教育基本法「改正」

益岡 賢
2006年5月17日


2006年5月16日午後、衆議院本会議で、教育基本法「改正」の趣旨説明と質疑が行われました。「改正」案に見られる「我が国と郷土を愛する態度」という文言について、小泉純一郎氏は、次のように述べています。

「教育上の目標として規定しており、児童や生徒の内心に立ち入って強制するのではない」

ほっと一息・・・・・・じゃあ、何とか大丈夫。

残念ながら、教育基本法「改正」案の全体を見ると、まったくそうは言えません。

というのも、教育基本法「改正」案の問題は、個別の文言にとどまるものではなく、教育基本法という「法」の位置づけそのものにかかわることだからです。

簡単に言うと、現行の教育基本法が、「教育の自主性を保証する」法律だったのに対して、改正案は「教育の国による組織化を規定する」法律へと変化しているのです。

したがって、小泉氏が述べている「・・・強制するのではない」(=乱用はしない)という説明は、教育基本法「改正」案の基本的な問題(法そのものが大問題)というポイントを、結果としてそらすことになります。

法そのものの問題が最も典型的に表れているのは、現行法第10条:

第10条(教育行政)
教育は、不当な支配に服することなく、国民全体に対し直接に責任を負って行われるべきものである。

と、対応する「改正」案第16条:

教育は、不当な支配に服することなく、この法律及び他の法律の定めるところにより行われるべきものであり、教育行政は、国と地方公共団体との適切な役割分担及び相互の協力の下、公正かつ適正に行われなければならない。

です。

まず、現行法は、教育の自主性を規定するものですから、現行法で「教育は」と言ったときには、教育に携わる人々を指します。その人たちが、不当な干渉や支配に服することなく、国民全体に対して、国やら政党やら団体やらの介入なしに、直接の責任を負って行うことを保証するものです。

「改正」案16条の出だしは、表現としては同じです。すなわち、「教育は、不当な支配に服することなく」。

ところが、「改正」案で記述されているものが、「教育の国による組織化」であり、教育の主体が国等にすり替えられているため、同じ文言でも、今度は「国が行う教育は、不当な支配に服することなく」という意味に解釈されます。

この、本質的な教育主体の変換は、ご丁寧に「国民全体に対し直接に責任を負って」というところを「この法律及び他の法律の定めるところにより行われるべきものであり」と変更していることにも表れています。

つまり、現行法では「自主的に行われる教育は、(国や行政その他の)不当な支配に服することなく」と解釈されるわけですが、「改正」案では、「国が行う教育は、(市民や教育の自主性を求める人々の)不当な支配に服することなく」と解釈されることになります。

実は、中間的な案では、ここの部分、「教育行政は、不当な支配に服することなく」、でした。

法案文言の作成者は、一歩賢しく、実質上「教育は、不当な支配に服することなく」という文言を、「教育行政は、不当な支配に服することなく」と解釈でき、そうとしか解釈できないかたちに法案の全体を規定することで、誰が見ても無茶苦茶なすり替えである「教育は、不当な支配に服することなく」から「教育行政は、不当な支配に服することなく」の変更をやめて、なお、「不当な支配に服すること」のないのは誰かについて、180度解釈を変換したわけです。

こうした法律そのものの位置づけの変換は、他の場所にも現れています。例えば、現行法第二条と「改正」法案第二条。

現行法は、「教育の方針」として、条件を既定するだけですが、「改正」法案は「教育の目標」として、教育を受ける側が達成する状態を規定します。

「・・・・勤労を重んずる態度を養うこと」、「・・・・に寄与する態度を養うこと」等々。これが、箇条書きで続くのです。

教育の自主性を基本として、国やその他の組織からの不当な介入干渉を排除することを定めた現行教育基本法に対して、「改正」案は、国の教育への関与を前提とした点で、180度の転換であり、その上で、国が行う教育への「不当な支配」を排除することを定めているわけです。

この全体的図式が維持される限り、「改正」案は、どんなに小手先の文言をいじっても、国や行政の、教育への様々な介入や命令・支配を保証するものであることにはかわりありません。

むろん、「男女共学」の条が削除されるなど、個別にみても大きな問題があります。

けれども、教育基本法「改正」案に見られる方向そのものが、法律を、国や行政のふるまいを縛るもの(法治国家の基本)ではなく、国が人々を縛りつけるものに転換するものという点で、近代の法理念に対するあからさまな逆行であり、それ自体が本質的な問題だと言えるでしょう。

現行憲法は、「主権在民」で、市民が主体となり、市民の権利を保障するかたちで国や行政その他を規定するという基本的配置になっています。

憲法改正案はまた、やはり「法治国家」の理念を逆転し、国が人々を拘束し支配する配置への変更というマクロな形式から考え、批判することが必要になるでしょう。

かなり私的なメモなのですが、「ですます」調で書いたために、ちょっと奇妙な文体になってしまいました。


教育基本法ね」というブログが、同様の問題意識を、より現場に寄り添ったかたちで言葉にしています。

16日「共謀罪」の採択は阻止されました。共謀罪の大きな問題は、犯罪が行われなくても、実行準備がなくても、「グループで話し合った」だけで犯罪されることです。

これもまた、近代の法の基本理念から見ると、恐ろしいまでの逸脱です。

その上で、もともと組織犯罪にかかわる国際条約の国内法整備と位置づけられているにもかかわらず、条約から見て、「組織」とは何かが大きく曖昧にされ、「犯罪」の範囲が大きく拡張されているものです。

グリーンピース・ジャパン共謀罪反対オンライン誓願などから、反対の声を関連各所に送ることができます。
 益岡賢 2006年5月17日

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