jw.orgの「聖書は実際に何を教えていますか」解説
第18章 バブテスマ、そして神とあなたとの関係

 バブテスマは水に浸る「浸礼」です。カトリックがするように頭に水をふり かける儀式ではありません。バブテスマは主、イエス・キリストの追随者とし ての信仰をほかの人に示す行為です。バブテスマは人を救う手段ではありませ ん。儀式をしたからといっても永遠の命は保証されません。主、イエス・キリ ストの死、埋葬、復活を認識することの証明です。エホバの証人も教会と同じ 作法でやりますが、聖体が置かれた墓からイエスが甦ったとは信じていません。エホバの証人はバブテスマによって救いが保証されるわけではないと教えて います。救いのためのバブテスマを強調してはいますが、救われなくなる可能 性は残っています。聖書的には、バブテスマは救いとはなりえませんが、キリ ストの血潮によって罪から救われるのです。バブテスマの水では救われません。エホバの証人は救いを保証できません。神のみことばで保証されるというのです。
 バブテスマは一種の働きです。バブテスマを受けるには物理的に何かをしな ければならないからです。働きは人を救うために重要ではないので、バブテスマによっては救われません。パウロはエフェソの教会に宛てて、次のように書きました。

あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。 行ないによるのではありません。だれも誇ることのないためです。(エフェソ2:8、9)

 パウロはエフェソの信徒に「主」、イエスを信じると救われると教えました。 誰かが何かをして救われるのではありません。救いは神の賜物です。聖書は何 かに関心を持ち続けることを求めていませんし、しかも無料の賜物なのです。パウロは聖書の中で人は義のわざによって救われるのではないと、教えてい ます。

神は、私たちが行なった義のわざによってではなく、ご自分のあわれみのゆえに、聖霊による、新生と更新との洗いをもって私たちを救ってくださいました (テトス3:5)

 キリストのみの信仰以外はわざです。それは神には受け入れられません。神 はすべての義のわざを汚れたぼろきれと見なして、関心を持ちません。

私たちはみな、汚れた者のようになり、私たちの義はみな、不潔な着物のよ うです。私たちはみな、木の葉のように枯れ、私たちの咎は風のように私たちを吹き上げます。(イザヤ64:6)

 神のために良い行いを求められるにしろ、それはにキリストの血潮によって 救われてからであり、私たちの購いのため十字架上で成就された働きを信じた後です。

私たちは神の作品であって、良い行ないをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行ないに歩むように、その良い行ないをもあらかじめ備えてくださったのです。(エフェソ2:10)

 ですからクリスチャンはキリストだけを信じて救われた後になってから良い行いをしながら生きなければなりません。
 次の聖句に注目します。

私は、クリスポとガイオのほか、あなたたのだれにもバプテスマを授けたことがないことを感謝しています。 それは、あなたがたが私の名によってバ プテスマを受けたと言われないようにするためでした。 私はステパナの家族にもバプテスマを授けましたが、そのほかはだれにも授けた覚えはありません。
キリストが私をお遣わしになったのは、バプテスマを授けさせるためではなく、福音を宣べ伝えさせるためです。それも、キリストの十字架がむなしくならないために、ことばの知恵によってはならないのです。(コリント第一1:14から17)

 パウロはコリントの教会に宛てて、バブテスマは救いの要件ではないと説いています。「主」の後に付き従うようにとの主の命令です。しかし、個々の人が救われるのではありません。ほかの者にバブテスマを授けるようにとはキリストからは命じられてはいませんでした。福音だけを宣べ伝えるようにとだけ命じられていたと説いています。パウロは伝道中に何人かにバブテスマを授けましたが、もしバブテスマが救いの要件であったのなら、主はパウロにそうするように命じたでしょうが、パウロはそうしませんでした。
  十字架に付けられた盗人にはバブテスマを受ける時間的な余裕はなかったの に、「主」、イエスから楽園での永遠の命を約束されました。エホバの証人はウェブサイトや出版物の中で十字架上の盗人は決して永遠の命を約束されなかっ たと教えています。罪から離れていなかったし、エホバにその特質を明らかに していないし、パブテスマも受けていないのだからキリストに顔を合わせた瞬 間には永遠の命を受けていなかったと教えます。雑誌の中では次のように書いています。

まず,その人が天での命を授けられる資格を満たしていたかどうか,考えて みましょう。天に召される見込みを持つのは,水と聖霊のバプテスマを受け,そのようにして霊によって生み出された,イエスの弟子となっている人たちです。(ヨハネ 3:3,5)そして,神の道徳規準にかない,正直や忠誠や同情などの特質を明らかに示している必要があります。(コリント第一 6:9‐11)また,地上での生涯の終わりまでずっと,神とキリストに忠節でなければなりません。(ルカ 22:28‐30。テモテ第二 2:12)これらの条件を満たして初めて,復活させられて天での重責を担う ― つまり,祭司また王としてキリストと共に
1,000年間人類を治める ― 資格があることを示せるのです。―啓示 20:6。
それとは対照的に,イエスの隣にいた悪行者は,犯罪者として生き,犯罪 として死にました。(ルカ 23:32,39‐41)確かに,イエスに敬意を示して,「あなたがご自分の王国に入られる時には,わたしのことを思い出してください」と言いました。(ルカ 23:42)とはいえ,バプテスマを受けておらず,霊によって生み出された,イエスの弟子となってもいませんでしたし,廉直な行ないや忠実な忍耐の記録を築いてもいませんでした。イエスがそのような人に,忠誠を実証した忠実な追随者たちと共に天で王となることを約束した,と考えるのは理にかなっているでしょうか。―ローマ 2:6,7。(「ものみの塔」2013/3 「イエスは犯罪者に天での命を約束しましたか」)

では、聖書は何を教えていますか。

そして言った。「イエスさま。あなたの御国の位にお着きになるときには、私を思い出してください。」イエスは、彼に言われた。「まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。」(ルカ23:42、43)

 聖書では十字架の上の盗人には永遠の命を保証されているのに、エホバの証人によると盗人は一度も永遠の命のための行いをしていないし、自分でも義と認めていないからと、永遠の命を否定します。もしこの盗人が天国にいなかったとしたらイエスのみことばは嘘になり、イエスはうそつきになります。結局、ものみの塔はここではイエスを嘘つきと呼んでいます。エバに言ったサタンの言葉を思い出しませんか。

さて、神である主が造られたあらゆる野の獣のうちで、蛇が一番狡猾であった。 蛇は女に言った。「あなたがたは、園のどんな木からも食べてはならない、と神は、ほんとうに言われたのですか。」(創世記3:1)

 ものみの塔協会には悪霊が住み着いていて、エデンの園で語られた神のみことばをごまかし、疑っています。
  ものみの塔協会のバブテスマに関しては、聖霊には格がないと信じていますから悪霊のみ名を取り除き、「霊に満たされた組織」の名でバブテスマをします。
 従ってエホバの証人がバブテスマを受ける時にはものみの塔協会のバブテスマを受けていて、聖書の教えるようにキリストのみ名によるバブテスマを受けていません。次の聖句は三つのみ名によるバブテスマを正確に認めています。

それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、(マタイ28:19)

「主」、イエスは、弟子たちに一度たりとも、組織の名前でバブテスマをするようにとは命じていません。聖書では人がバブテスマを受ける時はキリストにあるバブテスマを受けると教えています。

バプテスマを受けてキリストにつく者とされたあなたがたはみな、キリストをその身に着たのです。(ガラテア3:27)

 パウロはガラテアの教会に対して、各自キリストにあってバブテスマを受けると言っているのであり、組織や教会にあってのバブテスマではないと例で示しています。
 初代教会を見れば、ピリポはエチオピアの宦官に福音を伝道するために送られたことが分かります。新世界訳の間違いを指摘するとして、まずピリポと宦官が会った出来事に注目します。

御霊がピリポに「近寄って、あの馬車といっしょに行きなさい。」と言われた。 (使徒の働き8:29)

 聖霊はピリポに語りかけ、宦官のそばまで行って、一緒に馬車に乗るように 言いました。エホバの証人は、聖霊は活動力に過ぎず、格を持たないと言います。しかし、聖霊はピリポに語りかけ、馬車まで案内したことが分かります。
 エホバの証人がバブテスマをテーマにするときはこの章を使いますが、ものみの塔の新世界訳には間違いがあります。新改訳と比べてその間違いを指摘します。

さて,彼らが道を進んで行くと,水のあるところに来た。すると宦官は言っ た,「ご覧なさい,水があります。わたしがバプテスマを受けることに何の妨げ があるでしょうか+」。 37 * ―― 38 そうして彼は,兵車に,止まるように命令し,ふたりは共に,フィリポも宦官も水の中に下りて行った。そして[フィリポ]は彼にバプテスマを施した。(使徒8:36から38新世界訳)

 新世界訳聖書では37節が省略されています。エホバの証人はこの聖句のオリジナルの販には書かれていなかったからだと言い逃れをします。疑わしい写本を使いながらなぜ言い訳をしないのでしょうか。言い訳が書かれていれば省かれることも分かります。人はどのようにしてバブテスマを受けるかに関しては沈黙を守って教えているのです。系統的な聖書研究をした後でないとバブテスマを受ける資格は得られないとエホバの証人は言います。六ヶ月以上かかるときもあります。バブテスマを受けるまで協会について覚えることがたくさんあります。エホバのみ名に関して学ばなければなりません。神の王国を知らないといけませんし、神の王国を知らなければなりません。これらすべてを学んだ後に与えられる質問に正確に答えます。そして初めてバブテスマを受ける資格が得られます。では、新改訳でバブテスマを受ける資格に関する箇所を読んでみます。

8:36道を進んで行くうちに、水のある所にきたので、宦官が言った、「ここに水があります。わたしがバプテスマを受けるのに、なんのさしつかえがありますか」。〔 8:37これに対して、ピリポは、「あなたがまごころから信じるなら、受けてさしつかえはありません」と言った。すると、彼は「わたしは、イエス・キリストを神の子と信じます」と答えた。〕 8:38そこで車をとめさせ、ピリポと宦官と、ふたりとも、水の中に降りて行き、ピリポが宦官にバプテスマを授けた(口語訳聖書 使徒行伝8:36から38)

 ピリポと宦官は六ヶ月間、何度も会っていたわけではありません。もし救いとバブテスマにかかる段階を五分以下ですませても同じ資格(信じること)になります。「神の子」である、イエスが私たちの罪のために十字架の上で死なれ、甦ったことを信じるが救いです。バブテスマのための資格は信じることです。

彼が読んでいた聖書の個所には、こう書いてあった。「ほふり場に連れて行かれる羊のように、また、黙々として毛を刈る者の前に立つ小羊のように、彼は口を開かなかった。(新改訳聖書 使徒の働き8:32)

 ピリポはそれは「主」、イエスであり、私たちの罪のために死なれ、埋葬され、 甦ったと宦官に説いたところ、信じました。ひとたび宦官が信じると、ピリポ がバブテスマを受けるかと尋ねると「バブテスマを受けるのにさしさわりはな い」と答えました。ピリポは神の王国とか、協会についてもっと聖書研究をし なければならないとは決して言ってません。ピリポが「まごころから信じるなら」と言っているのはイエスが宦官の罪のために死なれたことを信じることです。これに対して宦官は「私はイエスが神の子であると信じます」と言いました。イエスがキリストであり、永遠の命を授け、罪を許す方だと信じ、キリストへの信仰によってバブテスマを受けました。イエスは「神の子」であるとエホバの証人は信じていますが、単なる子どもの意味でしかなく、聖書的には肉において現れた神であるとは信じていません。

確かに偉大なのはこの敬虔の奥義です。「キリストは肉において現われ、霊において義と宣言され、御使いたちに見られ、諸国民の間に宣べ伝えられ、世界中で信じられ、栄光のうちに上げられた。」(テモテ第一3:16)

 バブテスマの資格はイエス・キリストへの信仰です。新約の中の人物の大多数は救われましたが、救われたその日にバブテスマを受けました。ほかの何かを学ぶまで待つ必要はなかったのです。救われたとたん、キリストへの信仰を表すためにバブテスマを受けました。

会堂管理者クリスポは、一家をあげて主を信じた。また、多くのコリント人も聞いて信じ、バプテスマを受けた。(使徒の働き18:8)

 エホバの証人は、もし排斥のために組織を抜けた後とか、信仰を失った後に 組織に戻る時はもう一度、バブテスマを受ける必要があると教えています。その教えによれば組織にいたい者は何度もバブテスマを受けるかもしれません。 聖書全体を見ても、複数回にわたり、バブテスマを受ける人はいません。罪を犯して排斥されたり、宗教から離れる人もいます。しかし、回復して元の交わ りに戻ったとしても、もう一度バブテスマを受けるようにとは決して命じられません。コリントの信徒は排斥に値する罪のある生き方をしました。それでもパウロはコリントへの手紙第二の中で再び交わりを回復した信徒に書いています。しかし、再びバブテスマを受けるようにとは命じていません。救いを失ってなかったからです。人はバブテスマの行いによっては救われません。
 エホバの証人はエホバに義認される(救われる)ためにはキリストに信仰を働かせなければならないと教えています。ここでも行いを暗示しています。「……を働かせる」の語の意味は、行いです。しかし聖書のどこにも信仰を働かせることで救われるとは書かれていません。キリストに対する信じた瞬間に救われると書かれています。キリストにある信仰を実践することはキリストと共に歩むクリスチャンにとって大切です。しかし、それは救いのためになくてはならないものではありません。新世界訳と新改訳を比較します。新世界訳は行いを暗示しますし、新改訳は信仰を暗示してくれます。

「というのは,神は世を深く愛して+ご自分の独り子を与え+,だれでも彼に信仰を働かせる者が滅ぼされないで,永遠の命を持てるようにされたからです(ヨハネ3:16新世界訳)

 神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである(ヨハネ3:16新改訳)

 救いは分かりやすく単純です。誰でも救われます。組織に入ったり、最善を尽くして達成するものではありません。「主」、イエスを信仰するすべての者には可能です。エホバの証人は、救いは得られるはずだし、実践して救われるはずだと教えています。救いを分かりにくくさせています。神は救いを分かりやすくしました。

主は、ある人たちがおそいと思っているように、その約束のことを遅らせておられるのではありません。かえって、あなたがたに対して忍耐深くあられるのであって、ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。(ペテロ第二3:9)

 何と分かりやすいのでしょう。救いのために主、イエスを信じたとたん、神のみことばによって永遠の命を保証されます。

なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです。 人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。
「主の御名を呼び求める者は、だれでも救われる。」のです。(ローマ10:9、10、13)

 救いの単純さは以下の聖句に集約できます。「主」から命の水を無料で受けられます。

御霊も花嫁も言う。「来てください。」これを聞く者は、「来てください。」と言いなさい。渇く者は来なさい。いのちの水がほしい者は、それをただで受けなさい。(黙示録22:17)

(注:引用した聖書は特記しない限り、新改訳聖書)


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