i 31 小田実さんの逝去についていろいろ。 (2007年08月07日  掲載) 

東京の病院に入院すること

 七月三〇日、小田実さんは入院中の東京の病院で死去しました。この日、東京では激しく雷が鳴りました。関西の新聞に「西雷東騒」というコラムを連載していた小田さんでしたが、東の雷神も彼の死を悼んでいるかに思えて、私は続く稲光を長い間見つめ続けていました。

 実は私はこうなることを恐れていました。東京の病院で死去するということをです。
 かなり重い胃ガンにかかっているという知らせを受けて、私はすぐ西宮の小田さんの自宅にお見舞いに行きました。いろいろな話が弾み、私は彼が疲れるのを心配したのですが、小田さんは話をやめようとしませんでした。でも、2時間ほどの間、小田さんはお茶を一口、口にしただけでした。長女のならさんが出してくださった水羊羹も手をつけず、アイスクリームも溶けてしまいました。食欲がなくなっていて、ほとんど、何も喉を通らないようでした。

 ひとしきり話が続いた後、私は、「二人は会えばよく議論になったし、喧嘩もした。おそらく最後の対立になるかもしれないけれども、まずは聞いてほしい」そう前置きをして、私の希望を言いました。関西の病院に入院して手当てを施してほしいと。鶴見俊輔さんや吉岡忍さんには、あらかじめ連絡して、顔の効く推薦できる病院を挙げてもらい、そのリストも持ってゆきました。彼は黙って聞いてはいましたが、「もう決めてしまったのだ。東京の聖路加病院に入ることにしたんだ」と言い、それは変わらないと答えました。そこで5週間1クールの抗がん剤治療を受け、そのあと、ここ西宮の自宅に戻って、今も治療を受けている近所の主治医に診てもらいながら、生あるかぎり、原稿を書き続けるつもりだ、彼はそう言いました。もちろん、最終的には、本人と家族とが決める問題です。議論はしませんでした。でも、東京の病院に入るにしても、条件として、西宮に帰れるだけの体力は保障してもらい、それが危なくなりそうになる以前に退院して関西にもどるようにするという約束を病院としてもらいたい、そう注文をつけました。私の周辺で小田さんをよく知る人びとも、みな、私の意見に同意でした。でも、こんな微妙な問題を彼に直言できるのは、私しかいそうには思えなかったので、言いにくいことも直言したのでした。入院した翌日、吉岡忍さんと一緒に病室にお見舞いに行った時も、私は同じ希望をまた小田さんに伝えたのでした。

 入院して5週間が過ぎようとしていたとき、私は小田さんと電話で話しをし、予定を聞いたのですが、もうしばらく化学療法を続けることにした、という返事でした。彼からは、どうしても書き遺したい小説のあらすじも聞いていましたし、やっておきたいギリシャ語の翻訳のことなども承知していました。小田さんとしては、治療によって、一月でも、いや一週間でも生が延び、書く時間が得られることを強く望んでいたことは、よく理解できました。

 しかし、病状は予想をはるかに超えて早く進行し、入院後三ヵ月も過ぎぬうちに亡くなられることになりました。危惧していたとおりになってしまったのです。雷鳴を聞きながら、私はしばらく呆然としておりました。

小田実さんの葬儀への供花と追悼のデモのことなど

 葬儀には、たくさんの団体や個人から生花が贈られました。そのリストが葬儀場の入り口左側に掲げられていました。(左の写真 撮影=島川雅史さん)「旧ベ平連有志」「旧ジャテック有志」「大泉市民のつどい有志 一同」「名古屋ベ平連」「福岡ベ平連」「市民の意見30の会・東京」「市民意見広告運動」「市民の意見30・関西」「九条の会」といった名前のほか、「名古屋学院大学吉川ゼミ一同」という名札もあって驚きました。もう30年以上も前、私が担当教員をしていた瀬戸市の大学でのゼミ卒業生のグループです。

 葬儀への生花のことでは、小田さんについて鮮烈な記憶があります。小田さんのお父さんが亡くなられ、大阪で葬儀があったときのことです。私も参加し、葬儀場であるお寺の会場へ小田さんと一緒に入ってゆきました。すでにかなりの会葬者が席に座っていました。正面にはたくさんの生花が供えられていましたが、そのそれぞれには「衆議院議員○○○○」「大阪府知事△△△△」といった、供花者のお名前が墨で書かれた木の名札が掲げられています。小田さんはそれを見ると、つかつかと花のところに近づき、片端から、その木札を引き抜き始めたのです。次から次へと名札を全部抜いてしまうと、それを抱えて、祭壇の後の見えないところへ積み上げ、「ああ、これできれいになった」と言ったのでした。喪主は小田さんのお兄さんでしたが、遺族のどなたからも異論は出ませんでした。しかし、これを見ていた会葬者の人たちは、仰天したに相違ありません。私は、さすがに小田さんらしい、と強い印象を受けたのでした。
 そんな記憶があったために、念のため、葬儀の前に関係者に名札のことを聞いてみましたが、もちろん、木札は付けず、別にリストにして掲げることになっているという返事でした。

 私は、葬儀での弔辞を頼まれていました。私の勘違いだったらしいのですが、10〜15分くらいだと理解して、用意していったのですが、直前に3分以内にしてほしいと言われ、愕然。慌てて、削りに削り、どうやら3〜4分のものに縮めました。このサイトの「最近文献」欄にその弔辞は載せましたが、これは削る前のもとの分で、実際に読んだものもはこれよりずっと短いものです。

 葬儀の実務面では、市民団体グループで香典の管理、整理を担当してほしいと頼まれました。これは誰でもいいというわけにはいかないことだから……、というわけでした。それで、旧ベ平連や旧日市連、そして現・市民の意見20の会・東京の活動家だった、あるいは活動家である人たち10人ほどにお願いしました。みな二つ返事で引き受けてくださいましたが、彼ら、彼女らは、葬儀の間、記帳やお金の勘定に懸命で、献花の時だけ交替で参加したものの、スライド上映を見るどころか、弔辞を聞くこともなく、葬儀の間中、別室で必死でした。これらの人びとも、もちろん、葬儀場に静かに座って小田さんへの思いに浸りたかったでしょうが、まったくの裏方に徹してくれたのでした。感謝に耐えません。

 葬儀のあと、小田さんを追悼するデモが行なわれました。(右 上の写真 撮影=島川雅史さん)主催は、そのために急遽つくられたグループでした。葬儀委員会自体の主催ではありませんでしたが、葬儀のなかでは、葬儀委員長の鶴見さんの挨拶のあとで、私が会葬者の人びとに説明し、参加を呼びかけました。 (左の写真 撮影=大木茂さん)
 デモの準備は、旧ベ平連や旧日市連の当時の若者グループのメンバーが何度も集まりを持ち、先頭に掲げる横断幕や小田さんの大きな遺影の写真を作ったり、スピーカーの用意をしたり、デモの間に沿道の市民に配るチラシを印刷したりしました。先頭の先導車の手配や、運転などは、市民の意見30の会・東京のメンバーが担当しました。短い期間の間に、それらはすべて整いました。デモの際、沿道の人びとに配られたチラシの文を以下にご紹介します。


小田実さんの死を悼む
反戦の遺志をついで


小田実さんの葬儀に参集されたみなさん
往来を行くみなさん 近隣住民のみなさん
「小田実さんの死を悼み、小田実さんの反戦の遺志をつぐ」、そのことをひとりの市民として意志表示するために、小田実さんの葬儀をおえたあと、わたしたちはつらなり、ちいさな反戦市民デモをやりましょうと呼びかけます。
 戦争をやらないために、やめさせるために、まずはデモを計画し、みんなに知らせて話し合い、集会をして意志をひとつにし、横断幕を先頭にシュプレヒコールをあげてデモ行進をすることは、小田実さんとともにあった反戦市民運動の第一歩だからです。
 小田実さんは、「昭和の15年戦争」とその敗戦の体験者として、また地球のあちこちを旅した文学者として、つまりひとりの市民として、世界中の市民の生活と人生をぶちこわす戦争に反対し、直接行動による反戦市民運動を呼びかけました。政治家であろうがビジネスマンであろうが、戦争が政治手段であり、金儲けだと考える人たちがいるかぎり、市民がたたかいつづける以外に、のびのびと平和に生きる方法はないのだという呼びかけです。その最初の目的はアメリカ政府がリーダーとなり日本政府が加担した、ベトナムの自主独立をうばうベトナム戦争をやめさせることでした。ベトナムはベトナムの人びとのものであるという主張でした。
 わたしたちは小田実さんの、そのような考え方と呼びかけに、ひとりの市民として共鳴し、ともに反戦市民運動をしてきました。いうまでもなく小田実さんは、おおらかで愉快なリーダーであり、世界を旅して多くの人びとと出会い話し、虫の眼で地球を眺め考え、つねに反戦市民デモの先頭を歩いていました。言い出しっぺが身銭をきって反戦市民運動をおこし、市井の市民の生活と人生こそが、世界を考える原点だと語りつづけました。
 その小田実さんが人生をまっとうしたいま、小田実さんのご冥福を心よりお祈りするとともに、その反戦の遺志をついでいくことを、わたしたちひとりひとりの意志として表明するために、小田実さんの葬儀のあとに、ちいさな反戦市民デモをやろうと考えました。この青山葬儀所から近くの公園まで、ほんの10分間の反戦市民デモです。
 たったいま世界で、人と人が殺し合う戦争がおこなわれていることに反対し、そのいくつかの戦争に日本政府が加担していることに抗議し、日本国憲法9条の精神をまもりつづけるために!
 わたしたちは、そのような追悼の気持ちと、小田実さんの反戦の遺志をつぐために、これから反戦市民デモを歩きます。
         2007年8月4日 小田実さんの葬儀の日に  
                              小田さんを追悼する会

 会葬者800人ほどのうち、500人近くが参加しました。青山葬儀所から、青山1丁目の青葉公園までの、15分ほどの短い距離でしたが、34℃を超える炎天下でしたので、みな、汗びっしょりの行進になりました。それでも葬儀委員長の鶴見俊輔さん(85歳)も、最後までデモの先頭に立って歩かれました(右の写真、撮影=島川雅史さん)。デモの責任者、いわゆる「デモ責」は、久しぶりに福富節男さん(87歳)が引き受けられ、途中、シュプレヒコール「あらゆる戦争を許さない!」などの音頭もとられました。警視庁へのデモ届けも福富さん自身で行なわれました。福富さん、鶴見さん、そして栗原幸夫さん(80歳)のような高齢の方もかなり参加されましたが、10〜20代でベ平連運動や「日市連」(「日本はこれでいいのか市民連合」)に参加し、小田さんに接した今では社会の中堅で活躍している人びとも多くいました。長崎、福岡、京都、名古屋、長野など、各地でベ平連の活動をしていた人びとの顔も見受けました。憲法学者の奥平康弘さんは、和田春樹さんと並んで歩かれたそうです。
 デモでは、We Shall Overcome がスピーカーから流され、
みな、一緒に何度も歌いました。
 デモの解散地の公園では、小規模の集会も開かれ、各地からの参加者がつぎつぎと発言しました
西ドイツから来日した「独日平和フォーラム」のオイゲンさんも発言しました。デモも集会も、気持のいいものでした。やってよかった、と思いました。
 私はその後、葬儀場まで戻りました。そこの駐車場に置いてあった車で桐ヶ谷の火葬場まで行くためです。短い距離とはいえ、デモ・コースを往復したわけです。拾骨に遅れることを心配して、急いで戻ったので(といっても、普通の人の歩くぐらいのスピードなのでしょうが)、息が切れました。火葬は4時半に終る予定だと聞いていましたが、すでに4時15分、間に合わないなと思いながらも、品川の斎場に飛ばしました。小田さんの骨を拾うのには間に合いませんでしたが、遺骨の箱を胸に抱えて車寄せで車を待っている玄順惠さんはじめ、みなさんにかろうじてお会いすることが出来、小田さんの遺骨の箱に手を触れてお別れをすることが出来ました。
 一方、デモの解散集会に参加した人びとは、それぞれ、ひさしぶりに一堂に会した仲間たちごとに、臨時の2次会へ
と向い、ずいぶん話が弾んだようです 。あとから聞くと、ビアホールへ50〜70人ほどがなだれ込んで、3〜4つのグループに分かれ、ほとんど貸切みたいになっていろいろな会話があったようです。
 私のつたない一首。
  頭(こうべ)をあげて、蔭なき車道を歩みたり 反戦貫きし友を偲びて

多くの人びとの胸の中の小田さん

 妹夫妻の家に同居している95歳の母に、電話をしました。植木等、小田実、そして阿久悠、好きだった人がつぎつぎと亡くなって、寂しい、寂しいとくり返していました。小田さんへの香典も託されました。母に限らず、私のところには、知っている人、まったく知らない人から、小田さんの死を悼む実に多くのたよりが寄せられています。 いずれも、小田さんへの思いを語る胸を打つような文ばかりです。ほとんどが私への私信の形ですので、お名前はイニシャルにさせていただきますが、そのいくつかをご紹介したいと思います。

@ 選挙の記事で隅に追いやられるように、小田さんの訃が報じられていました。九条改憲の動きが急を告げる中で大切な人を亡くしました。
 3年前に出された「随論日本人の精神」を読み終えたところです。本は最後に”ホナ、サイナラ”と云う言葉で終わっています。この日あるを予感された遺書のように思われてなりません。九条実現を身をもって行動されたことにあらためて敬意を表し、謹んで哀悼の意を表します。
 むさしのから風の便りにのせて  (東京:I・N)

A いいご葬儀でした。改めて小田さんの偉大さと日本の運動に果たした影響の大きさを感じました。吉川さんの弔辞に涙がでそうになりました。若い時の小田さんと吉川さんが船にのって抵抗運動を展開した映像を見て、小田さんは、体をはって運動をやった方なんだということがよくわかりました。(右の写真。献花のときに写されたスライド。佐世保に入港した原子力空母エンタープライズの周りを回る小船、中央の立っているのが小田さん。撮影=島川雅史さん、下の写真は、その原写真。小田さんの右が私。手前は当時広島にいたアメリカの活動家R・レイノルズさん)今、インターネットでも、若手活動家のなかで、小田さんの訃報と業績をたたえるメールやメルマガが出回っています。小田さん、べ平連の運動が今の若手にやはり、すごい影響を与えているということがわかります。デモのあと、小中さん、吉岡さんら当時のべ平連関係者と交流しました。べ平連の運動がいかにすごかったかを改めて感じるとともに、どう運動を継承していくかについても考えさせられました。
 (東京:K・N)

B 弔辞を読ませていただきました。心を揺さぶる弔辞です。60年代末から70年代初め、浜松でべ平連を担った者として、そして吉川さんと浜松市街をデモした者として、今回の小田さんの逝去には、いろいろ考えさせられます。葬儀にはいけませんでしたが、出棺の際拍手がおこったそうですね。私も拍手をし、そしてありがとうございました、といいたいと思います。
 大阪反万国博に参加し、そこではじめて小田さんの顔を見、早口の弁舌を生で聞きました。高校生の時でした。それ以後、東京の集会等で小田さんの声を聞く機会もありました。
 私もあのころの志を持ち続けながら生きております。これからもそのつもりです。
  (浜松:Y・K)

C 先日小田さん宛のメールを送り届けていただいた母娘の娘のT・Uと申します。先日は本当にどうもありがとうございました。
 シンガポールから先月里帰りをしていまして、昨日の小田さんの葬儀にも母娘と参列することができました。母娘ともに今朝はちゃんと眠れずに朝方起きてしまいました。母はたぶん人生の半分以上を振り返り、眠れなかったのではないでしょうか。私は昨日の場所で体験した、先輩方の歩かれてきた歴史や思いに直面し、よく言われています「最近の若者は何にも考えない」に自分が属しているように思え、現実に向き合っていない自分がとても恥ずかしくなりました。また、デモにも小学生のときに手を引かれて歩いた以来に参加しました。歩いて本当によかったです。もっともっと勉強します。もっともっと敏感になります。またシンガポールへ戻りますが、向こうでできること、いろいろ考えながら歩いていきたいと思います。吉川さんのホームページもいつも拝見しています。
 (シンガポール:T・U)

D  今日は本当にいい集いになったと思います。鶴見俊輔さん、吉川勇一さん。本日は本当にお疲れ様でした。
 私が初めて小田実さんに出会ったのは八王子で開催されたアジア人会議でしたが、今日は奇しくも八王子に住んでいる子どもの所から会場に向かいました。
 私も私の連れ合いも、京都ベ平連のメンバーでしたし、京都ベ平連の飯沼二郎さんの追悼集会の折りに鶴見さん、吉川さんとご一緒しています。
 今日は、学生の頃にご一緒した吉岡忍さんなど、30年以上ご無沙汰していた懐かしい方々にお目にかかれて本当に元気をいただいた思いです。これも小田さんのおかげと感謝しています。
 本当に嫌な世の中になってきていますが、もう一度、小田さんの遺志を未来につなげられるのか、自分なりに努力してみるつもりです。
  (京都:T・T)

E  前略 はじめてメールさせていただきます。
 参議院選挙後に亡くなるなんて、なんとも皮肉な気分です。一度だけ相模補給廠の米軍戦車移動をとめさせた裁判での被告人証人としてのお姿を拝見。ああ、でっかい人なんだと。独特な話し方にも親しみをおぼえておりました。こんなにもあっけなくとは。いいだしっぺの理論、オダからでたマコトですか、かたちではない財産をいただいた思いを強くしています。
吉川さんも体をお大切にしてください。勝手に書きこまさせていただきました。では
   (O)

F 意義深い告別式のあと、小田実さん追悼のデモを計画・実行して頂き有難うございました。私もこれからもおダさんの呼びかけを感じて行動したいと思います。
 翌朝の新聞各紙がデモ行進の参加者を、500人、400人、300人と報じたのが気になりました。(中略) 『朝日』は7月31日の社説で「日本では大勢の人々が加わる反戦デモは影をひそめた。」と、報道しないメディア自身の責任を感じていない書きぶりです。BSでアメリカのドキュメント番組のなかで、イラク反戦放送をしないメディアのことを報じていましたが……。
    (東京:T・T)

G 小田実さんの死、残念でなりませんが、志を忘れないで頑張りましょう。
     (鈴鹿市:M・S)

H 小田実氏の御逝去、胸がつぶれる思いです。九条改悪阻止 何としても実現させなければの誓いを固くします。故人の眠りを安らかにする努力に全力を尽くしたいと思います。
     (横浜市:Y・M)

I オダテン逝去の報に接して
 7月30日の朝刊は参議院選挙の自民党大敗ニュースが一面トップで踊っていた。三面に今日の午前3時前に胃がん療養中だったオダテンが亡くなった記事が掲載された。
 オダマコトは、僕の考え方の父だ。これは僕が勝手に思っていることだが、その理由を少し話そう。
 浪人2年目大学受験生が、何気なく参加した「べトナム戦争反対」のデモは、楽しかった。何回か参加する内に同世代の少年少女が行動する新鮮さに惹かれ、高校時代からの友人とギターを持ってデモに加わるようになった。それは関西の連中がやってきた事に触発された行動だった。
 1969年の冬,南大阪ベ平連の坂本さん率いる一行が東京のべ平連デモで反戦フォークを唄いながら歩いた。その後連れ立って新宿駅西口地下広場を通りがかって、「いいねぇ、梅田地下街よりいいかも」ということで始めたのが、フォークゲリラ開始のエピソードだ。
  Flat Link Share
 中央集権的発想が当たり前の日本で、反戦平和運動が、個人の自由と責任で広がり、効果を生み出す事に心を奪われた。
 今思い返せば、フラット・リンク・シェアという現代を象徴する動きを先取りしたのが、オダテンの行動と思想だった。僕が20代初めの頃、オダテンは30代全半で「何でもみてやろう」でヒットを飛ばした小説家だった。
 それから約40年間の僕に、最も影響を与え、思考の原点にあったのは、オダテンであり、ナイカクと呼んでいた30〜40代のベ平連を支えた人々だった。素性の解らない青年がベ平連のナイカク(運営会議のようなもの)に何のわだかまりもなく加わり、電車の無くなった深夜、原宿あたりから世田谷までタクシーに相乗りし、小さな中華料理屋で夜食を食べた。そんな時オダテンが「しんどいなぁ、でもこれから世界の原稿30枚書かなアカンのや」と言っていた。たわいもない言葉がオダテンといつも結びついてきた。
 そう、何か読むべき本がありますか?と尋ねた時に、ナットヘントフのジャズカントリーを読んだらいい。その後あまりしっかり読み込まなかったので内容は覚えていない。
 なんか小田さんの語る内容は、僕の考えになり、いつの間にか小田さんがしゃべっているように受け取られることもあった。真似てるのではないが、それまでにない感性的な同調を得られたように思う。もちろん小田さん以外にもいろいろな人たちの影響を受けた数年が、1968年から1970年頃の数年だった。いづ君「論理と倫理を区別して考えないといけないよ」と言ってくれたのは武藤一羊さんだった。この言葉は僕の思考回路の大事な部分になっている。
  小田さんの行動力
 ベトナム戦争反対だけの反戦運動を鶴見俊輔さんらと始めた小田さんと同じ発想で、新宿駅西口地下広場で反戦フォークを歌い始めた当時、歌い手のパフォーマンスの善し悪しで立ち止まる人の数が変わった。僕は人を立ち止ませることはできなかったが、ゴリは人垣ができた。そのパフォーマンスに相応しい人がいるようだ。小田さんもベトナム戦争反対のパフォーマンスに相応しい人だった。それは既成の運動とは違う『発想』『スタイル』『パフォーマンス』であった。1970年代後半から日本ではこんなパフォーマンスも受け入れられなくなった。金もうけが全て。閉塞感に覆い尽くされ、息苦しい時代が今に続く。
  小田さんに答える
 1960年代末に小田さんに学んだ僕は、僕なりの発想、考える前に行動する、ことをつい最近まで実行してきたように思う。しかし新宿駅西口地下広場のフォークにまつわるさまざまな出来事は、単純な思考を超えるものであった。一番大きな問題点は、『効果』とか『目的』といった判断をしてしまうことだ。
 人がたくさん集まることは、効果的で、目的達成に近づくという発想を僕が嫌ってきた。反面いつの間にか、効果を意識して考え、行動する自分がいる。
 ぼくも60才を迎えた。これからは、効果を考えない。効果を考えてしまったら、そうでない選択を十分に模索する。慎重ではないが、目的のためにも功利的にならない自分をつくっていきたい。

 (福岡:S・I)

 いろいろなホームページやブログに載っている小田さんの死

 小田さんが亡くなられたこと、そしてその葬儀の模様などが、多くの人の個人ホームページやブログに掲載されています。そのリストは、大木晴子さんの「明日も晴れ」のページに多数紹介されていますので、ぜひご覧になってみてください。→ http://www.seiko-jiro.net/
 また、「ブーゲンビリアのきちきち日記」というブログにも葬儀や追悼デモの文や写真がたくさん載っています。→
http://blog.goo.ne.jp/naha_2006 
  ここでは、有田芳生さんの「酔醒漫録」(http://saeaki.blog.ocn.ne.jp/arita/) に載っている文の一部を転載させていただきます。

小田実さんの葬儀に参列して思うこと

 8月4日(土)青山斎場で小田実さんの遺影を前に座っていると、弔辞を読む人々の声に混じってジージーと鳴く蝉のはかない生命のほとばしりがとても重く感じられるのだった。「あと半年生きたかった」と死を前にして語った小田さんの気持ちは、人間の生の意味をわたしたちに激しく突きつける。大江健三郎さん、加藤周一さん、ドナルド・キーンさんなどの弔辞にはじまり、世界各国からの哀悼の言葉の数々。わたしにとってはとくに小田さんとベ平連の同志だった吉川勇一さんの言葉が身にしみた。喧嘩もしたし多くの課題で意見も違った、それでも大筋では一致していたというその述懐だ。政治や市民運動で大切なことはそこだ。葬儀には政党幹部も多く参列していたが、彼らの挨拶はいっさいなし。それもまた小田さんの葬儀らしくて好ましかった。「世界市民」の小田さんにとっては、政党人もそもそもは一市民なのだ。献花して葬儀委員長の鶴見俊輔さんと小田さんの奥様である玄順恵さんにご挨拶をして会場を後にした。玄さんとは神戸で行われた結婚式以来の再会だ。わたしはまだ出版社に勤める編集者だった。「会葬お礼」の封筒を開くと、玄さんの挨拶とともに今年の4月2日にトロイ遺跡で写した小田さんの写真が入っていた。その裏面には小田さんの言葉が印刷されている。

 
七五年、人生一巡、
 みなさん方とともに生きたこと、
 生きられたことを、
 幸いに思います。
 では、お互い、奇妙な言い方かもしれませんが、
 生きているかぎり、お元気で。