jw.orgの「聖書は実際に何を教えていますか」解説

第15章 神に是認される崇拝

  エホバの証人は、会衆内では主イエスを崇拝することは偶像崇拝であると教え、主イエスを礼拝することを禁止しています。どんな形であれ、イエスは崇拝の対象てはないと教えています。
  しかし、1954年まではものみの塔協会はイエスを崇拝していました。初代会長、C・T・ラッセルはイエスを崇拝できるし、何らやましいところは無いと主張しました。「シオンのものみの塔」誌には次のように書いていました。

彼(イエス)は天から来られたと繰り返し述べているし、人間として試練と悲哀を経験したのだから、神の権威を有し、神の権力を行使した。赤ん坊の時でさえ(生まれたばかりの王を見に来た賢人からは)、誰からも咎められずに礼拝される対象だった(マタイ2:2-11)。天使さえ喜んで彼(イエス)を褒め称え、崇めた。「さらに、長子をこの世界にお送りになるとき、こう言われました。『神の御使いはみな、彼を拝め』」(ヘブル1:6)。
彼(イエス)は自分に礼拝しようとする者を一度もとがめなかった。コルネリアがペテロ(使徒)を礼拝しようとするとこう語った。「お立ちなさい。私も同じ人間です」(使徒行伝10:25)。異邦人へ伝道した原始キリスト教会の伝道者はいけにえを捧げる人々の偶像崇拝をほとんど、とがめまなかった。「私たちもみなさんと同じ人間です」(使徒行伝14:15)。だから、キリストが人間でなかったなら、礼拝を受ければ自分への礼拝を拒んだであろうと解釈するほうが理にかなっている。("Zion's Watch Tower " 1880/10)

 C・T・ラッセルは「ものみの塔」1898/7/15号 P.216に次のように書いていました。

質問:主が礼拝されていたという事実があります。地上においては主は神でした。しかし、肉の体を装ってはいても、実際は人間でなかったことは明らかです。イエスは本当に礼拝を受けていたのでしょうか。あるいは間違っているのでしょうか。答え:その通りです。地上においても主イエスは実際に礼拝を受けていたと信じます。イエスは「父」の唯一の子であり、すべての被造物の中では神の代理人です。

 イエスは「父」ではないのだから、エホバの証人が上の引用文を読めば頭が混乱します。ラッセルは、ペテロに腰をかがめたコルネリオの行為は間違いだったと主張していました。ペテロはただの人間だからです。現代のエホバの証人はイエスは天使であったし、地上においては人間であったし、死んだ後には、聖者として甦ったと主張します。もちろん冒涜しています。人間なら罪のために十字架の上で死ぬはずがありません。イエスが人間にすぎないなら、それは明らかに肉において現れた神ですテモテ第一3:16)。イエスは一度も罪を犯していないから、イエスは神でした。神は罪を犯さないが、人間は罪を犯すからです。
 ラザフォード判事はイエス礼拝に関してはラッセルの説を踏襲しました。

 エホバ神はすべての者がキリスト・イエスを礼拝するように命じた。「父」エホバの特別な生き写しであり、常にエホバの目的を遂行する優れた家僕だったからだ。("Watchtower" 1939/11/25 P.339)

 1950年代になって新世界訳聖書が出版されるとものみの塔はイエス崇拝を撤廃し、イエス礼拝は偶像崇拝だと主張しました。
「ものみの塔」(英文)1954/1/1 P.31には次の記事があります。

  私たちはイエスを崇拝すべきでしょうか。
イエス・キリストは「父」なる神と同格の三位一体の位格ではなく、別個の位格、「神の子」ですから、現在、天で栄光を称えられるイエス・キリストには礼拝が捧げられません。上の質問に対する答えです。礼拝はエホバ神に捧げられます。イエス・キリストの名において神への礼拝を捧げることにより、神の唯一の「子」へのふさわしい敬意が示されます。今、ひざまずいて祈る時には、エフェソ3:14-19に従ってパウロにしたようにイエスご自身の支持に従い、イエス・キリストのみ名によって祈りを捧げます。しかし、イエスに対する祈りではなく、「父」なる神に祈ります。そのようにして私たちはものごとをふさわしい向きにとどめます。

 主、イエスは崇拝を受けられたのだろうか。

 この四つの生き物には、それぞれ六つの翼があり、その回りも内側も目で満ちていた。彼らは、昼も夜も絶え間なく叫び続けた。「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな。神であられる主、万物の支配者、昔いまし、常にいまし、後に来られる方。
また、これらの生き物が、永遠に生きておられる、御座に着いている方に、栄光、誉れ、感謝をささげるとき、二十四人の長老は御座に着いている方の御前にひれ伏して、永遠に生きておられる方を拝み、自分の冠を御座の前に投げ出して言った。「主よ。われらの神よ。あなたは、栄光と誉れと力とを受けるにふさわしい方です。あなたは万物を創造し、あなたのみこころゆえに、万物は存在し、また創造されたのですから。(黙示録4:8-11)

 イエスが来られる時、イエスは万能であると叫んでいます。また「父」は地上には来ません。地上に来られるのは主、イエスです。四匹の生き物はイエスを礼拝したばかりか、二十四人の長老もイエスが万物を造られたと言い、イエスを礼拝しました。万物は主、イエスが造られたことはコロサイ第一、一章からも裏付けられます。
 福音書を読むと、イエスを信じた罪人は主イエスを礼拝したことが分かります。罪人はひとたびイエスを信じるとイエスを礼拝しました。

神は、罪人の言うことはお聞きになりません。しかし、だれでも神を敬い、そのみこころを行なうなら、神はその人の言うことを聞いてくださると、私たちは知っています。盲目に生まれついた者の目をあけた者があるなどとは、昔から聞いたこともありません。もしあの方が神から出ておられるのでなかったら、何もできないはずです。」彼らは答えて言った。「おまえは全く罪の中に生まれていながら、私たちを教えるのか。」そして、彼を外に追い出した。イエスは、彼らが彼を追放したことを聞き、彼を見つけ出して言われた。「あなたは人の子を信じますか。」その人は答えた。「主よ。その方はどなたでしょうか。私がその方を信じることができますように。」イエスは彼に言われた。「あなたはその方を見たのです。あなたと話しているのがそれです。」 彼は言った。「主よ。私は信じます。」そして彼はイエスを拝した。神は、罪人の言うことはお聞きになりません。しかし、だれでも神を敬い、そのみこころを行なうなら、神はその人の言うことを聞いてくださると、私たちは知っています。(ヨハネ9:31-38)

 聖書には主イエスによって癒された人々がイエスを礼拝したことを記した箇所がいくつもあります。主イエスは彼らの行為を決してとがめませんでした。
 エホバの証人は「聖書は実際に何を教えていますか」の第15章では、とこしえの命を得るためには、常に神を崇拝し、良い行いを示さなければならないと主張します。上に引用した聖書の箇所では、「神を敬い、そのみこころを行うなら、神はその者の言うことを聞いてくださる」とあります。だから神は神のみこころを拒む者の言い分を聞きません。救いのための神のみこころはヨハネ六章の次の箇所に説明されています。

事実、わたしの父のみこころは、子を見て信じる者がみな永遠のいのちを持つことです。わたしはその人たちをひとりひとり終わりの日によみがえらせます。(ヨハネ6:40)

 エホバの証人はイエスを信じていると主張します、それはものみの塔が創作した異なるイエスであり、間違って異なるイエスを信じています。救いのためにイエスを信じてはいません。エホバの証人の行いは救いの「一因」となりますが、行いによって永遠の命を得る者は一人もいないから、行いは徒労に終わります。
 主、イエスは、ヨハネの福音書の中でユダヤ人に次のように伝えました。

 だから、あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになると私は言ったのです。「わたしはある」を信じないならば、あななたたちは自分の罪のうちに死ぬことになる。(ヨハネ8:24新共同訳)

 「わたしはある」という称号は、「私は汝たちに遣わされた」とほかの者たちに告げるようにと、神がモーゼに仰せられたときに神が明かした神の名前です(出エジプト3:14)。なぜイエスに石を投げようとしたのでしょうか。それはイエスがその名を使う者であるとはっきりと分かっていたからです 。

ユダヤ人たちはイエスに答えた。「良いわざのためにあなたを石打ちにするのではありません。冒涜のためです。あなたは人間でありながら、自分を神とするからです。(ヨハネ10:33)

 わたしたちは、主、イエスを礼拝できるのでしょうか。もちろん出来ます。イエスに癒された者だけに限らず、弟子もイエスを礼拝したと、新約聖書の福音書の多くの箇所に書かれています。
 エホバの証人は主、イエスへの祈りを許されていません。ステファノが主イエスに祈った箇所を読んでみると……。

こうして彼らがステパノに石を投げつけていると、ステパノは主を呼んで、こう言った。「主イエスよ。私の霊をお受けください。(使徒行伝7:59)

 ステファノは「神」に呼びかけた後、「主イエス」と口にして、死に際にイエスに自分の霊を受取るようにと、祈りました。エホバの証人は人間には霊や魂を持たないと信じていますから、エホバの証人はこの聖句を読むときにはとまどいます。
エホバの証人は自分たちが本物の宗教だと主張します。ほかのカルトと同様に、良い行いをして永遠に生きると信じています。すべての宗教が玉座の神の前に立つときが来ます。そのとき、どうして神に受け入れられないのか当惑します。

わたしに向かって、『主よ、主よ。』と言う者がみな天の御国にはいるのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行なう者がはいるのです。
しかし、その時、わたしは彼らにこう宣告します。『わたしはあなたがたを全然知らない。不法をなす者ども。わたしから離れて行け。(マタイ17:21,23)

 主は、行い重視の宗教や不正を働く者、自分の働きによって天に入ろうとする者たちを集めます。 カルトは神と和解する権利を得なければならないと信じています。キリスト教はまず神との関係であり、キリスト教は神に近づこうとする人ではありません。

この方はもとから世におられ、世はこの方によって造られたのに、世はこの方を知らなかった。この方はご自分のくにに来られたのに、ご自分の民は受け入れなかった。(ヨハネ1:10,11)

 主、イエスは人間と関係を持とうと、地上に来られました。イエスはご自分のところに来られたのに自分の民はイエスを受け入れませんでした。行いがあって神と和解したり、神に受け入れられるわけではありません。私たちのためにそれをなさるのはイエスです。私たちに命を与えるために十字架の上で死なれたイエスを信じる者は命を受けます。
 神と和解する道は、正しい行いによるのでも、善行によるのでもありません。主イエスがそれを成し遂げました。それが、頭を垂れ、亡くなられる前に「成し遂げたり」のことばを発した理由です。
 私たちを神に近づけるために主、イエスがこの世に来られました。自分のやり方で神に近づこうとする者たちの許には来ていません。

キリストも一度罪のために死なれました。正しい方が悪い人々の身代わりとなったのです。それは、肉においては死に渡され、霊においては生かされて、私たちを神のみもとに導くためでした。(ペテロ第一3:18)

 この聖句は、主、イエスが私たちを神に近づけることを示しています。組織を介しても、また自分で良い行いをしても神には近づけません。エホバの証人はイエスが霊者としてよみがえった証明としてこの聖句を使います。しかし、イエスが「霊」によって甦ったのです。霊者として甦ったのではないとこの聖句は示しています。
「神の子」イエスは十字架上で私たちの罪のために刑罰に処せられ、私たちのために血を流され、死んだ後、三日目に墓から甦られました。その「神の子」イエスの無料の賜物を受け入れるなら神に義認されます。パウロはローマ書の中でそれを認めています。

しかし、今は、律法とは別に、しかも律法と預言者によってあかしされて、神の義が示されました。 すなわち、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、それはすべての信じる人に与えられ、何の差別もありません。 すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、 ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。 神は、キリスト・イエスを、その血による、また信仰による、なだめの供え物として、公にお示しになりました。それは、ご自身の義を現わすためです。というのは、今までに犯されて来た罪を神の忍耐をもって見のがして来られたからです。(ローマ3:21-25)

 キリスト教は自分の救いのために行いをする宗教ではありません。私たちの永遠の命のため、十字架上で購いをされた人との関係がキリスト教です。イエスの血潮がすべてを清算しました。ヘブル9:22には血潮がなければ罪の許しは無いと書かれています。イエスは私たち全員のために血潮で購いました、イエスを受け入れ、イエスを信じるなら、私たちのために流した血潮によって私たちの罪が赦されます。

 

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