教育基本法改悪:言葉が殺されるときに

益岡 賢
2006年11月20日


新しく定められた教育理念に、いささかの誤りもない。今後、いかなる反動の嵐の時代が訪れようとも、何人も教育基本法の精神を根本的に書き換えることはできないであろう。なぜならば、それは真理であり、これを否定するのは歴史の流れをせき止めようとするに等しい。ことに教育者は、われわれの教育理念や主張について、もっと信頼と自信をもっていい。そして、それを守るためにこそ、われわれの団結があるのではなかったか。事はひとり教育者のみの問題ではない。学徒、父兄、ひろく国民大衆をふくめて、民族の興亡にかかわると同時に、世界人類の現下の運命につながる問題である。
南原繁
教育基本法起草に関わった一人
元東京大学総長


様々な意見が乱立する状況で、何を信ずるかがコミュニティの利害に強く関わっていると思われているときには、事実が実際にどうであるかにかかわらず、誤った予測でも繰り返して語り続ければ、信頼を失うどころか、「専門家」とさえ見なされる。
ラフール・マハジャン
ファルージャ2004年4月』著者の一人


2006年11月16日、野党が審議を拒否する中、衆議院で教育基本法改悪案が強硬採決された。前日の、衆議院教育基本法特別委員会では、5人の公述人のうち、3人が、「改革」に反対・慎重な態度を示したにもかかわらず。

改悪反対の理性的な声の高まりに対し、何一つ具体的な反論を示すことができないまま、数に訴えてなされた不正な強行採決。

この強行採決は、現在、問題になっている学校での「いじめ」と同じやり方を、したがって結局のところは「いじめ」そのものを、政府・与党が容認しているばかりか推進さえしていることを白日のもとにさらした行為でもあった。

数さえ多ければ、何をしてもよい。いかに理不尽でも。理性的な質問に答える必要はない。

まさに政府・与党が、自らの振舞いをもって、このことを示したのである。しかも、まさに、教育の枠組みを規定する法の扱いにおいて。

あらゆるものがそうであるが、とりわけ教育は、未来の世代に関わる。

ところが、実際に当事者となる未来の世代の人々は、まさに未来の世代の人々であるがために、自分たちに大きな影響を与える現在の決定に関与できない。

そうであればこそ、少なくとも二つ、教育の基本を決めるにあたっては、絶対に注意し配慮しなくてはならないことがある。

* * *


第一に、未来の世代に自らが求めることをストーカーのように押しつけるのではなく、当事者たる未来の世代に思いを巡らし、自分ではない当事者にとって何が本当に望ましいか、当然その正解が知り得ないことを理解しつつ、それでもなお誠実に未来の世代にとって何が望ましいかを検討し、論を尽くして、決めなくてはならないことを決めること。

のちに生まれくる世代は、私たちの想念の、私たちの考えの、私たちの振舞いの、私たちの都合の、それらの手段でもなければ、それらによって勝手に解釈できる対象でもない。そうではなく、のちに生まれくる世代の人々は、その世代の、その世代を生きる一人一人の、その人自身のものなのだ。

未来の世代が声を上げられない中で、未来の世代が当事者である事柄について決める場合、その事柄は、今どうしても決めなくてはならないと思われることについてに限定すべきであって、今を生きる世代の利己的な都合で決めたいことを勝手に決めるべきではない。

誰かに代わって決断する行為そのものはいずれにせよその誰かに対する侵害と略奪ではないか、という論理的問題は解決できない。

解決できないから何をしてもよい、のではない。まったく逆に、だからこそ、あたうる限り誠実に考えなくてはならない。

親子の関係を考えてみよう。むろん親も、子どもがああなってそうなって、こうなればいいな、と自分の都合の良い理想にあわせて子どもの将来を想像することがあろう。

けれども、同時に、またそれ以上に、自分ではなくまさに子どもが当事者となる子どもの人生に対して、その将来に対して、決して子ども自身の生を生きることはできないことを知りつつも、あるいはそうであればこそいっそう、できうる限り誠実に、押しつけではなく子どもの将来に思いを馳せ、今やらなくてはならないことを考えるだろう。

   「君のために・・・・・・」
   「お前のためを思って・・・・・・」
   「あなたのためにこそ・・・・・・」

これらの言葉が、ストーカーの自己正当化ではなく、理解可能な言葉として相手にも理性的に伝わるためには、最低限、この誠意が、そして誠意に裏付けられた熟慮が必要である。

身勝手なストーカー的「道徳」ではない公共的な道徳、他の人々を前にした倫理的なふるまいは、これによって支えられる。

しかしながら、今回、教育基本法改悪を推進した人々には、その誠意はひとかけらも見られない。

たとえば、今回の改悪のステップとなった2003年の中教審答申。この委員会の中で、元文部次官の委員は、「今の教育基本法にどのような支障があるのか」という他の委員の疑問に対し、「支障がなくても変えて悪いということはない」と答えたという。

何一つ、具体的な理念を示すことなしに・・・・・・。

小泉純一郎元首相の「大量破壊兵器が見つからないからといってないとは言えない」という、目に余るほど弛緩した、悪い意味で不真面目な発言を思い起こさせる。

さらに政府主催の教育改革タウンミーティングにおける、度重なる「やらせ」問題。

これについて、安倍首相は、「教育基本法の問題と、このタウンミーティングの問題は別の問題だ」と言い放った。自民党の二階俊博国会対策委員長も、やはり「教育基本法を60年ぶりに改正しようとしている。タウンミーティングでやらせがあったなんて、やる方もやる方だが、誠につまらん」と放言した。

何と「美しい」発言だろう。

「やらせ」に関わった側の、開き直り。

中国政府はかつて、自国の人権侵害を指摘されたとき、「10億の国民を食わす人権と比べると、些細なこと」と言ったことがある。

安倍・二階の開き直りは、これを思い起こさせる。

自ら不正をなしておいて、その不正は「取るに足らぬ」と開き直る。もはや不正やいじめをやっても開き直りさえすればよいのだという強力なメッセージが、ここにある。

議論なしの詭弁による言葉の殺害。

下卑た開き直りによる言葉の殺害。

人が個人として自らを生きるためには、言葉はとても大切である。したがって、人が個人として自らを生きる手助けをする教育においても、言葉は決定的に重要な役割を果たす。

ところがまさに、その教育を「語る」者たちが、言葉を葬る発「言」をして恥じ入るどころか、うすら笑いを浮かべる。

60年前、教育刷新委員会が教育基本法の案を検討した際には、40人もの専門家が長い長い時間を費やし、基本理念から草案の表現一つ一つに至るまで議論を尽くしていた。その記録は『教育刷新委員会教育刷新審議会 会議録』として公開されてもいる。

新しく定められた教育理念に、いささかの誤りもない。今後、いかなる反動の嵐の時代が訪れようとも、何人も教育基本法の精神を根本的に書き換えることはできないであろう。なぜならば、それは真理であり、これを否定するのは歴史の流れをせき止めようとするに等しい。ことに教育者は、われわれの教育理念や主張について、もっと信頼と自信をもっていい。そして、それを守るためにこそ、われわれの団結があるのではなかったか。事はひとり教育者のみの問題ではない。学徒、父兄、ひろく国民大衆をふくめて、民族の興亡にかかわると同時に、世界人類の現下の運命につながる問題である。

南原繁が1954年にこう述べることができたのは、未来の世代に対して誠を尽くし、論を尽くしたからこそである。

繰り返すが、これに対して、現在、教育基本法の改悪を推進する人々には、その誠意はひとかけらも見られない。さらに、まともな議論もほとんどなかったことは、たとえば2003年中教審答申の際に委員だった市川昭午氏も述べている通りである。

こうした状況を冷静に眺めるならば、現在、教育基本法の「改革」を推進している人たちの言動、そして「改革」のプロセスが指し示す点が浮かび上がる。

   「お前たちは、我々の手段であり、それでよい」
   「今回の「改正」は我々のためにある」

* * *

では、「改正」案の内容はどうなっているだろう。

冒頭で述べた、教育の基本を決めるにあたって絶対に注意し配慮しなくてはならないことのもう一つは、内容にかかわる。

教育が未来の世代に関わるにもかかわらず、実際に当事者となる未来の世代の人々は現在の決定に関与できないのならば、そして、変化の激しい時代において未来の社会がどうなっているかは現在からそう安易に予測することなどできないのならば、教育をめぐる基本的な法案は、現在の限られた状況で想定しうる具体的な達成目標を定めるのではなく、時代が変わっても妥当する普遍的な教育の目的を掲げ、時代がどう変わろうとその目的を達成するために求められる一般的条件を整え、達成の障害を取り除くかたちで作られるべきである。

教育基本法と教育基本法「改正」案では、どうなっているだろうか。

すでに教育基本法の改悪をとめよう! 全国連絡会が詳細な比較を行っているので、関係する点だけを見よう。

まず、前文について。

教育基本法の前文第一段は、「民主的で文化的な国家を建設して、世界の平和と人類の福祉に貢献しようとする決意」した憲法に言及し、「この理念の実現は、根本において教育の力にまつべきものである」と述べている。一方、「改正」案では、「根本において教育の力にまつべきものである」という文言が、欠けている。

第二段、教育基本法では「普遍的にしてしかも個性ゆたかな文化の創造をめざす教育を普及徹底しなければならない」が「公共の精神を尊び、豊かな人間性と創造性を備えた人間の育成を期するとともに、伝統を継承し、新しい文化の創造を目指す教育を推進する」に変わっている。

前文をめぐっては、大きな問題が二つある。

まず、第二段の「普遍的」という言葉がなくなり「公共の精神」という言葉が現れていること。一般に、普遍性は、現在とは異なるけれども可能的にあり得る世界にも通用することを意味する一方、「公共の精神」はむしろ現実の社会に妥当するものを含意する。

第二の問題は、第二段最終文の述語に現れている。教育基本法が「教育を普及徹底しなくてはならない」と述べるのは、教育を行う主体は確定せず、その教育を「普及徹底」する任を負うことであり、したがって、その直前に述べられたことが、教育の環境を整備するにあたっての理念を表しているのに対し、「改正」案では、「教育を推進する」と変えられ、その前に述べられたことは、教育の内容に関する記述にすり替えられている。

それに対応するかたちで、現在そして将来にわたって教育を行う人々の、社会の「教育の力にまつ」という、仮に将来、現在からは予測できなかった状況のもとでもなお教育の力を信ずる決意は消し去られる。

「改正」案の前文は、現在および将来にわたってあり得る適切な教育の環境整備を行う責務を記述するのではなく、現在の観点で規定された特定の教育を、これからも推進するという立場を宣言しているのである。

個人の確立から、共同体の歯車としての人間へ。

教育が未来の世代に関わるにもかかわらず実際に当事者となる未来の世代の人々は現在の決定に関与できない状況で、また、変化の激しい時代において未来の社会がどうなっているかは現在からそう安易に予測することなどできない中で、誠実に未来の世代に思いを巡らせた上でこの文言を見るならば、恐るべき傲慢と言わざるをえない。

次に「第一条(教育の目的)」。

基本法で「・・・平和的な国家及び社会の形成者として、心理と正義を愛し、個人の価値をたっとび、勤労と責任を重んじ、自主的精神に満ちた心身ともに健康な国民の育成を期して行わなければならない」とある文言が、改正案では「・・・平和で民主的な国家及び社会の形成者として必要な資質を備えた心身ともに健康な国民の育成を期して・・・」となっている。

「として必要な資質を備えた」という文言により、教育の主体としての国民から、「教育」の対象としての国民へと、国民の位置づけが180度変えられている。

今、我々が決めたこの法律が、これから未来にわたって、国民という、教育の対象を、どう扱うか決める、人々が、そして未来の世代が、何を望み、何と言おうとも。

これが、「改正」案における「教育」の目的である。

目を閉じて、静かに考えてみよう。

今、目の前にいるこの子どもの、これから生まれてくる子どもたちの、のびのびした主体的な望みを受け止め、子どもたちとのコミュニケーションを通して教育に何ができるか不断に捉え直しつつ教育を進めるのではなく、子どもが、子どもたちが何を望もうと、そしてそれがそれぞれの世代にとってどれだけ妥当で適切なものであろうと、それを無視して勝手に決めたことだけを押しつける教育が、子どもに、子どもたちにとってどのようなものになるかを。

教育ではなく、強制。学校ではなく、軍隊。

これは、奇をてらった極論ではない。

戦前の学校は軍隊と同じ時期に同じ意図で作られ、軍隊勅語と教育勅語もともに同じ人物によって作られたことを思い起こし、そしてまさに今、防衛庁の「防衛省」への昇格問題が議論されていることを考えるならば、「改正」案が採択されてしまえば、避けがたく待ち受けると強く予測される未来なのである。

実際、1999年以降の「日の丸・君が代」強制の中で、少なからぬ良心的先生たちが、「もはや教育ではない、強制だ」と切実な声をあげてきたことを考えると、これは、まさに今、進行中の危機でさえある。

未来の世代を教育の主体ではなく教えを刷り込む対象と規定したことに対応して、基本法「第二条(教育の方針)」は「第二条 教育の目標」へと変えられる。

『広辞苑』で、意味の違いを確認してみよう。

   方針:進んでいく方向。目ざす方向。進むべき路。
   目標:目じるし、目的を達成するために設けた、めあて。
   目的:成し遂げようと目指す事柄、行為の目指すところ、意図している事柄。

「方針」は、到達点については述べない。到達点は、教育の主体たる一人一人が決めるものであり、教育基本法はその環境整備を考えるだけなのだから、当然である。

一方、教育の主体を「教えを刷り込む対象」に置き換えた「改正」案では、どれだけ教えを刷り込んだかの具体的な目印を記述する。

のちに生まれる人々にとって何がよいかまともに考えた形跡すら見られない「改正」案推進派の人々が、何を教え込むべきかの目印を記述する。

次いで「第三条(教育の機会均等)」と、文言上は対応する「改正」案の「第四条 教育の機会均等」。

教育基本法は、「すべて国民は、ひとしく、その能力に応ずる教育を受ける機会を与えられなけばならない・・・」と謳う。これが「改正」案では、「すべて国民は、ひとしく、その能力に応じた教育を受ける機会を与えられなければならず」となる。

この変更に、「与党」はとてもこだわっていた。

「能力に応ずる教育」の場合、教育を受ける者が主体である。それに対して「能力に応じた教育」の場合、教育を受けるものの能力を誰かが判定し、それに応じて教育を割りふる。

前者が述べているのは、一人一人がその個性と能力を発揮したとき、その能力の求めに応じた教育を提供しなければならないということである。一人一人が十全に個性と力を発揮する可能性、個人の確立、そして将来への期待。教育は、それに応じなくてはならない。

それに対して、後者は、一人一人には固定的な能力があり、その決まった能力に応じて異なる「教育」を受けさせればよい、と語っている。

潜在的な力の発展に期待して個人の開花を補助する教育から、現状で能力を決めつけ、その決めつけにもとづいて差別する「教育」へ、その大きな転換が、ここに記されている。

さらに「第一〇条(教育行政)」と、それに「対応」する「改正」案の第一六条。

教育は、不当な支配に服することなく、国民全体に対し直接に責任を負って行われるべきものである。

第一〇条は、こう述べる。

教育に携わる人々が、国や政党やたまたま現在政権についているに過ぎない権力からの不当な干渉や支配に服することなく、国民全体に対して直接の責任を負って行うことの保証。

すなわち、教育の自由の保証。

一方、「改正」案第一六条が述べるのは、まったく別のことである。

教育は、不当な支配に服することなく、この法律及び他の法律の定めるところにより行われるべきものであり、教育行政は、国と地方公共団体との適切な役割分担及び相互の協力の下、公正かつ適正に行われなければならない。

出だしは同じであるものの、「改正」案では、これまで述べてきたように教育を受ける人々は教育の主体ではなく、「教え込まれるべき対象」であり、「教育」は国が組織化するようにすり替えられているため、同じ文言が、「国が行う教育は、不当な支配に服することなく」という、完全に異なった意味で解釈される。

のちに生まれ教育を受けることになった人たちが、自分たちが何を望むか意見を表明する。まさにその意見が、「教育に対する不当な支配」に相当してしまうことになる。

もの言う権利の剥奪。

* * *

すでに1999年以来、「改正」のための地ならしのようにして、行政による教育現場への介入が強化され、教員の中には、病気休職者が、また精神疾患を理由とした病気休職者が増加している。

野田正彰氏も的確に指摘するように、「企業なら大問題であり、人事の役員は各職場のマネジメントの総点検を行うに違いない」事態である。「倒れる社員が続出する企業から、優れた製品もサービスも生まれないからだ」。

「ところが、教育行政では、教育改革と叫んでおれば、教育意欲の破壊は無視される」。

教師が「国民全体に対して責任を負う」教育に集中することを許されず、恣意的な教育行政に無理矢理従わされる状況。

生徒が、当局にとって都合のよいことを教えこむ対象と化される教育の現場。

教育基本法「改正」案は、この状況を法制化し、完全に確立するための、最大のステップなのである。

どうか、静かに思いをめぐらせて欲しい。

これは、まるで戦前の日本軍、「いじめ」が蔓延していた日本軍の体制の、教育現場における際限ではないだろうか。

これにより、現在大きな問題となっている「いじめ」がなくなるだろうか。

国連・子どもの権利委員会は、2004年、日本政府に勧告を出している。

子どもの意見表明権を護り、学校などの運営に子どもの意見を反映させ、定期的に確認すること。保護者や教師に、暴力なしで指導することの大切さを伝えること。学校は人権を学ぶだけでなく、権利を実践する場でもあり、学校の中で競争させるような状況を改善すべきであること。

政府・与党はこれらを無視し、数の暴力によってこの勧告と180度異なる「改正」案を衆議院で採択した。

すでに述べたように、そのプロセスで、あたかも言葉そのものを葬りさることを意図したかのように、詭弁を積み重ねながら。

少なからぬマスコミも、その空疎な言葉を垂れ流してきた。

そうした中、衆議院で強行採決された「改正」案に書き込まれた、政府・与党が唯一尊重する言葉には、もの言う権利の剥奪が宣言されている。

導かれる結論は明らかである。

すなわち、教育基本法「改革」案は、「改革」どころか、日本に暮らす市民から、教育を剥奪するための法律なのだ。

戦後60年にわたってまがりなりにも実現の途上にあった個人の確立を目指す教育を破棄し、学校を、教育を、行政が自らの都合を子どもたちの刷り込む強制の場にしたくないならば、今、この「改革」案に反対する声を高めよう。

小熊秀雄「馬車の出発の歌」を引いて、筆を置く。

仮りに暗黒が
永遠に地球をとらへていようとも
権利はいつも
目覚めているだろう、
薔薇は暗の中で
まっくろにみえるだけだ、
もし陽がいっぺんに射したら
薔薇色であったことを証明するだろう
嘆きと苦しみは我々のもので
あの人々のものではない
まして喜びや感動がどうして
あの人々のものといえるだろう、
私は暗黒を知っているから
その向うに明るみの
あることも信じている
君よ、拳を打ちつけて
火を求めるような努力にさえも
大きな意義をかんじてくれ

幾千の声は
くらがりの中で叫んでいる
空気はふるえ
窓の在りかを知る、
そこから糸口のやうに
光と勝利をひきだすことができる

徒らに薔薇の傍にあって
沈黙をしているな
行為こそ希望の代名詞だ
君の感情は立派なムコだ
花嫁を迎えるために
馬車を支度しろ
いますぐ出発しろ
らつぱを突撃的に
鞭を苦しそうに
わだちの歌を高く鳴らせ。

小熊秀雄、執筆当時は出版できず戦後ようやく陽の目を見た『流民詩集』より。引用は、『小熊秀雄詩集』(創風社)から。


教育現場での異様な抑圧そして教育基本法改悪をめぐっては、野田正彰『子どもが見ている背中』(岩波書店)、西原博史『教育基本法「改正」』(岩波ブックレット)、高橋哲哉・大内裕和・三宅昌子・小森陽一『緊急報告 教育基本法「改正」に抗して』(岩波ブックレット)、高橋哲哉『教育と国家』(講談社現代新書)など様々な本が出ていますし、ネット上でも「教育基本法の改悪をとめよう! 全国連絡会」ウェブなどで丁寧な説明がなされています。

また、一連のプロセスについては、メールマガジンPublicityが、的確な分析を提供しています(上記私の文章で安倍首相の「美しい」発言は、Publicityさんの情報に大きく依っています)。

関連するページとして、都教委包囲・首都圏ネットがあります。

マスコミ・議員などへのメールは、憲法・教育基本法反対! 抗議・要請メールを通して各所に送ることができます。

どんどん、声を上げていきましょう。

●教育基本法の改悪をとめよう!11・21国会前集会

また、11月21日(火)18時から19時まで、衆議院第2議員会館前で、集会があります。今週から、参議院に特別委員会が設置され、参議院での審議も始まるかもしれないという情勢です。毎日の行動が、改悪をとめる一番の力になります。ぜひぜひ、ご参加ください。

日 時:11月21日(火) 18時〜19時
場 所:衆議院第2議員会館前
    (地下鉄千代田線・丸の内線「国会議事堂前」下車)
発 言:国会議員
    全国連絡会呼びかけ人
    (大内裕和、小森陽一、高橋哲哉、三宅晶子)
    さまざまな立場、各地から
参 加:その場に行けば参加できます。手続きなどはいりません。
主 催:教育基本法の改悪をとめよう!全国連絡会
連絡先:info@kyokiren.net

たとえば藤原正彦氏のように、簡単に「今の子どもは史上最低」と言い放つ人々がいます。また、いたずらにメディアで強調されている少年の犯罪を調査もせずオウムのように繰り返して、危機を煽る人々がいます。

教育社会学者の広田照幸氏は、衆議院教育基本法特別委員会公聴会の公述人として、次のように述べています。
青少年の現状をもっと議論すべきだ。規範意識が身についてないからいろんなことが起きるとされているが日本の教育は海外先進国の研究者からは「日本の教育に学びたい」といわれているものだ。資料を見てほしい。殺人の人口別検挙数の推移だが、最近になって青少年の殺人検挙数が増えているのではない。50-60年代のほうが高く、近年低位で推移している。窃盗犯の検挙数でも要は10代で自転車等や万引きしても20代ではやってない、まともになっている、というものだ。犯罪実数より報道がどんどん増えている構造だ。ここからわかるのは規範意識が身につかないで大人になっているのではなく、10代が大人になるまでのことに大人がいらだっているということだ。
実際、50年前と比べて、少年の犯罪発生率は5分の1以下です。

一方、安倍首相に札幌の中学生が、教育基本法「改正」案に反対する声明文を送ったところ、「匿名の大人」から、「安倍首相に送った中学生の意見書は何だ? お前ら、学校で何を教えているんだ」という「抗議文」が届いたと、札幌テレビが報道しました。

一人一人が自分で考えて発言することを、匿名の恫喝で押さえ込もうとする「匿名の大人」。

●「日の丸・君が代」強制は教育基本法違反!
〜9.21東京予防訴訟判決を現場に広げよう!〜

日時 12月2日(土) 14:00〜16:30
場所 大阪府福祉人権推進センター「ヒューマインド」
   (JR大阪環状線「芦原橋」下車10分)
講演 永井栄俊さん(東京・予防訴訟原告団共同代表)
資料代 800円。
主催 「日の丸・君が代による人権侵害」市民オンブズパーソン
   http://www003.upp.so-net.ne.jp/eduosk/

■共謀罪関係

さらに、追いつめられた政府・与党は、なりふり構わず、今のうちに「共謀罪」を強硬採決しようとももくろんでいるようです。

共謀罪に反対する緊急集会が、21日(火)・22日(水)に開催されます。

●21日衆院議員面会所集会

と き 11月21日(火)12時〜13時
ところ 衆議院議員面会所
    (地下鉄丸の内線国会前下車)
発言  国会議員、市民団体 ほか
共催
 共謀罪法案反対NGO・NPO共同アピール
 共謀罪の新設に反対する市民と表現者の集い実行委員会
 共謀罪に反対するネットワーク
連絡先
 社団法人アムネスティ・インターナショナル日本 
  Tel03-3518-6777 Fax03-3518-6778
  反差別国際運動日本委員会(IMADR-JC)
  Tel03-3568-7709 Fax03-3586-7448
  mail: imadrjc@imadr.org
 日本消費者連盟 Tel03-5155-4765

●11・22院内集会

とき:11月22日(水)13:00〜14:30
ところ:衆議院第2議員会館第2会議室
 東京メトロ有楽町線南北線永田町駅・千代田線丸の内線国会議事堂前駅
お話:海渡雄一さん(弁護士)
 アメリカは共謀罪条項を留保していた
 ----条約をめぐる政府説明への5つの疑問----
発言:
  国会議員
  寺中誠さん(アムネスティ・インターナショナル日本)
  東本久子さん(教育基本法「改正」反対市民連絡会
  中村元彦さん(子どもの育ちと法制度を考える21世紀市民の会)
  森原秀樹さん(反差別国際運動日本委員会)
  ほか
共催
  共謀罪法案反対NGO・NPO共同アピール/共謀罪の新設に反対する
  市民と表現者の集い実行委員会/共謀罪に反対するネットワーク
連絡先
 アムネスティ・インターナショナル日本:Tel.03-3518-6777
 反差別国際運動日本委員会(IMADR-JC):Tel.03-3568-7709
 日本消費者連盟:Tel.03-5155-4765

以下は、破防法・組対法に反対する共同行動からの連絡です。できるだけ多くの方にこの情報をお伝え下さい。月曜日の法務委員会理事懇で、野党欠席のまま、共謀罪法案強行採決の方針が決まるかもしれません。政府・与党議員には、反対の声を、野党国対関係者には欠席ではなく出席をして徹底抗戦するよう求める声を届けましょう!

 法務委員会名簿はこちら

 法務大臣などの名簿はこちら

 国対関係者名簿はこちら

 超簡単反対メールはこちら

■三悪報を廃案へ! 11・22大阪緊急行動
  民主主義の枯葉剤:共謀罪を廃案にしよう!
    教育を国家のものにする教育基本法改悪反対!
      憲法改悪のための国民投票法を廃案にしよう!
        海外派兵のための防衛省法案反対!

日時:06年11月22日(水)午後6:00〜 集会後、デモ行進
場所:扇町公園(JR天満駅・地下鉄扇町駅下車すぐ)
呼びかけ
 子どもたちに渡すな危ない教科書・大阪の会(06-6562-7740)/大阪労働者弁
 護団(06-6364-8620)/とめよう改憲!おおさかネットワーク(06-6364-0123)
 /おおさかユニオンネットワーク(06-6355-3101)/大阪社会文化法律センタ
 ー(06-6365-1565)
協賛:大阪平和人権センター(06-6351-0793)






 益岡賢 2006年11月20日

益岡の記事・文章へ] [トップ・ページ