『市民運動の宿題』書評(1)
共同通信配信書評・『読書人』吉岡忍

 

    『京都新聞』1991年9月9日号、
    『佐賀新聞』1991年10月7日号など、
    「共同通信」配信による書評

     持続の志さらけ出す

 著者はべ平連(ベトナムに平和を!市民連合)の事務局長を長きにわたり務め、常に誠実な姿勢で市民運動の在り方を模索し、行動に移してきた人である。

 べ平連運動参加以前の自分を振り返り、「社共両党と総評を中心にしない大運動など、考えも及ばなかった」という著者が、個人の自発性や思想を大切にする市民運動の担い手へ、どのような経験に身をさらし変わり得たのか。市民運動を持続させる理想と力はどこからくるのか。本書は、そういった興味に答えようとしている。

 学生運動のさなか、政治の波にもまれながら著者は、自身や周囲の人間に対し、愚直とも言えるような真っすぐな厳しいまなざしを失わない。その姿が淡々と描かれていて、かえってリアリティーのある時代背景が浮かび上がり面白い。

 べ平連運動時代の記述からは、柔軟で新しいタイプの活動の場を生み出し、創意を凝らそうと走り回るべ平連の面々が垣間見える。

 著者は「いいだしっぺの原則」にみられるようなべ平連の理念を大いに評価するが、同時に運動と管理、東京集中と地域の自主性、政党と市民運動、内ゲバの問題といった「市民運動の宿題」が今後に残されているという。

 自分たちの作り出した運動の内部にある「宿題」を、本書の執筆を通して公開し、解き明かしていこうとする「意識的努力」は大切である。

 しかし、「宿題」そのものを、運動固有の論理に基づいた意識的な努力によって解決させるのは、難しいのではないだろうか。そういったきまじめさを超えたところに、べ平連は位置しようとしていたのではなかったか。庶民のしたたかな「ずるさ」をどう揺さぶるか。そのようなテーマには、思考のすそ野の広さが要求されるだろう。そのとき、著者が若いころ愛読したという柳田国男の著作の中に、「宿題」に立ち向かうためのヒントが隠されているように思える。

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     『週刊 読書人』1991年11月25日号

 市民運動が成立することの重要性

理想に具体性を与える原理はどこに
手探りでつくる活動のメモワール

吉 岡  忍

マルクスの銅像の胴体に、大きな落書きがある。「万国の労働者よ、団結せよ!――共産主義を倒すために」。KGBの創設者ジェルジンスキーの像を撤去したあとの台座にあったのは、「セックス・レボリューション」という落書きだった。

そんなモスクワで、私は吉川勇一さんの「市民運動の宿題」を読んだ。おそろしく不真面目に実行されたクーデターが失敗し、有名無名の改革派があちこちで勢いづくモスクワに六週間ばかり滞在しているあいだだった。

  共産党中央委員会はビル(のわずか二部屋に押し込められ、活動停止に追い込まれていた。行政組織でも工場でも聞かれた合言葉は「非党化」である。

  ソ連が世界革命運動のモデルであり中心などではないことは、こんなふうになるずっと以前のスターリン批判のころから言われてきたことだ。しかし、それでも実際にソ連型社会主義が目の前で崩壊していくのを見ていると、一種の感慨がある。人間の平等や自由や解放といった理想や夢物語に具体性をあたえる原理は、これからどこに見出すことができるのだろうか、と思わないわけにはいかなくなる。

  吉川さんが本書の最初のほうで回顧しているのは、敗戦直後の学生運動や平和委員会や原水爆禁止運動での活動である。どの活動の背後にも、日本共産党の枠内ではあったが、マルクス主義があった。その狭隘な党派性から離れた、自立した市民運動としてのベトナム反戦運動が日本ではじまったのは、六〇年代半ばになってからだ。

  この本の中心となっているのは、吉川さんのべ平連(ベトナムに平和を!市民連合)での活動であり、そこでひとつひとつ手探りのようにして見つけだし、身につけてきた市民運動の方法と理論である。

  いや、方法と理論などというと、本書の広がりを半減させることになる。自分たちの活動の根拠ややり方をどこか別のところから借用してくるのではなく、実践の過程でワイワイ言いながら作り出していく。しかも、それが場当たり的のように見えて、積み重ねてみると、そこに筋が通っている。ベトナム反戦ならベトナム反戦という個別の課題を貫く筋ばかりではなく、人間が共同で何かをするというときの公理、もっと言えば、生まれも仕事も性格も考え方も違う人間が、社会という場でいっしょに生きていくときの構えがどうあったらいいのかの原理も含み込まれている。そんな仕方で活動をつづけてきた吉川さんの、これはメモワールとなっている。

  私自身、べ平連のなかにいたから、ここで書かれていることのいくつかには心当たりがある。もちろん新しく知ることも少くなかったのだが、不思議なことに「懐しい」と感じることは、モスクワで読んでいても、まったくなかった。市民運動の今後を語りながら、「社会主義国の内部に、今後、自国政府の政策をも相対化するような市民的な運動が成立するか否かも大きな問題である」と、吉川さんは以前の自分の文章を引用しながら書いている。マルクス主義がいつのまにか借り物になってしまい、社会の隅々まで強制力として働いてきた現実が次々と明らかになっている現場にいると、そのことの重要性はとてもよくわかる。市民運動が「宿題」として抱えているのも、これと無関係ではない。(よしおか・しのぶ氏=ノンフィクション・ライター)

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