jw.orgの「聖書は実際に何を教えていますか」解説
12章 神に喜ばれる生き方をする

 エホバの証人は、神に喜ばれるためには神に喜ばれる生き方をしなければならないと語る。
「聖書は実際に何を教えていますか」P.121、122には神に喜ばれる生き方を始めるには悔い改めてエホバの憎むもの退けなければならないと書かれている。この章にはイエスのみ名は一か所も書かれていない。贖いの犠牲は一切、書かれていない。彼らは救い主としての主、イエスを受け入れなくとも新人深い生き方を始められると信じている。
  マタイの福音書では主、イエスは主の前に立つ者、天に入る道を試みようとする者に次のように説いている。

わたしに向かって、『主よ、主よ。』と言う者がみな天の御国にはいるのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行なう者がはいるのです。 その日には、大ぜいの者がわたしに言うでしょう。『主よ、主よ。私たちはあなたの名によって預言をし、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって奇蹟をたくさん行なったではありませんか。』 しかし、その時、わたしは彼らにこう宣告します。『わたしはあなたがたを全然知らない。不法をなす者ども。わたしから離れて行け。』(マタイ7:21-23)

  ここでは「主よ、主よ」と言ってはいても天に入れない者を説いている。まず、この箇所の出だしを読めば、なぜ天の国の入口を示さない理由が分かるし、それは天におられる「父」のご意志を行わないからだと分かる。エホバの証人は王国の福音の宣べ伝えることが「父」のご意志であると主張する。しかしそれは不法の者について書かれている結びのことばと矛盾している。それでは天の御国に入るという「父」のご意志とは何か……。ヨハネの福音書にその答がある。

 すると彼らはイエスに言った。「私たちは、神のわざを行なうために、何をすべきでしょうか。」 イエスは答えて言われた。「あなたがたが、神が遣わした者を信じること、それが神のわざです。(ヨハネ6:28:29)

   イエスの弟子たちは主、イエスとの会話の中で、主に何をすべきか、神のわざは何かを尋ねている。すると主は、主、イエスを信じることが「父」のわざであると答えている。
  ヨハネの同じ章に書かれている、人類に対する「父」のご意志と一致している。

事実、わたしの父のみこころは、子を見て信じる者がみな永遠のいのちを持つことです。わたしはその人たちをひとりひとり終わりの日によみがえらせます。」(ヨハネ6:40)

  「父」のご意志は「父」が生んだ唯一の子、イエス・キリストを信じることである。救い主としてのイエス・キリストを受け入れなければ、いかなる神のわざも行えないし、神を喜ばせることはできない。
  自分勝手に正しいかのようなわざを行っても神を喜ばせることはできない――聖書はそう宣告している。

 私たちはみな、汚れた者のようになり、私たちの義はみな、不潔な着物のようです。私たちはみな、木の葉のように枯れ、私たちの咎は風のように私たちを吹き上げます。(イザヤ64:6)

 パウロはテトスへの手紙の中でも、自分で義のわざを行っても救われないのだと説いている。

 神は、私たちが行なった義のわざによってではなく、ご自分のあわれみのゆえに、聖霊による、新生と更新との洗いをもって私たちを救ってくださいました。(テトス3:5)

 聖書には、神の恵み(賜物)だけで救われると説かれている。自力では救われないし、行いによっても救われない。

 あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。 行ないによるのではありません。だれも誇ることのないためです。(エフェソ2:8、9)

 何らかの行いやわざによっては救われないと、パウロは説いている。エホバの証人は、神から義と認められるにはまず生きている日々の中で罪をすべて悔い改めなければならないと言う。ところで何が良い行いに相当するのだろうか。慈善活動とか、親切な行為だろうか。旧約聖書にはそれが実際に定義されている。

神は、彼らが悪の道から立ち返るために努力していることをご覧になった。それで、神は彼らに下すと言っておられたわざわいを思い直し、そうされなかった。(ヨナ3:10)

 神はニネベの民が悪の道から立ち返るように願った。ニネベの民が立ち返った時、神はニネベの民が行いと悪から立ち返ったことをご覧になり、民に下す災厄を思いとどまった。
  神の子となるためには、救われるために罪から立ち返らなければならないとは指示されていない。救われるためには主、イエスに立ち返り、イエスを信じることを指示されている。パウロは教会との交わりの中で救われるかどうかを心配している人たちと出会った。偽教師が入ってきて偽の福音を伝えていたためである。

私たちの中のある者たちが、私たちからは何も指示を受けていないのに、いろいろなことを言ってあなたがたを動揺させ、あなたがたの心を乱したことを聞きました。(使徒行伝15:24)

 クリスチャンは律法から解放されている。救いのために律法を守るようにとは要求されていない。救われるためにはキリストを信じるようにと指示されているのであり、救いに関係する行為によって救われるのではない。
  使徒行伝十五章一節に戻ると、エホバの証人のようなカルトは天に入るために自分たちの組織と行いに拘泥することが分かる。エホバの証人は駅の周りで毎週何時間もエホバの王国の宣べ伝えている。そうすれば永遠の命を得るだろうと期待する。エホバの証人は自分たちの組織こそが真理であり、組織を介して救われると主張し、自分たちを宣べ伝えている。パウロは、自分たちを宣べ伝えているのではなく、キリスト・イエスを宣べ伝えているのだと説明している。

私たちは自分自身を宣べ伝えるのではなく、主なるキリスト・イエスを宣べ伝えます。私たち自身は、イエスのために、あなたがたに仕えるしもべなのです。(コリント第二4:5)

 エホバの証人は駅の周りで神の王国を宣べ伝えてはいるが、だからといって神を喜ばせているわけではない。福音ではないからだ。クリスチャンは十字架にかけられたキリストを宣べ伝えなければならない。

そのばあい、この世の神が不信者の思いをくらませて、神のかたちであるキリストの栄光にかかわる福音の光を輝かせないようにしているのです。(コリント第二4:4)

 この世の神(サタン)はエホバの証人のこころのシャッターを降ろした。エホバの証人はキリストの栄えある福音を信じていないし、宣ぺ伝えていない。
  エホバの証人のように自分の義によって神を喜ばせると指図するとしたら、人類のために十字架の上で死なれたキリストは無意味になる。

私は神の恵みを無にはしません。もし義が律法によって得られるとしたら、それこそキリストの死は無意味です。」 (ガラテア2:21)

 救い主としてキリスト・イエスを受け入れた後でなければ、神を喜ばせる生き方はできない。救い主として受け入れないで自分の行いで神を喜ばせようとする者はマタイ七章の不法を働く者であり、主、イエスから追い出される者のようだ。
  組織の追従者ではなく、キリストの追従者てあるなら、神を喜ばせる生き方ができる。組織にある者ではなく、キリスト・イエスにある者なら、咎めを受けない。

こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。
それは、肉に従って歩まず、御霊に従って歩む私たちの中に、……(ローマ8:1、4)

 キリストを信じた時にだけ、聖書的に良い行いをするよう命じられる。

永遠の契約の血による羊の大牧者、私たちの主イエスを死者の中から導き出された平和の神が、 イエス・キリストにより、御前でみこころにかなうことを私たちのうちに行ない、あなたがたがみこころを行なうことができるために、すべての良いことについて、あなたがたを完全な者としてくださいますように。どうか、キリストに栄光が世々限りなくありますように。アーメン。 (へブル13:20、21)

 この箇所の出だしには、神の目から見て神を喜ばせるか否かは永遠の契約の血によると書かれている。十字架の上で流された子羊の血が私たちを洗い流す時にだけ、行いを完全にできる。

私たちは神の作品であって、良い行ないをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行ないに歩むように、その良い行ないをもあらかじめ備えてくださったのです。(エフェソ2:10)

 「主」を信じる者は、「主」のために正しい生きたかをするよう命じられている。しかし、イエスにあっても正しく生きないからといって、救われないというわけではない。救いは保証されている。それでも報われなくなるかもしれない。
  パウロはテトスへの手紙の中でどのようにクリスチャンとしての生き方を指導するかを示している。

すべての人を救う神の恵みが現われ、 私たちに、不敬虔とこの世の欲とを捨て、この時代にあって、慎み深く、正しく、敬虔に生活し、 祝福された望み、すなわち、大いなる神であり私たちの救い主であるキリスト・イエスの栄光ある現われを待ち望むようにと教えさとしたからです。 キリストが私たちのためにご自身をささげられたのは、私たちをすべての不法から贖い出し、良いわざに熱心なご自分の民を、ご自分のためにきよめるためでした。 (テトス2:11から14)

 イエス・キリストを救い主として受け入れる時、すべての不法は贖い出される。罪から解放されるのであり、もはや咎めを受けない。クリスチャンは世間よりも良い規範を作るべきであり、それは不信心を否定し、肉欲を否定し、謙遜に生き、正しく生き、信心深く生きるという規範である。神はキリスト・イエスを信じなければそのような行動規範を認めない。上記の聖句の出だしにはすべての人に救いをもたらすために神が現れると書かれている。その点にも注目すべきだ。それを受け入れるか否かは、その人次第である。神は人の滅びを好まない。神のご意志は、すべての人が救われることである。しかし、み子を拒む者には神の怒りが下る。
  パウロが到来を待ち望んでいるものがある点も注目に値する。パウロは主、イエスの再臨を待ち望んでいる。イエスを「大いなる神」と呼んでいる。主、イエスがだれであるかを理解しており、神が人の体の形で現われることを理解している。


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