法廷における嘘と宗教:
エホバの証人の神権的戦いの教義の分析(
8)

嘘をつくと結局は高い代償を払わないといけないのだ

 ものみの塔に害を及ぼす者に真理を差し控えるのはふさわしいといったものみの塔の神権的な戦略の教義にはその利益をふやす意図がある。明らかに私の知る限り、例外は二つあるが、裁判所が定義しているような嘘をつくのはふさわしいと、じかに公式な教義の一部として教えている唯一の宗教集団である。目先の利益だけを考えれば、この教義は有益かもしれない。しかし、長い目で見て、それはものみの塔の助けになるよりはものみの塔の利益を害するものとなろう。

 この神権的な戦略の教義がもっと大きく影響するのは、ものみの塔の欺きの記録に気が付くときに証人に心理的なダメージが生じるからだろう。これは、記述した研究を実施したときの92人のアメリカ人と39人のイタリア人との面接ではっきりしている。ものみの塔に正直さが欠けていると分かるとたいてい幻滅を覚える。メンバーがカルトを去ってしまう。脱会は多くの人々にとっては信じられないほどのトラウマである。特にひどくのめり込んでいる人はそうなる。デュロンが述べているように……

1975年に宗教を離脱するまで私はエホバの証人の3世であった。私は二世に嫁いだ。私と夫がその生活に理性を求めて証人の信仰と行動に浸っていた。独身の頃と結婚してからの時代を合わせるとその時間は、夫婦合わせて60年以上も、そこで歳月を重ねた。道徳や宗教、社会、個人の価値観や信仰のすべてを考え直す霊的な激動を経験した後、生活をどう建て直すかを学習するだけではない。目下の心配事の源は、冷静に「誰が子どもを手にするか」に取り組むことだ。二人の子どものことも考えなければならなかった。

 サラは妻ではなくて、妹であるとファラオに語っているアブラハムを証人が引用している例は、逆に将来を予言的に証明しているものしれない。それがものみの塔を脱会する決め手の一つになるし、ものみの塔の非難を正当化する一つの足がかりとしては都合がいいのだから、反対者はこの教義にしつように食い下がれる。だから、ものみの塔の反対者はこの教義を何度も引用する。

 

 あからさまに教義を変更すると、それを教え込んでいるし、当たり前に行動に移されていたという結論になるから、方針を変更しそうもない。見落としては成らないことには、方針を変更するとそれが間違っていたと認めることにもなるのだ。差し迫ったハルマゲドンの期待を考えればものみの塔はこの予告された戦争が問題を解決するはずだ。だから面子が立つのだという希望を持っている。非証人はハルマゲドンですべて滅びるのだから、ものみの塔に反対する者はいなくなる。だから新しい世界には神権的戦いの教義は必要なくなるだろう。「万能の神の偉大な日」の予告が何度も失敗した過去に鑑みて、その教義を直視せざるを得ないだろう。それを静かに消し去るか(それはたいした問題だとは思えない。その教義は最新のものみの塔の出版物でも繰り返されている)、その聖書解釈の間違いに立ち向かい機能的な道徳律が込められている方針に進化させるか、いずれかだろう。

 


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