閉ざされた心を開く

愛には恐れはありません

愛には恐れはありません。まったき愛は恐れを締め出します。なぜなら恐れには刑罰が伴っているからです。恐れる者の愛は、まったきものとなっていないからです(ヨハネ第一4:18)

 アダムは忠実でなく、神との関係を絶ちました。恐れと恥かしい思いが彼の特質となりました。愛のない性格です。カルトは恐れと恥を多用しますがそれは偶然の一致ではありません。カルトは人々が神(愛)と関係を深めないようにします。カルトは忍耐力や愛を奉じるのではなく、信者に選択という道具を利用し、恥を武器として用います。愛のない生活は苦しみの人生です。カルトは次のように苦痛を経験させます。
  ヨハネ第一4:18に書かれている「刑罰」はギリシア語のLolasisである。その意味は、修正、処罰、ペナルティです。カルトの指導者はカルトの基準を満たさない個人的な欠点につけ込みます。
(1) カルト信者は組織の基準と教義の観点から自分を批判するようになります。カルトの指導者から「修正」を受けないようにします。
(2) 誰しも罪を経験したくないから、どうしても罪を避けます。カルト信者にとっては罪からの逃避は処罰を避けるための最高の防御手段です。
(3) 使い古されていますが、カルト内での噂は威力があります。自己防御の権利は存在しません。処罰されないために「告白」をするように信者に求めるカルトもあります。「個人の過失」を指摘しながらも、組織は決して「悪者」にはなりません。
 これが一方的な思考を作るノウハウです。管理するために計画的に一致を作ります。
 なぜカルト組織とその信者が常に世を批判しているかがお分かりいただけるでしょう。一般的に、世は決してカルトの基準に合っていません。もし社会がカルトの期待に添えたなら、カルトにとってはもっと理想的な世の中になります。Lolasisは人が個人的には無力なのを明らかにし、人々を一つにまとめます。
 相手と深い関係になったら好きになった人の期待を裏切りたくないはずです。カルト信者は関係を結んだ人の善意を守るために「正しいこと」をしようと深みにはまります。信者の仲間は「正しいこと」をする助けとして罪と恐れを用います。しかし、恐れよりも遙かに強力な「武器」があります。それは「愛」です。
 ヨハネ第一第四章で使徒ヨハネは恐れをテーマにしています。

愛する者たち、霊だからといって、みな信じてはいけません。それらの霊が神からのものかどうかを、ためしなさい。なぜなら偽預言者がたくさん世に出て来たからです(ヨハネ第一4:1)

 すでに学んだようにものみの塔は神の霊感を受けていないと素直に求めてきました。

エホバの証人がイエスの二度目の到来を切望するあまり日付を示唆し,あとで間違いであることが分かったことが何度かあります。このため,ある人々はエホバの証人を偽預言者と呼んできました。しかし,これらの出来事のうち,証人たちがあえて『エホバの名において』予言したことは一度もありません。また,『これはエホバの言葉である』と言ったことも一度もありません(「目ざめよ!」誌1993/3/22 P.4)

 この記事は嘘です。ここではエホバの証人自身、不正確だと判明した預言の日付を少しも示唆していません。証人にイエスの再臨の日付を教えたのは霊感を受けていない指導者(統治体)たちです。

確かに,そうした出版物の準備に携わる兄弟たちに決して誤りがないというのではありません。その書物は,パウロや他の聖書筆記者たちの書き記した書物とは違って霊感によるものではありません。(テモテ第二 3:16)ですから,理解がより明確になるにつれて,見解を正す必要が幾度か生じてきました。(「ものみの塔」誌1981/5/15 P.29)

 ものみの塔は神の霊感を受けていないから常に偽預言者だと特定できます。偽預言はすべて恐れをもたらします。愛には恐れがない(ヨハネ第一4:18)からです。恐れは、修正、処罰、ペナルティの形で苦痛をもたらします。それはカルトが信者に対する特徴的な姿勢です。「愛」は恐れるように人々を責めないからです。

私たちは、ことばや口先だけで愛することをせず、行ないと真実をもって愛そうではありませんか。(ヨハネ第一3:18)

 本当のところ、カルトは決して約束を果たしません。カルト信者は行いをしなければなりません。神のご好意を得るために行いをしなければなりません。カルト組織は決して満足の域には達しないにも関わらず、常に「神のご行為を得る」ために行いを命じていることが問題なのです。ものみの塔協会では「信仰」は全体的な従順さで定義されています。 カルトの指導者は喜びの域には達しません。もっと「信仰」するように命令し続けます。結局、信者は「達成できない」と思いこみます。本当の信仰に達しない時、「主」はどう応えるのでしょうか。神(愛)は恐れがあっても、失敗があっても堅固なままです。神は「愛」であり、決して見捨てません。
 パウロは私たちに「愛」(神)を追い求めるように忠告しました。愛は神の「ことば」であり、私たちを神と一体化します。恐れは私たちをカルトに一体化します。霊感を受けた神のみことばには、主は常に私たちといる(マタイ28:20)と書かれていて、個人的に「主」との関係が与えられます。「主」を追い求めます。
 ものみの塔のようなカルトは、その霊感を受けていない解釈を用いて、神を追い求めないよう、信者に奨励しています。カルトの組織が信者の関心を恐れに向け、恐れの真理を隠している限り、神との関係は決して持てません。忘れてはなりません。恐れはアダムを神から追いやりました。しかし、良いたよりでは、神は失敗する者をも包み込み、愛する唯一者です。「愛」は決して見捨てません。


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