第12章
証人の統治:すべてに優先する組織

 精神衛生の問題は、際限のない規律のせいだけではなく、そうした規律をきびしく守るように強制することと、組織を他のすべてに優先させる傾向にもその原因がある。少なくとも1880年代後半から組織の排他的な地位を教えてきた。"Watchtower"1890/1/1 (英文)は、こう述べている。「『ものみの塔』は読者および信仰の残された世帯主の間では「唯一の伝達経路」であり、羊飼いの長の声が聞ける唯一の伝達経路そのものである……。ものみの塔は「ふさわしい時に肉」を分け与えるため神の支配する選ばれた管であったし、今もそうだと、きわめて強く確信している。私たちは、それが用いられ続けるよう、祈り、努力をする」。ハリソンは次のように、女性の恋愛感情に及ぼす組織の影響を描いている(1978年)

わたしを愛してくれた人(証人)もいた。それは、事実です。(ものみの塔を)考えた瞬間が愛かもしれない……。そう簡単に辞められると思うの。……結婚しようと言っくれる男性もいたわ……わたしを大事にする男性には魅力を感じなかったわ。物質的な楽しみはごめんなの(私にキスしてくれる男性がいたらご機嫌でしたけど、だからといってその人を愛するってわけにはいかないの)。私をほしがる見込みが全くない人を選んだの。それは異常ではないの。女性はいつもそうしている。しかしわたしの強情さは極端だった。どうしようもない人はいつも愛すべき対象だった。わたしを求めていた男性もいてわたしに甘くて優しかった。時々その人たちのことを考えるの。真夜中に彼らを呼びだして私に愛情を持っているか尋ねるの(私は彼らに愛を感じていた)。かつて(ある証人に)そうやって尋ねたら、コンピュータの印刷用紙のようにはじき出される思いをしたわ。ゲヘナやユダやへどの中に戻ってくる犬を特に強調して彼は聖書を引用したわ。かつて彼はわたしに夢中になってしまって、彼の母親の元に連れて行かれたわ。そして(組織に関しての)自分の嘘を告白したの。わたしは抜け出たけど彼はまだ組織にいるわ。「そこは何を話すところなの」と尋ねると、彼は「君はエホバの組織から脱会した。君は不遜な人間だ」と言ったわ。
 

 個人よりも組織の目標を優先する脱個性化は、この後も考える一つの要素である。一つの信仰(あるいは組織)へ強く献身すると、個人の生活よりも組織の目標を優先する。それは政治の世界ではしばしば起きる(目的、運動、あるいはもっと魅力的に言って人々の「自由」や「リベラル」に個人の生活を捧げること)。現代のいわゆるテロリスト集団もその大部分は、個人の生命よりも集団の求め(あるいは組織の存亡と組織の目標)が大事だと強調する。ふつうの証人の間では、そうした信念は珍しくはない。そして組織が個人よりも大切だとか、基本的に兄弟が他人を「親身になって面倒を見ない、活動だけを考える」と幻滅の程度は深くなる。組織を優先してしまう事例は雑誌『Ms』の手紙にある。


その瞬間、離婚に踏み出していた。結婚してから一か月後、夫は「証人」になってしまった。結婚して8ヶ月間、昼も夜もたいていひとりぼっちだった。夫婦生活はほとんどなく、夫が知っていることといったら、「すばらしい真理」だけ。だから夫婦に友人はいなかった。地獄の8ヶ月が過ぎてから、宗教を止めるように頼みました。なんとっても、週に4日、夜も一晩に3時間、日曜の午前中は4時間も教会に行っていました。彼の答えは、「私は君のために「主」から離れるなんてできない。だから荷物をまとめて明日にでも出て行きなさい」。本当です。かつて私に起きたすばらしい出来事と言ったらこれだったの。彼の「すばらしい宗教」のためにわたしの夫は妻も仕事も捨てたの。彼が言っているように、その報いはすぐにやってくるでしょう。(匿名『Ms』1976/4/6)


 ある集団が「集団思考」を優先して得られた成果についてのジャニーの概念は、俗世間の組織を調査しているときに深められた。大部分の証人が危機的状況にある組織では、それがとても強い。世間とその現実については、仲間つきあいがますます親密になり、それが持続するようになるとその集団は、同じように共通で考える傾向があることが判明した。アイデンティティの防御システムも証人のままにとどまり、その価値を認める主要な理由にもなる。
 ものみの塔本部から直接届く変更を除くと、ものみの塔協会指導者のほとんどはいつもいかなる変更にも強く抵抗する。変更へ抵抗する共通した例は、日曜の集会を午後3時から午前10時に変更するのに2年間も激論をしていた会衆である。長い間の闘争で数人の証人には苦い思いと極端な落胆が生まれた。カーペットを敷いたり、空調機を入れたりといった些細な変更でさえ、ある会衆では5年間もかかった(主な反対は「ハルマゲドンが差し迫っている」から。この闘争は1971年から1976までかかった)。細かいところにまでおよぶ際限のない規則の解釈、不合理性、厳格さ、柔軟性の欠如および変更への抵抗があるから、大部分の会衆で衝突が常態化している(変更が必要だと明らかなときでさえ、そうだ)
 統率力が弱いときに生じる内部抗争が、「私の信仰は生活の中の大切な部分です。常態化した激しい口論を見るにつけ、ひどく悲しくなります」と言った言葉に発展するのは当然だ。「今だかつてそんなに問題が多い人々の集団を見たことはない」の声もしばしば耳にする。一人の証人が語っている。


「なぜそんなに私たちは大勢の兄弟を批判するのでしょう。文字通り、ぼろ切れのように仲を引き裂いている。会衆のほとんどの人から聞いたところではほとんどすべての兄弟が短所や欠点を抱えている。何人かの兄弟と時間を過ごすと王国会館では誰も尊敬できないくらいに落ち込んで涙が出るという声を絶えず聞いていると思う。実際、組織の規則を文字通り受け取るなら、ほとんど全員が排斥されるだろう。兄弟を愛さないとか兄弟に嘘をつくのは(私たちの間では当たり前だ)淫行と同じくらい邪悪だ。その理由は統率力が弱いためで、特に長老は時にはもっとも悪い違反者である。


 このほかにも、自分の経験をこれに付け加える証人がいた。


一年前に私がここに来て以来、8人の人が排斥された。現在薬物中毒にかかっている証人がいるし、ほかには、定期的に姦通に関係して証人がいる。


 「ものみの塔」誌で排斥政策を変更した後でも、以前の考え方を持ち続けた会衆もあった(そしてその古い考え方は後で復活した!)。古い体制が復活する前、ある長老は、こう言った。「わたしたちの会衆では何も変わらない。排斥された人に話しかけられるのは長老だけだ」。おもしろいのは、この排斥政策に関してものみの塔協会は新しい考えを前面に出さなかった。時々集会に出る100人の伝道者のうち、20人以上が排斥された伝道者である会衆もある。だからほかの王国会館を訪ねるときには相手が排斥されていないと判明するまで話さないとする不成文の政策を続けている証人も少なからずいる。
 たいていの場合、部外者はエホバの証人が抱えるこうした問題に気が付いていない。証人は新参者を加えるように気を配っているとか、文字通り、組織は献身した信者の集合体であるとか、エホバの名を擁護するために一緒に調和して働いている会衆であるといった印象を持っている人が多い。ほとんどの会衆に存在する当たり前の闘争について発見するためには、人は何年も広く交わりを持ったり長老に任命されないといけない。人が長老になるまでには、ふつうものみの塔の教義と組織の両方に徹底的にはまりこんでいる。このときに「内部事情」を発見して離脱することはほとんどない。
 証人がものみの塔にとどまるかどうかを決める重大な要素は長老になれるかなれないかだ。ふつうの証人にとって長老に任命されると全く新しい世界が開かれる。以前に考えていたように幸せたったり、満足していて建設的な人たちだとの思いとは裏腹に、情緒的な問題と精神的な苦痛を負って深刻な問題を抱えている証人がいることを新入りの長老が発見する。さらに不幸や不安、嘘偽り、協会や教義への疑惑が目に付く。大勢の証人が組織あるいはその代表者から迫害されていると分かるとたいていの長老はおろおろする。長老になってから6ヶ月経った一人の長老は、こう語った。「証人がこんなにたくさんの問題を抱えているなんて夢にも思わなかった。ほとんど終わりのない問題を見てきた。人々の集団がそんなにも心配事を抱えているなんて知らなかった。ものみの塔の教えが有効か真剣に疑ってもちっとも異常ではない」。
 そうした心配事は、隠蔽やごまかし、時にはあからさまな嘘を講じてふつうの証人、特に新しい証人からはきわめて上手に隠蔽されている。高い地位にある証人はふつうそれは詐欺であるとは分かっていても嘘も方便と感じている。ある人がものみの塔に完全にはまってしまい、初めに関わったときに隠されてことがあると後で学んでも、情報をうまく処理できるだろうと証人にとどまる。もしその人が永遠の命を手に入れられるなら、改宗の最初の段階での嘘は正当化されると考える。前にも書いたように組織は「神権的な戦略の看板の下でこれを公然と正当化した。ものみの塔を守るなら単純な嘘はふさわしい。ものみの塔の教義でも実践活動でも、組織を優先しなければならないとはっきりさせられる。組織を守るためには嘘をつくのは当然だ(ときにはそれが必要だ)。
 王国会館や巡回大会、地方大会、あるいはブルックリンの印刷工場でも、ものみの塔の組織の施設に招かれた人はその規律正しさと表面だけの協力体制に感銘を受けるようだ。ものみの塔はきわめて効率的で強調心のある組織だと思われることに誇りを持っている。魅力的な外見からもっと踏み込んでみると、ふつうの会衆の中でも、ものみの塔そのものの中でも、問題を多くかかえているのがふつうだ(荒れ放題の面もある)。
 証人は自分の気にいった挿し絵を他人に見せられるか、気にしている。その絵が組織を「売り込む」助けになるからである。すべての証人にとってものみの塔を売り込むのは大事な目標である。証人の考えている改宗とは、ものみの塔が神の伝達経路であり、疑わないでそれに従うといった考えを実際に受け入れる改宗である。いろんなものみの塔の教義を守るために聖書を用いて議論をするが、証人の大事な目標は、「新しい人」がものみの塔への忠誠心を伸ばすように手助けをすることである。ひとたびその目標に達すると、消極的な同意でもほかのすべての分野についていける。
 改宗者と研究するときには証人はゆっくりしゃべらないようにとものみの塔の指導者は証人に勧める。あるいは「家の人」(証人が一緒に研究している人)が同意したがらない問題を持ち出さないようにとさえ、勧める。組織は人がまず初めに身も心もものみの塔にゆだねられるようにする手伝いを強調する。一度組織を受け入れるとたいていほかのもの(信仰でも実践でも)すべてに盲従する。この忠誠心が証人の神学の重要な考え方であり、歴史からも見ても聖書から見てもとうてい支持されない証人の教義を受け入れるように機能する重要な手段である。地方の末端のレベルにおいて組織の運営上の問題があると、それを受容する妨げとなる。そして証人は新しい人が「つまずく」だろうと分かっても特に新参者から隠すことに痛みを覚えている。
 ものみの塔はものみの塔とその利益にもっぱら服従するように命令するが、服従したといってもたいてい、その利益は証人個人にはねかえらない。そのいくつかの例を次に上げよう。


入手できる資源をできる限り広げようとして、ものみの塔はきわめて意識して犠牲を払っている。熟練労働者を必要とする労働なのに、国際本部と支部がとてもじゃないがよく慣れていない労働者を雇うのは珍しくはない。電気工や鉛管工の仕事や機械の補修といった仕事はふつう、ほかの証人から仕事を学ぼうとするまだ熟練していない若者が完成する(その、ほかの証人も同じようにして仕事を覚えた)。

 
 そんなことをしたら重大な問題が起こるのは火を見るより明らかだ。専門の技術者を雇わないでエレベータを補修させられないか、若いベテル労働者が組織から尋ねられた。特別な訓練を受けないで未熟練の19歳の少年をその仕事をさせるのは、若者にとっては危険だと決めつけて、一人の監督が反対した。自分の良心を殺している、トップに座っていた監督はその計画にこだわった。以前にもエレベータを補修した。もう一度直すのだって難しくはないだろうと考えた。しかし、そのときさえ、エレベータを修理しようとして、不幸にも若い労働者が重傷を負った。

 ものみの塔のヒエラルキーが信者にしばしば見せる冷淡さと無頓着さの一例を次に示そう。

若いベテル労働者が大型のプレス機械の操作に割り当てられた。なんの経験もない状態から始めたが、同僚がプレス機の操作方法をゆっくり学べるようにさせて、訓練を受けた。このとき偶然にもプレス機に手を挟まれ、指を何本かなくした。そうした事故があったら事務所の仕事のような片手でも働ける部門に人情をもって配転するだろう。しかしものみの塔の反応には人情がなかった。もはや雇う気はないと言って、帰郷するように伝えた。<めblockquote>


 快活で、有能で、気がきくこの証人は、『手引き』の本(大型のものみの塔の出版物)に寄稿していた。明らかに彼の才能は他の分野でも発揮できたのに、ものみの塔は自分の都合だけ考えて、指が全部ある者のほうがよけい働いてくれるだろうと考えた。
 セトナーは次の例で組織の搾取体制に注意を促している。


一人の若者が裁断機で4本の指を切断してしまった。彼は工場ではもう使いものにならなくなったから、自分で食べてもらおうと追い出された。そうした事故を補償する保険は「あまりにも高額」だったから、事故の補償はなかった。それがなぜなのか、マイヨン・クアッケングッシュ(協会の調整者)が教えてくれた。15セントで売っていた『神を真にせよ』(約300頁)のような本の製造原価はわずか7セントだった。私たちはエンパイア・ステートビルと同じくらいの高さに達するほどの本の在庫を毎日毎日、印刷していた。ほかの出版物の印刷にも同じような利益があった。さらに毎年数千人のエホバの証人が死ぬとその財産はものみの塔に行く。正式のルートで数千人以上の寄付金がある(実際、協会は毎年数百万ドルの利益が約束されていた。それを何かに投資したり、高い地位に居る職員の贅沢に使おうとはしなかった)。


 グラスは、その論文で(1974年)、(ウィリアム・セトナが言っていた)証人の配慮の足りなさの例を挙げている。


チャーリーは私と会うまでそこで30年以上も働いていた。チャーリーは老人になって衰えを見せているが、まだ現役の労働者である。ノア会長はどれほど人が労働をまっとうできるかのいい例としてしばしば彼を挙げていた。チャーリーは4階の製本職員としてはもっとも優れていた。


 ほかのベテルの労働者もそうだったが、ベテルに残るつもりがあれば結婚は許されなかった。ノアはその方針を何度も念押ししていたが、チャーリーはそれを恨んでいた。しかし1951年、規則を破って、ノア会長はベテルの姉妹のオードレー・モックと結婚した。それから数年してチャーリーはノア会長の所へ出向いて、自分で作った規則を破ったんだから、辞任すべきだと伝えた。ノアはチャーリーに言った。「誰よりも君は愛を伝道した。少しはそれを実践しなさい」。この対決の罰としてチャーリーは大食堂の指定の席から遠く離れた片隅の座席に移動させられた。チャーリーがみだらな言葉を使ったというのがその理由だった……。新しい座席を拒否し、いつもの使っていた席に戻った。ベテルには居られなくなってしまい、わずかな私物をまとめ、外部の世界に歩き出した。彼にとってはベテルが生活のすべてだった。休暇さえ、そこで過ごした。どこにも行く当てがなかった。……。後で会ったときには一泊50セントのひどい安宿に住んでいた。貯えを遣い果たすと、食費を得るためにベテルの労働者やその他の証人に金銭を要求した。私はいくらか上げたのだけれど、チャーリーには金銭を上げないようにと、ベテルの労働者は言い渡されていた。その辺の会衆へは、同じ趣旨の手紙が本部から届いていた。それが復帰しなければと言う気にさせた。私が聞いた彼の最後の消息は、チャールス・デ・ウィルドが公園のベンチで死んだことだ。明白な違反を指摘したために「神の組織」での40年にわたる忠実な奉仕の後で得られた報酬がこれだった。現実に本部ではどれほど愛が欠けているか、あきらかになった一例である。


グラスが記録した例はほかにもある。


1956年か57年に、ギリアデで伝道の訓練を受けるために二人の若い女性がタイからやってきた。外国語やそのほか必要なことを学習することにストレスを覚え、そのうちにひとりが精神的に落ち込んでしまった。服を脱いでビルから飛び降りるといった抑えがたい強い衝動が周期的に襲ってきた。ベテルに行けば健康を回復できるのではと、ベテルに送られた。しかし彼女の状態はますますひどくなり、ベテルの屋根から飛び降りて自殺しようとした。


 ノア会長はできるだけ早くその少女をもっとも安い方法でタイに帰らせるよう、ワース・ソーロトン(輸送担当の秘書)に伝えた。サンフランシスコまで列車で送らせ、そこでタイ行きの船に渡すよう、手配した。彼女がそれを聞いたとき、飛行機に乗せてくれるよう頼んだ。あるいは一緒にだれかを連れていくように頼んだ。魔が差したら、もう止められないし、もし船上でそうなったら、海に飛び込むかもしれないからだと説明した。二つの願いとも金がかかるといって拒否された。リース・ソ−ルトンはそれ(組織の偽りの敵)にはとても腹を立てていた。


その少女は船に乗せられ、発作を起こし海に飛び込んだ。……捜索のために船は引き返したが彼女の姿はもう見えなかった。船長は起きてしまった事件を無線電報で協会に知らせた。それはベテルで交換士をしていたアーサル・バーネットによって受信された。ベテルの受付係、ラッセル・フルゼンもその悲劇を聞いた。二人ともショックを覚え、ほかのベテルファミリーにその知らせを伝えた。ノア会長はその情報が外に漏れたことに怒りを覚え、アーサルもラッセルも二人ともその地位を追われた。


私はこの事件にとても悩んだ。協会の会長には一等の座席と贅沢品を用意できる十分な資金があるのに、証人の少女を安全に帰宅させる余裕がなかった。この冷酷な決定が少女の生命を失わせた。


 
 地方のレベルでは、基本的には同じような態度がしばしば見られる。ものみの塔は高度に組織化されているけれども、組織の能率は標語に過ぎなくなる傾向がある。あちらでもこちらでも、組織らしさが少ない。長老や巡回監督、地方監督などに任命される者はすべて訓練がなっていないのに(最近ちょっとはましになってきてはいるが)、非常に権威的な雰囲気を漂わせている。人々に適切に対処をするに必要な基本的な技術に欠けている場合が多い。世間では、たいてい、監督の地位にある者は、ふつう、数年間訓練を経験するはずだ(さらに訓練者の資格のある人の許で実地経験を、あるいは十分な資格のある監督者がぴったりくっついた作業経験をする)。けれども大部分のものみの塔の地位への任命は主に協会への忠誠といった資質に基づいている。その結果、周りの人々に命令して物事を実行させる方法だけを信じない不十分な管理者が大部分を占める。次の例がそれを語っている。

地元の会衆で起きた問題を正そうとした一人の証人が助言を求めて協会を訪れた。彼は問題を抱える者は、個々に協会に直接手紙を書くべきだと教えられた。その知らせを困難を負っている人それぞれに伝えた(その数はとても多かった)。こうした指示にもかかわらず、次のような言葉でこの証人は巡回区(約2000人)前で懲らしめを受け、叱責された。「一人の兄弟が協会に手紙を出すよう兄弟をそそのかして歩き回っている」。人を助けようとする彼の努力は「トラブルを起こす証人」の例として使われた。名前は明らかにされなかったが、それが誰を指すかは誰にも明白だった。


 ふつうの会衆はこれとは別の理由から、問題を多く抱えている。大事な問題は協会に盲目的に奉仕する熱意である。もちろん証人の第一の忠節は協会に対してであり、ものみの塔から暗示があるとゆるがせにできない命令として受け取る。権威が強いと心配事の多くは解決せれるのだが、その硬直性が問題を起こす。地方の会衆は組織の規則が問題の根元であり、地方の実情に合っていないのだとは分かっているかもしれない。(協会は特定の分野に限り時には柔軟性を許すが)次にその一例を示す。

ビルはジョージ・ブラウンに婚約者と結婚してもいいか、尋ねたところ、ジョージはすぐに快く賛成した。二人はビルが自分で書く誓約書を話し合った。それはビルのお気に入りのアイデアだった。結婚する1ヶ月前、もう一度ビルがジョージにもう一度相談するとジョージは、その時、「一組の夫婦が結婚したときにやっただけで、その夫婦もそんなにうまくできなかったのでやってもらいたくはない」と言った。ほかにも理由がありそうだったので(証人らしくない誓いを恐れていた)とりあえず引き返した。そしてビルはすぐにほかの者を見つけようとまずデトロイトに住むウィムピーという名前の証人の友人に尋ねた。その友人が賛成したから式の打ち合わせのため、デトロイトに向かった。けれどもウィムピーはビルが書いた結婚の誓約書を使わないで協会の作った下書きに正確に従おうとした。ビルは協会の出版物(1974年印刷)をウィムピーに見せた。そこでは、もしも組織外の誓約が州の基準を満たしているなら、外部での誓約も許されると示して、提案されたプレゼンテーションのかたちで下書きが書かれていた。それを見てウィムピーは言った。「私は長年真理の中にいる兄弟を知っている。その人は唯一許される形式は協会が書いているものだと言っていた。この号の記事を組織外での誓約やものみの塔の下書きからかけ離れた誓約が許される意味だと解釈してはいけない。この基本的な下書きに一語一句従うしかない」。ビルはものみの塔が提案した誓約に一言一句従う必要はないと言っている兄弟を知っていると反対した。二人はこの件を詳しく調べるように決めた。何が許されるか、ウィムピーは巡回監督に尋ね、ビルはビルの立場に対する根拠を得ることにした。一週間後、ウィムピーは巡回監督に尋ねたら、提案された下書きから逸脱しても許されると言われたと語った。それは単に提案されたものに過ぎなかった。それでも「厳密にものみの塔の下書き通り守ったほうがいい。そうしないと君は結婚できないと思う」が彼の結論だった。ビルはほかに誰か代わりの者を探そうと決断した。思い通りにことを運び、王国会館で式を挙げた。ビル夫婦はその後証人を辞めた。結局は分裂を引き起こした多数の事例のうちのほんの一例に過ぎない。


 簿記や文献目録の整理の仕方といった、どうでもいいことがらを変えたり、改善しようとする証人は、たいてい非難を受ける。その人は「エホバの組織の先を行っている」とか、「自分を神の組織よりも優っていると見せようとしている」と思われるのがその理由だ。たまたま司書であった一人の証人が王国会館の図書館にあった書籍を整理する許可を願った。相手の証人は長老ではなかったが主宰監督から許可を得た。書籍が並び替えられると(約400冊)ほかの長老たちがそれを知ってひどく腹を立てた。たとえ監督から許可を得たとしても「図書館を整理」する「権限」は長老だけが持っていると思っていたのだ。長老は会衆の「教師」であるはずだし、「図書館は教える道具」であるから、長老だけが書籍を整理する権利を持っている。たいていの人にはどうでもいい問題だと結論するだろうがこうした些細な問題がほとんどの会衆で起きる提言を吹きとばしている。
 地方のレベルでの例をほかに挙げよう……。協会は特定の方法で記録を残すように指令を出していた。ある証人がもっと効率的な方法を考案して自分流に記録を残そうと始めた。ほかの長老が彼の改革を発見するとその証人は長老として「不忠実」であるとして罷免された。「ごく小さな事に忠実な者は、大きな事にも忠実である」が強調され、その兄弟は小さなことがらに忠実でないと見なされるから、明らかにその者は長老の資格がなかった。ほとんど際限なく同じような過去が語られている。
 一人の証人は「未熟でエホバの組織と歩んでいない」と言われ、長老に任命されなかった。その理由は、彼がいろんな証人の活動を指すとき時々、昔のものみの塔用語を使ったと判断されたからだ。たとえば証人たちが戸別訪問に行く前に落ち合う場所は、昔からいろんな機会に「接触地点」(the contact ponit)、野外奉仕のミーティング(the meeting for field service)、野外奉仕の会合場所(the rendezvous for field service)などと呼ばれた(最近の人は気が付かないだろうが、著者はこうした用語は難しくて連いていけない)。いろんな証人活動を表す用語は何十年にもわたり変化しているようだ。証人のたよりに興味を示した人に戻って訪問する活動を称するために使われる用語でさえ、最近は「逆訪問(back call)」から「再訪問(return visit)」に変わった。
 絶え間ない名称の変化は、証人に「進歩している」あるいは「前進している」幻想を与える方法である。受ける印象あるいは些細なことがらを変えるだけでも、変更によって証人の不満がいくらか緩和される傾向がある。証人にとって新しい名称は家を改装するようなものだ。同じ家でもペンキと壁紙が新しいと新鮮で少しはましに見える。名称の変更は、不活発な者あるいは証人の神学についていけない者にレッテルを貼る効果もある(バーグマン1985年)。人が活発でない限り、十分証人を受け入れていない者には抵抗がある。上に上げた技巧は十分にとけ込んでいない者を選別し、レッテルを貼る方法である。
 会衆内で内部闘争が起きる主な理由は、証人が外では私は関係ないと言う立場に立てないのに、主に会衆内では正当に傍観者の立場に立てるからである。高等教育、会社の設立、あるいは美術、音楽、絵画や科学の分野での成功といった外部の世界への道は閉ざされている。証人は生計にために働くようにと勧められているが、それもできるなら奉公人のような仕事にだ。立派な仕事に就いている証人も中には居るが、そうした人たちは特定の証人から認められたり、ほめられたりもするが、たいていは奉公人ではないような仕事で成功するようにとは勧めない。結局大多数の人が会衆内で優越した地位を得よう努める。協会の地位を得るのは証人にとって人生でもっとも価値のある目標の一つである。それさえもきわめて困難である。
 そうした事情があるから、会衆内で地位を得るためには異常な量の政治的な働きかけが必要になる。証人はそれぞれ自分の利益を求めて常に用心を怠らないから、たいていの会衆は四分五裂の状態になっている。その結果、わがまま、乱闘、人身攻撃、口げんかが常態化している。多くの証人にはクリスチャンの無私の愛の理想が不足している状態になっている原因はそうした政治的な構造である。特にエゴの欲求が働くとこういうふうになる。そのために大多数の証人が他人を気にして外見ばかり気にする。現在、「愛の欠落」はたぶん会衆においてはもっともありふりた不満であろう。愛が欠けているから、どこに行っても証人が嘆き悲しんでいる。もちろんものみの塔に対してこうしたことを聖書的にほのめかすのは皮肉だ。「あなたたちの間で愛」を保つ状態が本当のキリスト教のもっとも重要なしるしの一つだと、キリストははっきりと教えた。  
 この点に気がついてものみの塔は「組織は完璧ですが、組織の中にいる人は完全ではありません」のような言葉で正当化しようとする。前に書いたように、問題はほとんど組織の構造から生じているのであって、問題を起こした人たちにあるのではない。この考えが言えるのは、ものみの塔を辞めて福音的なクリスチャンになる元証人が福音的な世界では優れた模範になるのが一般化しているからである。
 組織そのものに責任があって人間にはないことは次の例がよく表している。……野外奉仕に活発で何人かに「聖書」研究を教え、集会に活発に参加し、書籍研究の導き手であり、宣教学校の監督をしている一人の若い証人が長老になることを目標にして働いていた(これは1971年、長老の体制が初めて確立されたときの話である)。協会に長老への任命を勧める勧告書を書く地元の委員会の議長は、その若い証人を長老として任命する勧告をしようとするところだと告げた。新しい長老の名が公表されたとき、その若者の名前は見あたらなかった。長老を志した者は自然、傷つき、悲痛を感じ失望した。彼は推薦を受けたが協会は彼を任命しなかった。はっきりした理由も見あたらなかったから、地元の委員会に尋ねた。協会の教えでは、推薦する側の詳しい事情を詮索する自由はないという返事が返ってきた。若者はものみの塔に手紙を書いた。ものみの塔も事情を説明する自由はないと同じように言い、地元の長老のせいにした。
 この当時、たいていの証人は長老が聖霊(目に見えない神の活動力)によって直接、任命されるとか、基本的に神が古代の預言者をその地位に着けたのと同じ方法で長老を任命したと信じていた。組織から拒否されて、若者にはとんでもない重い罪の感覚が生まれた。聖霊がすべてをご存知で、過去の自分の間違いをつかんでいて、なんらかの理由で任命されなかったと思った。彼は自分が犯したであろう特別な罪を思い起こせなかったが、エホバが拒むのであれば何か重大な罪を犯しているはずだと判断した。任命拒否のためにしばらくはひどい落ち込みを経験して、結局、証人を辞めた。その理由は単に書記者が間違っていたためだと後になって分かった。彼の任命に関する事情はその間違いが本部に保存され修正が行われる動きが始まるまでその真実が明かされない闇の世界に置かれた。組織の政策に問題があった。長老を志す者には問題はなかった。同じような理由から、おおぜいの証人が組織を離脱する。
 上に上げた事例から任命に関する情報が検証しようとすれば志願者が見られることが分かる。人間の成長を促進することが中心にあるべきだ。人が特定の罪を知らないなら、挫折を克服するすべをどうして覚えられよう。ハリソンの書には一人少女の経験が書いてあった。

立派なクリスチャンは「不自然な行為」に関わらないと知ってはいたけど、「不自然な行為」がどんなものかを知らなかった。レイプの件数の増加が世界の終わりを予告するしるしだとは知ってはいたが、何がレイプなのか、分からなかったわ。分かっている証人は誰だって、そうしたいやな話を聞くとすぐに渋柿を食べているときのような顔つきを始めるもんだから、誰にも尋ねられなかったわ。結局、不自然なレイプ行為に関わりを持たないようにと祈るには時間が長くかかったわ。



性的な事柄にはまったく無知でしたから、しばしば間違った喜劇を引き起こしたの。……証人になって間もない頃のある夜、会衆の長老が家を訪ねて、私を親戚みたいにベッドに包みこんで、夜、毛布カバーの下で悪魔的な行為を実践する罪を犯さなかったかと尋ねました。私は困りました。長老はしつこかったの。とうとう合点が行きました。我が身に罪をなすりつけたからわっと泣き出しました。……夜、枕カバーの下でしていたことと言ったら、爪をかみこと。実際、肉的な楽しみを生む行為でした。マスターベーションは習いませんでした。「自慰をする病気は創造者に背いており、むやみに欲しがるもの(生殖器)に使われる」から、証人はそれをいつまでも「偶像崇拝」といいます。やっていないし、分からない罪を自白させられ、体を罪から清めるために何が必要か、助言を受けたわ。冷水浴を勧められました。爪をかむことと冷水浴とどんな関係があるのか分からなかったけど、誰も長老の命令に疑いを挟めませんでしたから、不純な体を水に浸しました。真冬でも氷のような風呂に浸っていると体は漂白した果物のように見えたわ。母は私が気が狂っていると思ってました。しかし私が爪をかんでいたとは言えませんでした。神の罰を招いたためであったり、出席した集会では毎回、私にそそがれたじっと動かない小さく輝く瞳を見ると必要以上に苦しめられました。



長老(あるいは組織)の命令を疑うひとはいませんでした。小さい頃には、「いい子にする」のが人生のもっとも大事な義務だと教えられました。幼児の頃、私に神や長老のために「いい子にする」のはそんなに難しいことではありません。認められようと強く望めば同調が約束されました。良い子で振る舞っても決していい気分にはならなかったわ。まるでいつも悪い子でいるかのように感じていました。


 偶然にも神の「聖霊」によって証人が長老に任命されているとの信条は、さまざまな問題を生んだ。特にあまり適任ではない人がおおぜい任命されている。明かにその資格がない(精神的な遅滞があるような者、著しい不道徳を犯した者)のに、長老に任命された場合さえある。組織がほかに特別な情報を持たないのに、推薦された者が任命されていない場合もある。協会はそうした者を一人ずつ記した大がかりな記録を保管している。その記録は世界中の支部でたった一人の証人が保存している。世界の各支部は現在その領域に住む証人の記録を保管している。その記録に書かれている情報が正確でなかったり、行方不明の者の意見だったり、報復が動機になっている歪んだ陳述であるかどうか、不幸にも、書かれた当事者がそれを知る手がかりはない。
 公式には協会は聖霊が任命するといった信仰(神が任命された職に霊感を与える)を教えていない。その信仰が広がる歯止めをほとんどしていない。明らかに平均的な証人に対しては、長老が聖霊から直接任命されたと信じ続けさせたがっている。その信仰を進めるためにものみの塔は、長老任命の手続きにあたり、推薦したり最終的な指名を地元の会衆に始めさせるように決めた。推薦された者のうち、任命されない者もいるという事実はものみの統治体に送られる名前を形はどうあれ聖霊が「選んでいる」いう感覚を信用するからだ。実際、地元の長老から推薦された大勢の者が間違った選択だったことが判明し、長老から降ろさなければならなかった。長老体制の初めのころは10%ほどが降ろされた(たぶん、聖霊の決断は絶対的に誤りがないのだろう)。
 どの程度間違った選考があるかは、カナダで開かれた地域監督と巡回監督の秘密会議で発表された。そこには現在任命されている長老の50%以上はその資格がなく、長老になるべきではないと記されていた。聖霊がそれほど、どじを踏むなんてありそうもない。この問題を言い逃れるために、感覚の鋭い証人は実際に聖霊が任命をしたのではなく、聖霊が聖書に霊感を与えたのであり、長老になれるかなれないかの資格は聖書から生じる。このようにして聖霊だけがその人を「任命した」と教える。長老の霊的な資格が厳しく守られるなら、聖霊が資格を指図したのだから、その長老は「聖霊によって」任命されたと言える。
 協会が関係した組織的な問題はその大部分が任命に犯罪があったのではなく、手抜きをしたために起きた犯罪である。上に上げたように協会は間違った信仰を止めずにそれを野放しにしている。たとえ間違った信念を始めたり、継続したりしなくとも、それ自体認められたものとなり間接的な支持を得る。その例には、1975年の予言や雑誌「ものみの塔」や「目ざめよ!」が「霊感を与えられている」という考えがある(毎週届く新刊の聖書のようなもの)。一人の証人がこう言った。「あなたの聖書は二千年前に完成されたけど、私たちの持っている聖書は、毎週それに32頁を加えている」。証人の心の中では「ものみの塔」誌は聖書と同じくらいの価値がある。協会は誠実な側には立っていなかったのは明らかだ。たぶん、証人が認めるからこそ協会の目標や目的を推進するのだろう。協会はそうした信念を認め続けてきた。



ものみの塔によるマインドコントロールの使い方


 証人はその規則に一致させ、従順にするためにいろんな技術を使う。その多くはふつう、マインドコントロール、あるいは「洗脳」として知られている。その事例を次に示す。

1. ものみの塔は仲間とのつきあいを制限して、証人が吸収する反対派の情報を量的に質的にも減らそうとしている。特に排斥の痛みを持っている元証人からの話しかけを許さない。ものみの塔は、ものみの塔に反対する文書の閲覧や、ふつう目にする宗教に関係ない新聞や雑誌を除く組織外の文書を読むことを証人に禁止している。すべての外部の者とのつきあいはきつく戒められる。ここでも排斥の痛みを持つ者との接触は許されない。排斥されてもいなくともすべての批判者との交わりは絶対的に禁止される。基本的にそれによって証人が反対派の情報に気がついたり関心を持たないようにふたをしている。証人は一方的に暴かれたものによって教え込まれている(重要なマインドコントロールの技術)。
2. 与えられている情報は、非常に精選されていて、証人やその組織、働きや活動を誤って描写をして公開し、ゆがめるように意図されている。それがどの程度かは、次に示す。


私がエホバの証人と研究を始めた1972年を振り返ると、神の真理を教える地上で唯一の組織の一員である喜びにあふれていた。理屈の上では、昔の「ものみの塔」誌にも、特に、C・T・ラッセルの書物には価値のある著作がたくさんあるのだろう……そう思えた。古い出版物を所有していた長老夫婦を知っていたので時間をかけて熟読した。すると、1892年の「真理」と1972年の真理はちっとも似ていないことが分かった。ラッセルは組織の結成に警告を発していたし、自由にクリスマスを祝ったり、誕生日を祝った。ほかの教会への訪問が許され、キリストとの関係やキリストの「花嫁」であることが熱心に話された。奇妙なことにこれではすべて現在の「ものみの塔」誌とは無関係であろう。


長老からは古い文献に深入りして時間をつぶさないように、はっきり告げらた。新しい光にとって替えられた「古い光」だというのだ。後で1974年ベテル(ものみの塔本部)に行ったときに、「新しい会衆の王国会館図書館に置く」ためにものみの塔に古い文献を送る地下活動があったことを思い出した。ものみの塔の農場の何人かの兄弟は、送られた本で証人が混乱するのを予防するために、たいていの本は秘密のうちに焼却されたと教えてくれた。


現在では1960年代よりも古い図書館を所有する王国会館もある。もしあったとしてもふつうの会衆の人たちには利用できない場合が多い。外部の者(未信者)は間違いなく利用できない。1960年以前の古い文献を本部から得るのは不可能だった。ブルックリン本部にはあちこちに完璧な図書館があるにもかかわらず、古い出版物の複写を拒否する。現在の証人はほとんど10年以内に組織に入ったのだから、40年前あるいは、60年前、100年前にものみの塔が何を教えたか考えられない。そして矛盾に気がつかない。これこそものみの塔が望むところだ(ワター1992年)。



 ものみの塔は組織の政策と教義への批判を抑圧してもいる。たとえそれがやましさのない心配あるいは明確に実証可能な問題であっても、すべての疑問は次のような理由から拒否される。
a. 疑いは「偽り」を表している。疑いはせいぜいのところ弱点であるが、罪でもあるから疑いを持たないことだ。
b. たとえその心配が正しくとも疑うことはよくない。神の組織が知る前に知識を持ったり、神の組織が知る前に問題を知って神の組織の先回りをするからだ。向いている方向が正当でも疑いは邪悪である。たとえ正しい方向に歩いていても、神の組織にとどまり、神の組織と歩むべきだ。先回りすべきではない。
c. 人が持っている目的や関心が実際に正しくとも、真理の中では、進歩は調和より価値は低い。それは調和のために放棄すべきではない
d. 不平や心配を口に出すことは、たとえ十分正当であっても、「偽りの発見」、あるいは、つぶやき、否定的な態度や否定的な心の表現だから否定されるべきだ。
e. 週に5時間の集会出席、月に10時間から15時間の戸別訪問といった心身共にエネルギーを消耗する活動に進んで参加するように証人は奨励されている。証人はたいていその目標を達成できないが、組織へだいそれた批判をするためのエネルギーを心身共に持たなくなるまで忙しくさせられている。奉公人の仕事(証人のもっとも通常の職業は管理人や守衛の仕事。清掃業がもっとも多い)を奨励することで、時間もない状況、えり好みもしない状況、心身ともに組織と組織の政策に大それた批判をするエネルギーが持てない状況に証人を追い込む。身体を消耗させる。しばしば生活必需品の苦労をさせる。精神的に高揚させる。マスローの定義する生活水準階層の最低レベルに位置するように追い込む。これもマインドコントロールの重要な技巧である。



まとめ


 協会がかかえる多くの問題をいくつか簡単に見直すと、現在のものみの塔の体制と古代のクリスチャンの教会、さらに歴代のクリスチャン社会の関心事との間には大きな相違点があることが見えてくる。その相違点は、ものみの塔協会がかなりこだわっている、教義上の一致のような点にあることが指摘できる(聖書上の証拠や議論がほとんどなされていない分野までもこだわっている)。もちろん古代のキリスト教と現在の証人の間には似ている点もある。そしてそれは、証人の出版物の中で常にくどくどしく書かれている。一方、それ以上に多くの相違点はめったは議論されない。
 もっとも心配なのは、現在の証人の組織は信者個人の必要に無責任になりがちなことだ。ふつうの信者には未信者をひどく無視される者に変質させながらも、中心的な伝道者として認められる立場に就かせること、組織はそれにほとんど精力を尽くしているかように見える。中心的な配慮は未信者に証人のたよりを示すことにすべきだと思えるのだが……。証人は、その効果的な演技以上に、世界中いたるところで社会を変えたり、社会に変革を起こす役割を知らない。こうしたほとんど一方的な目的では、問題を抱えている個々の証人を援助しようとする努力をくじく。これまでの史実を見ると、組織には個人の問題や必要に関して責任感が欠けていることが分かる。


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