jw.orgの「聖書は実際に何を教えていますか」解説
第3章 神は地球についてどんな目的をお持ちですか

 エホバの証人は、地球についての主要な神の目的とは、地上が健全な人々で満たされることであると主張します。来るべき日には、ものみの塔の組織の中で神に奉仕して神に認められる民のために新しい楽園が創造されると主張します。「聖書は実際に何を教えていますか」の第7章には亡くなった愛する人たちが復活すると書いてます。
  人類に対する神の本当の目的が福音書に書かれているのに第3章には一切、言及されてません。
  人類に対する神の目的は次の聖句に書かれています。

主は、ある人たちがおそいと思っているように、その約束のことを遅らせておられるのではありません。かえって、あなたがたに対して忍耐深くあられるのであって、ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。(ペテロ第二3:9)

 神は人の滅びを喜びません。エホバの証人は、神に背く者が赴く場所である「地獄」を信じません。不忠実な者は地上の楽園で神に奉仕するためのセカンドチャンスを与えられると信じています。また、悪人は永遠に神によって滅ぼされ、復活しないと信じています。エホバの証人は、地獄を信じないし、聖書で墓を意味する比喩的な意味しかないとも言います。聖書の黙示録に書かれている「血の池」は文字通り受け取ってはならない、象徴にすぎないと言います。
  実際の神の人類についてのみこころは、悔い改め(心変わり)です。人は、神から見れば罪人であることを認めなければなりません。神についての心を変え、罪が許され、永遠の命という無料の賜物を受けるために救い主であり、神の子、イエス・キリストを受け入れなければなりません。
  どのようにして人は永遠の命を得られるかが聖書に書かれています。それは、唯一の主、イエス・キリストによらなければ叶いません。

それは、信じる者がみな、人の子にあって永遠のいのちを持つためです。(ヨハネ3:15新改訳)

  新世界訳聖書では、救いの方法を同じように書いてます。その部分を読むと。

それは、彼を信じる者がみな、永遠の命を持つためです。(ヨハネ3:15新世界訳)

 どのようにすれば人が永遠の命を受けるか、新世界訳でも明確に分かります。新改訳でその方法が確かめられます。

神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。(ヨハネ3:16)

 新世界訳聖書ヨハネ3:16によると、信じるだけでは永遠の命を得られるとは明らかにしていてません。ヨハネ3:15と矛盾するし、継続して信仰を働かせなければならないと、彼らは確認しています。それは「働きによる救い」を暗示します。

というのは、神は世を深く愛して、ご自分の独り子を与え、だれでも彼に信仰を働かせる者が滅ぼされないで、永遠の命を持てるようにされたからです。(ヨハネ3:16新世界訳)

 

「信仰を働かせる」というものみの塔の用語に従えば、ここでも、永遠の命を受けるため、神の王国を確かめ、組織の働きを継続し、出版物の種を蒔き、人々に語り続けなければならないことを確認しています。しかし、永遠の命を受けるために働き続けるとなると、十字架の上で死なれたキリストは無意味になります。人類のためにキリストが何を行ったかを信じれば永遠の命を受けられます。自分らが何を行ったかでは受けられません。聖書では、使徒パウロがそれを明らかにしています。

しかし、人は律法の行ないによっては義と認められず、ただキリスト・イエスを信じる信仰によって義と認められる、ということを知ったからこそ、私たちもキリスト・イエスを信じたのです。これは、律法の行ないによってではなく、キリストを信じる信仰によって義と認められるためです。なぜなら、律法の行ないによって義と認められる者は、ひとりもいないからです。(ガラテア2:16)
私は神の恵みを無にはしません。もし義が律法によって得られるとしたら、それこそキリストの死は無意味です。」(ガラテア2:21)

 パウロは、働きをしたり、律法を守って義とされるのではなく、主、イエス・キリストを信じて義とされるのであり、人間が創造した組織に依存するのではないと、説いています。さらに、パウロは、律法の働きとか、自分自身の善行によって義とされるのであれば人類のために十字架の上でのキリストが死なれる必要はなかったと説いています。
  誰かが高潔に生きて、義認されるわけではありません。エホバの証人は、「改心して生活を一新する」とか、「清い生きかた」をすれば、義とされるし、ものみの塔を支持し続ける限り、永遠の命を受けると主張します。しかし、旧約聖書でも、新約聖書でも、幾度となく、高潔な生き方は不潔な着物(イザヤ64:6)であり、自力では永遠の命は得られないと教えています。
  高潔な生き方をすると神に喜ばれると主張するエホバの証人にとっては目障りな聖句があります。

たとい、あなたがソーダで身を洗い、たくさんの灰汁を使っても、あなたの咎は、わたしの前では汚れている。――神である主の御告げ。――(エレミア2:22)

 イエス・キリストが成就した業を信じるから、人は罪や悪を洗い清められます。そして神との関係に入るのです。
  エホバの証人は将来、ハルマゲドンに遭遇すると主張します。しかし、「聖書は実際に何を教えていますか」の第3章の中ではそれに触れていません。地上にいるとき、永遠の命に手が届くまでにハルマゲドンを経験するはずなのにそれを読者に伝えてません。エホバの証人が生存している間に必ずハルマゲドンに遭遇するはずなのです。それによって、エホバの証人の命が確保されて平安が続くといった偽りの幻想を創造しているのに……。
  エホバの証人自身、聖書に書かれている、聖書的な終わりの日の出来事を無視しています。以下にその日に何が起きるか、聖書から説明します。
  テサロニケ人への手紙には終わりの時に起きる超自然的な出来事が明確に書かれています。

主は、号令と、御使いのかしらの声と、神のラッパの響きのうちに、ご自身天から下って来られます。それからキリストにある死者が、まず初めによみがえり、 次に、生き残っている私たちが、たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うのです。このようにして、私たちは、いつまでも主とともにいることになります。こういうわけですから、このことばをもって互いに慰め合いなさい。(テサロ二ケ第一4:16から18)

 パウロは、テサロニケの教会に宛てて、キリストはまもなく再臨し、亡くなった人も、今、生きている人も、空中で「主」と会うために、雲の中で一緒に「引き上げられる」と伝えて、慰めるとともに励ましをしてます。
  「主」にある信徒にはすべて慰めが与えられます。大勢のクリスチャンは日々、迫害されるでしょう。霊的な戦いに参加している者も、常に攻撃されて信仰を戦っている者も、共に空中で「主」と会えることが期待されます。エホバの証人は、現存していて協会にある者なら、すべてハルマゲドンと大艱難を経験すると主張します。エホバの証人は不運にも「主」イエスを信仰していないのだから、その説は間違っていません。神はエホバの証人の信仰を喜びません。「主」イエス・キリストを信じる神の子は神の怒りに会いません。

神は、私たちが御怒りに会うようにお定めになったのではなく、主イエス・キリストにあって救いを得るようにお定めになったからです(テサロ二ケ第一5:9)

 主、イエスにある者はすべからく、大艱難には遭遇しません。霊性にかかわらず、すべての信徒は天で裁きの座にいるキリストによって裁かれます。地上でキリストのために何をしたかによって評価され、報いを受けます。この裁きは信徒だけが対象です。実際に救われたか否かは「働き」によって左右されません。
  大艱難は二つの時期に分かれます。合わせて七年です。大艱難に生き残った者は終わりの時に地上に注がれる神の怒りを経験します。
  最初の3年半の期間に何が起こるのでしょうか。それは次の聖句から確かめられます。

それから、わたしがわたしのふたりの証人に許すと、彼らは荒布を着て千二百六十日の間預言する。」(黙示録11:3)

  大艱難の前半期にふたりの証人が現れます。3年半を意味する千二百六十日の間、預言します。そして、彼らは取り去られ、後の3年半はアンチキリストが支配します。

この獣は、傲慢なことを言い、けがしごとを言う口を与えられ、四十二か月間活動する権威を与えられた。(黙示録13:5)

 エホバの証人は、アンチ・キリストは複数、存在すると主張します。大勢のアンチ・キリストがいて、国家でさえもアンチ・キリストになると言います。聖書ではアンチ・キリストは一人だけであり、地上に3年半いる間にその性格と目的が露わになる。すべての者が受けるべき印を付けて回ります。その印が無いと売買もできません。

また、その刻印、すなわち、あの獣の名、またはその名の数字を持っている者以外は、
だれも、買うことも、売ることもできないようにした。(黙示録13:17)

  この印を付けた者に警告がなされます。印を持っている者は売買ができますが、地獄についての契約をしなければなりません。そして永遠に地獄に突き落とされます。

また、第三の、別の御使いも、彼らに続いてやって来て、大声で言った。「もし、だれでも、獣とその像を拝み、自分の額か手かに刻印を受けるなら、
そのような者は、神の怒りの杯に混ぜ物なしに注がれた神の怒りのぶどう酒を飲む。また、聖なる御使いたちと小羊との前で、火と硫黄とで苦しめられる。
そして、彼らの苦しみの煙は、永遠にまでも立ち上る。獣とその像とを拝む者、まただれでも獣の名の刻印を受ける者は、昼も夜も休みを得ない。(黙示録14:9から11)

 天に引き上げられなかった者にとっては、重要です。救い主、イエス・キリストを受け入れなかった者です。聖書には印を撤回できないと書かれています。しかしイエス・キリストの信徒はすべて上に書かれているとおり、心配する必要はありません。主、イエス・キリストを信じ、神の子となる者には神の怒りに会いません。大艱難の前に迎え入れられます。
  大艱難が終わる前にアンチ・キリストを打ち負かすためにキリストは花嫁と共に地上に帰ります。エホバの証人は新世界訳聖書ではこの教えを曖昧にしています。
  すべてのエホバの証人はこの大艱難を経験し、終いまで耐えるなら、その辛抱の程度に応じ、また信仰とエホバへの奉仕に応じて、楽園に入れると主張しています。
  聖書にはキリストが再臨した時の地上の楽園について書かれています。楽園に入るのは救い主、キリストを受け入れた者です。大艱難の時期を経験し、キリストを信じる大勢の信徒がいます。しかしキリストを信じて打ち首になり、殉教者となります。大艱難を生き延びてキリストと共に千年期を迎える者もいます。しかしイエスのような栄光ある体を持っていません(ピリピ3:21)。自分本来の体を持った者は、地上の千年期の終わりにキリストに背きます。そのときサタンは短い期間、解き放たれます。そのとき、キリストに背いた者は、終いには地獄に迎入れられます。

この第一の復活にあずかる者は幸いな者、聖なる者である。この人々に対しては、第二の死は、なんの力も持っていない。彼らは神とキリストとの祭司となり、キリストとともに、千年の間王となる。しかし千年の終わりに、サタンはその牢から解き放され、(黙示録20:6から7)

 サタンが短かい間、牢獄から解き放たれ、再び多くの国々を騙そうとした後、サタンは血の池に追い出されますが、騙された者とキリストに背いた者も同じ目に遭います。大艱難の間、キリストに忠実だった者は贖い出され、創造されるべき新しい地上で永遠に生きます。

また私は、新しい天と新しい地とを見た。以前の天と、以前の地は過ぎ去り、もはや海もない。(黙示録21:1)

  なぜキリストを受け入れて救われるようにし、一人として来るべき神の怒りを経験しないように警告しているのか、聖書にはここにその理由が書かれています。

確かに、今は恵みの時、今は救いの日です。(コリント第二6:2)

 今、どのようにして救われるか、地上でも地獄でも神の怒りからどのようにして避けるかを明らかにしています。

ふたりは、「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。」と言った。(使徒行伝16:31)

 今、キリストを拒み、将来、キリストに背くなら、地獄で自分の罪を裁かれます。地獄からは脱出できません。地獄と血の池は永遠の責め苦となると、聖書は教えています。


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