法廷における嘘と宗教:
エホバの証人の神権的戦いの教義の分析(
9)

宗教上の理由による嘘つきに関するオハイオ最高裁の裁定

 

 オットーベイン・デュースラーの家族の訴えを取り上げてそれを認めた陪審院での事件では、著者は専門家として証言台に立った。オットーベインは、望んでもいないのに突然自分の意志を曲げられ、ものみの塔に338千ドルほどを預けていた。彼はエホバの証人ではなかった。生前、ものみの塔には不満の念を表していた。その家族はものみの塔に金銭を残したのだと主張した。それは、もしデュースラーがものみの塔に金銭を託さなかったら、地上での永遠の命は失われてしまうと確信していたからだ。

 

 ウッド・カウンティー控訴審は、その決定を覆した。控訴審は専門家の証言は結論として次のいずれかに相当するとする裁定を下した。……(1)弁護士、ワルター・コビルは信者だった。(2)教会の神学は教会を守るために偽証を勧める。(3)弁護士、コビルは教会を守るために進んで嘘をついていた。(4)従って弁護士、コビルは信用できない。証拠法610条は証言人の信用性に加えられるこの種の攻撃を禁止している。だから証拠採用したことは誤りであり、「新しい裁判を要する」。控訴裁は、もし教会がその信者に教会の利益を守るために真実を隠したり嘘をつくように教えるなら、あるいは法廷でその事実を公表するなら、取り消されるべき間違いだ。

 ウッド・カウンティー控訴裁の決定はオハイオ最高裁から支持された。「証言人の宗教信条(もしその宗教が信者に嘘をつくように教えるなら)に関する質問は真実性を試すために許される手段として加えてはならない。以下に述べるようにこの事件でものみの塔の責任者が神権的な戦いの教義があると認めたけれども、裁判所はその教義の存在するかどうかには、疑問も公にした。それが宗教的な理由で実行されるか、ものみの塔に反対する者からその教義が法廷で注意を受けるなら、表面上、この裁定は公然と嘘をかばっている。

 この事件は精神的な解離性障害を患っている一人の老人、オットーベイン・デュースラーも関係していた。彼は精神的な問題も抱えていた。家族の側の弁護士、コーヘイ氏によると、エホバの証人はデュースラー氏を信者として迎え入れないそうで、それは、彼の行為はものみの塔の方針に反しているからだ。ものみの塔が世間に示そうとしているイメージを持たないと決めてかかっていた。家族は彼を一人の人間としてまともに助けようとしたのだろうか。家族は彼の遺産をものみの塔に渡すことを少しも心配しなかったのだろうか。一言で言えば、家族は老人に怒りを感じていて、それをものみの塔に利用された。

 家族側の弁護士は自分で調査して「神権的な戦い」の教義に気が付いていた。それが適用されているか否かを論じるために著者は専門家の証言人の席に着かされた。人は「真理そのものを、真理だけ」を伝えるようにとの法廷の要求とは逆に、真理を知る権利がないと信じた者から真理を隠すのはふさわしいとものみの塔が教えているとそこで説明した。特にサタンの事物の体制の一味である者はそうであり、それにはものみの塔の反対者、すべての教会、裁判所を含めた世の政府が含まれる。

 その情報は法廷の中で伝えられ、デュースラーに感化を与えてその意志を変えようとしたと言われているエホバの証人の長老と弁護士、ワルター・コビル氏たちの動機を陪審人に分からせる力となった(コビル氏はこの事件の弁護士ではない)。家族の関心はデュースラー氏が自分の意志を不当に変更させられたことだった。孤独な年寄りがものみの塔に関係を持った後にその意志を変えようとする関心はふつうではない。

 控訴裁は、「証人の宗教信条や意見が証拠として許されるかどうかの疑い」(この場合は神権的な戦いの教義)を裁定した。裁判所は「どんな分析も要らない。証拠法610条から見て、その証拠は許されないだけだ」と結論を下した。裁定を読むと「宗教の事柄について証言人の信仰や意見からの証拠は、その性格から見て、信頼性が損なわれていて、誇張されていたと見せようとした動機があるから許容できない」とある。

 

 公判では「エホバの証人の信仰と行為に関して」原告側が専門家の証言を引き出し、原告側のベテランの専門家は「神権的な戦い」と呼ばれる行為を教会が勧めたと証言したと、オハイオ最高裁は述べた。「この行為には、教会とその信者を守るため、自分自身を偽証するように信者を励ましている教会の政策も含まれるそうだ」。原告の側にすれば、そのほとんどが神権的な戦いに関する専門家の証言と会衆を守るためにエホバの証人は嘘をつくという主張に比重が置かれていたことをも、裁判所は結論を出した。

 

 裁判所はまた、「原告の事件では、防御のためにほとんど反論を受けた。コビルは、自分はエホバの証人の信者であるが、宣誓した上での嘘つきはエホバの証人の教えの信条ではないと証言した(裁判所の記録によるとコビルはトレドの弁護士でこの事件が起きた時には、法曹界で35年を過ごし、60年間証人であったと主張している)。コビルの証言は、地元のエホバの証人会衆の長老、ジョン・シャボーによって確証された」ことも主張した。以下に記したようにコビルはその教義の存在を否定しなかった。その教義の適用をはっきり否定しただけだった。

 

 ジョン・シャボーは、1944年にエホバの証人になった地元の会衆の長老であると証言した。コルブ氏から「かつてこの事件の前に神権的な戦略の教義を聞いたことがあるか」と問われると、(コルブ氏はこの事件でのものみの塔の弁護士で、この事件の証人であるコビル弁護士と混同しないように)こう言って質問を回避した。「それが何を指しているのか私には分からない。会衆で教えたり、研究するものではない」。次の質問ではシャボーはその教義が何を指しているか知っていたと言い表した。ことに、コルブ氏が「あなたの書籍ではそれ(神権的な戦いの教義)が正式に書かれていますか」と問われると、シャボーは正式には書かれていないと否定し、さらにものみの塔の雑誌は「世界中に自由に公衆に分配されている。誰でもそれを目にする。ものみの塔の雑誌でそれ(教義)を目にしたことはない」と付け加えた。その教義が教えられているかが問題なのであり、「正式に」書かれているかは問題ではない。「あなたの書物にその教義が書かれているか」の質問を否定するのは事実に反する。

 「神権的な戦い」ということばはものみの塔自身が製造し、正式に使用している用語だ。1930年から85年までの「ものみの塔の出版物索引」では、「神権的な戦い」は主要なトピック、「戦い、霊的」を読者に指し示している。公式のものみの塔の参考図書『洞察』や「ものみの塔」誌の記事で見られる公式のものみの塔の教義では、その教えが公式に求められる教義であると示している。その教義の存在を否定するなら、その教義を実際に適用していることになる。人は何らかの条件下では真理を伝えないことが正当化されるかとの質問に答えて、シャボー氏はこう語って質問を避けた。「私たちは真理の伝達を強く主張する」。

 

ものみの塔側のもう一人の証人、ワルター・コビルは、「証人としてすでに60年を過ごしていて、前にその教義(神権的な戦い)を聞いたことはありませんか」と問われると、「いいえ、聞いてません」と答えた。さらにコルブ氏がコビル氏に「説教されていないって。あなた方の文書では広く、論じられているではありませんか」と質問した(ここでは「広く」の意味に注意をしなさい)。コビルは「いいえ、それはありません」と答えた。弁護士が、「二日前」に行れた教義の証言について、あれから「その話題を調べたのか」と質問すると、コビルは、「調べました」と語った。

 

私は彼の言うことが奇妙に思えたので手広く調べたところ、30年前、「ものみの塔」誌1960/6/1(英文)の「読者からの手紙」にその問答を突き止めた。「神権的な戦い」と……の二つのことばが同時に現れる。その質問はこうだ。――法廷で証言したり、役人を相手にするときは常に真実を言わなければならないだろうか」。その答えは、……常に真理を話さなければなりません、である。唯一それが変更できるのは(法廷の中で、あるいは相手が公職の役人のときであるが)、教会にいる人の生命が危機に瀕している場合なら、真実をすべて話すべきではない……。その記事は全体主義の政府の下でどう生きるかに適用でき、しかも生存が関係するときだけ実行すべきだ。……私たちの信条によれば、真理を伝えるべきだ。誰かが生存の危機に瀕しているなら……真実をすべて話すべきではないということだけだ。

 

 コビル氏はその教義の存在を否定しなかった。それを適用するときだけが特に問題なのだ。裁判所が暗示したように、教義が存在しないと言っていることとはひどく食い違っている。実際には、その記事は生命の維持について何も語っていないし、神権的な戦いは全体主義の政府の元でだけ行使できるとは言っていない。その記事がはっきりさせているように、それはどんな政府にも当てはまる。控訴被告の弁護士リチャード・コルブは締めくくりの論議の中で、被告人はもめ事の元となった神権的な戦略の教義の存在を否定していないと認めた。

 その締めくくりの論議の中では、控訴被告の弁護団は神権的な戦略の教義が存在することを認めたが、陪審員はこの事件でのコビルやシャボーの証言にはそれが適用されていないと結論を下すべきだと語った。なぜそれが適用されていないかは記録されていなかった。コルブは、その教義は「真実そのもの」を要求している法廷での宣誓とは対照的に、法廷で「真実そのもの」を伝える必要はないという意味であり、「友人を裏切ってはならない」と証人に教えているのだと締めくくりの論議の中で主張した。控訴人はさらにこう述べた。

 

コビル氏は生涯をエホバの証人として過ごしてきた。なのに今だかつてその教義を聞いていない。シャボーもそうだ。しかしコビルがそれをよく調べてみると、仲間の命が危機に瀕しているような特別な環境下にいるなら……もし、証言すると仮定したら、友人を裏切ってしまうなら、そんなことをしてはならないことが分かった。そんなに恐ろしいことなのか。君たちも同じことをするだろうか。

 

 エホバの証人は真理を差し控えていて信用できないと訴えている専門家の証言人に反対する立場で、コビルも証言した。ものみの塔が教えていることとは逆に、控訴人は「神権的な戦いの概念について」の原告側の専門家の証言している例には「該当しない」と、コビルは述べた。控訴裁は一部でははっきりとコビルに賛成し、こうゆう結論を出した。

 

ベテランの専門家はいわゆる神権的な戦略の教義について反対側から証言を許された。(その専門家によれば)教会は孤立主義にこだわっていた。彼ら自身の教会はほかの教会よりも神に好まれていると大勢の協会員が賛成している信条である。しかし「その専門家は」エホバの証人の申し立てた教義は、伝えられているところでは「神権宣教学校」で教会が信者に教えているほど推進していると証言した。その教会は神に好まれているから、教会を守るためには法廷で未信者に嘘をつくことが許されると信者に教えている。

 

 裁判所の「申し立てた教義」ということば遣いには、裁判所から見れば、原告が人を納得させるように、その教義が存在することや、610条の規定のために「神権的な戦い」の教義について証言を拒否した事実がこめられている。たとえコビルや控訴人がものみの塔は神権的な戦略を教えていたと認めたとしても証言を拒否するのだ。

 

 控訴裁の裁定には、「申し立てられた神権的な戦略の教義について」の証言を承認するには新しい裁判が求められる件も含まれていた。問題になった特有の証言(ことばの上ではものみの塔の公式の出版物と似通っている)とは、エホバの証人が自分自身を「自分の故郷で異邦人や旅行者のように」感じることだ。

 

そして未信者は悪魔と見なされ(少なくともエホバの証人になるまでは)エホバの証人は自国でも、ほかの国に居ても人々と臨戦態勢にある。戦闘状態における戦略として、もし誰かが立ち止まって質問をし、その質問に正直に答えるとものみの塔に損害が生じるなら、……もし言おうとしている言い分によってものみの塔に少しでも損害を与えるおそれがあるなら、真理を差し控えるべきだと、ものみの塔は非常にはっきりとした規則を作った。彼ら流の言い方によると、知る資格がない者、真理を学ぶ資格がない者に真理を明かすべきではない。

 

 この意味をはっきりさせるために、法廷でこの教義がどう適用されているかといった質問に答えて、専門家の証言人は次のように証言した。

 

もしあなたが法廷の場でものみの塔を有罪にしたり損害を与える恐れのある質問を受けたら、(彼ら流の言い方で言えば)情報を差し控えるべきです。ものみの塔に損害を与える恐れのある情報を明らかにすべきではありません。もちろん(真実そのものを、真実だけを伝えるべきですと)宣誓をしたとしても、ものみの塔を守るためにできることは何であれ、すべきです。もちろん、それはあの人たちの定義によれば嘘をつくことになったとしてもです。

 

除名の危機にある証人がすべて従わなければならないものみの塔の教義は、ものみの塔の長老や将来の配偶者にすべてを打ち明けるように、人を知る権利のある状態にさせる状況下で巧妙に作られていた。ものみの塔は十分に打ち明けるべき規則にも例外がある、クリスチャンは心の中にだけ秘めるべきものがあると注意を促している。

 

クリスチャンはキリストの戦士として神権的な戦いの中に住んでいるのであり、神の敵を相手にするときは一層注意しなければならない。神の目的とする利益を守るために神の敵から真理を隠すことはふさわしいと、聖書は示している(「ものみの塔」(英文)1960/1/1)。

 

 ものみの塔の記事はさらに法廷で「兄弟のことをしゃべって裏切るか、しゃべらないで法廷を侮辱することになるかの選択に迫られたら……ものみの塔の信者は自分のことよりも兄弟の幸福に重きを置きます(「ものみの塔」(英文)1960/1/1)と付け加えている。ものみの塔の嘘の定義によると、「自分勝手な理由から伝えられる反真理。他人を傷付ける作用をする」(「ものみの塔」(英文)1957/5/1)である。この記事はコビルが言ったような、生死に関わる状況については何も語っていない。「兄弟に対する裏切り」だけが語られている。

 

 専門家の証言人は立場上、これらのものみの塔の出版物の写しを所有しており、それから分かりやすいように言い換えていた。嘘についての裁判所の定義「真実そのもの、真実だけを。また欺くつもりでことばを使う」によれば、この事件には嘘が内在していたことが示されている。

 

 陪審員の決定を覆すために裁判所が用いた規則、証拠法610条を見直してみると、この規則はこの事件とほとんど関係がないことが分かる。この条文は歴史的に見て、次のような場合に適用される。例えば、裁判の事件に関係していない分野に関し証言人の個人的な信仰をあざける目的から、病気が癒されるといった信仰を利用したり、たまたま信仰を持っている証言人の信頼性は疑わしいと言おうとしている無神論者がその人の信条を利用する事例と関係している。該当の事件では証言には信仰や意見は含まれていなかった。しかし公式のものみの塔の出版物で公式に教えられた教義、教会から捨てられるストレスがあるために受容しなければならないし、実行しなければならない教義が含まれていたのだ。ここで注意すべきは、「45年間患ってきた肺気腫が『聞き取りの翼』ラジオ局の祈りのリクエストのおかげで癒された」とエンマ・クリストンが主張したからと言って、コビル氏がその証言は「信用できないほどだ」と語って、原告側の証人として立ったエンマをその裁判書類の中で愚弄していることだ。コビルはさらに、エンマの証言は「能力のある、信頼できる証言といった基本的な要件を満足していないほど極端なものだ」と付け加えていた。現在でも、信仰で癒されると信じている人が数百万人も居る。この種の反応は610条が抑止しようとする意図と正確に一致しているようだ。

 

 この規則は、かつての、罪に対する超自然的な恐怖だけで証言人が宣誓に忠実にさせられるといった共通の思いこみから生じた。証言人が無神論者(あるいはほかの宗教を持っている者)であることを明かすような質問が禁止されているためである。この事件の場合、法廷の審問の中で提起しなければならない大事な問題は、コルビとシャボーの宗教である。

 

 ユタ州の州法の規定やニューヨークの裁判所の意見では、宗教に対する意見を理由に証言を閉め出されるべきではないとなっている。しかしそうした意見は証言人の信頼性を疑うために用いられることもある。けれども、裁判所は宗教的な質問は証言人の性格と正直さを評価する手段として使えると、裁定した。もっと最近になると裁判所は通常、証言台の証人の信頼性を質問するために宗教上の信条や不信仰を反対尋問の一部として用いられないといった意見を支持していた。この規則がしばしば正当と見られるのは、真実かどうかのテストとして神学的な正統性が用いられていないことだ。証言台の証人が陪審員とは違った考えを持っていると、この種の質問をすると陪審人が示された証言を割引いて聞く恐れがある。

 

 この事件で証言したエホバの証人の長老の一人は、ものみの塔は神権的な戦いの教義を教えていないと主張したと、裁判所は暗示した。もしそれが本当で、神権的な戦略の教義が実際にエホバの証人の教義だったら、その長老はものみの塔を守るためにその教義を適用していたことになる。しかし実際はその長老は法廷でその教義を争わなかったが、その教義はもはや現在のアメリカの法廷では適用されないとだけ主張した。別な長老は責任逃れをして半世紀ほど活発な証人であったとしてもその教義に詳しくないときわめてありそうもない状況を主張した。

 

 前にも書いたように、ものみの塔は知る権利のないと感じる者の知識がものみの塔の利益を損ねる恐れがあるなら、その者から情報を差し控えるのはふさわしいと印刷物で教えている。これは「真実そのもの、真理のみ」を要請している法廷の宣誓にあからさまに違反している。ものみの塔の宗教信条はこの事件に批判的だった。神権的な戦いの信仰の効き目が評価される恐れがある限り、この種の事件で裁判をする目的はない。もしその教義についての質問を受けたら、法廷の宣誓が求められたように真実を伝えることがふさわしい応答である。しかしエホバの証人が従っているものみの塔の教義では裁判所はサタンの体制の一味であるから、宣誓を十分、尊重していない。

 

 神権的な戦いの教義は証言をうたがわしくさせるほどに証言人であるエホバの証人には影響を及ぼしていないと、裁判所は判断したようだ(正確には私の考えでは)。さらに神権的な戦いの教義が現在作用していて、証言を左右することが確認されたとしても、事件でべテランの専門家を拒否してきたようだ。なぜなら、「宗教に関する証言台の証人の信条や意見による証拠は、その性格上、信頼性が害されたり、高められていることを示す目的であれば認められない」からだ。私の考えでは、これらの二つの規則は、将来の法廷の事件で深刻な虐待を招くし、レッドマン事件のようにさせるべきではない。

 

 例えば、カルト集団「ヤハウェ・ベン・ヤハウェ」を考えてみると、彼らは教会を守るためには殺人もふさわしいと教えている。オハイオ最高裁の裁定と十分に矛盾を無くすために、もし検察官がこの宗教的な教義について法廷で注意を促すなら、証拠法610条は殺人の確証は控訴で覆ることを示している。「ヤハウェ・ベン・ヤハウェ」の信者は少なくとも14件の殺人に関与しても、その宗教信条は殺人の動機付けを確固たるものにするには批判的であると、裁判所は裁定した。

 裁判所はヤハウェ・ベン・ヤハウェの宗教信条である殺人の言行不一致を推進したり正当化するといった教えは調査すべき適切な分野であると裁定した。さらに、殺人の有罪判決がもっとも適当であるなら、死亡した理由を決定して確定するべきだ。巡回裁判所は不法行為に関与したのに宗教を隠れ蓑にはできないとも、裁定した。レッドマン事件では、裁判所は神権的戦いの信仰を隠れ蓑にすることを大目に見てきた。控訴裁の決定も、オハイオ最高裁の決定も、もし起訴した者が法廷で宗教信条を持ち出すなら、宗教信条に基づく嘘に白紙委任状を渡すようなものだと判断した解説者もいる。

19944月、オハイオ最高裁は法廷ではエホバの証人が「神権的戦略」を使っている証拠を利用できないと裁定した。この裁定は事実上、宗教の自由を名目にして、エホバの証人がオハイオ州の裁判所で欺きの行使を許しているようなものだ。

 


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