「現実」と理念

『現代の戦争被害』(小池政行著・岩波新書)読感もかねて

益岡 賢
2004年9月6日


言葉は問いを問うために発明されたものである。答えはうなり声や身振りによっても可能だが、問いは言葉で語らなくてはならない。・・・・・・ 社会の澱みは、答えの不在によってではなく、問いを問う衝動が欠けていることによりもたらされる。 Eric Hoffer, Reflections on the Human Condition (NY: Harper Collins, 1973)


昨日、誰かが大量殺人を犯したとする。今日になって、その誰かあるいは別の人がこう言ったとしよう。「刑法によりこの殺人を裁こうというのは誤りだ。現に殺人が行われているのだから、それがいけないという考えに基づく刑法は、殺人が行われているという現状の時代に合わない。だから刑法の殺人罪をめぐる規定を廃止しよう」。

日本では、男女間の雇用・賃金格差が厳然と存在する。それを前提に、誰かが次のように言ったとしよう。「男女雇用機会均等法は時代に合わない。今の時代には、雇用機会の均等は実質上不在なのだから。だから男女雇用機会均等法は廃止すべきだ」。

不格好な「保守」のおぢさんたちの中には、一番目の例はとんでもないと思いながら、2番目の例には賛同する人がいそうである(とりあえず「現在の機会均等の不在は男女間の生物学的な差異に基づく」とか何とか疑似科学的レベルを介在させて)。

とはいえ、いずれも同じかたちをした議論である。どんなことでも力づくで実行し既成事実化してしまえば、それ自体によりその存在の正当性が確保される、という理屈(の崩壊)。絶望的に奇妙である。

にもかかわらず、これに類する理屈の崩壊は、最近、至る所で見られる。

たとえば、9月5日付東京新聞では、国会議員の84%が改憲容認であり、そのうち59%が憲法が「時代に合わぬ」ためを理由の一つとしてあげていることが報じられている。しかも、憲法の見直し対象として重視する項目のトップは「9条と自衛家ん」(59・5%)。ここから、自衛隊の存在そのものから始まり不法なイラク侵略への加担に至る「現状」に憲法が合わないから現状に憲法を合わせよう、という見解を抱く国会議員が少なからずいることがわかる。

論のかたちは、大量殺人が現に行われているから、刑法の殺人罪規定を廃止しようというのと同じである。

完全な理念の不在。「真実」の暫定的存在を放棄すると同時に、未来へと投企される理念を投げ捨てた結果、現状を追認するために、最悪のかたちで歴史構築主義的思考が利用される。

過去には過去の規範があったのだから、現在の基準で過去を裁くことはできない、という現在の態度表明の、時間を縮めた悪夢のような利用。

犯罪を追認するための言葉は、至る所で繰り返されている。

ファルージャ、2004年4月。米軍海兵隊による救急車狙撃について、米軍筋は「救急車はテロリストの偽装だ」と語った。また、それ以来繰り返されるファルージャの民家への爆撃について、米国・アラウィ「暫定政権」筋は「ザルカウィ派の隠れ家」という発表を繰り返している。

そうした発言が嘘であることや、仮に本当であっても犯罪であること、それとは別に、ここでの議論に関係するのは、このような、米国政府筋の視点から発せられた嘘や偽りがマスメディアからたれ流されることにより、パブロフの犬のように、「ファルージャで民家が空爆された」→だから空爆された民家にいたのはテロリストだったに違いない、という、現状に合わせて判断基準を変える思考回路が広まる可能性はないか、ということである。

考えてみれば、「お上の言うことだから」、「警察に取り調べを受けたのだから何かしたに違いない」という倒錯的態度は、クリシェとして用いられることからも伺えるように、確実に存在している。

ファルージャで繰り返される米軍による空襲についても、それにより殺された民間人についても、ほとんど報道されなくなり、報道されたとしても、単なる「日常」の報告のようになってしまった現状。まるで、戦争は現に起こっているのだし、民間人も現に殺されているのだし、日本は現に米国の同盟者としてそれに加担しているのだから、その現実に考えを合わせたかのように・・・・・・


小池政行著『現代の戦争被害----ソマリアからイラクへ----』(岩波新書)は、こうした現状追認の廃墟に抗して、まっとうな「理念」の抵抗線を引こうと試みた本である。

「はじめに」で著者は、本書の目的として、戦争における「民間人の犠牲に焦点を当てること」、「自軍兵士の犠牲ゼロを目指す『ゼロ・オプション』と呼ばれる米軍の戦闘方法が、現代の戦争でさらに多くの民間人の犠牲者を生じさせているのではないか。この問題を追求すること」、をあげている。

「戦争にもルールがある」という第1章で、著者は、国際人道法を簡単に紹介し、抽象的な理念ではなく、これまでの人類の経験から培われてきた理念のささやかな実現としての国際法的枠組みを呈示し、現状追認の虚無的風潮に対し、現実的な基準の足場を示す。これが、本書の分析の最初の基準となる。

もう一つの基準もまた、明快である。法の下での平等を受け入れること。

この基準にのっとって、対テロ戦争を叫びながら国連総会における「国際テロリズム非難決議」(1987年)に反対した米国とイスラエルについて、「テロリズムというものは自分たちに向けられたときのみテロリズムと見なすことが可能なのであり、同じ行為を米国やイスラエルが行ったときはテロリズムとは呼ばない」という態度を採っていると分析し、さらに「自らは決して裁かれない、しかし君たちは裁かれるべきだ」という主張では誰も耳をかさないだろう、と正論を述べる。

戦争の規則および規則は平等に適用されるべきことを基準として、著者は、民間人犠牲者の増大を導く流れを、米国の軍事介入を中心に、ソマリア、ボスニア・ヘルツェゴビナ、コソボ、アフガニスタン、イラクと、紙幅の制約の中であたうる限り丁寧に追っていく。

それを通して、著者は、「ゼロ・オプション」と言う米軍の戦闘方法が、空軍の圧倒的力のもとで遠隔から標的を叩きつぶす戦略をますます大きく採用していく傾向を描き出す。そうした流れの中で、私たちが、どんどん次のような事態に麻痺してしまっていることを思い起こさせる。

「街や都市、村の無差別破壊」は以前から戦争犯罪であったにもかかわらず、飛行機による都市の空爆は処罰されないばかりか、実質的に非難の対象にすらなってこなかった。これは、現代国際法のスキャンダルである。このことを忘れてはならない。空爆は、国家テロリズムであり富者のテロリズムである。過去六〇年間に空爆が焼き尽くし破壊した無辜の人々の数は、反国家テロリストが歴史の開始以来これまでに殺害した人々の数よりも多い。この現実に、なぜかわれわれの良心は麻痺してしまっている。われわれは、満員のレストランに爆弾を投げこんだ人物を米国の大統領に選びはしない。けれども、飛行機から爆弾を落とし、レストランばかりでなくレストランが入っているビルとその周辺を破壊した人物を、喜んで大統領に選ぶのだ。私は湾岸戦争後にイラクを訪れ、この目で爆撃の結果を見た。「無差別破壊」。イラクの状況を表わす言葉はまさにこれである(C・ダグラス・ラミス 政治学者)。

国際法は、強制力のある法執行組織を有しないが故に、法の名に値しない、意味がない、と冷笑的な態度を採る人々がいる。このような議論は、二つの点で間違っている。論理的に、そして遂行的に。

一つめ。法執行組織は、法執行組織である自分自身が法を遵守することを保証することはできない。従って、法執行組織が機能しなくなったときに、「強制力のある法執行組織」の存在を法の要件とする人々は、メタレベルの法執行組織を要請せざるを得ず、そのメタレベルの法執行組織が機能しなくなったときのためにメタメタレベルの法執行組織を要請せざるを得ず・・・・・・と無限背信に陥る。

どこかで、止まらなくてはならない。止まる場所は、法執行組織が強制力を発揮する場所ではなく、法の言語=理念が拘束力を発揮する場所である。その意味で、法執行組織が無いことは、国際法の法的資格を減ずるものではない。

二つめ。「意味がない」と冷笑的な態度を採ること自体が、遂行的に働く。中立の第三者を装った、悪しき現状への加担。これをめぐっては、チェチェン・ニュースに最近興味深い記事が現れたので、一部を抜粋しよう。

このニュースレターを読む人の中には、レポートのためにチェチェン問題をおおざっぱに理解したいという学生もいれば、情報を集めて「客観的」に報道するプロも大勢いると思う。そういう人たちにも、そうでない人たちにも、提案したいことがある。

まず、チェチェンとロシアの置かれた状況を、自分とは関係ないものとして捉えることを、もうやめよう。その立場は無害どころか危険だ。私たちが調べ、それぞれの視点から意見を発表したり、報道することそのものが、悲惨な戦争の終わりを、早めもすれば、遅めもする。今のように、ロシア政府の政策に無批判な報道(たとえば「人権」の二文字が使われない記事)が続けば、それは「客観報道」のつもりでも、この悲惨な戦争の終わりを後に延ばす役割を果たし、人権侵害を続行させる力になるだろう。続けることで得をし、批判もされない仕事を、進んでやめようとする政治家や官僚、軍人など稀なのだから。

私たちがチェチェン人を直接助け出すことは、たぶん、ほとんどできない。けれども、きわめて効果的な武器はある。わたしたちは今、何冊もの本を手に入れることができ、星の数ほどあるインターネットサイトから情報を得て、それをもとに考えることができる。武器は容易にチェチェンに流れ込んでも、ジャーナリストは入れない。その封鎖が意味することは―――ロシア政府がもっとも恐れているのは、チェチェンで何が起こっているかを、世界が知るという「危険」だ。

だから、時間の歯車を早めて人の命を救うことも不可能ではない。人権侵害と未曾有の貧困に苦しむチェチェンの人々を意識しながら、報道し、文化を紹介し、授業や研究会で発表しよう。さらに一歩進めると、ホームページやウェブログで意見を書き込んだり、新聞やロシア大使館宛てに投書したり、芸術の場に引っ張り出すことができる。たとえば歌でチェチェンを歌ったっていい。考えつく、あらゆる場でチェチェンにスポットライトをあてれば、確実に関心は高まっていくはずだ。

私たちはチェチェンを知ることができる。それはそのまま、チェチェンの情勢を良くし、いまより安定した地域にする、その可能性をつかんでいるということだ。


「プロパガンダが人を騙すことはない。人が自分を騙すのを助けるだけである」・・・。

私たち一人一人が持っている「可能性」を使っていくために、小池氏のこの本は、とてもあたりまえの、そうであるが故にとても大切な一つの視点を提供してくれている。末尾には、次のような下りがある。

イラク戦争においてわれわれ日本はこのような[イラク特措法]法律を作り、軍隊である自衛隊を人道活動に従事するためと称して派遣した。そして非戦闘地域という虚構を維持するために、自衛隊が積極的に戦闘を行わない限りその地域は非戦闘地域である、という無理を、現地の自衛隊に強いているのである。

行動をごり押しし、それを追認していくために言葉をかぶせ続ける日本政府の態度が、簡潔に示されている。

現状に追認して言葉と理念を悪用し崩壊させることが流行る世界の中、最悪の暴力と悲惨の前に無感覚になってしまわないよう、私たち一人一人がものを見、考え、判断し、行動に移していくために、一つの足場をささやかに、けれどもしっかりと提供してくれる、広く読まれて欲しい一冊。


東ティモール、スアイのアベ・マリア教会で、インドネシア軍・警察と手先の民兵に200人もの人々が虐殺された日から5年目の9月6日に

 益岡賢 2004年9月6日

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