トップページへ

会報「JWの夫たち」バックナンバー


  NO.8(98.5発行)
■BOOK REVIEW
 「ユダヤ人」 迫害・放浪・建国
 村松剛・著 /中央公論社

 「大いなるバビロン」…はて何のことだろう。更に「異邦人支配」「バビロン捕囚」「パリサイ人」「サドカイ派」……等、このような今まで耳にしなかった言葉と付き合わなければならなくなって、どれほど経ったのか。
 そうである。妻がものみの塔に関心を持ち始めたときから全ては始まったのだ。一体何のことなんだろう?またこのようなことが何故20世紀も終わり近くなって問題になるのだろう?インディジョーンズと共に古代の遺跡探険をしているわけでもあるまいに……。こうした気持ちになった人は少なくないのではないか?
 エホバの証人の聖書研究では世の終わり、神の王国の支配、地上の楽園、永遠の生命...が説かれる。これらの教理は、新約聖書・旧約聖書を根拠にして構成されている。イエス・キリストに関しては多少の知識はあっても、旧約聖書の内容になるとサッパリという人が多いだろう。新約聖書を理解するには旧約聖書抜きにはできない。「それでは一つ聖書とやらを読んでやろうではないか」と思う人はえらい。さらに全部読めたら言うことはない。しかしあの厚い聖書を全部始めから読み通すのはなかなか大変なことだし、第一時間がすごくかかる。
 そこでこの本が登場すると言うわけだ。ユダヤ人は「国家なき民族」と呼ばれ、度重なる異民族支配・流浪・離散を経て今日に至っている。しかし依然としてユダヤ人としての誇りと矜持そして生活習慣を維持し、民族としてのレーゾンデートルを維持している。この根幹を為すのが、宗教的求心力なのである。
 旧約聖書はユダヤ教の聖典であり、ユダヤ人にとっては歴史書でもある。この著書はユダヤの歴史から、聖書を検証し、思想的背景を述べている。旧約聖書に馴染めない人にとって(私も含め)、旧約聖書を理解する手掛かりとなるであろう。そしてこれによって私たちは、ユダヤ人と旧約聖書・新約聖書への鳥瞰図的視点を得ることが出来、またものみの塔の教理へのアプローチをも可能にしていくことが出来る。

(概要) ・モーゼの奇跡…ユダヤ人の祖先は雑多な集団で、エジプト、カナンなどに住んでいた。エジプトには太陽神(アトン)崇拝、カナンには月神崇拝があった。400年以上に渡って分裂してた諸部族を、モーゼは民族的なつながり(共通の過去、共通の運命)を強調し、唯一神ヤハヴェ(族長神)の下に団結させた。聖書にはモーゼの奇跡がいくつも語られているが、これこそ最大の奇跡である。ここからユダヤ民族の第1歩が始まった。放牧民族(砂漠の民)には、強烈な、万物を焼き尽くす太陽と、何ものをも育てない厳しい灰色の大地とだけがある。神に似た姿など、地上のどこにも求めることはできない。その光景を見ると砂漠の民が戦闘的な絶対唯一神を奉じる理由がわかるような気がする。

・出エジプト記(20章)…嫉みの神ヤハヴェは、全身全霊をあげて自分に仕える人々に要求し、そのかわり自分も、反対給付としてめぐみを与えることを約束する。これは神と人との間の同盟条約である。半放牧民として移動を続けてきたユダヤ人の祖先にとっては、次々に新しい民族が入ってきたため、部族間の契約は、生活上常に重大な問題だった。

・偶像の禁止…偶像はそれぞれの土地の特色と結びつき、偶像を許せば、各部族は地域と結びついたそれぞれの像を刻み、やがては勝手な宗教解釈を育てるにいたる。砂漠の神の抽象的、絶対的性格は、地域差をこえて諸部族を統一するうえで役にたったのである。

・繁殖豊饒の神との闘争…放牧民族の族長神ヤハヴェは父性神であり、母性神である農耕民族の豊饒の神(バール)に対立する。豊饒の神は生殖と同一視され、乱交がユダヤ社会にも侵入してきた。この淫風にモーゼ以下指導者層が激怒した。(民数記25章)旧約聖書はバールの農耕神へのヤハヴェ宗教による戦いの書でもある。

・ぺリシテ人の侵入…ぺリシテ人の侵入により、前1080年ユダヤ人は奴隷の地位に堕ちた。

・ダヴィデ、ソロモン…ダヴィデは南ユダと北イスラエルを統一し、南の聖地ヘブロンと北の聖地マハナイムの間であるエルサレムに移り、王宮をつくった。その結果、宗教団体連合体は、”現世の王国”となった。その王位を継いだソロモンはエルサレム神殿を構築する。しかし70年で崩壊する。以後数100年に渡り戦争し、前721年サマリア陥落、イスラエル北王国は滅亡した。

・ユダは存続したが、エルサレム神殿にはバール神が捧げられた。民族の自立回復の動きは、宗教の復古、改革の運動、宗教改革を行った。ヒゼキアには大預言者イザヤが、ヨシュアにはエレミアがいた。ヨシュアはヤハヴェと「誡命と律法を守る」という再契約の誓いをたてた。これが「申命記」(モーゼが生涯の終わりにあたって、イスラエルの子らに告げた神のことばの収録)である。「申命記」ではユダヤ人が神に選ばれた民であること、その選民意識にめざめて、律法をかたく守ることを強調し、危機を切り抜けることを教えている。

・バビロンの捕囚…ヨシュアの戦死後、ユダはエジプトの従属国となる。バビロニアの王ネブカドネザルにより、前597年エルサレム第1回の捕囚があり、前587年エルサレム陥落。(バビロンの捕囚)ダヴィデの王統は事実上ここに消滅した。

・以後…申命記改革以降、それ以前のヤハヴェ宗教と区別して、ユダヤ教という。その特徴は選民意識と奇跡待望である。ヤハヴェ宗教では約束したのは完全な地上の幸福であったが、捕囚期をさかいとして、精神主義的、道徳的な色彩が濃くなっていった。そこには復活の思想や奇跡を実現してくれる救世主(メシア)出現の思想が伴う。そして...キリストの出現につながっていく。

 この著書から、旧約聖書のいくつかのポイントとその背景がわかる。前報でとりあげた「いつ起こりましたか エルサレムの陥落」で歴史的年代が問われていた。
 エホバの証人にとっては、1914年キリストの臨在は重要で、それを示す年代計算はエルサレム陥落が基点である。年代だけでなく、バビロンの捕囚を理解しておくことは意味があるであろう。

(Teng舞)



 NO.8(98.5発行)

■素人が読む聖書 「マタイ福音書3:2〜3」(高山一)

 ものみの塔の問題と関わるまで、私は聖書と関わることなどあまりありませんでした。わずかに小説を読んでいたりすると、聖書の言葉を引用していたりするのに出会う程度。信仰の問題に真っ向から立ち向かったドストエフスキーの「カラマーゾフの兄弟」は学生時代に熱中して読んだのですが、それすらも遠い記憶の向こうに霞んでしまっています。大部分の人たちはこんな感じではないでしょうか。しかし妻の信仰と向かい合うこととなって、様々な人から助言を受け新改訳聖書を買い求め、読むことになったのです。
 具体的には、前回の会報にもありましたように妻と共にマタイの福音書の読書会をしました。残念ながらこの読書会は18章あたりで終わってしまいましたが、とてもいい体験となりました。妻は当然「新世界訳」を用いて読むわけです。あらかじめ中澤先生に、新世界訳を用いて読むことの問題点を指摘した著書をいただいて、それを参考にしながらこの読書会に臨みました。しかしながらあからさまに新世界訳の問題点や、ものみの塔の解釈の誤りばかりを指摘するのはためらわれました。読書会が簡単にうち切られてしまっては困ります。また、私自身がマタイ書の文脈の意味を理解していなければ、実りのある読書会になるわけはありません。そこで、高橋三郎という人の書いた「マタイ福音書講義」という注解書を買い求め、それも併せて読み理解の助けとしました。
 読書会は週一回をめどとして行われました。子供が寝てしまってから、あるいは学校に行ってからの朝の限られた時間を使ったのでなかなか進みませんでした。読書会では、一つの問題点に関して討論になった場合、いろいろな観点から話し合うこととなります。ものみの塔の思考法の特徴として、一つの矛盾点に突き当たったときには、聖書のほかの部分を用いて反論してきます。これは例の<聖書全体は神の霊感を受けたもので有益です>という第二テモテ3:16に依拠しています。ここから全く関係のない聖句を引いて論点をはぐらかします。いつも全体が大事であるという一見まっとうな論理は、論理的な飛躍と、結びつくはずのないものを無理矢理結びつけてしまう詭弁のための武器となるわけです。こうした落とし穴にはまらないように、マタイ書の文脈に限定して、そこで何が語られているかを理解することにつとめました。「このために行き帰りの電車の中、あるいは会社にいる間、暇をみては喫茶店で予習をしたのですが、まるで学生時代に戻ったかのような気分でした。
 福音書自体は理解するに当たって、やさしくもあり、また難しくもあります。ものみの塔は一人で読んでいても正しい理解には至らない、神が用いる組織を通して読まなければだめだという風に主張し、家庭聖書研究や、王国会館での集会に出ることを必須だとします。しかしながら常に語られているように、普通の人間がふつうに読んでわからないものであるならば、意味はないし、また2000年の長きにわたって、読み続けられてくるはずもないのです。
 さて「マタイ書」を読んでいて最初に引っかかった所は、3:2〜3でした。<「怪い改めなさい。天の御国が近づいたから。」この人は預言者イザヤによって、「荒野で叫ぶ者の声がする。『主の道を用意し、主の通られる道をまっすぐにせよ。』」といわれたその人である>バプテスマのヨハネが述べた言葉です。このアンダーラインの部分、が新世界訳によると「エホバの道」となるのです。
 一般にバプテスマのヨハネは、イエスの先駆と称される人で、それは彼自身が、私は水でバプテスマを施すが、私の後に来る人は聖霊と火で洗礼を施すと言っているとおりです。(マタイ3:11)そしてヘロデ王に囚われたヨハネは、イエスの所に弟子を使わし、貴方が私の後に来る人なのかと問いただしています。(マタイ11:2〜3)彼自身がこうした記述を通して、来るべきメシアの先駆であることを表明していといっていいでしょう。
 この様な彼を描くマタイ書の著者が、彼の役割をイザヤ書の引用を通して描いているのが、この3章の冒頭であると言えましょう。まさにヨハネは、来るべき救世主・イエスの道を先んじてならし整えるために、この世に遣わされたのでありました。先入観なくマタイの福音書を読むとき、文脈に沿って素直に読み進むならば、この様に意味を理解して行くことが出来ます。イザヤの引用箇所であるからといって、ここにエホバの名を当てはめてみると、文脈からの理解がきわめていびつなものになってくるのです。
 ものみの塔が研究生用に出しているテキスト「永遠の命に導く知識」の27ページに以下のような文章があります。<聖書は、「エホバの御名を呼び求めるものは皆救われる」と約束しています。(ローマ10:13)そうです、エホバという御名には深い意味があります。エホバを自分の神または救出者として呼び求めるなら、あなたは終わりのない幸福な生活へと導かれるでしょう。>
 ところがここの部分もマタイ3:2〜3と一緒で、新世界訳以外の聖書は「主の御名」となっています。このローマ書10章は、キリストによって旧来的な律法に縛られた時代の終わりと、新たな時代=信仰義認の時代の到来を、パウロが語っているところであると思われます。10:13に先立つ10:9では<何故なら、もしあなたの口でイエスを主と告白し…>とあり、また続く10:17では、<このように、信仰は聞くことからはじまり、聞くことは、キリストについてのみことばによるのです。>とあります。
 ここでも素直に読み進むと、イスラエルの人々が旧来的な信仰の中に留まっているのを見たパウロが、新しい契約=イエスを主として従うことを述べているのが見て取れるのです。こうした文脈の中で、問題の10:13は、ヨエル2:32を引用して、パウロの主張の聖書的根拠を述べている部分と言えましょう。これもまたマタイ書の前記の部分と同じ意味あいを持つものと思われます。
 考えてみれば、イエスにつきしたがった初期クリスチャンの手元には、今日新約聖書と呼ばれる物は当然ないのです。ですから彼らは自分たちの信仰が正しい道筋を歩んでいることを立証するとき、旧約聖書を引用して語っているのは実に理にかなったことと言えましょう。「だって旧約の引用なんだもん。」「だからエホバでなきゃいやだ」というのは、短絡的というか幼児的で、つきあいきれないものがあり、またマタイ書の著者が、読者に何を語ろうとしたのか全く理解されていないと言えるでしょう。こうした状況は新世界訳新約聖書の中になんと23 7カ所もあるそうです。

バックナンバーの一覧に戻る





トップページへ