88 5月に入りました。いろいろなことです が、ほとんど愚痴です。 (その1) (2013年05月02日  掲載)  

5月に入りましたが、相変わらず、サイトへのアプロードは駄目でしたね: 5月に入ったのですが、相変わらず、このサイトへの手入れが駄目ですね。病院やクリニックへの出かけが毎日のように続き、サイトにアプロードを載せる時間がなかなか取れないのです。本欄の86号には、「満82歳になりました。桜はもう終わりそうです。意見広告運動へのご協力を!」というファイルを3年3月24日に掲載したのですが、後で手を入れようとして失敗して全ファイルを消去してしまいました。もう一度書きなおして載せるべきなのですが、その元気がなかなか出ず、まだ消えたままになっています。すみません。 まさか、どなたで、このファイルをコピーした人はいないでしょうね。
 病院やクリニックへ通っていると言いましたが、ここのところ、耳の難聴がひどくなってきており、会議に出たり、講演を聞いたりすることはかなり困難になってきています。2007年の7月には、左だけの補聴器を入手して、会議などで使用していたのですが、これも調整しないと役に立たなくなっています。それで、病院の耳鼻科に通い、左耳の鼓膜を切って溜まっていた水をとるような手術をしてもらい、その上で左の補聴器の感度を強くしてもらい、さらに右耳にも補聴器を新しく作ってもらうことにしました。来週には、それが出来るはずです。また、失語症の度合いがかなりひどくなっていると思うので、脳梗塞の時に入院した病院の神経内科に通い、認知症の検査をしてもらうため、「1.5テスラMRI」検査なる診断をしてもらいました。その結果も2週間ほど先に伝えてもらうことになっています。その他に、以前にも書いたと思いますが、呼吸器(
COPD、肺気腫)、消化器・外科(胃がん)、泌尿器(膀胱がん)、整形外科(変形性頸椎症)、眼科(緑内障)、歯科などへの診察や治療があって、4月中の数を調べましたら、14回でした。つまり、2日毎に検査や治療に通っているのですね。 すでに、 2012年11月07日に掲載した本欄の「80 デモにも何とか行きますが、もっぱら病院やクリニックに通い続けです 」で書いたことですが、  「生きているために医師に通うのではなく、病院に通っているために生きている 」と言っていいような気分です。
 というわけで、お伝えすることもあまり書けずにきてしまっています。ごく短くですが、いくつかを以下に書いてみます。
3日の『朝日新聞』朝刊をぜひご覧ください: 5月3日「憲法記念日」の反戦意見広告は、今年は『朝日新聞』の朝刊に掲載されます。「ニュース」欄のNo.244に報告してありますが、今年の意見広告はこれまでの倍の大きさでフル・カラーの印刷です。毎年と同じく、鈴木一誌さんのレイアウト の素晴らしく綺麗なページです。ぜひご覧になって下さい。
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上は意見広告のこれまでの紙面 (左から2012年5月3日〜2004年5月3日)

村井吉敬さんの葬儀・お別れの会: ニュースでお知らせしたアジア学者、村井吉敬さんの葬儀(左の写真)は、4月8日、東京・四谷の聖イグナチオ教会で、カトリック式で行なわれ(葬儀委員長:石澤良昭上智大学アジア人材養成研究センター所長)、私も参加してきました。会場の主聖堂は800人の広さとのことですが、そこが一杯になっ ていました。告別説教をされたのは、イエズス会のビセンテ・ボネット神父でした。ただ、先に書きましたように、耳が困難になっていたため、 残念ながら 多くの方のお話がほとんど理解出来ませんでした。他の参加された方のサイトによれば、神父は、「指紋押捺を拒否して、日本での在留許可が取り消されそうになった時に、法務省入管局の交渉に一緒に行ってくれたのが村井さんだった、……決して学問の象牙の砦にこもっている人ではなく、市民と共に行動してくれる人だった」と言われ、最後に「村井さん、ありがとう」という言葉だったのことでした。
 お連れ合いの内海愛子さんらの強いご希望とのことで、「お花料」は謝辞されました。それどころか、会が終わり帰るとき、全員に、村井さんの新著の『パプア――森と海と人びと』 と『ぼくが歩いた東南アジア――島と海と森と(右の写真)のどちらかが葬儀委員会から貴贈されたのでした。以下に、当日の内海愛子さんからの「会葬御礼」の全文をご紹介します。

                                       会葬御礼
 本日は、故村井吉敬の「葬儀ミサ・お別れの会」に御参席いただきありがとうございました。再入院した1月、桜の咲く頃、「またみんなと会いたい」と話していました。このような形ですが、皆様と「お別れ」できたことを本人は喜んでいると思います。
 2013年の年賀状で膵臓癌の手術を受けたことをお知らせするとともに、「まだ生きています。これからもアジアの海辺を歩き続けようと思っています」と書いていました。1月に入って高熱が続き再入院しました。敗血症を起こしかけかなり危なかったとのことでしたが、何とか乗り越えました。その直後に、腹水にガン細胞が見つかりました。再発です。再手術はできない、治療方法はない。「あと3ヵ月ぐらい」と命の終わりを宣告されました。一人、病室に取り残されて、終末にむけてどう心の準備をするのか、精神的に一番苦しかった時だと思います。その想いが断片的にノートに書き遺されていました。
 余命宣言を受けた後も、まだまだ元気でした。梅の花が咲く2月14日、自宅に戻りました。もう一度、元気になりたいと、友人たちの必死の努力で日本に届けられたパプアの伝統秘薬を飲み、韓国の漢方をためし、気功もやりました。杏の花が咲き、こぶしの花が咲き、白木蓮の花が咲く項までは何とかもちこたえましたが、白木蓮が散りはじめた3月23日、私たちが見守る中で息を引き取りました。
 棺には咲き始めたばかりの桜の花を入れました。痩せましたが桜に彩られた顔は眠っているようで、微笑んでいるようにさえ見えました。
 なお、自宅での闘病中にカトリックの洗礼を受けました。人生に悩んでいた17歳の時に福音ルーテル教会で洗礼を受けていましたが、上智大学で多くの信頼できる神父や友人と出会ったことから、受洗を心に決めていたようです。2月22日にボネット神父、ヴェリヤト神父、サリ神父の3人の神父様によってカトリック教会に受け入れられました。ボネット神父は在日韓国朝鮮人の指紋押捺拒否の運動に連帯して自らも指紋押捺を拒否し、在留資格の延長を拒否されました。村井も法務省に抗議に行ったり、国会議員会館に要請に赴いたり、共に活動していました。人生の終わりにあたって、信頼してきた「仲間」であり共に学んできた神父様たちから受洗できて、心の安らぎを得ることが出来たようです。洗礼名はフランシスコ・ザビエル。ザビエルがインドネシアのアンボン島やビアク島にまで足を伸ばしていたことも、その名前を選んだ理由のひとつのようです。
 さびしがり屋でいつも人恋しい村井でしたが、多くの友人、仲間に支えられた人生は豊かで幸せだったと思います。いまごろはアジアの海辺を歩いていることでしょう。これからも皆様の記憶のどこかに彼のことをとどめていただければ、これ以上うれしいことはありません。
 本日は本当にありがとうございました。
                                                                                   2013年4月8日 内海村井 愛子

自治会の「花見バス」に参加しました:4月1日(月)に、私の住む団地の自治会が主催する「花見バス」に参加しました(右の写真、高幡不動で)。いい日で、気分のいい花見でした。この日の印象の短文を、自治会の機関紙の月刊『ぷろむなーど』に載せましたので、以下にご紹介します。

 41日、自治会の「花見バス」に参加しました。前の日までは天気が悪く、それに、今年の開花はかなり早かったので、この日はもう葉桜になっているのかな、と実は気落ちしていたのですが、普段の行ないのいいせい(?)か、当日だけは実にいい天気、そして花はまだ満開で、花見にはピッタリの日になりました。
 立川の昭和公園では、私は一人で貸自転車を借りだし、桜広場だの日本庭園、盆栽園など、あちこちを巡りました。菜の花の黄色い花と満開の桜に囲まれた芝生に腰を下ろし、配られていたかなりレベルのお弁当で昼食にしました。
 帰路に寄った高幡不動の大きな桜もきれいでした。
 自治会のメンバーは一人1500円の参加費でしたが、バスで配られた袋には、お弁当や色々なお菓子類、飲み物などが詰まっていて、普通の商業花見バスではとてもこの値段ではできなかったでしょう。

 自治会にまだ入っていらっしゃらない方に。早く入ったほうがいいと思いますよ。得になること(!)がかなりありますからね……。
               
76棟 吉川勇一


未だ追加はあるのですが……:本この後も、まだ書きたいことは残っているのですが、もう午前5時になってしまいましたので、ここで今回はストップし、明日以後に追加を続けます。それで、タイトルに(その1)とつけました。