29 散骨のための沖縄旅行 (2007年03月30日  掲載)

 散骨ということ

 「ニュース」欄 No.167 にありますように、3月18日、沖縄の海で、連れ合いの祐子の散骨をしてきました。私たちは、毎年というほどではなかったのですが、4〜5年に1度ほどは、一緒に旅行をしました。志賀高原、奥入瀬渓谷・八幡平、三陸海岸、広島と倉敷、京都・奈良、別府・阿蘇山・長崎など九州半周、飛弾高山と黒部ダム・立山、高野山・ 那智などです。次は沖縄に行こうねと話していたのですが、それが果たせなかったので、散骨の場所には沖縄を選んだのでした。
 最近では、知人で散骨を希望する人が増えているようです。高木仁三郎さんは故郷の赤城山に、画家の戸井昌造さんはフィジーの海に、互井幸枝(戸田杏子)さんは 山梨県白州町の薮内正幸美術館の傍に散骨されました。そして昨年亡くなられた鶴見和子さんは、南方熊楠ゆかりの神島の沖に散骨すると遺言されています。(『遺言』藤原書店 34ページ) 
 昨年のNHK紅白歌合戦で歌われてから、一挙に有名になった「千の風に吹かれて」では、「私のお墓の前で泣かないでください。そこに私はいません」と歌います。私は春秋の彼岸やお盆には 、母や弟妹たちと墓参に行きますので、そこにまったくいないというのも困りますが、そこだけにしかいない、というわけではない、というのなら納得します。
最近読んだ鶴見和子さんの「死ぬとは」という文には、こう書かれていました。

 おもむろに自然に近くなりゆくを老いとはいわじ涅槃とぞいわむ

 これを言い換えてみますと、こういうことなんです。

 大いなる生命体とう自然より生まれてそこへ還りゆく幸

 これは今年(二〇〇四年)のお歌始の御題が「幸」だったので、ちょうどいいと思って「還りゆく幸」としたんです。「大いなる生命体とう」というのは「という」です。自然とはもっとも大きな生命体で、私たちは微小な生命体で、徴小宇宙なんですね。自然は生命の根源です。そこから人間は生まれてくる。そうして死ぬということは、またそこへ還っていくということで、なんにも悲しいことじゃない。めでたいことです。そうして還っていったらどうなるかといったら、バラバラに分解して塵泥になって、そこへ散らばっていくでしょう。そうしたらまたいつかそれらが凝集して、何になるかわからないけれど、新しい命となって、この地球が存続するかぎりここへ還ってくるんです。だからちっとも恐ろしいことでも悲しいことでもない。そういうふうに考えられるようになりました。

                   (鶴見和子『遺言』藤原書店 56〜57ページ)

 共感します。死んで大地に還る、それは全く自然です。千の風でもいい、万の水滴でもいい、人間も、他の動物も、植物も、生き物はすべて自然に還って循環を続けてゆくのです。95歳になる 私の母は、死んだら丹沢の山に散骨してくれ、と言っています。山や野に撒かれた骨は、水に溶け、川に流れ、海に注ぎ、水蒸気となって風とともに空に上り、雨となってまた地上に注ぐ。その間に新しい生命体を育てるために、何らかの役にも立ってゆく。それが永遠にくりかえされるのです。骨は、壷に入れられて墓の下のコンクリートで 囲まれた暗いところに押し込められているよりも、山や川や海に撒かれる方が、ずっと自然にかなっていると思えます。散骨が増えているということは、そういう考え方をする人が増えているということなのでしょう。
 以下に、散骨旅行のご報告を記しますが、それ以外のもろもろの経験や感想も一緒にあれこれと書き、長くもなりそうですので、御用とお急ぎのない方がご覧くだされば幸甚です。

  
散骨のための費用

 ちょっと驚いたのは、散骨のための費用でした。沖縄行きの旅費などのことではありません。
  火葬では、骨の形が残ったままです。山や海に撒くためには、それを粉骨して粉状にします。骨の形のまま撒いてはいけないというわけでもないのでしょうが、それだと、撒くというよりは、投げる、捨てるというイメージが出てきて、やはり粉状にしたほうがいいように私には思えます。自分で粉にしてもいいのでしょうが、それはかなり難しいようです。結局、散骨用に粉骨する設備を持った葬儀場などに依頼することになります。祐子の火葬をした杉並の堀の内斎場にはその設備がなく、お願いしたのは埼玉県の戸田斎場でした。最初は、費用は1万円くらいはするかな、 などと思っていたのですが、実際は3万円、運搬などを依頼した葬儀社への手数料などを入れると4万2千円が必要でした。ずいぶん高いものです。こういう分野ではあまり競争原理が働かないし、値切る人もいないので、こうなってしまうのでしょう。しかし、とにかく、非常に細かい白い粉になってきました。粉骨の証明書もついてきます。

 出発までのこと

 ここのところ、午前4〜5時に就寝し、起床は9〜10時という、昼夜がひっくり返ったような 暮らしに慣れてしまった私にとって、寝る時間に起きて羽田へ向かうというのはかなりの覚悟と準備が必要でしたが、どうやら遅れずに空港に着くことが出来ました。
 搭乗前の所持品の検査は滅法うるさく、私の日常生活にとっては必要なハサミがひっかかりました。このハサミは、刃がついておらず、先端も丸く曲がっている衛生用のもので、ストーマに人工膀胱を付け替える手当てをする際に、傷口跡のへこんだ部分に貼るスキンバリアなるものを切り取る上でどうしても必要な道具です。 そういう説明もしたのですが、それなら旅行中に必要なぶんだけこの場で切り取って、ハサミは置いてゆけ、と全くわかっていないことを言います。そんなことをその場でやっていたら、飛行機に間に合わぬことになります。一緒にいた小沢さんがかなり強硬に交渉してくれて、結局、ハサミは乗務員に預け、那覇空港で受けとるという こと
になりました。帰路もやはり預けることになりましたが、この時はうるさくは言われませんでした。

 祐子と一緒に南部戦跡めぐり

 すべてを準備してくださった原田隆二さんの組んだスケジュールは、年配の私のことを考えて、無理のないゆったりしたものでした。散骨は翌日の予定にして、到着の日は、原田さんの運転する車でゆっくりと南部の戦跡を回ることになっていました。私は、以前、「市民の意見30の会・東京」の仲間たちと、嘉手納基地包囲の人間の鎖行動に参加した際、戦跡をかなりめぐっていたのですが、祐子には初めての沖縄旅行でしたから、彼女の写真を持って、ひめゆりの塔、平和祈念資料館、平和の礎(右の写真)、健児の塔などを巡りました。海軍野戦病院跡も見せたかったのですが、時間がなく、割愛しました。

 宜野湾マリーナと港長の真久田正さん

 18日、日曜日が散骨の予定日でした。最初に計画を考えたときは、費用を払って船をチャーターしなければならないのだろうと思っていたのですが、原田さんの知人で、宜野湾マリーナの港長、真久田正さんのご厚意で、そのマリーナに停泊している船の中でも最大級の外洋ヨットを提供していただけました。実に有難いことでした。
 宜野湾市は、那覇の北に隣接している東シナ海に面した都市で、その海岸に大きなヨットハーバー「宜野湾マリーナ」(左の写真)があります。真久田さんは、そのマリーナの管理事務所の所長さんです。申し訳ないのですが、私は、真久田さんのお名前を事前に聞いていても、どういう方か 頭にはうかびませんでした。ところが驚いたことに、実は今から35年も前に、真久田さんと私とは知り合っていたはずなのでした。このことは、あとで書くことにします。
 まず真久田さんは、5級海技士(航海)の資格をもつヨットマンであり、マリーナの港長であるとと同時に、詩人であり、2000年の海洋文学大賞童話部門(『白いサメ』)や2001年の第27回沖縄文学賞(『ざん』 パソコンのフォントには入っていないので漢字で書けないのですが、魚偏に「需」をつけた文字と、魚偏に「艮」をつけた文字との2字です)を受賞している作家でもあるのです。詩集では、『〈海邦〉総集版・幻の沖縄大陸』(1985年、 右の写真の左)や『真帆船のうむい』(2004年、写真右)を出されています。
 真久田さんもこの船に乗り、もう一人の海の仲間とともに操舵もしてくださいました。(右下写真の右が、ヨットの舵輪を握る真久田さん)

 散骨をした海と鯨の出迎え

 散骨をした海は、那覇港の 西、慶良間諸島の沖の海です。宜野湾マリーナから6ノットで走って約1時間半くらいのところ(左の地図の◎印)です。
 「ニュース」欄に書きましたように、沖縄滞在中の3日間は曇りと雨の日々だったのですが、この日だけは、港を出るころから雲が切れ始め、沖合いに出ると真青な空が広がり、太陽に照らされた海の色は実にきれいな群青でした。沖では、少し風があって、波もやや出てきて、船は揺れ始めたのですが、真久田さんの指示で舳先の帆布が拡げられ、それで 揺れは大分治まりました。船酔いに見舞われた人もなく、同行の小沢遼子さんは船の舳先に座ってご機嫌でした。(右下の写真)
 1時間ほど走ったころでしょうか、「アッ、鯨だ!」という声に、右舷の海を見ますと、あまり大きくはないものの、たしかに背びれを立てた鯨の背中が海を割って海面上に白波を立てるのがはっきりと見えました。わざわざ鯨を観るための船に乗っても、必ずしも見られるとは限らない鯨をこの目で見ることが出来たのです。自然の鯨を見たのは、私にはこれが初めての経験でした。同上の人びとからは「鯨まで祐子さんを出迎えに来てくれたんだね」
と言われました。
 おまけですが、この船に乗るとき、私はベレー帽をかぶっていませんでした。そして、わずか2〜3時間日の光を浴びていただけなのですが、帰宅した翌日から、頭の皮膚がピリピリし始め、触ってみるとザラザラ。皮がむけ始めていたのでした。ほかの人たちには、そんなことは起こらなかったようですが、頭部に庇護物(?)のない私には、南の海の太陽は刺激的にすぎたようで、1週間で完全に一皮むけてしまいました。その間、着ていた黒のタートルネックのセーターの上に剥けた白い小さな皮がバラバラ落ち続け、目立つこと、目立つこと。えらく気になりました。閑話休題。

 慶良間

 真久田さんの詩集『真帆船のうむい』には、「慶良間渡 T」という詩が載っています。「うちなーぐち」(沖縄言葉)を使った詩で、耳で聞いたのでは、私にはわからないでしょうが、漢字が使われ、すべてにルビがふってあるので、どうやら理解できます。
「……
 清ら津中
 美ら海の瀬中
 にるや底見れば
 かなや底見れば
 美白石 真珊瑚 織り上げて
 真赤の 真青の 魚や群れ舞い

   ややの奇せに なびかせて
   踊り遊びしよりど 見物 
 ……」

 こういう美しい海に、祐子の散骨が出来たことをたいへん嬉しく思います。ルビつきのその
を以下に引用させていただきます。

 散骨とフランク永井の「お前に」と餡パンと……

 遥か水平線上に、慶良間列島の慶伊瀬島でしょうか、 緑の島が見える海の上でエンジンが止められ、散骨をしました。同行の人びとも花束を投げ入れてくださいました。私は、持参したテープレコーダーでフランク永井の「お前に」を流し、歌の途中でそれも海に入れました(この歌のことについては、すでに、本欄のNo.9で書きました。) また、おいしそうな餡パンとどら焼きも海に入れました。以前、祐子が入院中、絶食で点滴治療を受けているのに、何と、事情を知らない看護婦さんを騙して、売店から餡パンを買ってきてもらい、こっそり食べたことがありました。それを知った私は激怒して、喧嘩になりました。あとで、よっぽど空腹感に襲われて食べたかったんだろうなぁ、と少し可哀想になりました。そんなこともあって、餡パンも海に入れたのでした。散骨がすべて終わって、同行のみなさんにお礼のご挨拶をしたとき、やはり涙が出てしまいました。
 こうして、祐子は自然に還りました。後は、風になったり、水になったりして、この地上をめぐり、疲れたら天国の雲の上で休み、お彼岸やお盆には小平霊園の墓地にやってきたりするのでしょう。みなさん、ありがとうございました。

 沖縄返還協定反対の国会爆竹闘争とウチナーグチ裁判のこと

 1971年10月19日、国会で佐藤首相が沖縄返還協定について演説しているときに、傍聴席から沖縄出身の青年3人(沖縄青年委員会[沖縄青年同盟の前身]のメンバーで、うち1人は女性)が爆竹を鳴らして抗議し、「全ての沖縄人は団結して決起せよ」と呼びかけるビラをまいて逮捕されるという事件がありました。「日本人に沖縄の運命を決定する権利はない」「沖縄返還協定は欺瞞だ」という在日沖縄人青年たちによる国会の場での非暴力による「復帰阻止」の実力行動でした。
 波紋はさらに広がります。逮捕された3人は、建造物侵入と威力業務妨害の罪で起訴され、1972年2月16日に初公判が開かれますが、被告らが法廷でうちなーぐち(沖縄言葉)を使いだしたために法廷は大混乱に陥ったのです。沖縄青年同盟は「沖縄の文化の正当性をより広く主張するためにも、本公判でウチナーグチをつかうことを宣言する」と表明します。
 公判で、被告の一人は裁判官の質問に対し「むかせー、かいしゃいんやたしが、なまー、ぬーんそーねーん」と答えました。聞きなれない言葉に、動揺した裁判官は、「日本語で答えなさい」と注意しますが、それに対して被告は「ぬーんちぃうちなーぐち、ちかてーならんがー」。さらに「うちなーやにほんどやがやー」などと応じ、法廷はさらに混乱します。被告三人それぞれが八重山、宮古、沖縄と出身地が異なるため、弁護側は別々の通訳を要求します。裁判では琉球の歴史などを説明し被告の行為の正当性を主張しました。うちなーぐちの使用は、「裁判所では、日本語を用いる」(裁判所法第74条)との規定を逆手にとり、「(日米政府によって「復帰」させられる)沖縄は日本なのか。どうなのか」という問いとなったのでした。「日本が沖縄の運命を決定することはできない」という彼らの主張や行動は波紋を呼び、1971年11月25日には、在京の学者や知識人らが沖縄青年同盟の行動に支援を呼びかける「アピール」を出します
(この闘争については「Voice of Okinawa」のサイトの 国会爆竹事件とうちなーぐち裁判www.asahi-net.or.jp/~sv3a-sitd/okiseido.html をご覧ください。) 1973年9月6日、東京地裁は、被告3人に懲役8ヵ月、執行猶予3年の有罪判決(求刑は懲役1年)を言い渡しました。3人は東京高裁に控訴しましたが刑は1審通りに確定しています。
 このとき私は、沖縄青年同盟を支持していた北沢洋子さんや故鈴木武樹さんらに頼まれ、傍聴券を入手するために協力しました。爆竹抗議の行動をした3人だけではなく、かなり多くの沖縄出身者の傍聴のために大量の傍聴券が必要だったからです。それで、知り合いの社会党の議員秘書などに依頼してかなりの傍聴券を入手し、彼らに渡していました。国会では、爆竹事件が大問題となり、誰が傍聴券を渡したのかの追究もはじまりました。私は、爆竹計画のことなど知らずに券を世話してくれた議員の名が出ると困ったことになるなと心配したのでしたが、幸い、偶然のことだったのでしょうが、行動を起こした3人 が使った券は、議員からのものではなく、窓口で一般に交付される傍聴券だったものですから、その件は問題化せずにすみ、胸をなでおろしたという記憶があります。
 ところで、その爆竹闘争の3人のうちの1人が、何と、こんど散骨のための船のお世話をしてくださった詩人で宜野湾マリーナ港長の真久田正さんだったのです。「あなたが、あの時の……!」 沖縄に着いた日の夜、真久田さんと一緒に泡盛や沖縄料理を前にした私たちは、遅くまで話が弾んだのでした。原田さんを介して、私たちは35年ぶりに沖縄で出会ったのです。偶然とは思えないような再度の出会いでした。
 真久田さんの詩集『幻の沖縄大陸』にある「著者プロフィール」には、「1949年 石垣市生れ 八重山高校卒業後 皿洗いなどをしながら世界一周旅行 /1970年 帰国後、沖縄青年委員会〈海邦派〉加盟 /1971年 第62回国会衆院本会議場にて爆竹を鳴らし、沖縄返還協定批准に抗議逮捕 同年沖縄青年同盟結成……」とあります。この詩集には、「オルグ」「党」「逮捕」「黙秘」などという作品も載せられています。

 沖縄とベトナムとのつながり

 3日目の沖縄で、もう一つ、嬉しい驚いた出会いがありました。原田さんが、ちょっと見せたいものがあるので、と言って、車で、沖縄中部の古宇利島へ連れていってくれたのです。そこは人口350人の小さな島なのですが、県は観光用に開発しようと、沖縄本島との間に、長い立派な橋をかけたのです。無料で通行できる海上の橋では、日本一長いものだそうです(左の写真)。原田さんはかなり大きな不動産業を経営しているのですが、その島に増設中の海水浴場のある海岸に、ホテルを建てようと土地を所有しているというのです。確かに、そこは観光用のホテルにはいい立地条件だと思えました。沖には、宮城の松島のような小島がたくさん浮かび、海の色は、天候が悪かったにもかかわらず、とてもいい色をしていました(右の写真)。
 しかし、驚いたのはそのことではありません。その島にある小さな「道の駅」によったとこころ、思いがけない人が待っていたのです。かつてベトナム反戦運動の中で仲間だった平良良昭さんでした。(右の写真は左が原田さん、右が平良さん)
 平良さんはその後、出身地の沖縄・名護市にもどって、そこで「オーシッタイ養蜂・熱帯果樹園」を経営しています。(「オーシッタイ」は「大失態」ではなく「大湿帯」です。念のため)。平良さんは昨年、初めてベトナムを訪問したそうですが、それは平良さんの果樹園で栽培されているマンゴー苗をベトナムに送り、そこで輸出も可能となる良質のマンゴーを産出できるようにするため、技術援助をするためでした。すでに事前に送られていた沖縄のマンゴー苗は、大きく成長しており、あと数年の努力で、当初の目的は達成できそうだとのことです。さらに驚いたのは、平良さんと提携してベトナムで果樹園を経営している人が、ホーチミン市ベトナム日本友好協会の書記長の
グエン・コン・タンさんだということを聞かされたからです。
 私は、2002年にベトナムを訪問したときにタンさんと会っており、たいへんお世話になった方です。このタンさんから聞いた感動的な話については『週刊金曜日』に書いたことがあり、それは本サイトの「最近文献 」欄 No.38 に全文が掲載してありますので、お読みください。
グエン・コン・タンさンは、その後、2004年11月に「日越市民交流」の訪日団の一員として訪日され、相模原や東京での歓迎会でもまたお会いしています。(このことは、ベ平連のホームページの「ニュース」欄 No.366 で報じられています。)そのタンさんが平良さんとの共同事業者だというのですから、人のつながりの網のような状態にふたたび驚いたのです。
 帰路の高速道路を米軍嘉手納基地に沿って走っているとき、左の写真のようなショッキングな看板を眼にしました。

 沖縄そば、沖縄の魚料理、ドクターフィッシュのことなど

 最初の晩は土曜ということもあり、大きなホテルには泊まれなかったのですが、2日目の晩は海岸べりに立つ温泉までついているAクラスのホテルに泊まれました。夕食は 原田さんたちとホテルの裏手にある沖縄料理専門店でとりました。祐子は焼き魚が大好きだったので、探したのですが、あいにく焼き魚はなく、煮魚と魚のから揚げを頼みました。どちらもおいしい魚でしたが、クルキンマチとグルクニとかいう、聞いたことのない名前の魚でした。2日目の昼に入った宜野湾市のソーキそば店、我部祖河食堂でも、おいしい昼食をとれました。
 もう一つ、これは余談になるのですが、珍しい経験をしました。それはホテルの温泉の浴場入り口にあった「ドクター・フィッシュ」という小魚との出会いです。足湯のように、足先を浸けられるような水槽があり、そこに何百匹というめだかよりも小さい魚が泳いでいるのです。そこへ足先を浸すと、小魚は何十匹も寄ってきて足の裏などの皮膚の角質を餌としてついばむのです。
 説明によると、学名をガラ・ルファ Gara Rufa というコイ科の淡水魚で、トルコの中央部カンガル地方の温泉に生息しており、ふつうの魚は28℃ぐらいまでの水温でしか生きられないが、この魚は37℃までの水でも暮らせるとのことです。そして人の肌の角質を餌とする習性を持ち、クレオパトラも溺愛したという話です。皮膚の角質を食べられるなどという経験は初めてでしたが、弱い電流を流されたような、妙な感覚で、気分は悪いものではありませんでした。毎日これをやっていたら、足の裏もずいぶんきれいになるのだろうな、などと思った次第でした。
 3日目、沖縄を発つ日は、出発までの間、強い雨降りでしたが、小沢さんと2人で、那覇の国際通りを歩きました。まず、沖縄織の専門店を訪ね、芭蕉布や八重山織などの小袋や小銭入れなどを求めました。そのあと、市場を回り、豚肉や海 ぶどうなどを買いました。この市場で魚を買うと、その2階にある食堂ではその場で調理してくれるので、焼き魚を、と思ったのですが、5,000円以上買えば……とか、いろいろうるさい条件をつけられたので、やめました。この前、基地包囲行動で来たときは、よく通った市場でしたが。
 空港までは、初めてモノレールに乗ってゆきました。この前来たときは、モノレールはあったのかな? 記憶にありませんでした。羽田でもどこでもそうですが、空港は禁煙です。小沢さんと、早速喫煙室へ駆け込みました。この前飛行機を利用したときは、嗅ぎタバコを用意していったのですが、今度は忘れてしまいました。間もなく新幹線も全面禁煙になるとか。ますます私などには辛くなってきそうです。

 次は引越しです

 多くの方のお世話になりながら、こうして連れ合いの散骨は無事終了しました。いささか疲れましたが、ホッとしております。次は、今の家を処分して、一人暮らしに見合ったマンションを探し、そこを借りて引っ越す仕事があります。膨大なガラクタや、書籍、CD,ビデオなどの整理や処分の問題で頭が痛いのですが、何とか今年の前半には片をつけたいと望んでおります。
 長い駄文をお読みくださり、ありがとうございました。