jw.orgの「聖書は実際に何を教えていますか」解説
第13章 聖書的な輸血の見方(命に関する敬虔な見方)

 エホバの証人は、組織に入るなら輸血を受け入れてはいけないと教えています。エホバの証人が輸血を受け入れるなら、教えに従ってそのエホバの証人は永遠の命を失ってしまいます。輸血を受け入れて「不忠実」になり、エホバに滅ぼされて永遠の命を失うよりは、エホバに「忠実」になって死んだ方がいいと主張します。
 血の教えでは、ものみの塔協会は血が入った肉を食べることは禁止されていると信者に暗示しています。「聖書実際に何を教えていますか」の129ページには次のように書かれています。

わたしたちは血を食べないことによって、血に対する敬意を表します。エホバはイスラエル人に与えた律法の中で、こうお命じになりました。……動物の血を食べてはならないという神の命令は、その800年ほど前にまずノアに与えられたものですが、依然として効力がありました。

 まず、私たちは律法から解放されていて現代人は律法の下にいないと聖書に書かれていることを忘れてはいけません。

信仰が現われる以前には、私たちは律法の監督の下に置かれ、閉じ込められていましたが、それは、やがて示される信仰が得られるためでした。(ガラテア3:23)

 エホバの証人は、組織は霊に導かれていると主張すしますが、もちろん虚偽です。偽預言と嘘を教えてきたからです。霊に導かれているというのなら、そして律法の下にいないなら、エホバの証人は自由意志で輸血ができるはずです。

しかし、御霊によって導かれるなら、あなたがたは律法の下にはいません。(ガラテア5:18 )

 ものみの塔協会が過度に批判的に作った教えが輸血の教義です。エホバの証人はどんな場合でも輸血を受け入れることは認められていないと世界の至るところで教えているからです。エホバの証人が輸血を受けるなら永遠の命を失い、ハルマゲドンのときにエホバがその者を殺します。しかし、ブルガリアではエホバの証人が輸血を望むなら国内法に従い、可能です。ものみの塔は、ブルガリア政府との相互の合意に基づいて、ブルガリアの証人が望むのであれば輸血を受けられるようになったと主張します。だからブルガリア国籍を持っているエホバの証人が輸血をしても、ものみの塔の教えに反して、永遠の命は失われませんし、ハルマゲドンのときには滅びません。聖書では、神は人をえこひいきしないと書かれています。それが本当なら、エホバの民であるブルガリア国籍の市民が輸血をしても神はなぜ永遠の命を許すのでしょうか。なぜ他の国籍の人々は輸血を受け入れられないのでしょうか。以下にブルガリアでの輸血に関する昔の「ものみの塔」誌から引用します。

ブルガリアでは証人が輸血を受け入れることを認める合意がある。しかし、協会はこの合意を受け入れるつもりはない。死の可能性を受け入れるか、「排斥」になるかを決めるのはエホバの証人自身だし、輸血を受けるエホバの証人に対しては宗教的な罰を下すことに変わりはない。("Watchtower"( 英文)1961/1/15 P.64)

 しかし、90年代、ブルガリアでものみの塔協会が宗教団体として認められるためにブルガリアの信者に輸血を許しました。そして欧州連合の人権委員会の書類にサインをしました。
  1998年にストラスブルグでの欧州共同体の人権委員会第276回会合での人権委員会第148の情報を以下に引用します。人権委員会事務局から発行されました。

  エホバの証人がブルガリアで宗教団体として認められるために、ものみの塔は輸血に関して「信者がいかなる統制や制裁を加えられずに信者とその子どもの問題として選択の自由を持たなければならない」ことを保証しなければならない。

  輸血の使用を避けるという聖書的な原則を維持するが、ブルガリアの信者が輸血することを妨げないと、公式に宣明しました。協会は 1998/4/27のプレスリリースで次のように述べました。

すべての人は受ける医療を選択する自由を持っているという了解をこの合意は含んでいる。……合意の条件はエホバの証人の教義を変更するものではない。 

 かくしてブルガリアに住んでいないエホバの証人はことごとく輸血を禁止されています。もし輸血をすればハルマゲドンのときにエホバによって滅ぼされ、協会から排斥されます。
 何はともあれ、神が人の命をどう見なしているかを聖書から見てみましょう。
 神は滅ぼすのではなく、むしろ人の命を救います。神は愛の神ですから人の滅びを好みません。

主は、ある人たちがおそいと思っているように、その約束のことを遅らせておられるのではありません。かえって、あなたがたに対して忍耐深くあられるのであって、ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。(ペテロ第二3:9)
わたしは悪者の死を喜ぶだろうか。――神である主の御告げ。――彼がその態度を悔い改めて、生きることを喜ばないだろうか。
わたしは、だれが死ぬのも喜ばないからだ。――神である主の御告げ。――だから、悔い改めて、生きよ。(エゼキエル18:23、32)

 神は人の滅びを喜びません。今生きている罪人は、相変わらず、神を不快にします。しかし、神は誰かが滅びるのを喜ばないし、忍耐します。
 前にも書いたように、現代に生きる人たちは律法の下にはいないし、律法に縛られてはいません。マタイの福音書には主、イエスがパリサイ人に話されている箇所があります。

そのころ、イエスは、安息日に麦畑を通られた。弟子たちはひもじくなったので、穂を摘んで食べ始めた。すると、パリサイ人たちがそれを見つけて、イエスに言った。「ご覧なさい。あなたの弟子たちが、安息日にしてはならないことをしています。」しかし、イエスは言われた。「ダビデとその連れの者たちが、ひもじかったときに、ダビデが何をしたか、読まなかったのですか。 神の家にはいって、祭司のほかは自分も供の者たちも食べてはならない供えのパンを食べました。 また、安息日に宮にいる祭司たちは安息日の神聖を冒しても罪にならないということを、律法で読んだことはないのですか。 あなたがたに言いますが、ここに宮より大きな者がいるのです。 『わたしはあわれみは好むが、いけにえは好まない。』ということがどういう意味かを知っていたら、あなたがたは、罪のない者たちを罪に定めはしなかったでしょう。 (マタイ12:1から7)

 弟子たちは空腹でした。弟子たちは麦の穂を摘んで食べ始めました。パリサイ人はこれを見て安息日にそのような行為をすると律法に反すると言いました。主は、律法に縛られて餓死するよりは空腹ならば何かを食べるように弟子たちに説きました。主は弟子が律法に縛られ、餓死するくらいなら食べて生きたほうがましだと言ったまでだとパリサイ人に示しました。
 さらにマタイの福音書には手の萎えた男の話があります。主、イエスはパリサイ人の見ている前で彼を癒されました。

そこに片手のなえた人がいた。そこで、彼らはイエスに質問して、「安息日にいやすことは正しいことでしょうか。」と言った。これはイエスを訴えるためであった。 イエスは彼らに言われた。「あなたがたのうち、だれかが一匹の羊を持っていて、もしその羊が安息日に穴に落ちたら、それを引き上げてやらないでしょうか。 人間は羊より、はるかに値うちのあるものでしょう。それなら、安息日に良いことをすることは、正しいのです。」(マタイ12:10から12)

 この箇所では、主、イエスは、安息日に羊が穴に落ちたら引き上げるだろうから、人が安息日に癒されてはいけない道理はないと、パリサイ人に説いています。ここで主、イエスは、命を救う義務はユダヤ人の律法に置き換わると説いています。次に上げる聖句では、主、イエスは命を愛し、生きる価値を愛し、命を滅ぼすのではなく命を救うのだと、パリサイ人に説いていました。

弟子のヤコブとヨハネが、これを見て言った。「主よ。私たちが天から火を呼び下して、彼らを焼き滅ぼしましょうか。」 しかし、イエスは振り向いて、彼らを戒められた。 そして一行は別の村に行った。(ルカ9:54から56)

 輸血についてさらに見ます。新訳には輸血に関するおきては書かれていませんし、血の入った肉を食べる件に関するおきても書かれていません。エホバの証人は信者が輸血をしたら永遠の命を失い、エホバに滅ぼされると教えます。この教えを裏付ける聖句は一つもありません。それは人が作った思いつきであり、聖書的ではありません。
 エホバの証人が輸血禁止を教えるときに使う聖句は次の箇所です。


すなわち、偶像に供えた物と、血と、絞め殺した物と、不品行とを避けることです。これらのことを注意深く避けていれば、それで結構です。以上。」(使徒行伝15:29 )

 この聖句は血を食べることを指しています。生き延びるために体に輸血された血を摂ることではありません。
 マルコの福音書には血を食べても人を汚さないと書かれています 。

外側から人にはいって、人を汚すことのできる物は何もありません。人から出て来るものが、人を汚すものなのです。」(マルコ7:15 )

 人を汚すものがあるとどうなりますか。怒り、復讐心、呪い、嘘が生まれます。人体に入るもので人を汚すものはひとつもなく、入るものは人を不浄にしません。
 再び使徒行伝を読むと次の箇所が読めます。

ただ、偶像に供えて汚れた物と不品行と絞め殺した物と血とを避けるように書き送るべきだと思います。(使徒行伝15:20 )

 使徒行伝15:29と比べると、ここでは血が入った肉を禁止しています、レビ記17:12、14の律法にさかのぼります。血の忌避は、ものみの塔の解釈のように輸血の忌避を指していません。
 私たちはこうした行事に参加しません。異邦人は新しい自由を手にし、ユダヤ人の見方を取りません。使徒行伝十五章に書かれている教会への指示は、新約を受け入れたユダヤ人信者の行為を扱っていました。エルサレムの布告は「弱まった兄弟」を念頭に置いていました。
  コリント第一8:1から13を読むと、「弱い兄弟」の行為を規制する、「強い兄弟」がいたことに気づかされます。だから「弱い兄弟」はつまずかなかったのでしょう。これらのさわりを抜き出してみます 。

しかし、すべての人にこの知識があるのではありません。ある人たちは、今まで偶像になじんで来たため偶像にささげた肉として食べ、それで彼らのそのように弱い良心が汚れるのです。しかし、私たちを神に近づけるのは食物ではありません。食べなくても損にはならないし、食べても益にはなりません。 ただ、あなたがたのこの権利が、弱い人たちのつまずきとならないように、気をつけなさい。 知識のあるあなたが偶像の宮で食事をしているのをだれかが見たら、それによって力を得て、その人の良心は弱いのに、偶像の神にささげた肉を食べるようなことにならないでしょうか。(コリント第一8:7から10 )

 ここではパウロは信徒たちに対し、偶像にささげられた肉を自由に食べられると教えています。そうする自由があると教えているからです。しかし、このとき信仰の弱いユダヤ人の信徒はそのような行為を見れば腹を立てるでしょう。「主」にある強い兄弟は弱い兄弟の前ではそのような行為を避けますから、弱い者の前につまずきの石を置くことはありません。
 同じく使徒行伝15章では異邦人の信徒は食べ物の律法についてユダヤ人の兄弟の良心のために自重すると書かれています。
 コリント第一をさらに読むと、パウロは偶像にささげられた肉の食用について信徒に教えています。偶像にささげられた肉が差し出されたならどうしたらいいかを教えています。

もし、あなたがたが信仰のない者に招待されて、行きたいと思うときは、良心の問題として調べ上げることはしないで、自分の前に置かれる物はどれでも食べなさい。 しかし、もしだれかが、「これは偶像にささげた肉です。」とあなたがたに言うなら、そう知らせた人のために、また良心のために、食べてはいけません。 私が良心と言うのは、あなたの良心ではなく、ほかの人の良心です。私の自由が、他の人の良心によってさばかれるわけがあるでしょうか。(コリント第一10:27から29)

 パウロは、偶像にささげられた肉が出されたら自由に食べても良いことを確認しています。しかし、隣りに信仰の弱い兄弟が座っていたら、自分の良心のためではなく、その兄弟の良心のためにそれがそうなのかを問うと教えています。
 パウロは宣教を開始する時、教会に何を教えるかについて、「主」から啓示を受けました。福音と共に、教会内での行為も伝えました。次の聖句を詠むと、パウロは他の信徒がそうした罪深い行為に関わっているならその者と交際すべきでないと述べています 。

私は前にあなたがたに送った手紙で、不品行な者たちと交際しないようにと書きました。 それは、世の中の不品行な者、貪欲な者、略奪する者、偶像を礼拝する者と全然交際しないようにという意味ではありません。もしそうだとしたら、この世界から出て行かなければならないでしょう。 私が書いたことのほんとうの意味は、もし、兄弟と呼ばれる者で、しかも不品行な者、貪欲な者、偶像を礼拝する者、人をそしる者、酒に酔う者、略奪する者がいたなら、そのような者とはつきあってはいけない、いっしょに食事をしてもいけない、ということです。(コリント第一5:9から11)

 このような習慣に染まっている信徒たちでも救われていました。救われなかったわけではありません。パウロは、姦通したり、どん欲になったり、偶像崇拝をしたり、暴利をむさぼる行為をしたら、その信徒と交際してはいけないと説いています。血の入った肉を食べたり、偶像にささげられた肉を食べている人がいたら、その人と交際しないとは一度も述べていません。パウロは聖書を通して、偶像にささげられた肉を自由に食べていいのだし、血の入った肉を食べてもよいと信徒に教えています。
 現代のエホバの証人はすべての血液を避けるべきだと教えるが、輸血をしないと教えるためにそれらしい聖句を文脈を無視して選んでいます。聖書には輸血は禁止されているとか書かれていませんし、ユダヤの律法にも、輸血から利益を得る人(あるいは献血をする人)たちを禁止するとは書かれていません。ユダヤ人の信仰に従えば、人命救助は最重要の戒律です。他のすべてに優先します。だから医療する上で輸血が必要とされるなら、ユダヤ人の信仰に従って、許されるべきであり、むしろ強制されるべきものです。
 どれほど「主」イエス・キリストは私たちを愛されたことでしょうか。「主」イエス・キリストの死の意味を考えなければなりません。キリストは自分の命を断念されましたから、キリストを介して命を受けられます。私たちのために血を注ぎ出され、みことばの中で約束されました。

イエスについては、預言者たちもみな、この方を信じる者はだれでも、その名によって罪の赦しが受けられる、とあかししています。」(使徒行伝10:43)

 これは「主」イエス・キリストによるすばらしい約束です。ここでペテロは、「主」イエスを信じる者は誰でも罪が許されると宣明しています。どのようにそうなるのか、次の聖句に書かれています。

 それで、律法によれば、すべてのものは血によってきよめられる、と言ってよいでしょう。また、血を注ぎ出すことがなければ、罪の赦しはないのです。(ヘブライ9:22)

 血が流れなければ罪は免れません。過去においてイエスの血によって私たちの罪はぬぐい去られたし、現在においても、、将来も、罪はぬぐい去られます。イエスは誰であれ、イエスを信じる者には究極の血を差し出します。そしてイエスの血潮によって罪はすべて許され、全体に清められます。イエスは私たちを滅ぼすとは望まれていないことを示されたし、私たちと同じ卑しい身分で死なれました。イエスの望みは私たちが救われることです。私たちに命を与えることです。これがイエスが死なれ、血を流した理由であり、私たちが罪の許しを得て、イエスに栄光を帰す理由です。


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