news-button.gif (992 バイト) 14 死者は分裂している(1999年8月15日、渋谷区勤労福祉会館での講演全文) (1999/08/16掲載) 

 

 1999年8月15日の敗戦記念日、東京の渋谷勤労福祉会館で「戦没者追悼式」「日の丸・君が代」に反対する8・15集会実行委員会主催の催しあがり、私はそこで小児科医の山田真さんとともに講演をした。以下にその全文を再録する。なお、当日の資料などで、誤記した年号、数字、地名などを訂正し、また、ごく一部、あとから加筆した。(写真も吉川撮影) 文中、他の人の文章などの引用部分は茶色で表示されている。

 敗戦記念日には、毎年、国民文化会議主催、わだつみ会主催、戦争への道を許さない女たちの会主催など、さまざまな反戦の行事が並行して行なわれてきている。この集会もその一つだったが、200名近い参加者があり、その他の催し同様、満員となって、椅子が足らず通路に腰を下ろす参加者もあった。集会後は、渋谷の繁華街をとおり、神宮前公園までの短い距離ではあったが、参加者によるデモも行われた。

 

死者は分裂している

「戦没者追悼式」「日の丸・君が代」に反対する8・15集会での講演

(1999.5.15.渋谷勤労福祉会館)

吉 川  勇 一

 

こんにちは。 54年前の8月15日も今日と同じように暑い日でした。私は今68歳ですので、54年前は14歳、中学3年生でした。学徒勤労動員で通っていた埼玉県の高萩というところにあった陸軍飛行場の芝生の上で、天皇の放送を聞きました。よく覚えていますが、今日よりもっと快晴で、雲はほとんどなかったように思います。

司会の方が言われましたように、私は「市民の意見30の会・東京」のメンバーです。このグループは、日米安保条約に反対し、それを日米平和友好条約にとって換えようという運動を進めており、「殺すな」というスローガンを基本にしています。コマーシャルを最初に入れてしまいますが、私が胸に着けているこの「殺すな」のバッジも入り口で売っております。お買い求めいただければ嬉しいと思います。

さて、今日の集会は、「日の丸・君が代」に反対することと、政府主催の「戦没者追悼式」に反対することを課題としていますが、メインの「日の丸・君が代」問題については、次の山田真さん(小児科医)がお話しくださるそうで、私には、慰霊碑や死んだ人の追悼という問題について話せ、という主催者からの注文でした。私は仏教徒でもクリスチャンでもなく、死者との関わりについてお話することなどほとんどないのですが、今日は、実際にある4つの慰霊碑や記念碑、像などをご紹介する話をさせていただくことにします。

お手もとに、入り口で配られた今日の集会の分厚い資料集がありますが、その最後についている2ベージが私の話と関連する資料で、昨夜急いでつくったものです。それを見ながら、聞いてくださるとありがたいと思います。

「興亜観音」と「七士の碑」

4つの記念碑の最初は、熱海の伊豆山にある「興亜観音」についてです。この資料に引用した文章は、私が『市民の意見30の会・東京ニュース』の35号(96年3月31日号)に載せた文章の一部です。この「興亜観音」を知ったのは、1995年、敗戦50年のときに、香港で放映された香港のテレビ会社が作った1時間ほどのドキュメンタリ番組のビデオを見てのことでした。このビデオは、それに出演されたわだつみ会の高畠平さんからいただいたものです。高畠さんは、特攻隊の数少ない生き残りの方の中の一人です。

原タイトルで『戦敗国「終戦」五十年特集』と題するこのテレビは、まず満開の桜の情景から始まります。爛漫と咲きほこる桜の映像に続いて、その下でお花見の宴会をする日本人の様子が映し出されます。酒盛りをする人、歌う人、踊る人、老若男女。香港テレビのアナウンサーは、日本人の若者にマイクを向け、戦争のことをどう思うかと尋ねます。若者は、あんなもの、爺さん、婆さんのころの話で、俺たちゃ関係ねェよ、と答えます。桜ははらはらと散りだし、場面は鹿児島県の知覧、もと特攻隊の出撃基地のあったところにある記念館に移ります。そしてそこを訪ねる多くの中学生、高校生のグループを描き出します。

私も桜は好きで、満開の夜桜見物に毎年のようにでかけますし、はらはらと花びらの散る桜をきれいだとも思います。しかし、それは、私の、あるいは多くの日本人のイメージであって、香港のテレビが映し出した桜のイメージはまったく違っていました。この桜は、あの「敷島の大和心を人問わば……」の桜であり、天皇のために喜んで散ったという特攻隊員を象徴するものであり、その下でうかれ騒ぎ、「戦争? あんなもの、爺い、婆あの時代のことで、俺たちゃ関係ない」と言う若者を含む、今の日本人の心性を表わす桜なのです。同じ桜のイメージが、私のそれと大きな違いがあることに、まず、冒頭、ショックを受けました。

しかし、それよりも、私がもっと衝撃を受けたのは、「興亜観音」を紹介する場面でした。すでに、パーガミニの『天皇の陰謀』(いいだもも訳 れおぽーる書房 1972年)や、猪瀬直樹さんの本(『昭和16年夏の敗戦』世界文化社 1983年)』などで、それは紹介されており、バーガミニは私も以前読んだことがあるはずなのですが、記憶から消えており、「興亜観音」がどこにあるものか判りませんでした。海に近い丘の中腹にあることは画面で判りました。ナレーションでは当然、その場所も言っているはずなのですが、香港のテレビの直接録画ですから、私にはまったくわかりません。私の連れ合いは中国育ちで、北京語はできるのですが、彼女に聞いても、香港の言葉、広東語は耳で聞いたら判らないと言います。熱海にある「興亜観音」像

後になって、それは、熱海の伊豆山にあるということを知り、そこを訪ねました。まだ久野収さんがご存命で、久野さんの伊東のお宅を訪ねた帰りに寄ったのですから、数年前のことになります。山道をかなり登るので、病後の私にはつらい行程で、何度も途中で休みましたが、とにかくたどり着きました。熱海の海を見下ろす山の中腹にお堂があり、その脇に、2メートルほどの陶製の観音像がたっています。問題は、その観音像がどういうふうに作られたかです。

資料に載せておきましたが、香港のテレビに登場する「興亜観音理事」という肩書きを持った日本人はこう解説をします。

……中国の兵士が流した血の土と、日本の兵士とが流しました血の土とを、各激戦地から持って参りまして、そして日本の陶土と交ぜ合わせまして焼き上げたものでございます。……

この部分は日本語のままで、画面には広東語の字幕が出ます。――「沽有中國和日本士兵的血的土壌 從中國戰場上帯回來 混和日本的陶土而焼製成的」 同じ内容でも、こう、漢字ばかり並んで表現されますと、その内容の不気味さというか、グロテスクぶりが、肌に直接的に感じられました。

かたわらの堂屋のなかにも仏像がありますが、その脇には「廣田弘毅 松井石根 東條英機 板垣征四郎 土肥原賢二……尊霊」と記した額や、「終戦五十回忌鎮魂」とか「鎮護国家」と大書したちょうちん、「国威宣揚」と記した掛軸などが飾られています。観音像の前で読経をする「興亜観音主事」だという女性は、いかにも感極まったような声音でこう語ります。

……絞首刑になられる十三段の階段を、松井閣下の音頭により、天皇陛下萬歳、天皇陛下萬歳とおっしゃって、一段、一段、階段を上られたそうです。そういうふうにうかがっております……
(字幕――被吊死的時候 要上十三級楼梯 在松井閣下的支援下 遡行邊喊天皇萬歳天皇萬歳 一歩歩地上楼梯 我是這様聽説的)

そこへ日本人の「善男善女」が参詣し、賽銭をあげ、住所氏名を記帳してゆくのです。

この映像には、南京に入場行進する馬上の松井石根大将を先頭とする皇軍や、泣叫ぶ中国民衆を引き立てる日本軍憲兵の「便衣隊狩り」の衝撃的場面、あるいは東京裁判の状況などが重ねて写し出されます。

実はこの観音像は、戦後作られたものではありません。意外に思われる方もいるかもしれませんが、1940(昭和15)年12月、当時の中支那方面軍司令官松井石根大将が寄進したものなのです。

この興亜観音の横には、高さ1メートルほどの「七士之碑」という碑があります。皆さんは、東京裁判で有罪となり、処刑された東條英機や松井石根ら七人の被告の遺骨がどこにあるか、ご存知ですか。ここに祀られているのです。「七士の碑」の写真

碑の裏には、広田弘毅、板垣征四郎、東條英機、松井石根、土井原賢二、木村兵太郎、武藤章の七名の氏名が刻まれています。猪瀬さんの本によりますと、これら絞首刑になったA級戦犯の7名が、「十三階段に登る直前に、手錠をかけられたままの不自由な右手で最後の署名をしたためたその文字」が、こうしてこの碑の裏面に彫られているのだそうです。表の「七士の碑」という文字の横には、「吉田 茂書」とあります。「臣 茂」とはありませんでしたが……(笑い)

「興亜観音」や「七士の碑」にまつわるエピソードはたくさんあるのですが、詳しくお話するには時間がありません。以下、その戦犯の遺骨の問題だけ、猪瀬さんの本に基いてご紹介することにします。 

A級戦犯処刑後の遺骨の処理は、占領軍にとっては大きな問題だったようです。絞首刑は、当時の巣鴨プリズン、今、池袋に超高層ビルが建っているところにあったのですが、そこで行われ、遺体はひそかに厳重警護の下に横浜市西区の久保山火葬場に運ばれました。遺灰は、米軍が持ち去り、飛行機で空から撒く予定になっていました。米軍はこの7人が殉教者になることを恐れていたからだそうです。ところが、被告側の日本人弁護人の一人が、なんとか遺骨を手に入れようと画策、たまたま火葬場の近くの寺の住職を知っており、その住職がまた火葬場の場長の知り合いであったところから、火葬場長や住職らが深夜ひそかに忍び込み、7人の遺灰を持ち出したのです。もちろん、みつかればえらいことになったでしょう。遺灰は、その後、松井夫人ほか、東條夫人、板垣夫人、広田弘毅の長男らが待っている熱海の松井邸に運ばれたそうです。遺灰は「興亜観音」の中に隠されました。

「七士の碑」が作られ、吉田茂元総理も出席して公然と碑の除幕式が行なわれたのは、それから10年後の1959年4月17日でした。

 もう一つのエピソードもお伝えしましょう。その後、この「七士の碑」は爆破されてしまったのです。1971年12月12日のことでした。東アジア反日武装戦線・狼のグループによるものでした。しかし、爆破された碑は、ドイツ製の優秀な接着剤によって復元されました。確かに、ちょっと見ただけでは、継ぎ目がわからないほど、うまく修復されています。写真をご覧ください。

 以上が、4つご紹介する碑の話の第一です。

竹内好氏が碑文を書いた太平洋戦争参加記念碑の話

 第2は、『竹内好日記』に出てくる碑の話です。まず、どうして竹内さんがこの碑文を書くことになったかの事情です。『竹内好日記』の1963年1月24日の記述にこうあります。

九六三年一月二十四日(木) ……三谷作七氏ほか一名来訪、詳しく話をきく。三谷氏は旧姓老川、私の兵隊時代におなじ部隊に曹長でいた人である。私が教育をおわったばかりの一等兵で宣撫班に転属になり、大隊本部のある町へ行くと、そこで営繕関係の主任をしていたのが老川曹長だった。彼は本部の下士官で私を殴らなかったただ一人だったろう。もっとも労務者の提供が宣撫班の主要な任務で、その宣撫班はほとんど私一人(名目の班長はいたが、この准尉はオンリーと寝てばかりいた)で住民との折衡に当っていたので、相手は兵隊でも一目おくという事情もなかったわけではない。しかし彼はともかく温厚な人物だった。私のいた部隊は埼玉と千葉と東京の出身者が多かった。私は帰還したあと、しばらく疎開先の浦和に住みついた。ある日、老川曹長が訪ねてきて、作文の添削を依頼した。彼の家は理髪店で、彼は家業を継ぐために理容学校に学び、その卒業論文を書かねばならなかった。理容の社会的意義といったような内容の論文に私は最少限の文法的修正を加えた。十年をへだてて今度が二度目の来訪である。彼の出身の島根という部落に大東亜戦争の記念碑を建てたい。日清、日露の碑はあるが、大東亜戦争の碑はまだない。従軍記念というのでなしに、黎明の碑といった名にしたい。戦歿者と生存者の全部の名を刻みたい。生存者全部が賛成し、拠金してくれた。ほかからの援助は仰がない。靖国神社の宮司に碑銘の揮毫を乞うた。碑文は校長先生に書いてもらう。場所は氏神の境内である。話をきいているうちに、この依頼は断われないと考えた。三谷氏の起草した趣意書は、正直にいって、意あまって文は支離滅裂である。私が援助しなくてはたぶん書き手がいないというのは誇張ではないだろう。都に鄙あり、東京周辺ほど草深いのかもしれない。石に刻まれる文が書ければ文筆業者として冥加につきる。……(『転形期』創樹社 1974年 p.167,より、以下の引用も同じ書物から)

次に、この問題が出てくるのは2月3日の記述です。

二月三日(日) あけ方小雪がちらついた。節分。……三谷作七氏に頼まれた碑文を案じて、一応の成文をこしらえた。
「かつての軍国日本の時代に  強制されて兵士となり  何年間も家族と別れて  大陸や南方の島に苦労を共にした戦友われら  そのあるものは不幸にして中道に倒れたが  幸運に生き残ったものがその志をつぎ  相たずさえて祖国再建にいそしみ  ここに平和と繁栄の道を確定し得て  今日改めて過ぎし日を追憶し  亡き友の冥福を祈り  われらが志の徒労でなかった喜びを後代に伝えんがために  世界人類の永世平和を祈念して  産土の社の地にこの記念の碑を建てる   一九六三年三月 日」
 
この原案のうち、最初の二句は「大東亜戦争に召されて兵士となり」と変えてもよいこと、「世界人類」の一句は省いてもよいこと、「産土」は「うぶすな」としてもよいこと、ほかにも自由に変更されたいと註記して郵送した。……
 

月十一日(月) ようやく晴れた。晴れると日が当ってあたたかい。午後、与野の三谷作七氏が相川氏を伴って来られた。例の従軍記念碑ができたという報告である。三月三日に大宮の氷川神社の宮司を招いて除幕式をやった。快晴にめぐまれ、百人ほど集って盛会だった。「黎明の碑」と名づけた。私の案文をそっくり使った。二案中「大東地戦争に召されて兵士となり」の方を採用した。碑文は校長先生に書いてもらった、云々。除幕式の写真と、記念品の盆と、謝礼として卵をもらう。私もうれしかった。ぜひ一度見に行きたいと思う。……

この碑は、私はまだ見ておりませんので、写真はありません。鶴見俊輔さんは、竹内さんの伝記を書いておられます。その中に、この碑文の話が出てきます。

……ここにあるように、大東亜戦争について戦死者を記念するような碑を建てたいというのは戦友と竹内好の共通の願いだった。間違った戦争だったという判断をふくめて、戦死者の忠誠心に頭を垂れる。戦死者を追悼することからさかのぼってあの戦争を正しかったという判断に赴くことはない。…… こうして戦没者記念の碑は建った。(鶴見俊輔『竹内好――ある方法の伝記』リブロポート 1995年 p.202〜204)

この鶴見さんの評価は、私にはわかりにくい部分です。最初、竹内さんは、「かつての軍国日本の時代に 強制されて兵士となり」という案文を書き、ついで、その部分は、「大東亜戦争に召されて兵士となり」と変えてもいいと伝えました。この二つの文の差は、単なる表現上の問題ではないでしょう。明らかに、自分たちの戦争参加にたいする評価の違いが見られます。そして、その選択を、竹内さんは、碑を建設しようという依頼者の戦友たちに任せたのです。

碑文には、「そのあるものは不幸にして中道に倒れたが 幸運に生き残ったものがその志をつぎ」という表現があり、また、「われらが志の徒労でなかった喜びを後代に伝えんがために」という表現もあります。この「志」の中身が何であるかは、直接的には何ら明らかにされていません。この碑を建てようとする人びとの間にも、戦争への評価や、自分たちの参戦についての評価には、いろいろな差や幅があったに違いないと思います。そして、碑文は、その幅をそっくり許容して、「われらの志」の内容は、それを読む人それぞれの解釈に任せるようになっていると思えます。

鶴見さんは、「間違った戦争だったという判断をふくめて、戦死者の忠誠心に頭を垂れる。戦死者を追悼することからさかのぼってあの戦争を正しかったという判断に赴くことはない」と書かれました。碑文を書いた竹内さんには、それは当てはまるかもしれません。しかし、この記念碑の建設に賛成し、醵金に応じたという生存者全員について、そう言っていいのでしょうか。そこが、私には疑問です。民衆の側には、戦争の評価、戦争責任についての自覚の度合いなどについて、かなりの幅があります。真っ向からの対立といっていいものもあります。碑の案文を書いた竹内さんは、その評価を、依頼者に任せたのです。そして、依頼者は、「かつての軍国日本の時代に 強制されて兵士となり」という表現ではなく、「大東亜戦争に召されて兵士となり」という文を選んだのです。その選択の中に、鶴見さんの言われるような「間違った戦争だったという判断をふくめて、戦死者の忠誠心に頭を垂れる。戦死者を追悼することからさかのぼってあの戦争を正しかったという判断に赴くことはない」という保証を確実に読み取れるとは、私には思えないのです。

「おろかもの之碑」中之条町にある「おろかもの之碑」

第3の碑の話に移ります。「おろかもの之碑」は、群馬県中之条町にあります。四万温泉などで有名ですが、最近では、小渕首相の出身地であることを売り物にしています。この中之条町の観光課が出したパンフレットがここにあります。『歴史文化の散歩道――中之条観光要覧』というものです。この中に「おろかもの之碑」のことも出てきます。

「林昌寺」というお寺の紹介のところに、「……このほか境内にはしだれ桜の巨木が春には見事な花を咲かせ、太平洋戦争の反省を素直に表現した『おろかもの之碑』も感銘をあたえてくれます」とあります。地元の若者たちの間では、この碑の存在を知らぬものもいるのに、観光課のパンフに載っているだけでも、これはいいことだと思います。(私は、そこを訪ねる途中で何人かの中学生ぐらいの若者に道を尋ねたのですが、全員が、知らない、と答えました。)

さて、林昌寺というお寺の山門脇にあるこの碑の文面です。お手元の資料にも全文、記載しておきました。こうあります。

昭和十二年七月七日ノ支那事変ハツイニ昭和十六年十二月八日大東亜戦争トナル日本ノ運命ヲ決スル危機ニ際シ我々ハ当時ノ務上或イハ一方的委嘱状ニヨッテ一律ニソレゾレ大政翼賛会翼賛壮年団在郷軍人会の郡町村責任者トナッタガ敗戦後占領政策ニヨリ其ノニ在ッタ者ハスベテ戦争犯罪人トシテ昭和二十二年二月ヨリ一切ノ公カラ追放サレタ本意ナキ罪人ハ互ニソノ愚直ヲ笑イ合ッタ昭和二十六年八月全員解除サレルヤあづま会ヲ設立シテ今日モナオ旧交ヲ持シ郷土吾妻ノタメニ聊ノ報恩ヲ期シテイル創立十周年ニ際シおろかものノ実在ヲ後世ニ伝エ再ビコノ過チヲ侵スコトナキヲ願イ卑名ヲ下記ニ連ネテ碑ヲ立テル

昭和三十六年十二月八日

あづま会建立

そして、その下には、「中之條町 蟻川 潔」という名前から始まって、長野原町、嬬恋村、草津町、六合村、高山村の83名の氏名が連記されています。 耺耺

ここを訪ねたのは、つい先週のことでした。あいにく、物凄い雷雨に見舞われました。車のワイパーを最速で動かしても先が見えず、やむを得ずその激しさが一段落するまで、車をとめざるをえないほどの激しい雨でしたし、いくらか激しさが治まってから碑の写真をとるだけでも、濡れ鼠になってしましました。

私は、この建立に加わった方で、生存者がおられれば、ぜひお会いしてお話を伺いたいと思いました。そこで、碑が立っている林昌寺の和尚さんにもお目にかかり、関係者のことをお尋ねしましたし、町役場にも問い合わせました。しかし残念ながら、ほとんどの方はすでになくなられているようでした。和尚さんと役場との返事は同じで、よく事情を知っている人がいたが、つい最近なくなられてしまった、もう直接かかわって事情を知る人はいないのではないだろうか、ということだったのです。

建立にあたった人びとの直接の話は聞けませんでしたから、この碑文を読んで、町の観光課のパンフレットにあるように、「太平洋戦争の反省を素直に表現した」ものと受け取れるかどうかという問題が残ります。この碑が立てられたのは、1961年の12月8日、開戦記念日だっただけに、当時のマスコミも「地方指導者の痛烈な戦争責任感の表明」などと大きく報道したようです。

碑文には「おろかものノ実在ヲ後世ニ伝エ再ビコノ過チヲ侵スコトナキヲ願イ」という部分もあります。しかし、「本意ナキ罪人ハ互ニソノ愚直ヲ笑イ合ッタ」ともあります。「本意ナキ罪人」という表現は微妙です。碑文を書いたのは萩原進という方だったそうですが、その人がどういう方か、私は知りません。建てた人びとの思いは、私たち、読むものが、それぞれ推し量る以外にはありません。この文面には「職業」の「職」の字が、耳偏にカタカナの「ム」を書いた「 耺」という字が3箇所に使われています。(注 パソコン上では、この耳偏にカタカナのムの文字が使えないので、やむをえず、「耺」を使っています。)これは作った字で、本来はない字ですよね。

そうでしょ、梶川さん? (参加者の中に、ジャーナリスト専門学校の講師で、校正の専門家である梶川凉子さんがおられたので、私は、そう問いかけた。梶川さんは、「それは略字で、誤字ではありません」と答えられた。) 

ああ、これも略字ですか。私は、耳偏に「云」を書くのは略字だと思っていましたが、カタカナの「ム」をつけるのは、嘘字だと思っていました。ありがとうございました。ところで、今はこの「 耺」の字はあまり使われなくなっているようですが、60年前後には、労働組合や学生運動の中では、この文字は頻繁に使われていたと思います。ですから、あるいは、この碑文を書いた人は、労働運動の活動家か、あるいは共産党員であったか、などとも想像してみるのです林昌寺の山門と「おろかもの之碑」が、それは私の勝手な推測で、根拠は何もありません。それにしても、この碑を建てることで一致した83人の地方指導者が、「痛烈な戦争責任感の表明」としての意識を全員一致して持っていたのか、あるいは「戦争の責任を素直に表明」しようとしていたのか、私は考え込みます。竹内好さんの書かれた碑文のところでも言ったことですが、民衆の間の戦争評価、戦争責任の意識にはかなりのふり幅が存在します。

この碑のことを書かれた佐々木元さんの文章がありますが、それにはこういう表現があります。「『おろかもの』という自嘲の碑銘にこもるルサンチマンはそう単純ではない。」(小田実・鶴見俊輔・吉川勇一編『市民の暦』朝日新聞社 1973年 p. 381)

実は、この碑は、最初から、今ある林昌寺の山門脇にあったのではなかったのです。中之条町が発行した『中之条町町史』には、こういう記述があります。

この碑はもと中之条町上之町の英霊殿の境内に建設されたが、後に遺族会から英霊を侮辱し礼を失すると異議が出て現在地に移転したものである。(『中之条町町史』特輯T 戦争と生活 p.686)

そのことについて、佐々木さんの先の文はこう書いています。

……また反響も多様であった。戦中、戦後史で、真に愚者と言われるべきは誰か、戦死者はそのうちに入るのか? 議論は沸騰し、石碑は当初の英霊殿わきを追われるに至る。建碑者らは、「わしらの真意がわかって貰えないのだ。わしらがもう一度おろかものになればいいんじゃ」と黙々として碑を林昌寺内に移したという。滅私奉公、追放、追放解除と再三の価値転換に翻弄された、或る世代の苦渋が、この碑に刻まれている。しかし『おろかもの之碑』の意味の争奪戦はまだ終わっていない。(前掲書)

そうなのです。この碑の文面をどう読むか、そこにこめられた感情をどう理解するか、それは建設当初から、人びとの間で揺れに揺れたのです。そして、現在でも、その解釈、その評価を人びとに問えば、一致した見解がすぐ出てくるとは思えません。佐々木さんの言うとおり、この碑の意味の争奪戦は終わっていないのです。

中国人民に謝罪をする大沢雄吉さんの墓にある碑

さて、最後に4番目の碑の話です。東京からほど遠くない農村に大沢雄吉さんのお墓はあります。点々と農家のある畑の一角に大沢一族の墓地があり、そのほぼ中央に雄吉さんの墓が、お兄さんの墓などと並んでいます。その墓の入り口の右側に写真で見られるような碑が昨年秋になって建てられたのです。吉岡町にある大沢雄吉氏墓の碑

私は、このことを『しんぶん 赤旗』の上に載った日本民主主義文学同盟の水沢蕗さんの「父の謝罪碑」(『赤旗』1999年6月26日号)という文章によって知りました。民主主義文学同盟に電話をかけて水沢さんの連絡先を教えてもらい、そのお墓が近くにあるのならば、一度お訪ねしたいという手紙を水沢さんに書きました。水沢さんからは丁重な返事が届き、小さな碑で、実際に見たらがっかりされるかもしれないが、それでもいいから行かれるというのならば嬉しく思う、地図もお送りするというご返事でした。FAXで送られた地図を頼りに、私は、大沢雄吉さんのお墓を訪ねました。 

水沢蕗というのは作家としてのペンネームで、本名は倉橋綾子さんといいます。結婚されて倉橋姓になりましたが、大沢雄吉さんの娘さんなのです。倉橋さんは、お父さんの雄吉さんがなくなられる時に残された遺言によって、この碑をお墓に立てられたのです。(あとで知ったことですが、野田正彰『戦争と罪責』岩波書店 1998年の中に、この雄吉さんの遺言の話と、その背景を調べてたどる倉橋さんの話が詳しく紹介されています。同書p.305〜317)

碑文を読んで見ましょう。

旧軍隊勤務十二年八ヶ月、其間十年、在中国陸軍下級幹部(元憲兵准尉)として、天津、北京、山西省、臨 汾、運城、旧満州、東寧、等の憲兵隊に勤務。侵略戦争に参加、中国人民に対し為したる行為は申し訳なく、只管お詫び申し上げます。
                           大沢雄吉建之

この文の意味は実に明瞭です。解釈の幅の余地などありません。ただし、雄吉さんが71歳でなくなったのは、1986年のことでした。そして遺言に従ってこの碑が立てられたのはそれから12年後の昨年秋になってからのことでした。倉橋さんは、父の思いを果たせてほっとした思いを『赤旗』の文に書かれています。時間がたった事情はいくつかあったようです。倉橋さんからのお便りによると、親族の中に、こんな恥になるような文を刻んだ碑を墓地に建てるのは反対だという声も強く、すぐには建てられなかったが、ようよう最近になって、建ててもいいという同意が得られるようになった、とありました。ここにも、死者の思いを推しはかる生者の間の、それも、死者とごく近い関係にあった親族の間でも、感情と意見の分裂、差があったのです。(そのほかにも、倉橋さん自身が父の遺言の背景にある事実を調べるための努力にかなりの時間がかかったという事情が、前記『戦争と罪責』には詳しく紹介されている。)水沢さんは、

確かに恐ろしい天皇制のもとで兵士も国民も被害者だったのだ。だがそこに寄りかかるばかりでは何も生まれない。親の世代は一個の人間としてどう戦争に巻き込まれ、何をやりどうあがいてきたかを、まるごと伝える勇気がほしいし、子の世代には問いかける義務がある。互いに辛いこの作業を目をそむけずにくぐりぬけてこそ、共に人間として立てるのではないか。そうして立ってこそ初めて支配者の『悪』が形をなしてくる気がする。

と書いています。(前記『赤旗』)

以上で、紹介したかった4つの碑や像のお話を終わります。明らかに、この4つの碑や像の性格には、大変な違いがあります。第1の「興亜観音」と第4の大沢雄吉さんの墓にある碑との間の距離は無限といってもいいほどの開きがあります。その間には、竹内さんの碑文があり、「おろかもの之碑」も位置しています。これらは、いずれも政府が作ったものでも、自治体がつくったものでもありません。「興亜観音」を民衆が作ったものと言えるかどうか、という問題はありますが、それにしても、税金を使って政府や自治体が立てたものではありません。民衆レベルで死者を思い、戦争を振り返って建てられた碑や像は、この4つの例だけからもわかるように、大きなふり幅があります。死者への思いは多様に分裂しているのです。

死者を悼むということ

さて、第3の「おろかもの之碑」は、戦死者を悼むものではなく、公職追放にあった人びとが自分たちのことを伝えようとして建てたものですから少し違いますが、しかし、関係者がほとんどなくなられた今となっては、これも私たちにとっては、その死者への思いをそそられることになるという点では、他の3つと同じでしょう。死者を悼む、あるいは死者の思いを考えるというのは、もちろん、生者の営為です。このことについて、ぜひお話したいのですが、ここに優れた文章があります。

私の30年来の反戦運動の仲間である数学者の福富節男さんの文章です。フィリピン戦線で生死の境を抜けられてこられ、反戦市『戦後50年あらためて……』の本の表紙民運動で、いまも現役で活動されている先輩です。私には、この福富さんの文章を超えるようなことをしゃべる力はありませんので、福富さんの文を紹介させていただきます。

これは『〈戦後50年〉あらためて不戦でいこう!』という本(社会評論社 1995年)に載っているものです。私たち「市民の意見30の会・東京」は、天野恵一さんら「反天皇制運動連絡会」(反天連)など、さまざまなグループや個人と協力して、1995年に、「戦後50年・市民の不戦宣言」を起草し、8月15日の『朝日新聞』紙上に意見広告として掲載しました。その運動の一つとして、この戦後50年に際して発表されたさまざまな宣言、決議、アピールなどを採録して出版したのがこの本で、井上澄夫さんの大変な努力でできたものです。

福富さんは、そこに「戦争死者の慰霊ということ」という文を書かれています。

……死んだものたちを思い起すということは人間にとって、極めて大切なことである。それによって、はじめて人間と人間がつながっていく。この連続性が人間をして人間という存在にせしめる。死んだ肉親を思いだす。そこに家族というものの「生」が繋がつていく。私なら、たとえばベトナム戦争反対運動を長いこと共に続けて早く死んだ友が、いまこの場面で何をし、何を言うだろうと想う。死者はたえず、生き残ったもののなかで蘇り、人間の「生」が連続していく。……(同書 p.16〜17)

また、福富さんは、戦後50年に際して、雑誌『世界』に載った和田春樹さんら6人の共同執筆の論文「(提言)戦争・植民地支配反省の国会決議を」という文にふれて、こう書いています。

……私がどうしても反対したいのは次のくだりである。

「八、日本の行為の結果死んだ無数の死者とともに、あの戦争で死んだ日本人の死者たちのことを記憶し、その人々のすべての犠牲によって今日のわれわれの生があることを想起するとの確認」

 あのとき死ぬことがいまの日本をつくったというのは正当だろうか。そうなるといまの憲法をもたらし、いまの繁栄をもたらしたのは、そのために捧げられた生命によるということになるのか。私もひょっとしたらルソンで命を落としていたかもしれぬが、そうしたら今日の日本に捧げたいのちといわれるのか。それは私の気持ちとは遠い勝手な言いぐさだと思う。おおくの学徒兵が「愛するものたちを守る」のだという言葉を残している。この戦争に絶望しながらも、自らにいいきかせ、己のアイデンティティを見いだそうとした苦悩であろう。私にはそんな風なことはとても考えられなかった。
 あの時死んだ、あるいは虐殺された中国人、フィリピンやインドネシアその他の地域で殺された住民の死が、日本の今日のための犠牲という文脈になるではないか。いい気なものではないか。銃を向け合う敵兵ならいざしらず、これらの住民には許しを乞う以外の何があるというのであろうか。ましてや死者どうしが、国境をこえて戦争はしてはならぬとあの世で手を握りあうなどということがありうるだろうか。そのようなことを言う人は中国で、比島で理不尽に殺されたものの嘆きで心がゆすられないのだろうか。あらゆる犠牲という言葉でさまざまな死を一括りにしてはならないのだ。そこで奪われるまえの生の多様さが一括りにできないように。そういう括り方は己のイデオロギーに戦争死を取り込んでしまうという、とんでもないことをしているのである。
(同書 p.22〜23)

これは、強く心を打たれる福富さんの文章のほんの一節です。福富さんは、これらのことを、ご自分のルソン島での戦争体験や、同僚の死、その時にかかわったフィリピンの人びととへの思いなどにふれつつ、のべられているのです。ぜひ、全文にあたっていただきたいと思います。

武藤一羊さんも、福富さんとほとんど同じようなことを言われました。武藤さんも、私とはもう40年に及ぶ仲間としての付き合いのある人です。彼は、反天連の講座でこうのべています。加藤典洋『敗戦後論』の表紙

……死者を使って、現に一致できない私たち生者をむりやり日本国民としての統一主体に仕立て上げる。これはべらぼうな話しです。斎藤純一さんをはじめいろいろな人がすでに批判しているように、三百万と二千万という二グループに死者たちを分類して哀悼するなどということができるはずもないことは言うまでもありません。……

この「三百万と二千万という二グループに死者たちを分類して哀悼する」という表現は、ご承知の方も多いと思いますが、加藤典洋氏が、その『敗戦後論』(講談社 1997年)で展開して有名になった論理のことです。

……いずれにせよ「悼む」ということとは死者と何らかの関係を結ぶことですね。好きな言葉ではありませんが、それは「死者との対話」と言えるでしょう。もちろんこれは生者の行為、生者のための行為です。日本兵の死者も一人一人違った個人であったし、天皇主義者であれ、死ぬのは嫌だと思って死んだ人が多かったでしょうし、あるいは人を殺したことに対する後ろめたさを抱えて死んでいった人も多かっただろう。そういう死者たちに対して「対話」すると言うことは、そのような彼らをただ称えたり、非難したりすることではなく、戦後五十年以上たって今日、日本がどうなってきたのかを彼らに説明することでなければならならないはずです。そして、その間に自分の考えや立場の変化、今日の自分の立場や考えを説明し、彼らの反応を引き出そう、そして対話を構成しようとすることです。そのことを通じてはじめて、過去は現在の問題になるはずです。 ……(「反天連公開講座通信」第1号、1998年3月。なお、武藤氏は、栗原幸夫編集『戦後論存疑――レヴィジオン第1輯』 社会評論社 1998年のなかの論文、「『ねじれ』を解く――戦後国家をどう超えるか」でも、同様趣旨を詳しく展開している。)

死者は分裂している

だいぶ長く引用しましたが、私は、このお二人の言葉にまったく共感し、それに付け加えることはほとんどありません。死者をして語らしめるというのは、生きている人びとの思いです。分裂している死者を、あたかも一つであるように描き出し、日本国家としてのアイデンティティとやらの創設などに利用しようとする、あるいは2000万の死者をひとくくりにし、もうひとつ一くくりにした300万の死者を対置させたり、あるいはそれが彼岸においては、ともに手を組んで、生きている私たちに平和を語りかけているかのように描き出すのは死者への冒涜です。

もっとも、この点については、反戦運動の側にも似たようなことがかつてありました。ひとつの典型的な例は、『きけ わだつみのこえ』の初版の編集の仕方だったでしょう。編集方針をめぐって議論はあったものの、結局、学徒兵の手記の中から、軍国主義賛美ととられるような表現が削除されて出版されていたのでした。1995年の新版が、その欠点をあらため、できるかぎり原本に忠実な遺稿集となって出されたことは、実にいいことでした。(注 この1節だけ、あとから加筆)

死者は分裂しています。そして、碑の持つ意味の争奪戦は終わっていないのです。

私は詩の朗読などやったことがなく、それをやろうとするのは面映いことなのですが、思い切ってやってみます。この今の話題にぴったりの詩だと思えるからです。もちろん、ご存知の方も多いと思います。『きけ わだつみのこえ』の初版序文(新版 岩波文庫 1995年 p.13)で、なくなられたフランス文学者の渡辺一夫さんが引用されている抵抗詩人、ジャン・タルジューの有名な詩です。

死んだ人々は、還ってこない以上、
生き残った人々は、何が判ればいい?

死んだ人々には、慨く術もない以上、
生き残った人々は、誰のこと、何を、慨いたらいい?

死んだ人々は、もはや黙ってはいられぬい以上、
生き残った人々は沈黙を守るべきなのか?

ジャン・タルジュー 

終わります。

(以上)

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