第3章 精神疾患の研究に対するエホバの証人の反応

 

 ごくふつうのエホバの証人ならば、ものみの塔組織における精神保健に関する情報をつきつけられたら、たいていはその研究の妥当性をまっこうから否定する。その反論の中では次のようなものみの塔の公的な教えを持ち出されるかもしれない。

 

…エホバの証人クリスチャンは、この地上で、最も適応していて、最も幸福で、もっとももめ事の少ない人々の集まりです。他のどんな宗教や集まりや社会的グループに属する人々よりも、お互いに仲良くまとまっています…[それゆえ]…精神科医の需要がもっとも少ないのです。(『目ざめよ!』英文196038日号、27ページ 訳注:英語原文からの試訳)

 

 さらに、『ものみの塔』(196095頁)には次のように述べられている。「その証拠は、エホバ神が、今日、全地球的に機能している新世界的社会を持っておられ、真の幸福はそれを通じて見出されるということです(訳注:英語原文からの試訳)。」エホバの証人は、たとえ自分自身の個人的な経験が、上述のような、くりかえされる主張と正反対であったとしても、しばしばこの主張を正しいものとして受け入れる傾向がある。エホバの証人は、自分の経験だけが例外的で異常なものであると考えて、自分の経験をものみの塔の教えに従属させることによって、このような矛盾に理屈をつけようとする。

 

 筆者は臨床経験を通じて、心の問題を抱えるエホバの証人たちが個人的な悩みや恐れに関する疑いや打ちあけ話を際限なく語りつづけるのを何千時間にもわたって聞いてきたが、その大部分は会衆内部での絶え間ない個人と個人の対立に関するものだった。この同じ人々が、近所の人々に伝道する段になると、『目ざめよ!』誌が述べているように「エホバの証人はこの地上で最も幸福で最も適応していて、最ももめ事の少ない人々です」と一部の人々に信じさせることができたのである。

 

 今では、エホバの証人たちが精神保健の問題を抱えている現実は、ものみの塔の管理組織が一般の証人たちよりよく知っている。以前には、エホバの証人は一般の人より「よく調整されている」という前提を長い間教えられていたのだが、1960年以降は出版物には書かれなくなっている。エホバの証人たちの間の問題が最初に出版物の中で認められたのは『二十世紀のエホバの証人』(1978年)と題する書籍で、それには次のように書かれている。「エホバの証人は多くの点で他の人々と変わりません。エホバの証人にも、それぞれに経済的、身体的、精神的問題があります。エホバの証人は完全ではなく、霊感を受けているのでもなく、無謬でもないので、時に間違いを犯すこともあります。」(英文3頁)

 

 前章で論じた諸研究の結論に対しては、エホバの証人たちから、しばしば多くの反論が寄せられている。よくある反応は次のような合理化である――「真のクリスチャンは神のみ名のために迫害されることはよく知られている。では、神のみ名とは何でしょうか? もちろん、エホバです。精神疾患罹患率が高いと仮定したこういう統計も、エホバの証人に対する迫害そのものです」

 

 エホバの証人が過去に多くの迫害を受けたことは事実だし、今でも多くの国で迫害されているけれども、それも一部では自から迫害を招いた事例が多いし、エホバの証人には自分たちに対する世の感情について妄想をする傾向がある。しかし、概して、ほとんどの西洋人は、わざわざエホバの証人を傷つけようとはしていない。エホバの証人がなんとなく「変わっている」と思っている人は多いが、一部の人にカルト視されていることか、国旗への敬礼や輸血を拒否している宗派だという知識がせいぜいで、それ以上のことは知らない人がほとんどだ。牧師たちは、もしエホバの証人が訪問してきたとき効果的に正統なキリスト教信仰を示すことができるようにものみの塔の教義を学ぼう、と呼びかけても、一般の教会員がなかなか反応してくれないと、よく筆者にこぼしている。多くのエホバの証人が何年も家から家への伝道をしているのに、未信者から効果的な信仰上の反論を受けるたためしはない(Gruss,1979)。その主な理由は、ほとんどの教会員がエホバの証人の組織に対して興味を持っていないからだ。多くの人々にとっては、エホバの証人は、ただ単に、ひとつの宗派にすぎない――多少変わってはいるけれども、他の主流の宗派とそうたいした違いはないものだとしか思っていない。

 

 一例をあげると、筆者は、この研究に取り組んでいるうちにある大きなバプテスト教会のある牧師がエホバの証人について調べているのを知り、連絡先を教えてもらおうとその教会に電話をかけたことがあった。たまたま電話に出た別の牧師に、「私はエホバの証人について研究しておりまして、ついてはこれこれの牧師さんが力になってくださりそうなのですが」と尋ねたところ、なんともよりの王国会館の連絡先を教えられてしまった。筆者が「いえ、そうではなくて、お宅の教会のこれこれこういう牧師さんと連絡を取りたいのですが」と言ったところ、相手は、「エホバの証人について調べるのなら、彼らに直接聞くのが一番いいです」と言い、さらに、こう述べた。「エホバの証人の住所お教えしますよ。たしか王国会館はここからすぐ近くで…電話してご覧になれば、きっと協力してくれますよ。」リベラルな牧師の中には、エホバの証人について誰かに尋ねられると、「いい教会ですよ、エホバの証人になりたいとお思いなら、たいへん結構だと思いますよ!」とまで言う人もいる。

 

 宗教雑誌では、少なくとも部分的には好意的に扱っている記事もめずらしくない(たとえば、『US Catholic』誌19791月号、pp.929-934)。エホバの証人に関する文献をつぶさに追ってきた読者は、少なくともここ10年、一般誌や宗教誌に出たエホバの証人に関する記事のほとんどが一部は好意的、あるいは少なくとも中立的である事実に気づいている。エホバの証人であれその他の「伝統的な」宗派であれ、不利なことを書きたがらない出版社は多い。ある牧師が言ったように、「エホバの証人のように尊敬されている」宗派を批判するのは意味がないと思っているのだ。

 

 世界の一部の地域でエホバの証人が過去にはなはだしい迫害を受けたのは事実だ(Jubber1977)。エホバの証人は今では、一面ではこの迫害は自分たち自身の妥協を許さない態度が引き起こしたものだと気づいている―たとえば、小額の罰金の支払いや許可申請を拒んだことなどだ。エホバの証人は、全体としては、歴史的に言って、一部の民族的な集団や宗教グループが受けたほどの迫害はこうむったことがない。エホバの証人の大敵たるナチスドイツがエホバの証人を投獄したのは、エホバの証人がヒトラーの軍隊で戦ったり公にナチス政府に対する忠誠の表現を拒否したためだった。その当時でさえ、エホバの証人をやめて軍務に服すことに同意すれば釈放してもらえた(もっとも、転向した者は少なかったが)。しかし、ユダヤ人や同性愛者やジプシーにとって、事はそれほど容易ではなかった。投獄されたエホバの証人の多くは徴兵された年齢の男性で、エホバの証人であっても比較的無事にドイツ国内で暮らせた者もいた(とはいえ、ほとんどの友人や身内の誰かが逮捕されていたし、政府がエホバの証人の反戦的で国際的な考えを許容しなかったことは事実だが)。他の多くの民族集団や宗教グループに対してと同様に、強制的に従わせようとする、強い(けれども無益なことが多い)圧力があった事実は確かにあったが、エホバの証人を消滅させようとする体系的な意図は存在しなかった。

 

 従って、エホバの証人をめぐる問題のほとんどはひとえに現在世界のいたるところで迫害をこうむっているためだという、えてして妄想的な思い込みは、概して正しくないのである。エホバの証人に対するどんな迫害がどれほどあったかは、現在ではいくつか研究されている。これらの研究はまだ途中だが、すべての国ではないものの、多くの国々で公然たる身体的迫害があったことは事実だ。しかし、その程度は、エホバの証人が主張するほどではないし、他の宗教的・社会的グループや民族集団が歴史的にこうむったほどひどくはない。また、迫害は身体的というよりむしろ心理的に行われる傾向があり、特定の時期の比較的小さな町に限られる傾向もあった。一部の地域でエホバの証人が暴力的に迫害されたことは疑問の余地がないし、個々の多くのエホバの証人が大変な苦労をしたことも事実である。しかし、この問題は適正な、中立的な視点で見る必要がある(Kernaghan1966)

 

 前章で論じた研究はすべて、精神疾患の原因を研究している精神科医や心理学者によって行なわれた。エホバの証人に関する研究は、精神疾患に関する我々の理解を促進する情報を見出すために企図された何千もの研究のほんの一部にすぎない。前章の研究を行なった研究者たちはエホバの証人を完全に理解してはいないだろうし、研究自体も限られたものだったかもしれないが、あからさまに偏向したものではない。研究の結果を見て、これらの研究者たちがエホバの証人を「迫害」しようとしたのだとか、迫害を目的として研究結果をゆがめたと決め付けるのは、実証的な証拠ではなく感情に基づく妄想的な反応だ。事実、前章で挙げた研究の一部では、おそらく結果を控えめに見積もっているし、研究が実施された時期を思えば、エホバの証人に対して過度に批判的な論法を用いているとは言えない。このことは、研究者たちが、かなりおおざっぱな実験的研究を行なったところ、予想した以上に明白な結果を得た、ということを示唆している。それ以外の結論は出て来ようがない。実際、研究者たちのほとんどが、エホバの証人に対してもっと人道的に対処するべきだと公然と主張しているのである。

 

エホバの証人の精神疾患罹患率の研究をめぐる問題

 

 これまでにあげたような研究について知っているエホバの証人は少ないが、その人たちの典型的な反応は、「精神に問題のあるエホバの証人は、『本当のエホバの証人』ではない」というものだ。よいエホバの証人が心を病むことはありえないのだから、精神病になどなるはずはない、「エホバの証人」と「心を病んだ人」は重なるはずがない、という考えなのである。従って、もしある人が心を病んでいるとすれば、その人は本当はエホバの証人ではありえない、ということになる。エホバの証人を理想的な概念で定義できるけれども、これには当然限界がある。とはいえ、何らかの定義は必要であり、どのような定義にもそれぞれに短所がある。たとえば仮にバプテスマを受けた者だけがエホバの証人であり、バプテスマを受けていなければエホバの証人ではない、と定義したとしても、分類に困るケースが出てくる。この定義はいくつかの研究で使われているのだが、エホバの証人として育てられ、活発に活動していて、エホバの証人の教義を信じているがまだバプテスマを受けていない人は、この定義によればエホバの証人ではないということになってしまう。これは、たとえば、ロシア人の両親のもとでアメリカ国内で生まれ、人格形成期のほとんどをロシアで過ごした人が、アメリカ市民ではあってもそれは名前だけ、というのと似ている。

 逆に、エホバの証人としてバプテスマを受けてはいてもまだ活動歴が浅くて、エホバの証人の信条体系にほとんど内面的影響を受けていない人をどのように分類するべきなのだろう? 新しいメンバーは、バプテスマを受けて数年たたないと会衆の中で地位を得られない。長老は、新入りを指導的役割に着つかせる前に、エホバの証人の神学や教義や信条がしっかり浸透しているかどうかを確かめる必要がある。

 

 加えて、バプテスマを受けた活動的なエホバの証人ではあるものの、行動の一部(たとえば大学進学など)がふさわしくないと判断されて、会衆内でエホバの証人として扱ってもらえない場合もある。大学進学したからといって、ふつうは排斥にはならないが、ある種の村八分扱いにされることは多い。ある長老は次のように言っている:「たとえ活発に活動したり、講演をこなしていたって、伝道のためのエホバのすばらしい備えを拒んで、その代わりに、大学で時間をつぶし、心を世の考えで満たしているような者はたいした証人ではない」

 

 このように見ると、研究上具体的にどのような人をエホバの証人として分類すべきか決めるのがむずかしいのは明らかだ。研究者は、エホバの証人としての活動歴の年数、エホバの証人との関わりの程度、エホバの証人として育てられたのかどうか、バプテスマの日付け、会衆での現在および過去の活動や、組織内での公的な地位を考慮に入れる必要がある。「エホバの証人かそうでないか」という二分法を避けて、活動の種類や程度に基づいて分類できれば理想的だろう。上述のように、エホバの証人は社会科学的研究がものみの塔組織に対する世間の非難を誘発すると恐れて、研究には協力しない場合が多い。そのため、このような人口統計的要因の調査は困難であり、研究者への協力をためらうのは、ちゃんとしたエホバの証人だけでなく組織のアウトサイダーにも共通している(Rogerson1969)。ふつうのエホバの証人は、たとえ立派な地位に着いている活動的な証人が研究を実行しても、自分たちの組織に関する研究や知識の増進には関心を持たない。ジェームズ・ペントン教授の研究は後者の例である(Penton1985)。心の中で一番優先されているのは、ものみの塔の対外的イメージである。たとえものみの塔自身が定めた目標に向かって組織を改善するためであるとしても、否定的な側面には一切触れたくないのだ。

 

 これまでに述べた研究で、研究者たちがエホバの証人として分類した人々の大多数は、エホバの証人の信仰のために刑務所に入れられるほどにまで信仰を貫いた人々や、たとえ投獄されてもエホバの証人と関係を持った人々だった。前述のように、このような状況で自分がエホバの証人だと自認した人の数は、十中八九実際の人数より少ないと考えられるのだが、そのために生じた統計上のエラーはエホバの証人の割合が低いことの裏付けとなろう。

 

 これらの研究で扱われた人の大部分は本当のエホバの証人ではないのにそう言っているだけなのだ、と主張してやまないエホバの証人もいるけれども、それはありそうにない。数ある宗教の中で、どれかを選んで自分がその信者だとでまかせ申し立てるとしたら、ほとんどの人が一番選びたくないと思っているのがエホバの証人なのである。筆者は、大きな精神病院や大きな巡回裁判所で研究者として10年働いた経験があるけれども、未信者が自分はエホバの証人だと名乗った例はひとつたりとも見たことがない。刑事事件では、でまかせでもエホバの証人だと申し立てれば法廷が事件を有利に判断してくれる可能性があるから、被告がそういう申し立てをしたいと思う可能性はあるのだが、「わたしたちは最も憎まれている宗教です」というエホバの証人の主張や、「変わりもの」だとか「狂信的」といったあちこちでの評判を考えると、そういう可能性ですらあまりないように思われる(Rogerson1969)。

 

 前述のように、多くの人は積極的にエホバの証人を迫害しようとは思っていないだろうけれども、概して「不思議な人たち」とか、少なくとも「変わっている」と思っている。また、特に年配の人々の間では、エホバの証人は狂信的だという評判があり、そのために、高齢者の間では(上記の研究のいくつかはまさにこの年齢層を対象として行なわれたものであるが)、未信者が自分はものみの塔のメンバーだと言い張る可能性は非常に低い。それに、エホバの証人に詳しい研究者ならばだれでも、エホバの証人の真似をしている人を、たいてい簡単に見抜けられるだろう。

 

 エホバの証人は自分たちがこうむった迫害経験をフルに利用しようとすることは珍しくない。殉教コンプレックスを示そうとやっきな証人がやたらと迫害されたエホバの証人と自分を重ねてしまうこともありうるが、自分を他の人よりよく見せようとしてエホバの証人のふりをする人は少ない。これに対して、逆方向の事実の歪曲[訳注:エホバの証人が、未信者のふりをすること]は非常に多い。筆者は職業柄、エホバの証人が関係する事例を数多く扱ってきたが、自分たちが活発なエホバの証人や二世である事実が知られているのにも関わらず、公然と自分の信仰を隠そうとした人たちがたくさんいた。精神病院に入院させられた証人や重罪を犯した証人が、エホバの証人組織との関わりを否定することはめずらしくない。また、筆者が治療者として気づいたことであるが、そもそも筆者がちゃんとしたエホバの証人と見なしていなかったならば、相当数の証人たちは治療を受けようとしなかったことだろう。精神的に問題を抱えているということは、自分たちが一般に幸福でよく調整のとれた人間だという考えと合わないので、エホバの証人は、精神的な問題を抱えているという事実そのものに恥じ入ってしまうことが多い。このような思い込みと、「エホバの組織の体面を傷つける」懸念があるため、専門家の援助を受けようとしない場合が多い。「エホバの組織の一部である」ことで感情の問題は防げるはずだと心から信じている人が多いのだ。だから、感情の問題があるということは、自分たちの信仰にとってぞっとするような矛盾になってしまうのである。神経症の問題をかかえるエホバの証人だけではなく、明らかに精神病にかかったエホバの証人までも、専門家の援助を求めたがらない。現に、緊張病、破瓜病、分裂病、重度の抑うつに苦しむ人、さらには脳腫瘍の患者までもが、専門家に相談したらものみの塔組織のイメージを何らかの形で傷つけてしまうと恐れて診断を受けたがらなかったというケースを、筆者は経験している。

 

 ものみの塔の影響下で育てられ、後に組織を離れた人は何百万人もいるが、そういう人々の多くは、自分はエホバの証人です、とは思っていない。このような人々は、エホバの証人として育てられ、依然として基本的なエホバの証人の信条を持ちつづけているのだから、エホバの証人の精神疾患罹患率の統計に含めるべきである。しかし、このようなケースのほとんどは算入されていない。これらのケースを含めれば、エホバの証人の精神疾患罹患率は、一般の罹患率と比較してさらに高くなることと思われる。さらに、筆者は、平均的な会衆の成員のおよそ10%が感情の問題について専門家の助力を必要としていることが分かった。もっとも、多くの証人はこの事実を(特に外部から)非常に巧妙に隠しおおせているし、そのためにたいていはn346といった統計になっていまう。エホバの証人が、大きな無力感と、組織の内部と外部の人々に対する敵意を語ったほんの数分後に、外の人に対して、「エホバの証人はおどろくほど幸福な人々です」と説得力たっぷりに語ることばを耳にするのは、いかに巧妙に感情の問題を「隠蔽」する能力に長けているかを物語っている。

 

 エホバの証人の精神疾患罹患率は全体の平均より低いという研究を知っていますと主張するエホバの証人がときどきいる。このテーマについての文献を徹底的に調べてみても、罹患率が一般より低いと示す研究例はおろか、平均とほぼ等しいことを示すものだってただのひとつも見つからない。もしそのような研究が存在するのなら、その結果を検証することには計り知れない価値があろう。筆者が気がついた現存の研究は、上記の五つだけである。他の証拠がない以上、今ある実証的研究に頼るしかない。今後の研究の中で、上記の研究とは異なる問題や結論が示されることもあるかもしれないが、そういう可能性をうんぬんするには、まず、そういう研究が存在してくれなければどうしようもない(Penton1985)。

 

 多くのエホバの証人は上述の統計を否定するが、ものみの塔協会の高い地位に着いている指導層がここで論じているような問題に鋭感になっていることを筆者は経験上知っている。長老職に任じられたあと彼らが突然ショッキングな事実を経験したと言っている指導者は数多い。ある長老は次のように語っている:「長老になるまでは、兄弟姉妹たちがかかえている数限りない問題に気づいていませんでした」組織での地位が上がったために会衆内によくある矛盾や薄幸に気づいてしまって、それが組織を脱退する初めの一歩になった、という証人は少なくない。

 

 上に述べた証拠は子どもの親権などの訴訟に関連して法廷で何度も提出されてきたが、ものみの塔が精神保健の問題について自分たちを弁護するために使える研究文献としては、ボツワナ大学成人教育研究所長R・キース・ジョーンズの著作(1985)しかない。ジョーンズの実績を見ても宗教の影響と精神保健に関する研究を評価できるとはとうてい思えない。成人教育の専門家が、精神医学および医学的研究に対して有効な批判ができるものなのかどうか、きわめて疑わしい。この分野の議論をするのなら、精神医学専攻の医学博士であるスペンサーのほうが、成人教育理論を教えている人物よりも、ずっとまともに議論できるのではないだろうか。このことだけでジョーズの批判が無効になるというわけではないが、ジョーンズの主張とスペンサーの元の議論とをよく比較してはかりにかける必要はある。スペンサーの研究だけに基づく主張には限界がある。しかし、個々の研究にはそれぞれ短所があるとしても、これまでに完了した研究のすべてが同じ結論を示しているのである。上記で説明したような問題のいくつかを克服する、もっと決定的な研究が完成しないうちは、既存の証拠を有効なものとして受け入れるほかはない。過去の研究を批判するのはかまわないが、経験的に実証できないうちは単なる推論にすぎない。

 

 スペンサーには宗教的偏見があったというジョーンズ所長の主張には根拠がない。自分はスペンサーの結論に賛成しないというだけで、何の証拠も上げていない。筆者とスペンサー博士との文通からは、明らかに、博士がいささかも宗教的偏見など持っておらず、精神保健とその欠如に影響する多くの要因をもっと理解するための研究の一環として、単にひとつのトピックを取り上げただけだ。ジョーンズ所長が自分なりの「意見」を持つ権利はあるが、ジョーンズ所長の信頼性から言っても、ジョーンズ所長の批判を検討した結果からも、スペンサー博士の論文に対する彼の批判が方向違いであり、いささか誤っていることがわかる。統計学ではないが、彼のエホバの証人50人という母集団は、統計的に小さいものではないけれども、彼の言うところの範囲にあてはまりうる人の数が限られているから、母集団の数も彼の研究も制約を受ける(研究が行なわれた当時、エホバの証人自身の記録である1972年の『年鑑』34ページによれば、オーストラリアの総人口12,794,300人中、エホバの証人は22,721人(全体の0.2%以下)である)。この点を考えると、彼の数字は実際かなり大きいといってよい(彼の研究の賛否については筆者の本の中で詳しく論じているが、明らかにエホバの証人の弁護者はこの情報を知らないから、当否を判断しようにもてがかりがない)。データに問題がないわけではないが、ほぼ間違いはない。

 

 ジョーンズ所長(1985:114)は、スペンサーやその他の研究者たちが精神保健と価値観重視の信仰体系への依存の間に関係があると主張しようとしていると言うのだが、スペンサーがそういうことをやろうとしたのではないのは明白である。単なる価値観重視どころではなく極めて権威主義的で、信条や教義の面で「悲観主義的」に分類されるような特定の宗派に所属しているかどうかで、精神保健が影響されているのかどうかを、スペンサーは統計的に明らかにしようとしただけのことだ。精神病院に入れられるときに自分はエホバの証人だと認めない証人はたくさんいるし、事実、未信者がエホバの証人と名乗ることはまず考えられないのだから、スペンサーが実際の罹患率を低く見積もった可能性が高い。しかも、たとえ重症でも精神科医にかかることをためらうエホバの証人がたくさんいて、たいていは、ものみの塔の教えに従って入院を強く拒む。従って、精神疾患を持つエホバの証人についての彼の研究は、おそらく実際の罹患率より低い値を示しているだろう。ジョーンズがこの問題を適切に論じるためには、これらの点をきちんと考慮するべきである。

 

 特定の宗教が特定の人格や病気を引き起こす相関関係についてこれまでにたくさんの研究があると、ジョーンズ所長は主張しているけれども、実際にはほとんどない。たとえば、性や人種が精神疾患に与える影響についての研究の数と比べたら、事実上ないに等しい。ジョーンズの主張とはうらはらに、研究例として挙げられているのはすべて1971年以前のものばかりで、中には1930年代のものまである。精神病と宗教の関係を扱っているとしてジョーンズ所長が言及している研究は、一番古いものが1932年、最新のものが1957年で、そのうち、エホバの証人と精神保健について論じたものはひとつもない。残念ながらこれらの研究はすべて、歴史学者の目的にしか役に立たないものばかりだ。このような奥の深いテーマなのだから、筆者なら1980年代の研究を何十でも挙げることができる。しかも、ジョーンズ所長が挙げた研究はひとつもエホバの証人について論じておらず、関係ないものがほとんどだ。ウェイン・オーツの研究ははっきりと正統的なキリスト教と個人の適応を研究対象としている。つまり、あらゆるキリスト教徒一般の精神保健を論じているわけである。オーツの分類は、ユダヤ教徒、プロテスタント、カトリックといった、非常に広い一般的分類であり、分類相互の違いは宗教よりむしろ人種・文化・社会的要因によるところが大きい。たとえばプロテスタントは、不可知論や無神論に近い人を多く含むユニテリアンからいわゆるファンダメンタリストまで幅広い。従って、ひとつの分類にこれだけの幅がある以上、そこから導かれた結論はほとんど価値がない。

 

 因果関係に関するジョーンズの議論(1985:115)について言うと、特定の宗派と情緒の問題を関連付ける研究手順は確かに容易ではない。しかし、大学教育から輸血にいたるまで、あらゆるものごとを禁じる律法主義的な組織に参加するというような、宗教的信条との因果関係を論じる意味から言って、ジョーンズ所長のデータはあきらかに不適切だ。データは一貫して、これらの要因があきらかに精神保健に影響し得ることを示しており、特定の宗教と精神保健に因果関係があるという結論に達するのはむずかしくはない。

 

 ジョーンズ所長自身、スペンサー博士の理論は認めないまでも、その結論を公然と支持しているいくつかの研究を引用している。たとえば、ローゼンバーグについては「少数派の宗教的な環境の下で育てられた子どもたちは、その社会の主流派あるいは多数派の宗教と接触するときに精神保健の問題を起こす傾向があると示唆した」と引用している。これこそ筆者の大事な主張のひとつにほかならない。ジョーンズは他にも、イリノイ州のある特定の宗教団体の信者が精神病院に通う者の数が突出して多い事実を確かめた1971年のバージェスとワグナーの研究を引用している。そのあとでジョーンズはローゼンバーグの研究を要約して、少数派の宗教団体メンバーは宗教が原因で伝統的な宗教団体の信者よりも大きなストレスを受け、不安が生じる経験をすると述べている。この要因は、精神的というより社会的なものであるが、まさに本書が言いたいことなのである。さらに、ジョーンズ所長は、社会も、医師やカウンセラーも、「少数派の異端に属する人に対して寛容な表情を示さず」、その結果この人たちの精神的な問題もその他の問題も悪化しているのではないか、と述べている。この主張には事実の裏づけがあり、さらには、圧倒的大多数のエホバの証人が精神科医への相談を公に認めていなかったし、しかもエホバの証人たち自身入院に同意しようとしなかったという事実によって強化されている。

 

 また、ジョーンズ所長は、どの社会的階級に属しているかが「重要な変数」であると述べ(1985:118)、宗教カルトは「大部分の信者を経済的に下の階層から獲得する傾向がある」と付け加えている。ジョーンズ所長は、「エホバの証人は主に労働者階級から新入りの信者を勧誘している」と述べ、ほとんどの社会学的研究によればカルトの信者は「社会の最下層から獲得されたのであり、宗教カルト[への参加]はたいてい経済的な不満の表れである」とも述べている。そしてジョーンズ所長はコーエンの1955年の研究に注意を向けている。コーエンの研究では、主に「世を恨む」人々、「人生に希望を奪われ、不平家で無政府主義者……朴訥で、文盲で、落胆した、恵まれない民」がエホバの証人になると述べられている。このような結論は今日では妥当性が薄れているが、ものみの塔の過去の教義や神学が発展する重要な要素であり、様々なインタビューや研究が適切に示しているように、組織を支配する高級幹部にも、現在の地方の会衆でもよく見受けられる考え方に影響している。

 

 新入りのエホバの証人の質が低下しているのは本当かもしれないし、そう感じられるかもしれないし、相対的なものかもしれない。また、必ずしも全面的に経済的なものではなく精神的な面もあるとジョーンズは述べている。筆者は、この二つの点については、エホバの証人と精神保健に関する著作の中で強調しておいた。したがって、ジョーンズ所長の議論は、スペンサーの全体的結論への批判からは程遠く、単にスペンサーが扱っていない点や問題となる可能性のある点をいくつか論じたのにすぎない。スペンサーの論文に対して、短すぎて結論に至る議論や説明が足りないと批判することは可能だが、これはスペンサーの結論が間違いだという批判ではなく、説明が尽くされていない、または、議論が進展していないと言っているだけである。ジョーンズ所長の批判には実証的論拠が乏しく、ジョーンズ所長が主張している大雑把な議論の支えにはとうていなっていない。ジョーンズ所長は、スペンサーの結論は年齢と性別の相違によるものだと述べているが、これは単なる推測であって妥当性は少なく、このような主張がデータで裏付けられない限りはあくまで推測であるにすぎない。性別割合の3%ないし4%の相違はほとんど結論に影響しない。なぜなら、エホバの証人の精神疾患罹患率は[一般の]4倍だからだ。性別の割合にもっと大幅な差があると言うのでなければ反論にならない。また、女性について言えば、割合の相違は、実際の精神疾患の割合の差というよりは、女性のほうが自分の不幸について口に出しやすく、援助も求めやすい傾向があることによる影響のほうが大きい。

 

 ジョーンズ所長自身、エホバの証人は「変わった宗派である」と述べ、エホバの証人は「精神的または神経的な疾患にかかりやすい人々を引きつけて」いるかもしれないとさえ述べている(ジョーンズ1985:122)。さらに、ジョーンズ所長は、エホバの証人のような宗教カルトは「社会が急変する時、激動の時期」に生まれやすいとも述べている。エホバの証人のような「変な宗教カルト」が特定の社会的機能を実現する働きをしていると論じている。

 

 

 

精神保健の専門家に対するものみの塔の態度

 

 精神疾患の発生率が高い原因のひとつには、ものみの塔協会が長年、ありとあらゆる精神保健の問題について、エホバの証人が専門家の援助や医療を受けることも相談に行くことも、ほぼ全面的に反対してきた事実があげられる(ペントン1985:289)。ものみの塔の出版物には、精神科医や心理学者に対するものみの塔協会の否定的態度を示す記述が散見される。たとえば、あるものみの塔の執筆者は、子どもが描いたことになっているが実際にはチンパンジーが描いた絵をもとにして心理学者が感情の問題を診断しようとしている実験を引用したあと、次のように書いている:

 

心理学者が人間や動物の性格についていくらか知っているのは疑いありませんが、まだまだ知らないことがたくさんあるのに、本当に知っている以上に知った気になっていることにも疑いありません。さもなければ、二匹のチンパンジーに笑いものにされるようなことはなかったはずです。(「目ざめよ!」英文19541022日号、24ページ)

 

 「目ざめよ!」誌(英文1975822日号、26ページ)にも、ものみの塔が精神医を否定に描こうとした例がある。関連する段落を以下に引用しよう:

 

これら多くの専門家たちの、盲目的で独りよがりの愚行は、1970年に、インタビューを受けたアメリカの精神分析の専門家の55%が、神への信仰は「あまりにも明らかに幼稚で、あまりにも現実離れしているので、大多数の人々がこのような人生観を決して克服できないであろうと思うと痛ましい」というフロイトの考えに同意している、という事実から看て取れます。

 

 この記事は精神医学の専門家に対するものみの塔の態度を明らかに示しているけれども、引用された部分の著者が言おうとしたことを正確に伝えていない。記事のこの部分は、ロゴウの著作(Rogow1970:58)に基づいているのだが、ロゴウの研究結果の全体をきちんと論じていない。このフロイトのことばというのは、「目ざめよ!」誌が示唆しているような無神論的なものではなく、神に対するある特定の考え方について述べられたものなのである。精神分析家たちは、神への信仰一般ではなく、神に対するある特定の考えが、「現実離れしている」と感じたのである。

 

 ものみの塔が歴史的に、精神科医の害悪について直接教えてきたことはまことにはっきりしている。「クリスチャンは精神科医にかかるべきでしょうか?」という質問への答として、「目ざめよ!」(英文196038日号)は次のように述べている:

 

……原則として、クリスチャンが世の精神科医のもとへ行くのは敗北を認めることです。「助けを求めてエジプトに下る」(イザヤ31:1)に等しいことです。……エホバの証人が精神科医のところへ行くと、精神科医は、エホバのクリスチャン証人がこの地上で最も適応していてもっとも幸福で最も満足した民であると言う事実を完全に見落として、トラブルの原因は信仰のせいだと説き伏せようとします。……しかも、ますます多くの精神科医が催眠術に頼ろうとしていますが、これは世の知恵の悪魔的な形なのです。

 

 すでに述べたように、「エホバの証人は最も幸福で云々…」という意味の記述は一時よく書かれていたが、筆者の知る限りここ十年以上ものみの塔の出版物に登場しなくなっている。あきらかに、ものみの塔協会は、今では、エホバの証人の精神疾患罹患率の高さに気づいているのだろう(Penton,1985)。複数の支部監督(ひとつの国のエホバの証人全体を監督する支部の長)、複数のものみの塔協会法務スタッフ、および幹部会(現在は統治体と呼ばれている)の複数の過去のメンバーを含め、主要なものみの塔の高級幹部の多くが精神的な病気にかかったという事実(Montague1971,Covington1975)から見れば、この問題は明らかになっている。上述の「目ざめよ!」誌の記事は次のように結論している:

 

そうです、そのようなとき必要なのは、真理と神の聖霊が人の人生にもたらした変化をまったく無視し、人が新しいクリスチャン的人格を身に着けるのを助けるそれらの力について何も知らない、世の精神科医ではありません。むしろ、[原注:そのようなとき]必要なのは、信頼が置け、人の幸福に真剣な関心を払い、人を癒すためには必要な忠告や助言を与えることをいとわない成熟したクリスチャン[原注:長老を暗示している]です。

 

このようなアドバイスはのちのものみの塔出版物とほぼ同じだが、「…クリスチャンが精神科医やその他のどんな医師の診断を受けるかどうかは、個人的に決定するべき問題です」(「ものみの塔」英文1975:225)のような最近の記述とは矛盾している。ある長老などは、次のように述べている:

 

エホバの証人は……フロイト学派に反対している。なぜなら「フロイト学派の助言やカウンセリングは道徳や結婚の貞潔に関する神の掟に明らかに違犯しているからだ」とブロー(Breaux)は述べている。しかし、彼の見るところ、心理学の分野は変化していて、今ではエホバの証人は「最良の治療を受けるよう励まされている。特に抑うつに対処するために薬物を投与するかについてはそうだ」(Taft1987:3c)

 

 ふつうのエホバの証人は、いかなる精神保健の専門家に対しても、相談することを非常に嫌うのであるが、これは、精神科医に反対するものみの塔の正式の教義が原因と言うよりむしろ、ものみの塔が非公式に間接的に精神科医に対する非難をほのめかしてきたことによる。このことは強調しておきたい。「目ざめよ!」誌(英文1975822日号25ページ)に書かれた記述(これが事実上、上記に引用した1975年の「ものみの塔」誌の裁定をくつがえしているのだが)と似たような文章はあちこちにある。この「目ざめよ!」誌の文章とは以下のようなものである:

 

……人々を僧職者[原注:エホバの証人の考えでは、少なくともサタンに惑わされて道を誤った背教者]のもとから精神科医に向かわせるのは健全な現象なのでしょうか? いいえ、なぜならこれは、実はフライパンから火の中へ飛び込むようなものなのです。彼ら[原注:精神科医の患者]は前より状態が悪くなるのです……彼ら[原注:精神科医や心理学者たち]は気分が落ち込んだときやあらゆる種類の問題にさいなまれたときに人が助けを求めに行くべき相手ではありません。というのは、彼らの自殺率が一般の人々の倍もあるという事実からも明らかです[原注:この「事実」には異論が多い。『自殺および致命的行動』誌第9-41979年冬号の、ジェリー・バーグマン著「精神科医自殺率の再検討:研究課題の概要」を参照のこと]……おそらくは、ほとんど信仰を持ち合わせない精神科医や心理学者に背を向け、真理を愛する人々を、知恵と慰めと希望を得させるため、聖書に向かわせましょう…

 

 つまり、1975年の「ものみの塔」誌(225ページ)には精神科医に相談するかどうかは個々のエホバの証人の良心の問題だと述べている一方、精神保健や精神病の専門家に関するものみの塔出版物の記事の多くは、ほとんどのエホバの証人がやましい思いをしないで精神科医のところに行くのは難しいといった論調で書かれている(「ものみの塔」英文198281日号、23ページを参照)。従って、エホバの証人たちは、長老のところへ行きがちなのであるが、不幸なことに(これについては後述)、精神的疾患に対処する技能が非常に乏しく、役に立つどころか害を与えてしまう場合が多い。

 

まとめ

 

 エホバの証人の精神疾患罹患率が一般と比較して高いという証拠に対する、ふつうのエホバの証人の反応は、(1)その情報を否定する、(2)理屈を付けようとする、(3)研究を行なった人たちの動機を疑う、(4)単に問題を無視するだけで、なんら具体的・効果的対処をしない、のいずれかである。最後の4番目が一番よくある反応であり、また、おそらく一番悲劇的な反応である。

 

 ものみの塔協会は、エホバの証人が精神保健の専門家に相談することを概してはばもうとしているが、絶対的に禁じているというわけではない。しかし、多くの証人が過去半世紀に渡って、精神科医や心理学者の治療を受けるべきではないと強く思い込んできた。その原因の一部は、ものみの塔協会がしばしば、精神保健の分野全体を痛罵する傾向にあったためである。その代わりとして、ほとんどが労働者や老練な小売商人として世俗で雇われている人々である長老たちが、軽症の患者から重症な患者まで、エホバの証人の心の問題の助言を信頼すべきであるとされてきた。

 

 


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