意見すらある。色々な場で、インドネシア軍が治安を守る(!) 責任を持つといったことが繰り返される。多くの教会関係者や中立的なオブザーバーが、 インドネシア軍が武装集団のテロ行為に荷担していると何度も述べているにもかかわらず である。国際的保護を訴えるユダヤ人に対しナチスドイツの軍隊にユダヤ人の保護を要求 するようなものである。「国際社会」はかくして、「東チモールに対してインドネシアは 正当な権利を持っていない」とする、インドネシア内の民主化勢力をも裏切りつつあるよ うに見える。

 状況を冷徹に見るならば、暴力的な環境下で見せかけの「自決権行使」が行われ、イン ドネシアが東チモールは併合を選んだのだと繰り返す最悪の可能性すら完全には否定しき れない。実際、インドネシア軍が「併合派」武装集団を操って達成しようと意図している ところはそれなのである。その場合、東チモール人の抵抗と犠牲は続くであろう。最悪の シナリオを避けるために、この24年間を繰り返さないために、「有力」諸国を中心とする 「国際社会」の共謀を再生させないために、自らの権利のために抵抗を生き延びてきた東 チモール人とそれを支えてきた死者達の声に耳を傾け、日本をはじめとする「有力」諸国 の過去及び現在の責任を見つめ、東チモールの人々と共に行動して行くこと、それによっ て、明るい展望を開いて行くこと、今、我々にはそのための実践が求められている。


文献

 量的制約から言及できなかった点が多々ある。関心のある方は以下の文献によって補足 してほしい。




B.東チモール:投票とその後


1. はじめに

 本誌1999年6月号に掲載した「東チモールの現状と展望」で、筆者は次のように書いた。

 状況を冷徹に見るならば、暴力的な環境下で見せかけの「自決権行使」が行われ、イン  ドネシアが東チモールは併合を選んだのだと繰り返す最悪の可能性すら完全には否定し  きれない。

1999年5月5日に、国連の仲介のもと、ポルトガルとインドネシアの間で合意された東チモ ール人による直接投票は、二度の延期を経て、8月30日に行われた。準軍組織(民兵)を 使った暴力と脅迫により投票結果を操作しようというインドネシア軍の計画は、東チモー ルの人々の決意と勇気によって失敗し、80%という圧倒的多数の人々が独立を選ぶ。イン ドネシア軍は、投票結果発表後、「第二の計画」を実行した。大規模な破壊と独立派指導 者達の体系的な虐殺、住民の大規模な強制移送(誘拐)である。本稿では、5月5日合意か ら現在に至る経緯と実際の状況を簡単に整理し分析する。


2. 5月5日合意

 1999年1月、インドネシアのハビビ大統領は、東チモールに広範な自治権を提案し、そ れが受け入れられないときには、独立を「容認」するという発言を行った。国際法上、イ ンドネシアは1975年以来東チモールを不法に占領していたのであり、東チモールはインド ネシアの一部ではないのだから、インドネシアに独立を「容認」する権利はない。けれど も、24年間、日米欧豪の「有力」諸国のインドネシア支持によって原則に乗っ取った政治 的解決の道を閉ざされてきた国連及び形式的には東チモールの宗主国であるポルトガルは、 状況打開のための妥協案として、インドネシアが提案した枠組みに従って協議を進め、結 局、1999年5月5日、国連が仲介したかたちでインドネシアとポルトガルが東チモールの直 接投票を巡って合意することになる。

 合意の内容は、インドネシアが提案した自治案に対する東チモール人の意思を直接投票 によって問うこと、自治案が拒否された場合にはインドネシアは国民協議会の手続きを経 て東チモールの独立を認めること、投票手続きは国連が、治安はインドネシアが責任を負 うことであった。

 国際的な原則に照らして考えると、この合意には大きな問題が含まれている。まず、 当事者である東チモール人が関与していないこと(東チモールの抵抗組織は、住民投票に 至る遥かに包括的な和平案を1993年から提案していた)。次に、直接的にはインドネシア の提案する案を巡っての投票ということになったため、インドネシアはそもそも東チモー ルを不法占領しているだけであり、いかなる権利も東チモールに対して持っていないとい う正論がなし崩し的に曖昧にされたこと、そして、治安をインドネシアが担当することに なったことである。

 インドネシア軍は、東チモールを不法占領してきた24年の間に、大規模な人権侵害を繰 り返し、人口の3分の1にのぼる20万人もの犠牲者を出してきた当事者である。治安をイン ドネシアが担当するというのは、あたかもユダヤ人の保護をナチスに依頼するようなもの であった。国連もポルトガルもこうしたことを知らないはずはない。実際、アナン事務総 長は治安に関する親書をハビビ大統領に送ったりしている。これはいわば、「政治的解決」 と「東チモール人の命」との先取りされた取引であった。このことの帰結は東チモールの 人々が負うことになる。


3. 投票まで

 実際、「治安を担当する」インドネシア当局、特にインドネシア軍は、少数の親インドネ シア強硬派を中心に、脅迫や暴力、また西チモールから金で人を集めて「併合派民 兵」を育て上げ、住民に対する襲撃とテロ・脅迫を繰り返す。既に1999年初頭、インドネ シアのハビビ大統領の「独立容認」発言以降、テロは繰り返されてきた。3月19日と22日 にはマリアナという西部の町で8名がハリリンタルという準軍組織に射殺され、 4月5日にはベシ・メラ・プティという準軍組織によりリキサという町で20名以上が殺害さ れた。4月17日にはディリでアイタラクという準軍組織が虐殺を行っている。リキサの虐 殺前後には、準軍組織とインドネシア軍人が一緒に行動していることが、当時東チモール を訪問し自ら尋問を受けた日本人によって写真とともに報告されている。

 4月には、インドネシアのウィラント国防省が東チモール入りし、「併合派」と「独立 派」の「和解」を行っているが、これは、実際に起こっていたのはインドネシア軍が準軍 組織を手先として虐殺を行うという行為だったという事実を隠すための宣伝活動であった。 後に脱走した元準軍組織の指導者は、2月以来、特殊部隊や地方司令官を含むインドネシ ア軍と準軍組織の指導者の間の会合が持たれていたことを証言している。

 その後、6月に国連東チモール支援団(UNAMET)が東チモール入りし、投票準備を行っ ているが、その期間中も暴力行為は続いた。インドネシア当局は「民兵の統制がとれない」 と述べているが、それは事実を隠蔽している。UNAMET職員やこの間現地に投票監視に入っ たNGOボランティアは、インドネシア軍や警察が準軍組織の暴力に対し全く何もしないば かりか準軍組織と共に行動していることを目撃し証言している。例えば、総勢130名にの ぼる投票監視ボランティアを送った国際東チモール連盟投票監視プロジェクト(IFET-OP) のスタッフは、インドネシア警察が準軍組織に拳銃を渡しているところを目撃している他、 インドネシア軍特殊部隊が準軍組織に指令を出しているラジオ無線を傍受している。

 8月26日と27日、投票の直前には、ディリで準軍組織による大規模な襲撃が行われ、少 なくとも6名が死亡しているが、現地に居合わせたIFET-OPのボランティアは「最初に撃っ たのは警察だ」と住民が述べたことを報告している。この事件には国際的な非難と注目が 集まった。8月30日の投票は、比較的平穏に行われた。有権者の98.6%が投票し、9月4日 には、80%近い圧倒的多数の人々が独立を支持したことが発表された。ちなみに、直前ま で吹き荒れた暴力が、投票日に全土で静まったことは、「治安の担当者」が現地の治安状 況を統制していることを示唆している。


4. 破壊と虐殺の投票後

 9月4日、投票結果の発表後、全面的な破壊と虐殺、住民の西チモール等への強制移送が 始まった。インドネシア軍と準軍組織は、放火や破壊、虐殺を進める一方で、体系的に外 国人の追い出しをはかった。その結果、UNAMET職員はディリのUNAMET事務所敷地に閉じこ められ、NGOオブザーバのほとんどは9月8日までに国外脱出を余儀なくされた。これまで 直接狙われることの少なかった教会関係者も虐殺の対象となった。

 9月8日にインドネシアは「軍事非常事態宣言」を出したが、それは、5月5日合意を都合 良く利用し、破壊と虐殺の演出者であり当事者であるインドネシア軍が、単に「治安維持 に失敗しているのだ」という見せかけのもとで、東チモールを封鎖し、より効率的に破壊 と虐殺、誘拐を行えるようにしただけのものであったと考えられる。9月8日にディリから クパンへ脱出したある日本人は、準軍組織の服装をした人々の中にジャワ人が多数含まれ ていたと述べているが、これは、インドネシア軍兵士が服装を替えて破壊に参加していた ことを示唆している。

 9月12日、インドネシアのハビビ大統領は国連平和維持軍受け入れ「容認」発言を行う。 9月20日、インドネシアに配慮して「国際軍」と呼ばれる国際部隊が東チモールに入った ときには、ディリの街は80%が破壊され、20万人を越える人々が西チモールに誘拐されて 強制収容所のような難民キャンプに入れられ、30万人以上が山へ避難していた。この間に 殺された人は千人を越えると言われている。強制キャンプや山中では飢餓や病気による死 者が増え、また、準軍組織による誘拐や虐殺も続いた。

 東チモール内に「国際軍」が展開した後も、その手が届かないところでは虐殺が続いた。 虐殺を最小限に押さえ、山に逃げた人々を守ったのは、投票を介した政治的解決のために 停戦を最大限遵守してきた東チモールの民族抵抗軍、ファリンティルであった(ファリン ティルはその後も国際軍が行けない地域に入る海外援助組織の護衛を行ったりしている)。 西チモールでも脅迫と殺害・誘拐が続けられ、準軍組織は西チモールを治外法権の無法地 帯化した(例えば、ガソリン代を請求した西チモール人を焼き殺したりしている)。あま り言及されないが、発展途上国最強の軍と警察を誇るインドネシアが、これらを統制でき ないと考えるのは難しい。軍と警察と準軍組織は三位一体なのである。


5. 日本・国連・国際社会のねじれ

 5月5日合意で、インドネシア当局に治安をまかせて以来、多くのことが正論を離れ捻れ ていった。インドネシア国軍が虐殺と破壊に関与しているという、国連関係者を含む多く の目撃証言があったにもかかわらず、「国際社会」はかなりの間「インドネシアに重ねて 治安の強化をお願いしたい」と繰り返すばかりであった。国際軍の東チモール入りを決め た決議には「国連事務総長に提出されたインドネシア政府の要請に従い」国際軍を派遣す るとある。誰がクェートに派兵するときにサダム・フセインの要請を待ったろう。

 この捻れは現地の国際軍の行動にまで及ぶ。国際軍のコスグローブ司令官は10月上旬に、 「偏向している」というインドネシアの批判をかわすために「東チモールではインドネシ ア軍と国際軍以外の公認されないものの武器所有は認めない」と発言し、ファリンティル の武装解除を要求した。圧倒的な暴力と脅しにもかかわらず80%もの東チモール人が支持 したチモール民族抵抗評議会(CNRT)、その武装抵抗組織であるファリンティルは、投票 結果を正当に評価するならば、東チモール人が「公認」した兵士達である。これに対して、 東チモールの大部分の人々に拒否され、民主的な選挙で選ばれたわけですらなかった政府 の、人権侵害を繰り返してきた軍が「公認」されているというのは、国際社会が東チモー ルの声を無視してきた歴史を如実に表している。

 こうした捻れは、「有力」諸国にはとても都合がよい。インドネシア軍が治安を担当す ると認めたことで、24年間のインドネシアの不法占領とともにそれを支持し続けた「有力」 諸国の責任を曖昧にできたため、後は、歴史的背景と自らの責任を無視して、あまりに酷 い部分だけ、人権を唱えればよいのである。

 日本に至っては、そうした人権についてすら発言を放棄した。虐殺が続く中、ODA援助 継続を確認した上、9月末にジュネーブで開かれていた国連人権委員会での人権調査団に 関する決議には棄権し、それを飛び越えて東チモール問題をPKF派遣の突破口として利用 する流れが表面化してきた。

 また、こうした捻れを出発点として、自称専門家達による的確とは言いがたい発言が、 東チモール問題について行われている。東チモールを「分離独立」問題と述べてみたり、 また、「独立派」と「併合派」の「内戦」激化で問題が起こったと説明してみたり、宗教 対立と捉えたり、「東チモールの併合は民兵は独立という事実に追いつめられて虐殺に出 たのではないか」と述べてみたりである。例えば最後の例を取り上げてみよう。多くの証 言と報告を分析するならば、虐殺と破壊を行ったのは「東チモールの併合派民兵」(のみ) ではないことは明らかである。インドネシア軍が体系的に関与していたし、「併合派民兵」 の中には金で雇われた西チモール人や服を取り替えただけのインドネシア軍兵士たちがい た。さらに、脅されて民兵に加わった人々は「追いつめられて」虐殺したが、追いつめた のは、家族を実質的な人質に取ったり酩酊する薬を与えたりしたインドネシア軍やその協 力者達である。こうした事実に加えて、「独立派」と言われる人々が繰り返し和解を唱え てきたこと、独立派による暴力はほとんどなかったことを考えると、上記のような説明が、 そもそもの前提から誤っていることは明らかである。


6. おわりに

 10月初旬、難民の帰還が細々と始まり、20日にはインドネシアの国民協議会が東チモー ルの「独立」を「承認」、10月26日国連安保理で東チモール暫定統治機構(UNTAET)に関 する決議が採択された。けれども、UNTAETにおける東チモールの代表CNRTの位置づけは曖 昧なままである。そして、東チモールに関する権利を全く持っていないインドネシアや、 その肩を持つマレーシア等がUNTAETの構成に口を出そうとしている。東チモール人の代表 がUNTAETに参加できるよう働きかけていく必要がある。

 本原稿執筆中の10月28日現在、未だに20万人が西チモールに残されており、数十万の東 チモール人の行方はわかっていない。チモール島は雨期に入りつつあり、西チモールのキ ャンプや東チモールの山中で、伝染病が蔓延する恐れがある。緊急の援助が求められてい る。


付記

 本文中で言及したIFET-OPの情報は次のホームページから入手可能です。
http://www.asahi-net.or.jp/~gc9n-tkhs/


文献




C.東チモール:投票後の展開と「正義」の行方


1. はじめに

 本稿では、一九九九年一二月号に本誌に執筆した「東チモール:投票とその後」を受け て、昨年一〇月くらいから今年九月までの東チモールを巡る情勢の展開を簡単に整理する。 圧倒的多数が「独立」と自由を選択して以来、東チモールの人々の建国へ向けた努力が続 けられているにも関わらず、残念ながら問題は山積している。

 本稿では、まず、西チモールに投票後強制的に移送された人々の状況と、一九九九年( 及びそれ以前)の人権侵害に対する責任追及という、国際社会の責任との関係からも重要 かつ急を要する問題について概観し、次に、東チモールの状況と日本の対応とをごく簡単 に紹介しよう。


2. 西チモール

 一九九九年九月、投票結果発表後からインドネシア軍と民兵が行った大規模な破壊と暴 力の中で、二七万人にのぼる人々が西チモール(少数はその他のインドネシアの地域)へ と強制的に連れ去られたり、避難を余儀なくされたりした。それから一年。一六万人は東 チモールに帰還したが、いまだに一〇万人から一二万人にのぼる人々が、民兵が制圧する 難民キャンプに、ほとんど「捕虜」として過酷な状態で留め置かれている。これらの難民 のうち、四〇パーセント(インドネシア当局発表)から七〇パーセント(現地で支援活動 を続けている団体の見積もり)は、東チモールへの帰還を望んでいるにも関わらずである。

 こうした中、難民の犠牲者は増大している。インドネシア当局筋は、五〇〇人以上がこ れまでに死亡したと発表している。今年五月末、東西チモール国境付近で発生した洪水に より百人以上の死者が出たが、その半分以上は東チモール人難民であった。

 難民が帰還できない最大の理由は、民兵とインドネシア軍(の一部)が、難民キャンプ を「制圧」していることにある。帰還のためにはUNHCR(国連難民高等弁務官事務所) に登録しなくてはならないが、登録してすぐ帰還できるわけではない。登録したことがわ かると、民兵の標的とされる。また、民兵は「東チモールに帰るとオーストラリア軍に攻 撃され、女性は強姦される」といった偽情報を難民に流している。UNHCRはこれに対 抗するため情報キャンペーンを行っているが、民兵の暴力から身を守るため軍や警察が職 員をエスコートしているので、難民の信頼を得ることができない。悪循環である。

 また、帰還に関わる国連関係機関職員は、繰り返し民兵の暴力の標的となり、これまで も何度か帰還計画が一時停止されたり事務所が一時閉鎖されたりした。多くの職員は「民 兵の暴力にインドネシア軍と警察は何もしない」と証言している。インドネシア政府は繰 り返し「治安」に力を入れると約束したが、状況は全く改善されず、今年九月六日には国 連職員三名がアタンブアで殺害され、援助職員数百名は西チモールから撤退した。国連安 保理はインドネシア非難決議を採択し、インドネシアは「民兵の武装解除と解散」という これまで再三約束だけしたことを繰り返している。

 けれども九月下旬、民兵の「自発的武器放棄」が行われているさなか、民兵アイタラク のボス、エウリコ・グテレスとその追従者はアタンブア警察署に乱入し武器を再奪取し、 立ち会った国連職員を脅している。インドネシア警察も軍も(予期された通り)関係者を 逮捕するどころかこうした暴力行為を止める気配すらほとんどない。

 二〇〇〇年九月末現在、国連安保理とインドネシアとの間で緊張した交渉が進められて いるが、インドネシア政府の一部から「西チモール問題は外国の干渉によるもの」といっ た声が出るなど、インドネシアの抑圧勢力の巻き返しに伴い、危機的な状況が続いている。 国連は活動を停止したままであり、現地からは、こうした混乱の中、キャンプで飢餓が広 まる緊急の危険性が伝えられている。


3. 正義の行方

 一九九九年九月、インドネシア軍とその手先の民兵による虐殺と破壊を隠しようも無く なった後、虐殺と破壊の責任を問う動きが現れた。国連人権委員会は九月二八日に、国連 人権調査団の設置を決定(このとき日本政府は投票に棄権している)。一方、インドネシ ア政府は、国連調査に対抗するため、国家人権委員会のもと、人権侵害調査団(KPP− HAM)をほぼ同時期に設置した。

 国連調査団は一九九九年末に、KPP−HAMは二〇〇〇年一月三一日に、それぞれ調 査結果報告書を提出している。いずれも、インドネシア軍と民兵が、体系的・計画的に破 壊と虐殺を行い、「人道に反する罪」に関与したことを、多くの証拠・証言に基づいて結 論づけており、人権法廷によって責任を追及すべきことを提言している(特に、国連報告 書は国連と国際社会の責任を明記し、国際法廷設置を勧告している)。KPP−HAM報 告書で名指された人権侵害執行者には、ウィラントインドネシア軍司令官(当時)、アダ ム・ダミリ少将、ザッキー・アンワル・マカリム少将・東チモール投票治安担当官といっ た軍の高官や、エウリコ・グテレスのような民兵のボスが含まれている。

 国連のアナン事務総長はKPP−HAM報告を評価し、国際法廷設置を検討する前に、 インドネシア内での進展を見守ると発表した。しかしながら、KPP−HAM報告書を受 けてインドネシアが設置した追加調査チームが二〇〇〇年九月一日に発表した容疑者リス トに含まれた名前は一九名にとどまり、ウィラントやザッキー・アンワル・マカリム、エ ウリコ・グテレスといった重要な名前がなかった。追加調査の重点とされた事件の一つ、 一九九九年四月一七日ディリでのマヌエル・カラスカラン邸襲撃事件をエウリコ・グテレ スが指揮し「奴等を捕まえ必要なら殺せ」とグテレスが叫んでいるところは国際的ジャー ナリストにも目撃され撮影されていたにも関わらずである(グテレスの名前が入っていな かったのは、彼が今年メガワティ率いる闘争民主党の党員となり青年団長のポストを与え られたからと噂されている)。

 二〇〇〇年八月一八日、インドネシア国民協議会は、憲法修正案を満場一致で採択し、 遡及的人権侵害裁判の無条件禁止が憲法に盛り込まれた。これは、同じく採択された、二 〇〇九年までインドネシア軍が国会で三八の指定議席を確保するという法令と同様、イン ドネシア軍を中心とする非民主的守旧派の巻き返しの一環であった。本来東チモールでの 人権侵害はインドネシア国内の問題ではなく、国際問題であるから、インドネシア国内で 対応するのはおかしいのではあるが、これで、インドネシア内での人権侵害責任追及と処 罰は絶望的となった。

 二〇〇〇年二月、国連のアナン事務総長が東ティモールを訪問した際、東チモールの人 々は「インドネシアの将軍たちは正義の名のもとに裁かれなくてはならない」という横段 幕で事務総長を迎えた。また、二〇〇〇年八月三〇日、投票一周年の日に、東ティモール 法律家協会の設立メンバーで人権活動家であるアデリト・デ・ジェスス・ソアレスは、「 あれから一年、東チモールの人々はいまだに正義を待ち続けている」と題する米国の新聞 への投稿の中で「国連はすぐさま東チモール人権法廷を設置しなくてはならない。その法 廷では一九九九年の犯罪のみでなく、一九七五年にインドネシア軍が東ティモールの人々 に対してテロ作戦を開始して以降犯された犯罪を扱わなくてはならない」と述べた。

 一九七五年と一九九九年の二度にわたり東チモールの人々を裏切った国際社会が示しう る最低限の誠意が、人権侵害責任者の明確化と責任追及のあり方を巡って問われている。


4. 東チモール内の状況

 一九九九年一〇月末、国連安保理は、東チモール暫定統治機構(UNTAET)の設置 を決議し、東チモールは独立へ向けて、国連の暫定統治下に入った。代表はブラジルのセ ルジオ・デ・メロ。UNTAET副代表に就任した高橋昭の「東チモールには現地の人に よる組織が何もない」という無知な発言(東チモールには、CNRTという政治的党派を 超えた組織があり、ファリンティルのような武装抵抗組織もある。また、ヤヤサン・ハッ クやフォクペルスといった活発な人権・女性NGO、教会を中心とした草の根活動団体も ある)に典型的に見られるUNTAETの理解の欠如は多くの問題を引き起こした(一部 簡単に前稿でも書いた)。

 一九九九年一二月半ば、東京で開催された第一回東チモール支援国会議では、東チモー ルに対して三年間で総額五億二千万ドルにのぼる再建・開発・人道援助のための資金提供 が約束された。また、東チモール人の声を無視しているという批判に対して、UNTAE Tは一九九九年一二月、東チモール人代表とUNTAET職員からなる国民諮問委員会を 設置、二〇〇〇年七月には東チモール人四名とUNTAET職員四名からなる暫定内閣を 設置するなど、徐々に、行政統治機構に東チモール人を雇用しその声を聞くメカニズムを 作り始めた。

 けれども、再建はなかなか進まず、また、国際NGOや国連の「押しつけ」態度は相変 わらず続いている。さらに、高い給与で雇用されている外国人国連職員や国際NGOスタ ッフと、(しばしば極端な)低賃金で雇用される(それでも仕事があるのは珍しい)東チ モールの人々との間の経済格差が問題化している。雇用改善を求める東チモール人のデモ 等も起こっている。

 東チモール人の統合的組織であるCNRTは、独立準備のため、二〇〇〇年八月に総会 を開催したが、そこで「大統領を元首とする共和制」を取ることは決まったものの、党派 的対立が表面化し、また、経済基盤をどう作るか、公用語をどうするかといった多くの問 題が解決されないまま残っている。民主的な国家造りのための挑戦が続いている。

 さらに治安問題も残されている。インドネシアの守旧派の巻き返しと時を同じくして、 西チモールからの民兵による侵入攻撃が激化し、二〇〇〇年夏には国連平和維持軍に二名 の死者が出た。東チモールでは、現在、平和維持軍にファリンティルの一部兵士も参加し て西チモールからの侵入テロ攻撃に対する監視を強めているが、インドネシアの民主化と 西チモールでの軍と民兵の分離、責任者の逮捕が行われない限り、越境テロがいつ終わる か先は見えにくい。


5. 日本の対応

 日本は、一九九九年一二月、東京で東チモール支援国会議を開催し、東チモール支援を 国際的に印象づけた。今年三月には東チモールのディリに政府の連絡事務所を開設、河野 洋平外相が四月末に東チモールを訪問するなど、対東チモール援助を印象づけようとして いる。二〇〇〇年九月、来日した東チモールのベロ司教に対し、外務省荒木次官は会談最 初に日本の支援額を述べた。これに対してベロ司教は「多額の支援には本当に感謝してい る」としながらも「貴国は一九四二年から四五年まで東チモールを実質統治したことがあ り、その時代の負の記憶を持っている人もいる」と、やんわりと、お金が全てではないこ とを示している。実際、スハルト政権時代、インドネシアが東チモール不法占領と過酷な 弾圧を続ける中、日本がインドネシアに巨額のODAを提供し「侵略のスポンサー」とな っていたことも、昨年九月の虐殺と破壊の中、日本政府がインドネシア支援を続けてきた ことも東チモールの人々はよく知っている。

 一方、その日本は、相変わらず、東チモールのことを理解していないのか知ろうとしな いのか、誤った報道や東チモールを都合の良いダシに使った政治的動きが目立っている。 例えば、毎日新聞は九月二三日、西チモールキャンプを訪問した記者の手になる「併合派 難民「西」になお一二万人」といった、見出しからして誤った記事を掲載している。そこ では、民兵による脅しや暴行、暴力を避けるためにしかたなく掲げている場合も非常に多 いと現地で長期的援助団体が述べている「紅白のインドネシア国旗」がキャンプに掲げら れている光景を「併合支持を表す紅白のインドネシア国旗」と決めつけ(この記者は旧ル ーマニアで国家の祝日にルーマニア国旗を掲揚すれば「チャウセスク支持を表す」と決め つけたのだろうか)、「キャンプを訪ねて気付いたのは、一般避難民とは別に過激な民兵 がいて問題を引き起こしているかのような認識は、事実と違うということだ」と短期訪問 (国連職員すら殺害される中キャンプを訪問できたことは、実質上、民兵や軍が「エスコ ート」していたことを意味する。この記者は、東独秘密警察のエスコートで東独を訪問し ても「一般住民とは別に秘密警察がいるという認識は事実と違う」と結論したのだろうか) に基づいて断定する。ここまで極端に非論理的な記事でなくても、誤った一方的な記事は 多い。「インドネシアから独立した東チモール」という誤った記述も相変わらず多い。

 政治的には、昨年、東チモール問題を契機にPKF解除論が起こったが、つい最近、ま たその問題が回帰してきた。民主党の鳩山代表が、九月末、東チモールのPKOに参加で きないのはおかしいと国会の代表質問で発言し、インドネシアによる東チモール侵略占領 を国連憲章理念に基づいて解決すべく指一本すら動かさなかった日本政府のこれまでの態 度を忘却の闇に葬りつつ、PKF参加凍結解除のために東チモールを悪用しようとしてい る。東チモールの人々が求めているのは技術援助と西チモール問題を解決するためのイン ドネシアへの政治的・経済的圧力であるにも関わらずである。


6. おわりに

 投票から一年が経ち、多くの展開が見られた。それにも関わらず、虐殺と破壊の責任関 係の明確化と西チモール難民問題という、人道的・倫理的観点から最も重要かつ急を要す る二つの問題については、ほとんど進展を見ていない。特に、インドネシア軍の巻き返し とインドネシア民主化の後退に正比例するかたちでこれらを巡る状況は悪化している。こ れまでインドネシア軍を育て武器を提供してきた米英、そして、抑圧的で腐敗したスハル ト体制下で巨額のODAを供与してきた日本政府は、これらの問題とインドネシアの危機 に対して大きな責任を負っている。


付記

 最新のニュースや分析記事は、次のホームページ(チモール・ロロサエ情報ページ)で 読むことができます。また、西チモール緊急救援募金についての情報もあります:
http://www.asahi-net.or.jp/~gc9n-tkhs/


文献



一つ上へ   益岡賢 2001年12月21日
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