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第12号 巻頭エッセイ

本当の世界 高山一


  「主は地をおおう天蓋の上に住まわれる。 地の住人はいなごのようだ。主は天を薄 絹のように延べ、これを天幕のように拡げて住まわれる。」(イザヤ4022*新改 訳聖書による


 先日ジム・キャリーの
the TRUMAN showという映画を見た。ビッグエッグの何十倍あ るいは何百倍もあるようなドームの中に、周りを海で囲まれた架空の島シーヘブン を作り、それを巨大な映画のセットにしてしまう。このドームの天井付近には、月 がかかっており、実はこの月が何を隠そうテレビの制御室であり、そこではクリス トフというディレクターが、番組を演出している。

 ジム・キャリーが演じる主人公 は、生まれたときからこのセットの中に放り込まれ、24時間あらゆるところに仕掛 けられたカメラを通じて、行動をテレビ画面で世界中にオンエアされている。つま りスーパーリアルなある男の物語というわけだ。彼以外の人間はすべて役者であり 、妻でさえも”妻”を演じている1人の役者に過ぎない。しかしある時彼は何かが 変だと気付き、それが自分の妄想ではないかと悩みながらも、外の世界へと出てゆ く。ジム・キャリーの軽妙な演技のお陰で、決して後味の悪いものではなく仕上が っているが、考えてみれば恐ろしいドラマだ。我々が生きていると思っているこの 世界の一体何が本当で、また嘘なのか、考え出せばきりがない。

 勘のいい読者なら、なぜ冒頭にイザヤ書を引用したのかもう解っていると思うが、 このドーム型のセットで、私はこの聖句を思い出したのだ。月の中にある制御室に 君臨するディレクターは、まさに天蓋の上に住む神のようである。彼はまるで神の ように1人の人間を操っている。主人公がドームのはじにたどり着き、そこから出 ていこうとするとき、このディレクターは外の世界には危険があるが、中に留まれ ば平和と安心があるのだから戻ってこいと呼びかけるが、主人公は敢然と出ていく

 ものみの塔のことを思うとき、彼等統治体もまたこのディレクターと良く似ている 。彼等の描く世界像と、現在我々が認識している世界像のどちらがリアルなもので あるのかは、問いはじめれば決着は付かない。しかしある共同的な幻想の中に留ま ることによって、その中でしか成立しない心の平安を得ることが果たして生きるに 値する人生なのか?そしてまたその様にして選び取った人生は、必ず自分だけでは 完結しない。

 どのような共同幻想の中に生きようとそれは個人の自由に範疇に属する。いわゆる 信仰の自由として主張されることはこのように理解できる。しかし人は1人で生き ているのではなく、何らかの形で他の人と結びついて生きている。特に自分の子供 を持った場合、個人は自己の中に閉じこもることは許されず、子供という個性に向 かって、自分を開いて生きてゆくこととなる。ここにおいて、ある種の閉塞した共 同幻想の中に子供を囲い込んで育ててゆくことが正しいのか、人は問われることと なり、カルト信仰の問題点が浮かび上がってくる。

 the TRUMAN showの主人公は、生まれたときから虚構の中で生かされてきた。私には 、彼の人生が、幼時からカルト信仰をたたき込まれて生きてきた、カルト2世とだぶ って見えたのである。カルトの問題の一番残酷で、かつ不快な部分はここにある。 一体誰が、the TRUMAN showのディレクターのように、神を演ずる権利を持つことが 出来るのか。

 蛇足ではあるが、冒頭のイザヤ書の記述を、ものみの塔の”知識”というテキスト 中では「聖書は科学の教科書ではありませんが、科学的にも正確です。例えば、ほ とんどの人は地球は平らであると思っていた時代に、預言者イザヤは地球を『円』 (ヘブライ語はフーグで、ここでは『球』という考えを伝えている)として表しま した。(イザヤ4022)」として、聖書の時代から地球を球体であったと認識して いたとしている。ものみの塔は科学的という事を軽視しているくせに、至るところ で科学をそれらしく利用するが、これもその典型である。冒頭の引用は新改訳聖書 によるが、口語訳聖書もほぼ同様の記述である。これと比較して新世界訳聖書はこ れと大きく異なり、上記のような理解も一見可能であるかのような訳出を行ってい る。

 しかしながら地の上に拡げられた天幕あるいは天蓋というイメージは、地面の上に 張ったテントを想像し、平面の上に張ったドームのようなものをイメージすること が妥当であると思われる。岩村義雄氏が「目薬」においてこの件に詳細な考察を加 えておられるので、興味ある方は御覧になられたら面白い。

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