64 いいだももさんを偲ぶ会と感じて。 (2011年07月03日 掲載)  

 
6月25日の午後、東京・神楽坂・日本出版クラブ会館で、いいだももさんを偲ぶ会が開かれました。250人以上の方々が参加され、大きないい集まりになりました。その ときのごく簡単な報告は、旧ベ平連のサイトの「ニュース」欄(以下にクリックに載っています。
 http://www.jca.apc.org/beheiren/605IidaMomosannwoShinobukaiSeidai.htm
 ここでは、そこの集まりでは言えなかったいいださんについての私の私的な思いを、かなり率直に書くことにします。

 
いいださんは、東大法学部を首席卒業して日本銀行に入行された方で、誰もが認める実にすぐれた怜悧の頭脳をつ人でした。鶴見俊輔さんは、一高や東大を一番で出たような者はどうしようもない、とよく言われます。でも、 例外的に鶴見さんは「東大から小田実のような人間が出たのは奇跡だ」と書かれていますし(鶴見『言い残しておくこと』2009年、作品社、134ページ)、同じ文の中には「残る一人が高畠通敏」と続けています。しかし、もう一人、この二人以外に、いいだももさんも含まれているようです。鶴見さんは、 一応、いいださんについては「“一番病”的ところがあった」とか「やはり優等生の刻印をせおっているんだね」とか言いますが(前著に中の「『無教育の日本人』の知性の力」267ページ)、東大一番でも いいださんにも親しく愛情を持っていられるように思います。
 以下の私の文章は、いいださんへかなり失礼にいたる表現も含めた、批判的な文になりそうですが、それはお許しください。

 この集まりで発言される武藤一羊さんの話はとても興味深い内容でした。失礼にならないようにしながら、しかし、実にうまい表現でいいださんへの批判的批評を述べたのだな、 と私には思えました。
武藤さんは、最初、いいださんの実に多い著書の中で、最もすぐれた三冊をと言われたら、自分は『モダン日本の原思想』(1966年、芳賀書店 、右の写真)の一冊がその中に入るだろうと、いいださんの写真の前に並べてあった著書群の中の一冊を掲げていました。そのあと、いいださんは、いわゆる「旦那」のような人だったというのでした。「旦那」とは、なんでも「ものを仕切る」 ような人なのだが、ただ、この「仕切る」すぐれた能力ではあるものの、「仕切る過ぎてしまう」と困ることにもなるものだ、と武藤さんは言うのです。いいださんは世界全体を論じた書物は多数あるのですが、この世界との中には、いいださんの自分がすべて入ってしまっているので、この世界論とは、つまりいいだ自身の自伝そのものいいようなものだった、と武藤さんは言います。たとえば、運動に関連して言うのなら、「武藤にはアジア太平洋資料センター(PARC)をやらせているし、樋口(篤三)には労働情報をやらせているんだ」というような言い方にもなるのです、と武藤さんはみなに笑わせたのでした。
 まったく武藤さんはうまく言うもんだなと私は感心しました。私はとてもうまく出来ないので、もっと直接で具体的なことになってしまうのです。
 
 一つは、共労党とベ平連との関連です。1991年に私が出した『市民運動の宿題』という拙著があります(思想の科学社刊)。その中に「新左翼政党と大衆運動」の節があり、1969年10月21日のベ平連デモのことが書いてあります。この日のベ平連を「旧ベ平連」のサイトの中の年表を見ると、こうあります。

21日 反安保全国統一行動デー。べ平連は「10・21国際反戦デー・べ平連デモ」清水谷→飯田橋。1万5千名。飯田橋で解散直後、機動隊が襲撃、衝突。数十名が逮捕される。●これより前、大学べ平連は「佐藤訪米阻止、労働者・市民・学生連帯集会」雑司ヶ谷公園→清水谷。●新宿その他各地で、学生、反戦青年委と機動隊と衡突。●青森べ平連、正式に発足。●松山べ平連発足。●社共総評、全国600ヵ所で86万人参加。新左翼系のデモ、各地で警察と衝突、1,500人逮捕。

  以下、少し長いですが拙著の中のその部分を引用します。

……前年のこの日の新宿のデモには騒乱罪が適用されており、この年もかなり激しい衝突が新宿では予想されていた。権力側はマスコミを動員し、商店会や町内会の組織から回覧板までを利用して全都に恐怖状態をつくりあげていた。この日に行動するものはすべて暴力主義的集団であるかのように思わせ、「一般市民は早く帰宅せよ」「竹竿などを持つ学生風の者を見かけたらすぐ一一〇番せよ」と宣伝していた。べ平連はそうした一方的な世論操作と弾圧体制を 拒否して、市民による反戦の意志表示を堂々とやろうと計画した。
 べ平連のデモは予想の四倍、一万五千もの参加を得て、夕刻から夜にかけて行なわれた。超満員となり、道路にまで多くの参加者があふれた出発地、清水谷公園で、私は、生まれて初めてデモに参加する人は?と尋ねたが、千名以上もの人びとが手を挙げた。
 デモの先頭部分が解散地、飯田橋駅に着いた頃、宣伝カーのラジオは新宿駅構内などでの反戦青年委員会や学生部隊と機動隊との衝突を伝えており、現に飯田橋を通る国電の中央線、総武線は不通となっていた。デモ後部に位置していた学生べ平連の隊列が、九段下あたりで、機動隊ともめているという連絡も伝わってきた。
 デモ責任者だった私は、宣伝カーのマイクを通じて、デモは解散地であるここで流れ解散をすること、国電は不通だが、地下鉄東西線が動いており、高田馬場方面へは行けること、高田馬場からは西武新宿線で新宿へも出られることなどをアナウンスしていた。
 そこへ若い女性が三人、私を取り囲んだ。ここで解散させるべきではない、隊列を整えて新宿へ向かうべきだ、新宿では仲間たちが権力と対決して闘っているというのに、べ平連はただ人を集めて歩かせて、解散させる、それは犯罪的だ、彼女たちの主張はそういうことであった。短いやりとりのうちに、私は裏切り者と言われ、べ平連は欺瞞的な運動体だということにされてしまった。
 この体験を私は当時の『べ平連ニュース』に書いた。少し引用する。
 ……続々とデモが到着してくる解散地点の雑踏の中で、とても落ち着いて議論できるような空気ではなかったが、「べ平連を見損なった、もうあんたがたなんか信用もしないし、相手にもしない」と云い捨てて去っていった彼女たちの美しい顔が、あらん限りの憎しみと侮蔑の表情でゆがんでいたのを、私は忘れられない。私は彼女たちが真剣であり、純粋であり、そして激怒していたことを決して疑わない。……(『ベ平連ニュース』合本282ページ)
 大多数の参加者は解散した。地下鉄を利用して新宿へ出たものもかなりいた。一部の学生グループは、隊列を組んで、新宿まで行進すると言い、神楽坂方面へ進んでいった。そのうち、飯田橋駅の付近で火炎瓶が飛び始めた。国電のガードの路上にあった都電修理用の木製の車が燃え上がった(まだ当時、飯田橋を都電が通っていた)。
 こうした出来事は解散の後のことだったが、べ平連のデモ参加者の中に火炎瓶を用意していたものがいたなどとは予想外のことだった。その日のべ平連のデモは、幅広い人びとの参加を前提とし、機動隊との物理的衝突などは避けるべきものとして計画されていた。しかし、開かれたデモである以上、新左翼党派からの参加者とて拒むべきではなかった。この日のべ平連デモの解散地では、まさにデモのリーダーシップのあり方が問われていたのだ。
 ずっとあとで聞いたことだが、ある新左翼政党が、当日、魚河岸や銀座などで、火炎瓶を用いて決起するという方針をとっていたが、もしこの部隊が機動隊との衝突でばらばらになったときは、飯田橋へ向かうべ平連のデモに合流して、再編成し、飯田橋付近で実力 闘争を展開するか、もしくは新宿へ向かわせるとの方針を出していたとのことだった。飯田橋での火炎瓶は、そうして途中から合流してきたグループによって投げられたものであることはほぼ 間違いなかった。私は怒り、ついで撫然たる思いであった。
(『市民運動の宿題』110〜113ページ)

 以上の引用の最後に、「ずっとあとで聞いたことだが」として、「ある新左翼政党」というのが出てきます。そこでは、具体的な党派の名を指摘してないのですが、それは実はいいだももさんが議長をしていた「共労党」(共産主義労働者党のことでした。私自身も、その当時、共労党の中央委員になっていました。しかし、この方針は私にはまったく通知されていませんでした。私に伝えれば、私からは絶対に反対することが明白だと考えたのでしょう、私には意図的に通知されなかったのです。事実、上記に最後に書いたように、いいだももさんを 最高の指導者とした共労党の幹部の姿勢に、私は「怒り、ついで憮然たる思い」になっていたのですから……。
 ベ平連発足から1〜2年のあいだ、私は、いいださんを、共産主義運動の面だけではなく、新しい市民運動としてのベ平連についても、素晴らしい理論を展開している指導的な活動家と尊敬していました。たとえば、「市民民主主義運動の論理と心理」や「八・一五"ティーチ・イン”」あるいは「"非直接性の時代"と連帯」や「一つの反論」などの文章です(前者2編は『核を創る思想』1966年講談社、後者の2編は『われら、未知なる時代へ』1967年三一書房に) しかし、1969年の「70年安保粉砕闘争」の当時になると、いいださんは、「全人民武装決起」のためには「市民民主主義運動」も利用するようになったのだと思うのです。共労党も1971年には、暴力の問題や武装闘争の問題などの対立で瓦解してしまいます。鶴見俊輔さんは、左翼の運動に対して、よく「東大新人会」の本質をあげて批判をされます。 鶴見さんは「日本にあった反権力の運動というのは、ほとんどが東大新人会の型になってしまうんですよ。……マルクス主義というのは、you are wrong でしょ。あくまでも自分たちが正しいと思っているから、まちがいがエネルギーになるということがない」と言っています(前記書の「『間違い主義』のベ平連」121〜3ページ) 私は、上記の1967年10・21のベ平連デモに、共労党は自己の党派の政治・武装闘争こそが絶対に正しい方針だとし、ベ平連の独自性を尊重せず、それを自己の戦術のために利用をしたものであって、これも「東大新人会」性の現れの一つだったろうと思うのです。武藤さんの先の言い方を借りれば、「吉川にはベ平連をやらせておく」ということだったでしょう。そして、自らの世界観の中で、敵の王将に切り込むときには金や銀、あるいは桂馬、飛車、角行であろうが、棄てることも必要とされたのではなかったでしょうか。
 いいださんのすぐれた理論や思想を尊敬するとともに、しかし、なくなられた今、以上のことは記したほうがいいと思って書きました。