12 緊急入院の前後に感じたもろもろの雑感 (2005年12月22日 掲載)

1. 「イレウス」とは
 「ニュース」欄に書きましたように、今週初め、イレウス(腸閉塞)の再来で、3日ほど、入院を余儀なくされました。以前にも書いたことですが、イレウスをよくご存知でない方もおあられるようですので、まず短くご説明を(私の大学時代の友人からは、電話で「どんなウィルスなんだ?」と尋ねられましたので!)。イレウスは細菌やウィルスのせいではなさそうです。腸は絶えず動いているのですが、それが何かの拍子にどこかが捩れたりして、詰まってしまい、排出がストップしてしまうのです。非常な激痛を伴い、これが起こったら、救急車を頼んで入院し、痛め止めの麻酔薬を投入してもらう以外にありません。そしてしばらく絶食、場合によると、嘔吐も伴いますので、鼻から胃へチューブを入れ、胃液などを逆流させることもやらされます。何がきっかけで起こるのかは、医学的にも解明されていません。胃がんなどで、開腹手術をすると、腸のどこかに癒着が起こるのですが、そこがイレウスの発生場所になるようです。しかし、癒着はあっても、イレウスの症状がまったく出ない人もあれば、頻繁に出る人もあります。また、年に何回も起こることもあれば、数年まったく発作が起こらず、そして突然始まる場合もあります。予防のしようはないようです。要は、起こったとき、すぐ救急車がよべるようにしておかねばならぬということのようで、富士山の頂上や、北海道の原野などにいたら、ヘリコプターでも頼む以外にはなく、そういう手段もない、たとえば砂漠の荒野の中などにいたら、おしまいです。医師によると、イレウスの発生を抑えられる確実な方法を発見すれば、ノーベル医学賞ものだそうです。一般的には、消化のよいものを食べた方がいいといわれますが、以前、私は、イレウスで入院し、症状が回復してきて3分粥が出ることになったとき、その粥でまたイレウスの症状が始まってしまったということさえ経験していますので、これも確実な方法では決してありません。

2. 愛煙家に病院はますます居辛くなった
 これまで何度も入院し、中のことはよく知っているおなじみの病院(入ったことのないのは、地下の霊安室だけぐらい)なのですが、久しぶりに入院して驚いたのは、これまであった1階の分煙室がなくなってしまっていたことです。10数年前、膀胱がんの手術で入院した当時は、各階のナースステーションの前にあった談話室には全部灰皿が備えられていたのですが、数年後、胃がんの手術で入ったときは、そこが全部禁煙となり、地下の売店前のベンチだけが喫煙許可になっていました。ところが5年前、連れ合いが同じ病院に入院したときには、それもなくなり、1階の隅に小さな区切りの部屋が作られ、そこだけが分煙室として認められるようになっていました。そこも午後11時には閉鎖されるので、深夜だと、守衛さんに断って、非常口を出て病院の玄関前に行く以外にはなくなりました。
 ところが、今度入院したら、1階の分煙室もなくなって、全館、屋内の喫煙は一切禁止、どうしても吸いたい人は、玄関脇の外部のベンチでどうぞ、となっていました。この9月から変わったとのことでした。私が入院していた今週初めは、全国にこの冬一番とかいう極寒気が襲来していたときで、特に玄関脇のベンチのある通路は、強い風が吹き抜けるところなのです! パジャマの上にチョッキやジャケットやオーバーオールなどありったけのものを着込んで震えながらこぼしていたら、地階の職員用食堂の外の細い中庭も喫煙許可の場所だそうで、そこは地下だから風は当たらないぞ、と教えられました。行ってみると、たしかに井戸の底のような場所なので風は当たらないものの、屋根がまったくないところですから、雨や雪が降ったらダメです。それでも、食事時間の後などは、そこに、医師も含めて、守衛さんや食堂の従業員、その他、病院のスタッフがつぎつぎと入って来て、いくつもあるベンチが全部埋まるほどになります。みんなおとなしいものです。しかし、愛煙家の病人にとっては、これは差別、虐待とも言える措置です。イレウスであれ、ガンであれ、糖尿病であれ、タバコを吸うのだったら、みな風邪やインフルエンザにかかることを覚悟する必要がありそうです。
 翌日、院長回診があり、顔なじみの院長は、「何か病院のことでご意見やご希望があればどうぞ」と言うので、このことについて文句を言ったのですが、「大学病院ともなると、その点はどうにもならなくて……」というような話でした。大学病院だと、なぜ喫煙者は風邪を引きそうな目にあわねばならないのかがよくわからないのですが、対話はそこまで。

3. 病院できいたクリスマス・キャロルや吹奏楽
 入院の翌日の夕刻、食堂で、吹奏楽の演奏会がありました。東海大学付属高輪台高校の吹奏楽部の有志10数人のグループが、入院患者の慰問に演奏会を開いてくれたのです。曲目の数は少なかったのですが、各楽器の紹介もあり、楽しい演奏会でした。「夕焼け小焼け」や「浄しこの夜」などは、聴衆も一緒に歌うように誘われました。この演奏会が終わって、病室に戻ると、今度は、看護婦さんの有志が手に灯りを持って各階の廊下をクリスマス・キャロルを歌いながら回って歩くという催しもありました。歩ける人は、病室の前に出て、拍手を送りました。これまで何度も入院しましたが、この病院で、こういう経験をしたのは初めてでした。伊勢原の東海大付属病院、聖路加病院や武蔵野日赤病院などへ行ったときは、こうした音楽の演奏会に出会ったことがありましたが……。

4. お送りした年末のご挨拶のハガキへの反響ほか。ありがとうございます!
 「ニュース」欄No.138に載せましたように、喪中のご挨拶に代えて「年末のご挨拶」のハガキを何人かの知人の方々に差し上げました。ふざけすぎて不謹慎なと、お叱りをうけることもあるかな、と少し心配していたのですが、続々といただいたご返事は、みな温かいお気持ちの溢れるありがたいものばかりでした。連れ合いの葬儀の際にもおいでいただいているのに、また大きな花束やアレンジメントを贈ってくださる方、ミカンの大箱やお菓子を送ってくださる方もかなりあり、今、わが家は花で溢れていると言ってもおおげさでないほどになっています。入院直前に送られてきた大きなつぼみばかりが揃った白百合の束は、いまようやく2、3輪ほど見事な花を開き始めています。本当に皆様のご好意に感謝しております。
 夏以来、多くの知人、友人のいろいろな仲間たちのグループが、私を食事会や飲み会に連れ出してくれました。ベ平連時代の若い(当時は)仲間たちは、私を秩父の温泉に連れ出してくれました。市民の意見30の会・東京や市民意見広告運動の事務局の仲間たちは、神保町でベ平連以来の仲間である金井佳子さんが経営する「風童」を借り切って「吉川さんが泣いてもいい会」という催しに呼んでくれました。この日は大いに飲んでもらうのだから車を運転してこないようにと念を押され、帰りのタクシー代まで持ってくれました。また、もう一人の運動の仲間で、オーケストラの事務局に勤めている知人は、秋に、曾我大介指揮の東京ニューシティ管弦楽団による「悲愴交響曲」や私が一度もきいたことのなかったエネスコの曲などの演奏会のS席招待券を送ってくれましたし(この日の「悲愴」はかなりの熱演で楽章の間でも拍手がまきおこったほどでした)、最近では、日本フィルハーモニーの年末の「第九」演奏会の、これもS席招待券が、40年近くも昔の平和委員会のときの仲間で、この演奏の合唱に参加する知人から送られてきました。連れ合いの介護の5〜6年、生の音楽会などにはまったく行っていなかったのですが、ここのところは大変な耳へのご馳走です。
 なお、これは、とくに私のためという集まりではなかったのですが、50年前の第一回原水爆禁止世界大会のときから数年間、国際部の通訳、翻訳、タイプの仕事のアルバイトとして参加していた当時の大学生たち(東京外国語大、早稲田大、法政大、津田塾大等々都内の数大学にわたる)のいわば同窓会的集まりがこの秋ありました。長いことフランスとドイツに居住する斉藤瑛子さんと増井和子さんがたまたま訪日されたのを機会に集まったのですが、これには、元国際部長だった畑敏雄さん(元群馬大学学長)や、原水協事務局長jの吉田嘉清さん、国際部長だった武藤一羊さんも参加されました。みな、当時の反戦反核兵器の意志を持ち続け、今もさまざまな社会的活動に関わっている人たちばかりで、感動しました。
 私のご挨拶のハガキへのご返事は、私信ですから、公表すべきではないのでしょうが、みな温かいお言葉ばかりですので、その一部を匿名で以下に以下ご紹介させていただきます。大分オーバーな私への評価もありますが、それは割引してください。

用意周到、綿密、あたたかい、の三拍子揃ったご挨拶いただき、ホッとしています。ガンの攻撃もさすがに撃退してしまったようですね。これも兄の科学性と気力という類いマレなる才能によるもの、超人です。 (後略) YM

思いがけず、ご丁寧なおはがきを頂きまして、ありがとうございました。吉川さんの心の中に生きておられる祐子様と相談されてのお便り、拝読し 思わず、じ〜ンとこみ上げて参りました。忙しくお過ごしのようでしたので、お食事などはどうされておられるかと、案じておりましたが、お一人での日常生活もどうやらこなしておられるご様子で、少し安堵しております。連れ合いに先立たれ、4年が過ぎましたが、いまだに心が癒えることはありません。仕方ありませんね。まして、吉川さんは、お一人で迎えるはじめての年始年末、お寂しいでしょうが、でもきっとすぐお傍に祐子様がいらっしゃると思います。だから、少し 元気を出してください。これからはなるべく、お好きなCDを聴いたり、オペラを観たり、楽しいことにも時間を割いて、ご自分を大事になさってくださいませ。御身お大切に。  HK

(前略) 意表をついた喪中はがき受けとりました。いつもながら、ありきたりでないやり方、脱帽です。(後略) MT

(前略) 「ご挨拶」について。毎年いただく貴兄の細かい字の年賀状は、噺家の話芸を聴くに似た、軽妙洒脱かつ含蓄のある文章で最大の楽しみであるとともに、及ばぬものの参考になるものでした。しかし、この度の「ご挨拶」は格別の感銘を憶えました。この「ご挨拶」短章の中に貴兄の全てが語られているもので、感想などとは恐れおおく、私の臓腑に衝撃的に染み透りました。令夫人を亡くされた嘆きは、察するには到底いたらないことですが、常に新たなものに挑まれる心意気と、平易な言語で人びとを先達される貴兄を畏敬する私は、大病を患う貴兄が、まだまだ私たちに目標と勇気をお与え下さることを信じてやみません。(後略) HA

おはがき拝見いたしました。おひとりでさびしい面もおありでしょうが、吉川さんのことだからすごいシスティマティックな独り身生活を築きあげるかも知れませんね。それから、長い間、本当にお疲れ様でした。世の中ますます混沌として「引退」は心残りかもしれませんが、吉川さんなら別の面でまた、すごい才能を発揮するのではと、陰ながら期待しています。吉川さんは、僕からすると、ハイパーな能力を発揮しながら、結構たたかれたりして(笑い)、にもかかわらず、そういうことへの不満や苛立ちを噯気にも出さない大きな人でした。ベ平連の原理、原則も確かに素晴らしいもので、今でも政治スタイルとしてはベストなものと思いますが、その内実は吉川さんや関谷さんのような人達の力に追うところが大きかったのではと思っています。さて、私ももう50代の後半になりました。貧乏暇なしであくせく働いていますが、この3年間、急に作詞作曲を始めました。(中略)それをCDに作りました。音程が怪しかったり、まだまだですが、一度聴いてみてください。東京で吉川さんとジョイントする初夢でも見ることにします。ではお元気で。 HT 

拝復 祐子様お元気のころと同じ賀状を今日いただきました。ありがとうございます。来年、私からも賀状を啓上いたします。来年後半から「責任ある立場からは引退する予定」  ゴクローサマ オツカレサマなどの汚い日本語は申し上げません。、目出度いと寿ぎまする。お目出度いことの一つは、嫌な奴(ら)に会う、話すことが減る。(後略) TS

年末のご挨拶拝見しました。祐子さんが亡くなられて、気落ちされていることと思っておりましたが、だが、 彼女は「あの世」 からメッセージを寄せて下さっており、励まされました。わたしも独居八年。すっかり板につきました。今はラストワークに没頭しようと思ってやっています。 吉川さんも、最後に自分自身の生活を楽しんでください。「もう十分です」。それに病身ですし、義理を感ずることはありません。 DI

突然のお便り、有難いのやら哀しいのやら複雑な気持ちです。小学校のクラス会の日、奥様が倒れられたとの連絡を頂きましたが、ちょうど会の準備の方に気をとられ、級友には奥様が倒れ欠席と一応伝えましたが、そのまま貴兄に連絡をとらずに申し訳ありませんでした。奥様が亡くなられた日が、会の翌日なのですね。あらためてお悔やみ申し上げます。貴兄のことですから、何とか元気でやっていくとは思いますが、お互いに余生を大切に頑張りましょう。(後略) MO

先日、先輩である友人から頂いたおはがきに「喪中につき……」とはしないので、ご遠慮なく賀状をお送り下さい……とあって感銘を受けました。私たちも、その「ご挨拶」を見習いたく、どうぞ賀状はご遠慮なくおおくりくださいますようお願い申し上げます。11月○○日にT子の母(90歳)が亡くなりました。(中略)苦しいはずなのに、いっさい弱音をはかなかった彼女の我慢強さ、理屈っぽさ、負けず嫌いに付き合いながら、日増しに柔らかで美しい表情になっていく母を見送るのは、悲しくなかったと言えばウソになります。が最後には、先に旅立った、私たちの父でもある、彼女の配偶者の傍に行くことを心待ちにしていたようにも思えて、とても心が洗われ、気持が澄んでいくような気分を味わった別れでした。 TF

5. 訃報について
 
今年も、多くの先輩、知人、友人の方々が亡くなられました。そのときすぐにわかってお知らせした場合もずいぶんありましたが、年末になってお知らせを頂き、びっくりしたことも多くありました。すでに今年の「ニュース」欄で、飯沼二郎、石村滋子、風間龍、滝田隆夫、安井田鶴子さんらの逝去はお知らせしました。
 それ以外で、お知らせすべき私の先輩、知人では、まず、元日本平和委員会の代表理事だった小林徹さんの逝去です。小林さんは11月15日、肺炎のため、故郷の佐久市でなくなられました。89歳でした。葬儀は17日に行なわれました。昨年は、東京の神保町で米寿を祝う会合があり、ご兄弟やお嬢さん方親族の方と、元平和委員会、原水協関係の知人が集まり、私たち夫妻も参加したのでした。
 また、元広島県議、広島市議なども努められた松江澄さんも、今年1月に亡くなられたのでした。85歳でした。松江さんは、敗戦直後の米軍占領下の時期から、弾圧に屈せず、原水爆禁止の運動にかかわられ、それはなくなられるまで、一貫した活動でした。その一端は、今では図書館で見る以外にはないのですが、今堀誠二さんの名著『原水爆時代――現代史の証言――』(上下、三一新書)の上巻にかなり書かれています。
 もう一人、訃報を知って驚いたのが、学生運動のときの仲間である神田文人さんです。長く横浜市大で歴史学の教授を務めてきましたが、彼の編集した『昭和・平成現代史年表』は、その使いやすさと信頼性で版を重ねてきています。毎年、1950年代前半に東大文学部を舞台に学生運動に参加していた仲間たちが集まる会が続いてきたのですが、その幹事役をつとめ、まとめてきたのが神田さんでした。昨年までは元気いっぱいで研究活動を続けられていたのですが、今年の初春、ガンが発見され、8月に急逝されたそうです。夫人の美枝さんによると、県史の編纂などの関係で縁の深かった千葉県の漁村を訪問中、外房州jの漁村の猟師たちが、戦争中、徴兵を忌避してその漁村に逃げてきた若者を遠洋漁船などに乗り込ませたり、はるか離れた漁港に送り出したりして憲兵の追及を逃れさせたという事例をいくつも知り、それに大きな関心を抱いて研究テーマにし、すでに序論的文章は発表したが、本格的にはこれから……というところで、発病してしまったとのことでした。この事実は、脱走兵援助などに関わったものの一人として、私も大きな関心を持ちますが、神田さんの研究が未完に終わってしまっているのは実に残念です。さしあたり、その序論的論文を送っていただきましたので、夫人の許可を得て、ベ平連のサイトの文献欄などに掲載したいと希望しています。また、どなたか、若い研究者がこのテーマを引き継いで、その全貌を明らかにしてくださると有難いと思っています。とにかく、神田さんの逝去は驚きであり、残念です。
  市民の意見30の会・東京のメンバーでは、かつてNHKの職員で、PKO反対運動のとき、『征け堂々の自衛隊』という反戦歌のCDを自分で作られたり、サイパン島の戦跡を回って、その実態を報じるビデオを作製された真名子彰さんが、6月30日に70歳で永眠されています。ここ数年は、難病の治療で苦労されていたのですが、ついに帰らぬ人となられ、残念です。
 旧制中学時代の友人では、旧制川越中学の郷土班のメンバーで、私より1学年下だった小川章さんが月16日に72歳で亡くなられています。
 小林徹さん、神田文人さん、真名子彰さんらのご遺族の連絡先などをお知りになりたい方は、私あてにご連絡下さい。

6. 連れ合いと別れて半年
 この12月7日で、連れ合いの祐子が死去してからちょうど半年になりました。ご挨拶のハガキにもありますように、炊事や洗濯には向き合っていますが、一人暮らしは、「慣れる」ということはなさそうです。お連れ合いと死去してすでに5年になる、6年になるという方からもご返事を頂きましたが、その空しさ、喪失感は何年経っても消えるものではない、というお話しでした。そうだと思います。先日、俳優の仲代達矢さんのドキュメンタリTVをNHKの番組で見る機会がありましたが、彼もやはり数年前に夫人をなくし、今、新しい演劇に専心してはいるのですが、夫人の写真に向かって話しかけているその姿には喪失感と哀しみが溢れていました。
 半年たって、ようやく、連れ合いの遺産相続の分配問題の処理が終わりました。遺産処理などは、横綱の家族か、西武鉄道の社長一家など、数十億単位の資産のある人の話かと思っていたのですが、百数十万の場合でも、実に面倒な手続きが必要だということをいやというほど知らされました。とても素人には処理できず、ベ平連時代の知人の京都の小野誠之弁護士にお願いしてややこしい処理をしていただきました。一応、11月に、祐子の姉、妹、弟たちには、法定相続分の全額を支払い、一切の処理が終わったので、ホッとしたところです。祐子の持分もあった現在居住している住居も、その分を私が買い取ることにして、相続分に組み込みました。したがって、もう、この家も処分できることになります。いずれ、この遺産配分問題に絡むややこしい話や、遺言書の問題、あるいは延命治療の問題なども詳しくご報告しようかと思っています。これは皆さんも知っていた方がいいと思うからです。
 来年の春の彼岸までには、まだ骨壷に入って自宅においてある彼女の遺骨を、遺言にあった希望に従って、どこか適当な場所(彼女が一度行きたいと言っていて果たせなかった沖縄の海を考えています)への散骨を何とか済ませたいと思っています。それがすんだだら、いよいよ電子ピアノを買うつもりです。機種はすでに決めました。
 それにしても、郵便局から、祐子の年金が、死去後の1ヵ月分が余計に支払われてしまっていたことが判ったので、その分を返却せよといって、7万5千円を支払わされたのには、あまりいい気持はしませんでした。近頃流行の言葉で言えば、「美しくない」措置だと思いました。

  ではとりあえず、今日のところはこれまで。