22 最近のマスコミのこと (追加)―― 世界』7月号の佐柄木俊郎論文批判―― (2006年06月25日 午後3時 掲載)

『朝日』は市民運動と親和性が高いか

 『世界』7月号の佐柄木俊郎「『言葉のチカラ』と新聞、そしてテレビ」を読んだ。率直に言って、これは『朝日』がダメになっていく現状を表している象徴的な論だと思った。筆者は現在、国際基督教大学の客員教授 だが、1965年に朝日新聞社に入社し、社会部次長や論説委員などを経て、97年23月から02年9月まで論説主幹をし、04年3月に退社した人ということだ。
 この中の「日本社会から『市民』が消えてゆく?」という節で、筆者は、最近、「新聞紙面に登場する『市民』や『市民運動』という言葉が、ひところに比べかなり少なくなってきてたのではないか」と言い、朝日新聞のオンライン記事データベース『聞蔵』で調べた結果を報告している。それによると、「市民運動」という言葉のある記事の本数は、2000年以降、減少し、04〜05年には、95〜99年の5年間に比して半減しているという。
 筆者は、その理由を次のようにのべている。

 ……比較的市民運動と親和性が高いとみられてきた朝日新聞が、ここへきてことさらに運動を軽視するようになり、急激に誌面上の取扱いを減じてきたとは考えにくい。これはやはり、近年になって市民運動 自体が顕著な退潮傾向をみせてきたと考えざるをえないのではあるまいか。………(152ページ)

 この推論の独断ぶりに私は驚いた。まず、「比較的市民運動と親和性が高いとみられてきた朝日新聞」とは、いつのことなのだろうか。この論の筆者が入社した1960年代後半、『朝日ジャーナル』が刊行されていた時代ならともかく、90年代後半以降の同紙の傾向は、私の見るところではそれどころではなく、まさに「ことさらに運動を軽視するようになり、急激に誌面上の取扱いを減じてきた」というものだ。
 まず、市民運動に関心を持ち、意識的、系統的にそれを担当して取材を続けている記者が、現在『朝日』にいるのだろうか。たまたま市民運動についての記事を書いてデスクに提出した場合、それを積極的に紙面に出すように計らう担当デスクはいるのだろうか? かつてはたとえば、原水爆禁止運動などを意識的、系統的に取材し続けた岩垂弘 氏や、新左翼や新右翼の動向を追い続けた高木正幸氏(その論の当否の評価は別として)といった記者などがいた。そのほかにも、基地問題を系統的に追っていた記者や、運動の現場に定期的に顔を出し、個々の現象を運動の流れの中で位置づけて記事を書ける記者がかなりいた (これは『朝日』にかぎらないが)。しかし、今、そういう記者を私は知らない。たまたま市民運動の行動が、「センセーショナルな」側面をもったとき、それを記事にする記者はいても、読者の興味を引き、面白がられるかもしれないな、という関心だけからの取材であって、記事は単発的、それが出てしまえば、その記者の関心は まったく別のところに移って「後追い」など薬にしたくもない。また、たまたま運動を取材して原稿にしても、それが紙面に載る保証はなく、記者はその日の担当のテスクが誰か、そのデスクの関心事や傾向 はどうかと思い図って、いつ記事を出したら載せてもらえそうかと腐心する。そうでない限り、書いた記事はボツになるか、大幅に削られてつまらぬものとなってしまう。私は、現場記者のそういう愚痴を何度聞かされたかわからない。今では、市民運動を系統的に追い続けるような努力をしてみても、 社内で評価の対象にはされないから、そういう記者はどんどんいなくなってしまっているのだ。政治部にいて国会担当でありながら、市民運動の場に顔をよく出した早野透記者(現 コラムニスト)など、今では珍しい例外だといえよう。
 比較的最近の一例を挙げよう。2004年
4月16日の『朝日新聞』夕刊の文化欄「Shot04」に、「『デモかパレードか』論争 平和運動 世代超えて公開討論」という記事が掲載された。文化欄にではあったが、珍しく大きな記事だった。これは折から盛んになっていたイラク反戦運動 について私が『論座』2004年3月号に載せた論をめぐって、見解が対立していると見られる4人のパネリスト(私もその一人)が参加して4月11日に行なわれた公開討論会を報じた記事であった。大きな紙面は割いたものの、私はその記事の姿勢に賛成できず、批判の文章を公表し、また『朝日新聞』にも送った。(それは、本サイトの「論争・批判」欄 No.13 に掲載してある。)批判は私だけではなく、私とは違う立場にあるとされていた討論相手の二人のパネリストもその点ではやはり同感で、批判の文を公表している。
 私は、その文章でこう書いた。

…… マスコミとしては、反戦運動の中で、世代間の対立がある、あるいは意見の違いが激しくなっている、という記事のほうが、読者の興味をかきたてられる、と思うのかもしれません。しかし、この公開討論会のことを報ずるのであるならば、この討論によって、存在していた対立がどうなったのか、この集会が今後どのような影響を運動にあたえることになるだろうか、ということも当然触れなければならないはずです。パネリストの4人のうちの誰にせよ、こういう形で直接的に議論をしたことはそれまでになく、公開された形で顔を見ながら直接意見をやりとりするということは初めてのことです。ですから、運動の圏外にあって、この間の運動の実態を知らない人が、あの集会での議論を聞いたら、どのような点で、どのように意見が違っているかが、かなり具体的に理解出来たことだろうと思います。しかしこの間の運動の経過の中で位置づけてみれば、あの集会は、対立や相違を浮彫りにさせ、激化させたのではなく、まったく逆、それまでにあった相互の誤解や思い込みがかなり解消し、相互の間の理解が非常に深まり、信頼感も強まったという点にこそ、重要な意味、意義があったと私は思うのです。……

 先に書いたとおり、この記事も、運動の流れの中に位置づけて論じられたものでなく、読者の興味を引くようにという意図が先に出てしまったものなのだ。ただ、経験の浅い記者だから、運動の流れの中に、といっても無理だったのかもしれない。しかし、問題はそのあとだ。討論会の記事を載せて、そのパネリスト たちから批判を受けた『朝日』は、その結果を踏まえて、新たな記事を載せたのか、あるいは批判は当たっていないとして、それを明らかにするようなその後の運動の傾向を報じたのか。いや、一切なしである。 運動内部での議論はその後もさまざまな形で展開され続けたのだが、報道は消えてしまった。この記事は、日本のイラク反戦運動の中の問題点を論じ、報じたおそらく最後の長い記事となったと思う。
 そういう『朝日』の実際の状況をなんら検証することなく、「
朝日新聞が、ここへきてことさらに運動を軽視するようになり、急激に誌面上の取扱いを減じてきたとは考えにくい」とは、『朝日』元論説主幹の独断、あるいは思い上がりもいいところだと思う。
 佐柄木俊郎氏は、「市民」は、「市民運動」は、どこへいってしまったのだろうか、と嘆いて(?)みせる。確かに、私も市民運動は退潮期にあると思う。九条改憲をめぐる趨勢もかなり危ういところにさしかかっている。しかし、その原因の一つ(全部とはもちろん言わないが)に、マスコミのこうした姿勢があるということに、佐柄木氏はまったく思い至らない。大きな共同行動のデモの数は減り、それへの参加者の数も著しく少なくなってはいる。だが、その反面、運動は実に多様化し、中央結集型ではなく、個々の地域に根ざしたものとして定着し、持続しているという傾向を帯びてきている。これを指摘した記事など、『朝日』に出たことはない。それは興味本位の個々の事実報道ではなく、系統的に運動を取材していない限り、分からないことだからだ。 ましてや、データベースの中の「市民運動」という言葉の増減で、運動の趨勢を結論するなど、中学生以下の論法だという以外にない。
 つい最近だが、『朝日』系としては珍しい記事に出会った。『AERA』No.30(06年6月19日号)の「サウンドデモに警察の規制強化 『楽しいデモ』許さない」(編集部 伊藤隆太郎、エッセイスト 三田格 筆)である。これは、『市民の意見30の会・東京ニュース』No.96(06年6月号)の市邨繁和「デモと自由と サウンドデモへの弾圧」ですでに報じられている4月30日の東京・渋谷でのデモへの弾圧問題を論じたものである。「サウンドデモ」をご承知ない方のために、『AERA』の記事から引用すると「数年前から登場してきたサウンドデモ(トラックの荷台にDJ用の機器、スピーカーを積み込み、ハウスやテクノなどのダンスミュージックを 演奏しながら踊り歩くもの」と紹介している。この『AERA』の記事によると、「街中で繰り広げられるデモへの注目度は抜群」とあり、「次第に警察は警備の主眼を『デモをつまらなく見せる』ことに注力してゆく。……今回の逮捕について、ある警察庁幹部は、『所轄の原宿暑ではなく、本庁が主導した。警備部と交通部がかなり前から入念に打ち合わせている』と事前のねらいを明かす。」という記述もある。
 市民運動の新しい試みや方向性が、どのように摘み取られようとしているのかを、この論は明らかにしている。私は、この文の筆者二人を知らないが、これは単にあるデモでの逮捕事件を単発の出来事として取材したのでは書けない記事だろう。日ごろから市民運動のさまざまな行動に目を配り、その中で出てきている新しい芽に注目し、長い期間にわたる流れの中に位置づけてはじめて言える観察である。こうした記事や論が『朝日』の中ではなくなってきており、また、それを書ける記者もほとんどいなくなってきているのだ。

市民の三分類と「それなりのメディア」

 佐柄木俊郎氏は、「『私民』の新聞離れ」の節で、NHKが90年代後半に行なった世論調査についての分析論文(牧田徹雄「市民的意識と情報発信行動」)で使われていた市民意識の三分類、「庶民的意識」「市民的意識」「私民的意識」を援用し、すでにこの調査のころから少なかった「市民的意識」層(社会へのかかわり志向が強い)が、現在一段と減って、よりマイナーな分布になっているに違いないとし、それが市民運動の停滞にもどこかでつながっているのだと思われる、と述べる。(154ページ)
 その上で、最後の節「新聞の未来」で、佐柄木氏は、篠原一『市民の政治学』(岩波新書)でのべられている「それなりの市民」という概念を紹介している。篠原一氏は、その本の最後で、R.A.ダールの説を紹介しながら、「問題の発生した時に政治的に参加し、継続的でなくとも、また、パートタイム的な参加でもいい」市民、「現代社会では、社会の規模の大きさ、問題の複雑さ、マスコミの操作性などを考えると、完全な判断の出来る市民を期待することは困難であり、『それなりに良い市民』であればいい」としている。(同書197〜8ページ) 
 佐柄木氏は、以下の文でその論をしめくくっている。

 ……「それなりの市民」にとって欠かせない「それなりのメディア」に。そう考えれば、多少は新聞にも未来があるようなきがしてくる。(155ページ)

 ここでの問題点を指摘しておきたい。まず、市民意識の三分類と、「それなりの市民」についてだが、これは1992年のダールを引用するまでもなく、すでに日本では、1960年の安保闘争の中で登場した市民運動のなかで論じられていた問題である。市民運動の出発点ともいえる「声なき声の会」の名称自体もそれに関係していた。時の首相、岸信介氏が、国会周辺をとりまくデモの参加者などは、国民のごく一部にすぎず、声なき声は私を支持している、そういう人びとは、国会ではなく、後楽園球場で野球を見ているのだ、と嘯いたとき、そういう「声なき声」の民が、いま、声を上げ始めているのだ、とこの会は誕生したのだった。つまり、ふだんの「私民」が、「私民」のままで「市民」にもなろうとしているのだという主張だった。いま、手元になくて、正確に引用できないのだが、『思想の科学』の特集「市民としての抵抗」(1960年7月)では、確か加藤秀俊氏が、「日常生活と国民運動」の中で、昼間後楽園で野球を見ていた人が、夜、プラカードを持って国会周辺のデモに来ているということが、岸にはわからないのか、と指摘していた(「私民」「市民」)と思うし、また、「全日制参加ではなく、パートタイム的参加」ということも、同じ号で、久野収氏が「市民主義の成立」ですでに指摘しているところである。そもそも市民運動とは、最初からそういうものとして成立していたので、最近になって出てきた理解や傾向ではない。
 そして、その「私民」「市民」を、三分類によって分離させ、ダールのいう「それなりの良い市民」(グッド・イナフ・シティズン)から「良い」をとってしまって、「『それなりの市民』にとって欠かせない『それなりのメディア』に」と、新聞の未来を期待するのは、まさに、後退し続ける『朝日』あるいは新聞一般の姿勢の合理化と開き直りとしか私には思えないのだ。